ラフマニノフ、セルゲイ(1873-1943)

人物・団体ページへ

CD 輸入盤

ピアノ協奏曲第2番、第3番 アンナ・フェドロワ、ラエルシオ・ジニス&北西ドイツ・フィル

ラフマニノフ、セルゲイ(1873-1943)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
BRL97298
組み枚数
:
1
レーベル
:
:
Holland
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


アンナ・フェドロワによる2014年と2016年の演奏

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番、第3番
アンナ・フェドロワ、北西ドイツ・フィルハーモニー


2014年にPiano Classicsで録音していたピアノ協奏曲第2番と、2016年にDRC(Dutch Record Company)が録音していたピアノ協奏曲第3番の組み合わせ。どちらも既発売ですが20代なかばのフェドロワによる魅力的なラフマニノフを1枚のCDで楽しめるのは朗報です。

アンナ・フェドロワを検索

 演奏者情報

◆ アンナ・フェドロワ(ピアノ)

1990年2月27日、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国のキエフに誕生(ウクライナは翌年に独立)。父ボリス・フェドロフ、母タチアーナ・アバイェワは共に演奏会ピアニスト・教育者。アンナは2歳からピアノで遊び、5歳から本格的なレッスンを受け始め、6歳で初リサイタル、7歳でウクライナ国立フィルハーモニック協会に所属して全国デビューを果たしています。2003年から2008年にかけてキエフ国立音楽院付属のM.ルイセンコ記念キエフ音楽学校で学んだのち、イタリアのイモラ国際アカデミー、ロンドンの王立音楽アカデミーで学んでいます。
  その間、2005年、第2回トビリシ国際若手ピアニスト・コンクール第1位および特別賞受賞、2009年、アルトゥール・ルービンシュタイン国際ピアノ・コンクール第1位など各地のコンクールで入賞。
  以後、ソロと室内楽で、ヨーロッパ、アメリカ、日本などで世界的に活躍。
  CDは、Brilliant Classics、Piano Classics、Champs Hill Records、Channel Classics、J&R Productions、DiscAuvers、Dutch Record Companyなどから発売。

◆ 北西ドイツ・フィルハーモニー

ノルトライン=ヴェストファーレン州のヘルフォルトを本拠地とする州立オーケストラで、内外で年間約130回のコンサートを実施。放送やレコーディング、教育活動も盛んにおこなっています。歴代首席指揮者にはシュヒター、シェルヘン、ヒルデブラント、上岡敏之、ネルソンスなどがいました。


◆ ラエルシオ・ジニス(指揮)

ブラジルの指揮者、ヴァイオリニスト。早くからヴァイオリンの才能を発揮し、1987年に国内のコンクールで優勝して奨学金を獲得し、ケルンでザシュコ・ガヴリロフやインゲボルク・シェーラーらに師事。1995年に帰国すると、アウレウス弦楽四重奏団と自身のバロック室内オーケストラを設立し、すぐにヨーロッパと南米でツアーを実施。以後、指揮者としての評判も高まり、現在は主に指揮者として活動しています。


◆ ヘラルト・オスカンプ(指揮)

1951年、オランダに誕生。最初チェロを学び、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団でチェリストとしてのキャリアをスタートし3年間在籍。その後、エド・デ・ワールト、ハンス・スワロフスキー、フェルディナント・ライトナーらに指揮を学び、イギリスのボーンマスで開催されたジョン・プレイヤー国際指揮者コンクールで優勝。1976年に指揮者としてのキャリアをスタートし、ボーンマス交響楽団などイギリスのオーケストラと共演。1980年にはハンガリー放送国際指揮コンクールで優勝し、翌年にはブダペスト国立歌劇場でヴェルディの「椿姫」を指揮してオペラ・デビュー。
  1987年から1989年まではノルウェーのスタヴァンゲル交響楽団の首席指揮者を務め、1988年まではノルウェー管楽アンサンブルの指揮者も兼務。
  1994年に北ドイツのロストック国民劇場のオペラ監督に就任し、2002年には同じく北ドイツのフレンスブルクでシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州立劇場の音楽総監督に就任。2013年からは、ザクセン=アンハルト州の中部ドイツ室内フィルハーモニーの首席指揮者を務めています。客演オーケストラは140を超えています。
  CDは、Brilliant Classics、cpo、Aurora、Aurophon、Marco Polo、Victoria、M&R Records、Capriceなどから発売。



 トラックリスト (収録作品と演奏者)

セルゲイ・ラフマニノフ [1873-1943]

◆ ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op.18
1. I. モデラート 11'28
2. II. アダージョ・ソステヌート 12'08
3. III. アレグロ・シケルツァンド 12'28

◆ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 Op.30
4. I. アレグロ・マ・ノン・タント 18'44
5. II. インテルメッツォ:アダージョ 11'37
6. III. フィナーレ:アッラ・ブレーヴェ 15'52

  アンナ・フェドロワ(ピアノ)
  北西ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団
  ラエルシオ・ジニス(指揮/第2番)
  ヘラルト・オスカンプ(指揮/第3番)

  録音:2014年(第2番)、2016年(第3番)、ドイツ、ヘルフォルト
 Track list

Sergei Rachmaninoff 1873-1943
Piano Concertos Nos 2 & 3

Piano Concerto No.2 Op.18 in C minor
1. I. Moderato 11'28
2. II. Adagio sostenuto 12'08
3. III. Allegro scherzando 12'28

Piano Concerto No.3 Op.30 in D minor
4. I. Allegro ma non tanto 18'44
5. II. Intermezzo: Adagio 11'37
6. III. Finale: Alla breve 15'52

Anna Fedorova piano
NORDWESTDEUTSCHE PHILHARMONIE
Laërcio Diniz (No.2) & Gerard Oskamp (No.3) conductors



 ラフマニノフ年表

1873  1874  1875  1876  1877  1878  1879  1880  1881  1882  1883  1884  1885  1886  1887  1888  1889  1890  1891  1892  1893  1894  1895  1896  1897  1898  1899  1900  1901  1902  1903  1904  1905  1906  1907  1908  1909  1910  1911  1912  1913  1914  1915  1916  1917  1918  1919  1920  1921  1922  1923  1924  1925  1926  1927  1928  1929  1930  1931  1932  1933  1934  1935  1936  1937  1938  1939  1940  1941  1942  1943
 1873年/明治6年 (0歳)

◆ 4月1日、ノヴゴロド州のセミョノヴォに誕生。父は陸軍将校でアマチュア・ピアニストのヴァシリー・アルカディエヴィチ[1841-1916]、母は将軍の娘でアマチュア・ピアニストのリュボフ・ペトロヴナ[1853-1929]。ラフマニノフ家は15世紀まで辿れる家系で、祖父アルカジ・アレクサンドロヴィチ・ラフマニノフ[1808-1880]は、ノクターンの創始者ジョン・フィールドの弟子。ラフマニノフは6人兄弟の次男(長女エレナ、長男ヴラジーミル、次女ソフィヤ、三男アルカディ、三女ヴァルヴァラ)。

戻る

 1874年/明治7年 (0〜1歳)


戻る

 1875年/明治8年 (1〜2歳)


戻る

 1876年/明治9年 (2〜3歳)


戻る

 1877年/明治10年 (3〜4歳)

◆ 母リュボフによるピアノのレッスンが開始。
◆ 5月26日、ナターリヤ・アレクサンドロヴナ・サーチナ、ノヴゴロドで誕生。将来の妻。

戻る

 1878年/明治11年 (4〜5歳)

◆ ピアノのレッスンを継続。

戻る

 1879年/明治12年 (5〜6歳)

◆ ピアノのレッスンを継続。

戻る

 1880年/明治13年 (6〜7歳)

◆ ピアノのレッスンを継続。

戻る

 1881年/明治14年 (7〜8歳)

◆ ピアノのレッスンを継続。

戻る

 1882年/明治15年 (8〜9歳)

◆ ラフマニノフ家が財政破綻。領地は競売にかけられ、ペテルブルクに転居。
◆ サンクトペテルブルク音楽院の幼年学校に入学。ヴラジーミル・デリャンスキーに師事。
◆ 姉のソフィヤが12歳で死去。

戻る

 1883年/明治16年 (9〜10歳)

◆ ペテルブルク音楽院在学。

戻る

 1884年/明治17年 (10〜11歳)

◆ ペテルブルク音楽院在学。

戻る

 1885年/明治18年 (11〜12歳)

◆ モスクワ音楽院に転入。ピアニストの従兄アレクサンドル・ジロティ[1863-1945]の推薦。アントン・アレンスキー(和声)、セルゲイ・タネーエフ(対位法)、ジロティ(ピアノ)、ステパン・スモレンスキイ(正教会聖歌)らに師事。
◆ モスクワ音楽院のピアノ教師、ニコライ・ズヴェーレフ[1832-1893]の家に寄宿。

戻る

 1886年/明治19年 (12〜13歳)

◆ モスクワ音楽院在学。
◆ ズヴェーレフ家に滞在。
◆ チャイコフスキーとズヴェーレフ家で交流。
● チャイコフスキーのマンフレッド交響曲をピアノ編曲。

戻る

 1887年/明治20年 (13〜14歳)

◆ モスクワ音楽院在学。
◆ ズヴェーレフ家に滞在。
● 管弦楽のためのスケルツォ ニ短調
● ピアノのための4つの小品
● ピアノのための3つの夜想曲
● ピアノのための無言歌 ニ短調

戻る

 1888年/明治21年 (14〜15歳)

◆ モスクワ音楽院在学。
◆ ズヴェーレフ家に滞在。
◆ ジロティのクラスに入り、スクリャービン[1872-1915]と同級になります。

戻る

 1889年/明治22年 (15〜16歳)

◆ モスクワ音楽院在学。
◆ ズヴェーレフ家から退去。
◆ 父の妹ヴァルヴァラ[1851-1941]の嫁ぎ先である弁護士のアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・サーチン[1844-1926]の家に滞在開始。サーチン家の子供は5人で、長男のアレクサンドルはラフマニノフと同年齢、長女のナターリヤは4歳若い12歳、次女のソフィヤは6歳若い10歳といった感じで、16歳のラフマニノフには気楽な環境でした(ナターリヤとは後年結婚)。

戻る

 1890年/明治23年 (16〜17歳)

◆ モスクワ音楽院在学。
◆ サーチン家に滞在。
● 6手ピアノのための「ワルツ」
● チェロとピアノのためのロマンス ヘ短調
● 歌曲「聖なる修道院の門の傍らに」
● 歌曲「君には何も語るまい」
● 歌曲「心よ、お前はふたたび目覚めた」

戻る

 1891年/明治24年 (17〜18歳)

◆ モスクワ音楽院ピアノ科を首席で卒業。次席はスクリャービンで、共に金メダルを授与されています。
● ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調 Op.1(初稿)
● 6手ピアノのための「ロマンス」
● 2台のピアノのための「ロシアの主題による狂詩曲」
● 交響詩「ロスティスラフ公」
● ピアノのためのフーガ ニ短調
● ピアノのための前奏曲 ヘ長調
● 歌曲「四月、春の祭の日」
● 歌曲「夕闇は迫り」
● 歌曲集「君は覚えているだろうか、あの夕べを」

戻る

 1892年/明治25年 (18〜19歳)

◆ モスクワ音楽院作曲科卒業。卒業制作のオペラ「アレコ」により金メダルを授与。
◆ 前奏曲「鐘」が電気博覧会で初演され大成功。
● チェロとピアノのための2つの小品 Op.2
● ピアノのための幻想的小品集 Op.3
● 歌劇「アレコ」
● 悲しみの三重奏曲第1番 ト短調

戻る

 1893年/明治26年 (19〜20歳)

◆ オペラ「アレコ」初演。
◆ 10月12日、恩師ズヴェーレフ、モスクワで死去。
◆ 11月6日、恩師チャイコフスキー、サンクトペテルブルクで死去。
● 歌曲集「6つのロマンス」 Op.4
● 2台ピアノのための組曲第1番「幻想的絵画」Op.5
● ヴァイオリンとピアノのための2つの小品 Op.6
● 交響的幻想曲「岩」Op.7
● 歌曲集「6つのロマンス」 Op.8
● 悲しみの三重奏曲第2番 ニ短調Op.9
● 歌曲「失望した男の歌」
● 歌曲「花はしぼんだ」
● 合唱聖歌コンチェルト「祈祷に眠らざる生神女」

戻る

 1894年/明治27年 (20〜21歳)

● 管弦楽のためのジプシーの主題による奇想曲 Op.12
● 2台ピアノのための6つの小品 Op.11
● ピアノのためのサロン的小品集 Op.10

戻る

 1895年/明治28年 (21〜22歳)

● 交響曲第1番 ニ短調 Op.13

戻る

 1896年/明治29年 (22〜23歳)

● 歌曲集「12のロマンス」 Op.14
● 6つの合唱曲 Op.15 ● 楽興の時 Op.16

戻る

 1897年/明治30年 (23〜24歳)

◆ 交響曲第1番初演。
◆ モスクワのマモントフ・オペラの指揮者として契約。
◆ バス歌手シャリアピン[1873-1938]と交流。生涯の友に。

戻る

 1898年/明治31年 (24〜25歳)

◆ マモントフ・オペラの指揮者。
◆ シャリアピンと演奏旅行。公演先のヤルタでチェーホフと交流。

戻る

 1899年/明治32年 (25〜26歳)

◆ ロンドンに演奏旅行。
● 歌曲「君はしゃっくりをしなかったかい、ナターシャ」
● 幻想的小品 ト短調
● ピアノのためのフゲッタ ヘ長調<

戻る

 1900年/明治33年 (26〜27歳)

◆ 当時パリで流行し、ロシアでも人気となっていた催眠療法をニコライ・ダーリ[1860-1939]が数回実施。
● ピアノ編曲:ビゼー:「アルルの女」第1組曲より「メヌエット」
● 歌曲「夜」

戻る

 1901年/明治34年 (27〜28歳)

● ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op.18
● チェロ・ソナタト短調 Op.19
● 2台ピアノのための組曲第2番 Op.17

戻る

 1902年/明治35年 (28〜29歳)

◆ 4月29日、ナターリヤ・サーチナと結婚。
● カンタータ「春」Op.20

戻る

 1903年/明治36年 (29〜30歳)

◆ 長女イリーナ、イヴァノフカで誕生。
◆ ピアノ協奏曲 第2番 Op.18、初演。
● ショパンの主題による変奏曲 Op.22
● 10の前奏曲集 Op.23

戻る

 1904年/明治37年 (30〜31歳)

◆ ボリショイ劇場の指揮者に就任。
● 歌劇「けちな騎士」 Op.24

戻る

 1905年/明治38年 (31〜32歳)

◆ ボリショイ劇場の指揮者在任。
● 歌劇「フランチェスカ・ダ・リミニ」 Op.25

戻る

 1906年/明治39年 (32〜33歳)

◆ 2月25日、恩師アレンスキー、ロシア帝国領フィンランドのペルキャルヴィで結核により死去。44歳。
◆ 秋、ドレスデンに長期滞在開始。
● 歌曲集「12のロマンス」 Op.21
● 歌曲「スタニスラフスキーへの手紙」

戻る

 1907年/明治40年 (33〜34歳)

◆ 次女タチアーナ、イヴァノフカで誕生。
◆ 5月10日、兄ヴラジーミル・ヴァシリエヴィチ、死去。35歳。警察署長でした。
● 交響曲第2番 ホ短調 Op.27
● ピアノ・ソナタ第1番 ニ短調 Op.28

戻る

 1908年/明治41年 (34〜35歳)

◆ 2月8日、交響曲第2番、自身の指揮でサンクトペテルブルクで初演。
● ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 Op.30

戻る

 1909年/明治42年 (35〜36歳)

◆ 8月2日、恩師スモレンスキー、ヴァシリスルスクで死去。60歳。
◆ ロシア音楽協会副会長に選出。
◆ アメリカに演奏旅行。
● 交響詩「死の島」Op.29

戻る

 1910年/明治43年 (36〜37歳)

● 聖金口イオアン聖体礼儀(聖ヨハネ・クリソストモスの典礼) Op.31
● 13の前奏曲集 Op.32
● 練習曲集『音の絵』Op.33

戻る

 1911年/明治44年 (37〜38歳)

● ピアノ編曲:V.R.のポルカ(フランツ・ベーア「笑う小娘」)

戻る

 1912年/明治45年/大正元年 (38〜39歳)

◆ 自動車を購入。
● 歌曲集「14のロマンス」 Op.34

戻る

 1913年/大正2年 (39〜40歳)

◆ ローマに滞在。
● 合唱交響曲『鐘』Op.35
● ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 Op.36

戻る

 1914年/大正3年 (40〜41歳)

◆ 4月27日、友人スクリャービン、モスクワで死去。42歳。
◆ 6月19日、恩師タネーエフ、ズヴェニゴロドで死去。58歳。
◆ イギリスに演奏旅行。

戻る

 1915年/大正4年 (41〜42歳)

● 徹夜禱 Op.37

戻る

 1916年/大正5年 (42〜43歳)

◆ イワノーフカ滞在。
◆ 父ヴァシリー・アルカディエヴィチ・ラフマニノフ、死去。75歳。

戻る

 1917年/大正6年 (43〜44歳)

◆ ロシアで最後のコンサート出演。
◆ 12月、ストックホルム公演。
● 練習曲集『音の絵』Op.39
● ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調 Op.1(改訂稿)
● 前奏曲 ニ短調
● ピアノのための「オリエンタル・スケッチ」

戻る

 1918年/大正7年 (44〜45歳)

◆ ピアニスト活動を本格化。
◆ コペンハーゲンに滞在。
◆ アメリカから3件の出演要請があるものの辞退。
◆ アメリカに移り住むことを決意。
◆ 12月、アメリカでコンサートに出演。
● ピアノ編曲:アメリカ合衆国国歌「星条旗」

戻る

 1919年/大正8年 (45〜46歳)

◆ アメリカ各地へ演奏旅行。
◆ サンフランシスコに居住。

戻る

 1920年/大正9年 (46〜47歳)

◆ ビクター・トーキング・マシン(後のRCA)とレコーディング契約を締結。
● ピアノ編曲:クライスラー:「愛の喜び」
● ピアノ編曲:クライスラー:「愛の悲しみ」

戻る

 1921年/大正10年 (47〜48歳)

◆ ニューヨークに居住。

戻る

 1922年/大正11年 (48〜49歳)

◆ ロンドン公演。
◆ 秋からアメリカ公演を集中的に実施。カナダやキューバも訪問。

戻る

 1923年/大正12年 (49〜50歳)

◆ 前年秋から初夏までのシーズンで71公演を実施。カナダやキューバも訪問。体の負担が大き過ぎたため、この年の秋からのシーズンは公演数を削減。

戻る

 1924年/大正13年 (50〜51歳)

◆ 秋、資金難で破綻寸前だったロングアイランドのシコルスキー社を訪れ、社長の亡命ロシア人技術者、イーゴリ・シコルスキー[1889-1972]に対し、返済期限なしとしたうえで5千ドルの小切手を手渡します。シコルスキーは感謝の印としてラフマニノフに同社の第1副社長に就任するよう要請してラフマニノフは承諾。これが宣伝効果を発揮してシコルスキー社は窮地を脱し、1928年には飛行艇S-38をパンアメリカン航空が一気に39機も購入して大躍進。翌1929年にラフマニノフに返済しています。
● ピアノ編曲:自作歌曲「ひなげし」Op.38-3
● ピアノ編曲:ムソルグスキー:「ゴパーク」

戻る

 1925年/大正14年 (51〜52歳)

◆ ヨーロッパでピアニスト活動を再開。
◆ 夏、パリに滞在。
◆ パリで自身の出版社「タイア」を設立。社名は娘のタチアーナのTAとイリーナのIRを繋げたもの。
● ピアノ編曲:シューベルト:「何処へ」

戻る

 1926年/大正15年/昭和元年 (52〜53歳)

● ピアノ協奏曲第4番 Op.40
● 3つのロシアの歌 Op.41

戻る

 1927年/昭和2年 (53〜54歳)

◆ 夏、ドレスデンにしばらく滞在。
◆ 夏、スイスに滞在。
◆ 秋、アメリカに帰還。

戻る

 1928年/昭和3年 (54〜55歳)

◆ 1月8日、ホロヴィッツと共にスタインウェイ本社でピアノ協奏曲第3番を演奏。ホロヴィッツはニューヨークに到着したばかりでした。
◆ 夏、ノルマンディーに滞在。
◆ 夏、ドレスデンに滞在。
◆ 年末までヨーロッパ・ツアー。
● ピアノ協奏曲第4番 Op.40、改訂のうえで出版。

戻る

 1929年/昭和4年 (55〜56歳)

◆ パリのクレアフォンテーヌに家を借り、夏の別荘とします。
◆ 母リュボフ・ペトロヴナ、死去。76歳。

戻る

 1930年/昭和5年 (56〜57歳)

◆ ルツェルン湖畔のヘルテンシュタインに別荘「ヴィラ・セナール」と公園を建設することを計画し、土地を購入。ルツェルンの建築家、アルフレート・メーリとカール・フリードリヒ・クレープスに別荘と敷地内の建築物の設計を依頼。
● ピアノ・ソナタ第2番を改訂。

戻る

 1931年/昭和6年 (57〜58歳)

◆ ルツェルン湖畔のヘルテンシュタインに別荘と公園を建設することを計画。
◆ アメリカでソ連政権に抗議する書簡に署名したことにより、モスクワのマスコミにより攻撃。
● ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 Op.36(改訂稿)
● コレッリの主題による変奏曲 Op.42
● ピアノ編曲:リムスキー=コルサコフ:「くまばちは飛ぶ」

戻る

 1932年/昭和7年 (58〜59歳)

◆ 別荘のためにヘルテンシュタインの土地約2万uを購入。岩だらけの土地だったので、ケルンの建築家からは山小屋風の別荘を提案されますがラフマニノフは拒否。岩を爆破して整地することで庭園とし、ルツェルンの建築家、アルフレート・メーリとカール・フリードリヒ・クレープスにバウハウス様式の別荘と、敷地内の教会などの建築物の設計を依頼。
◆ 10月、50回の公演をおこなうシーズンが開始。ラフマニノフのピアニスト生活40周年が各地で祝われますが、世界大恐慌の影響はまだ深刻でした。

戻る

 1933年/昭和8年 (59〜60歳)

◆ ルツェルン湖畔の別荘「ヴィラ・セナール」のためにモーターボートを購入。

戻る

 1934年/昭和9年 (60〜61歳)

◆ ルツェルン湖畔の別荘が完成。名前の「VILLA SENAR」は、ラフマニノフのSERGEYからSEとR、妻ナターリヤのNATALIAからNAをとって繋げたもの。この別荘のために通常より1メートル長い巨大なスタインウェイを特注したほか、リンカーンも購入。
● パガニーニの主題による狂詩曲 Op.43
● ピアノ編曲:メンデルスゾーン:「スケルツォ」

戻る

 1935年/昭和10年 (61〜62歳)

◆ 夏、「ヴィラ・セナール」に滞在。
● 交響曲第3番の作曲に着手。

戻る

 1936年/昭和11年 (62〜63歳)

◆ 夏、「ヴィラ・セナール」に滞在。
● 交響曲第3番 イ短調 Op.44

戻る

 1937年/昭和12年 (63〜64歳)

◆ 夏、「ヴィラ・セナール」に滞在。
◆ パガニーニの主題による狂詩曲を使用したバレエについてフォーキンと打ち合わせ。

戻る

 1938年/昭和13年 (64〜65歳)

◆ 4月12日、友人シャリアピン、パリで死去。65歳。
◆ 夏、「ヴィラ・セナール」に滞在。
● ピアノ協奏曲第4番 Op.40、大改訂(改訂版=最終稿、1944年に出版)。

戻る

 1939年/昭和14年 (65〜66歳)

◆ 3月、イギリス公演。
◆ 夏、「ヴィラ・セナール」に滞在。
◆ 6月、「ヴィラ・セナール」で転倒して負傷し、フォーキンのバレエ鑑賞を断念。
◆ 8月11日、ルツェルン国際音楽祭(現ルツェルン音楽祭)に出演。アンセルメとベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番とパガニーニ狂詩曲で共演。
◆ 8月23日、アメリカに向けて出航。以後、ヨーロッパに戻ることはできませんでした。
◆ 9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。第2次大戦開戦。

戻る

 1940年/昭和15年 (66〜67歳)

◆ ロングアイランドのオーチャード・ポイントで「交響的舞曲」を作曲。
● 交響的舞曲 Op.45

戻る

 1941年/昭和16年 (67〜68歳)

◆ 6月22日、ドイツが不可侵条約を破ってソ連に侵攻。ほどなくラフマニノフは祖国支援のための活動を開始。
◆ 12月、改訂したピアノ協奏曲第4番をオーマンディと録音。
● ピアノ協奏曲第4番 ト短調 Op.40(決定稿)
● ピアノ編曲:自作歌曲「ライラック」Op.21-5
● ピアノ編曲:チャイコフスキー:「子守唄」Op.16-1

戻る

 1942年/昭和17年 (68〜69歳)

◆ 夏、カリフォルニアに滞在。ビヴァリー・ヒルズのエルム・ドライヴに家を購入。
◆ 8月22日、フォーキン、ニューヨークで死去。62歳。

戻る

 1943年/昭和18年 (69〜70歳)

◆ 2月17日、テネシー州ノックスヴィルで最後のコンサート出演。
◆ 体調悪化によりロサンジェルスの病院を受診。
◆ 3月28日、悪性黒色腫によりビバリーヒルズの自宅で死去。69歳。
◆ 6月1日、ニューヨーク州ヴァルハラのケンシコー墓地に埋葬。1951年1月17日にナターリヤ未亡人が73歳でマンハッタンで亡くなると同所に埋葬されています。

戻る

ユーザーレビュー

総合評価

☆
☆
☆
☆
☆

0.0

★
★
★
★
★
 
0
★
★
★
★
☆
 
0
★
★
★
☆
☆
 
0
★
★
☆
☆
☆
 
0
★
☆
☆
☆
☆
 
0

ラフマニノフ、セルゲイ(1873-1943)に関連するトピックス

協奏曲 に関連する商品情報

おすすめの商品