リリー・クラウス集について
2006年2月27日 (月)
連載 許光俊の言いたい放題 第50回「もしクラシックが禁止されたら? リリー・クラウス集について」
もしクラシック音楽が禁止されたら、あなたはどうする?
「クラシックを聴く人って、暗いじゃん。きっと人間をネクラにする害がクラシックにはあるんだよ」
「ピアノがうまい女の子って、自信家が多くない? ピアノって、人間を傲慢にするのよ」
「近頃、子どもが凶暴なのは、音楽の時間にクラシックを聴かせているからだ」
もし、こんなめちゃくちゃな理由で「クラシックを聴いたり演奏するのは政府が禁止します。CDも楽器も全部捨てなさい」となったら?
もちろん、あなたは激怒するだろう。「偏見きわまりない。理不尽だ」と立腹するはずだ。クラシックを聴くと暗くなる、ピアノを弾くと性格が悪くなるなんてことはない、「ちゃんとした科学的根拠を示せ」と要求するはずだ。
それでも、政府や人々が、「いや、クラシックに害があるのは今更疑うべくもない。自明だよ」と取り合ってくれなかったら?
実は、こんな恐ろしいことが現実に起きつつあるのである。もっとも、弾圧されようとしているのは、クラシックではなく、ブラックバスという魚であるのだが。
「え、ブラックバス? 小魚を食い荒らしちゃう悪い魚でしょう?」
あなたはそう思うかもしれない。しかし、これぞ「クラシックは害悪がある」と同様の、根拠のない偏見なのである。
ブラックバスはいろいろなメディアによって、日本の魚を食い荒らし、絶滅させてしまう恐ろしい魚だと喧伝されてきた。だが、実はこれには科学的根拠がないのである。ウソみたいな話だが、本当にそうなのだ。ブラックバスが住み着いたから他の魚が減ったという科学的な調査結果はゼロに近いのである。逆に、害魚論と矛盾する「ブラックバスが増えたのに、ワカサギが豊漁だった」という、現象すら起きているのである。だが、ブラックバスを憎悪する人々は「科学的な証拠がなくても、自明だ」と強弁したり、自分たちに都合のいいデータを取る実験を行っている。
いまだかつて、ブラックバスのせいで生き物が食い尽くされた湖はひとつもない。なのに、「ブラックバスが増えている!」と騒いで皇居のお濠をさらってみたり(蓋を開けたら、なんとそこにいた全魚類のたった0.6%でしかなかった。税金の無駄だ)、湖にダイナマイトを仕掛けて殺そうとしたり(これこそ自然破壊)、正気とは思えない。まるで魔女狩り、赤狩り、非国民狩りのようではないか。だが、小池環境大臣も、この尻馬に乗っている。
近頃では、ブラックバスが卵を生めなくする科学的な実験も行われているが、ここまで来ると、ナチがユダヤ人やジプシーや精神病者を虐殺したり、去勢したりしたのとどこが違うのか。
ちなみに、環境省の作ったレッドデータブックの中では、絶滅の危険がある生き物がそれほどまでに減ってしまった原因の95%は環境開発、汚染、埋め立てであり、外来魚の影響は5%だと明確に記されている。自然を守りたかったら、ダムとか堰とか埋め立てをやめたほうがいいということだ。実際、霞ヶ浦などでは、あまりに環境が悪いため、一時たくさんいたブラックバスは減り、もっと汚染に強い魚が増えている。
それでも、ブラックバスが悪役にされるのは、ブラックバスを叩くと得をする人間がいるからだ。大規模な開発を進めた役人、彼らを助けた御用学者、補助金をもらって開発を受け入れた漁民、現状追認のマスコミ・・・。
日本中でものすごい開発が行われて、多くの魚が死んだ。それは開発のせいだ、開発した役所が悪い、建築会社が悪い、開発は自然に悪影響を与えないと言った学者が悪い、補償金をもらって許した漁民が悪い・・・そうなると、みんなが責任を問われてしまう。ならば、外来魚のせいにしちゃえ、そういう図式なのだ。みんなブラックバスのせいだ、となれば、誰も責任を取らずにすむ。
なんと恐ろしいことだろう。たとえて言うなら、子どもがおかしくなったのは環境や教育のせいではなく、たまたま聴いた「月光ソナタ」のせいだ、みたいな理由のすり替えなのである。そうすれば親も学校も責任を問われなくてすむ。悪かったのはベートーヴェンなんだよ・・・。
こんなメチャクチャな話、学者として許せない!と立ち上がった人がいる。元東京水産大学教授、現東京海洋大学教授の水口憲哉氏だ。氏の最新刊『魔魚狩り』(フライの雑誌社)を読むと、役所だけでなく、御用学者や、ジャーナリスト(エコロジーで食っている連中がいるのだ)がどんなにゲスか、よくわかる。彼らはわれわれが軽蔑する政治家同様、臆面もなくウソをつき、ごまかし、都合の悪い人は排除し、自分の意見を強引に通そうとする。「ブラックバスをスケープゴートにしたい人々にはそれぞれの事情がある」のである。
もちろん、論理的破綻や事実誤認を明快に指摘する水口教授の存在は、彼らには都合が悪い。ブラックバスを害魚だと決めつけている某新聞は、ブラックバスの件については氏のところに取材に来ないのだという。
と、この話を続けていると切りがないが、さて、もしクラシックが禁止されたらどうするか?
地下室にでもこもって、おとなしくCDを聴くしかなくなるが、そんなとき最適なのが、近頃発売されたリリー・クラウス集かもしれない。
実は私は、あまりこのピアニストに興味がなかった。ところが、ごく最近新調したカロッツェリア(パイオニア)のカーステレオで聴いてみたら、これが異常にハマってしまい、耳を疑うほどきれいに聞こえることがわかったのだ。家にパイオニアのステレオがある人は、試してみていいかもしれない。もちろん、それ以外でもいい。
ベートーヴェンの協奏曲第3,4番は、モーツァルトのようだ。高い音域は、コロラトゥーラ・ソプラノのように、キラキラと音が転がる。しかも、羽毛のように柔らかい。何、この美しさは? 音のひとつひとつを逃さず味わいたい気になる。
強弱の微妙なコントロールは、名女優のモノローグさながら。近頃のピアニストは、遠慮容赦なく左手をガンガン使うので力強さがあるが、クラウスはそうではない。あくまで右手が主人公で、左手は控えめ。それが何とも上品な語り口を生み出す。
シューマンのピアノ協奏曲は、ソロの出だしからして、誘惑的。切々と訴えかけるような表情なのだ。くぐもったような音色の中音域も作品にふさわしく味がある。
「コンツェルトシュトゥック」もロマンティックな弾き方が曲と合っている。
そして、最大の掘り出し物が「合唱幻想曲」。もともと大した曲ではないが、演奏がそれを乗り越えてしまっている。特にトラック8のアダージョは、ちょっと信じがたい感覚的美の世界。
最近は名ピアニストというと、やたら鮮やかなテクニックばかりがもてはやされる。いい加減に聴いても、すごさがわかりやすいからだろう。が、そんな耳をつんざくようなピアノはもう結構、という人には、このセットは恰好の聴きものである。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学助教授)
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