橋本國彦は明治37 (1904 ) 年9月14 日、東京本郷の弓町にて橋本源次郎の次男として生まれた。幼くして大阪に移り、大阪府立第一中学校を卒業後、東京音楽学校本科器楽科 (ヴァイオリン)に進み、卒業後は研究科において器楽・作曲を修めた。昭和9年から12年まで文部省留学生として欧米に遊学し、フェリックス・ディック、チャールス・ラウルトップ、エゴン・ヴェレシュらに指事し、またアロイス・ハバ、エルネスト・クシェネック、そしてアーノルド・シェーンベルクら当時の前衛作曲家たちの門を叩いた。
帰国後は母校に籍を置き、嘱託、講師、助教授、教授と昇進した。作曲のほか、ヴァイオリン演奏や指揮もなした。昭和22年、東京音楽学校作曲科主任教授の職を辞任し、鎌倉市極楽寺の自邸において専ら作曲につとめたが、翌年夏頃から胃癌を発病し、昭和24 (1949) 年5月6日、ついに帰らぬ人となった。享年わずか46歳であった。
橋本の交響曲といえば、1940年に皇紀2600年を奉祝し書かれた交響曲第1番ニ調が有名で、ナクソスの「日本作曲家選輯」第1弾としてリリースされている。(CD 8.555881/沼尻竜典/東京都交響楽団) しかし1947年に日本国憲法公布を記念して書かれた第2番の交響曲ヘ長調は、作曲者指揮する東宝交響楽団 (現・東京交響楽団)により5月3日に初演 (帝国劇場「新憲法施行記念祝賀会」されて以後、こんにちまで再演されていない。
交響曲第2番は1947年の3月から4月という、わずか2か月の間に鎌倉・極楽寺の自邸で書き上げられた(4月16日脱稿) 。曲は三管編成で、ソナタ形式による第1楽章と変奏曲による第2楽章からなり、現在自筆スコアは日本近代音楽館に寄託されている。その表紙には、2枚の「日本国憲法/発布記念」切手が貼られ、タイトルの署名もそれまでの「國彦」が「国彦」へと変わっているのが興味深い。戦時中東京音楽学校作曲科主任教授という立場から、時局に迎合する作品を多数作曲した橋本はその責を問われ、母校を去ることとなる。(後任は伊福部昭であった) 鎌倉に蟄居同然の暮らしを余儀なくされた橋本だが、自らを新しい時代に何とか生かして行く道を懸命に模索していたのだ。この第2交響曲は戦時中の第1番とは対照的に、来たるべき新しい時代を祝う明るい曲想に満ちており、橋本のエネルギーが込められた演奏時間灼35分の大作である。しかし・・・第1楽章の最後のページには「1947年3月4日起稿 - 3月26日脱稿 (Beethovenの命日)という書き込みが・・・橋本は1年後の夏に、死の病となる胃癌を発病することになる。理不尽な逆境の中、ひょっとしたら彼は自らの悲劇的な運命を予想していたのでは・・・と考えるのは穿ち過ぎだろうか?
第一楽章はいきなり憧れに満ちたアレグロ・モデラートの主題が奏でられる。全体に明るい雰囲気で貫かれ、その明快な展開や習熟した管弦楽法は、同時代の邦人作曲家の中でも一際抜きん出ている。第2楽章「フィナーレ」は変奏曲で、橋本の多彩なオーケストレーションを堪能することが出来る。
(編成 = 3 (Picc.) -2 (C-Ing) -2 (B.Cla) -2 (C.Fg), 4-3-3-1, Timp, Piatti, Tri-Ing, G.C, T.M, Hp. Str. )
今回橋本の母校・東京藝術大学が総力を挙げ、「日本作曲家撰輯」エキスパートの湯浅卓雄氏の指揮のもと、この第2交響曲が作曲・初演以来実に64年振りに世界初録音CDとして日の目を見る事となった事は、例えようもなく意義ある事と云わねばならない。
終戦直後、「戦時体制に協力した芸術家」たちの責任を問う追求は熾烈を極めた。日本音楽界の重鎮・山田耕筰も例外ではなかった。しかし政治的手腕に長けた山田がこの難局を上手く乗り越えたのに対し、芸術家肌で政治に疎かった橋本は、その全ての社会的なステータスを失った。このように、真に音楽的な評価以前の外的要因により、間違いなく戦前期最も才能に恵まれた作曲家であった橋本の作品が現在、歌曲「舞」など一部の作品を除いては、ほとんど忘れ去られている事がとても理不尽に思えるし、また残念でならない。橋本もさぞや無念であったことだろう。私たちは今こそ、改めて橋本の音楽を先入観抜きで聴くべきではないだろうか。