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masao さんのレビュー一覧 

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     2018/05/08

    この漢和辞典は、コンパクトではありますが、高い能力を有しています。漢文を読むことに徹した小型辞書ですが、語彙の説明などで諸橋轍次の『大漢和辞典』を上回る、すっきりとしていながらもきれいに要所を押さえた回答を見せることもたびたび経験しました。索引が音読みの漢字と訓読みの漢字を一緒に並べたもので、とても使いやすいものです。もちろん総画数でひく索引もついていますから、読めない字でも調べることができます。索引が180ページ、本文が1680ページ、付録として120ページです。2色刷ですが落ち着いた小豆色に近い赤い色が濃淡を付けて使われています。今回の第四版が出て数ヶ月でこの机上版が出ました。机上版と言っても、普通に持ち運びもできる大きさです。机上版しか使ったことがありませんが、重さもそれほど気になりません。5,940円ですからむしろ中型辞典という感覚でしょうか。私はとても気に入って『大漢和辞典』をひく回数が随分減りました。細かいところまでていねいに考え抜いて作られた漢和辞典です。お薦めします。

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     2011/06/27

    理屈ぬきで面白い映画である。巨匠・川島雄三日活最後の作品でもある。古典落語の「居残り佐平次」を物語の骨格にすえているが、そのほかにも「三枚起請」「五人廻し」「品川心中」「大工調べ」「お見立て」など、数え上げたらいったいいくつの噺が盛り込まれているのか、落語に詳しい人でなければ実際のところは分からないのではないか。そして俳優陣も豪華である。当時の日活の大スター、タフガイ・石原裕次郎、マイトガイ・小林旭、ナイスガイ・二谷英明を脇役にしたがえて、主役を張るフランキー堺の好演が、いや怪演が光る。いかに名人芸の「居残り佐平次」といえどもさすがに落語家には分が悪いといわざるを得ない。なんといってもフランキー堺は自由自在に舞台となっている品川の飯盛り宿をとび回ることができる。座布団の上に座りっぱなしの落語家はそうはいかない。物語の中でもフランキー堺演じる佐平次は器用にいろいろな芸をこなす。その処世知の旺盛なことには、誰でも素直に舌を巻くだろう。フランキー堺は無駄もないし、エネルギッシュで見ごたえたっぷりの芝居を見せる。彼が演じる佐平次もまた粋でいなせで抜け目がない。役者の演技も楽しめるし、演じられている役柄も同時に楽しめる。これもまたどこか落語と似ている、そんなことをぼんやりと考えつつも最後まで一気に見てしまった。本当に面白かった。お勧めします。

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     2011/06/26

    この映画の面白いところは、主人公が散々な目にあっても決して夢をあきらめないことだ。フィンランドという国は日本以上に社会層の格差がはっきりしている。格差があるからそれが収入の差に直結するというわけではないのだが、労働者が企業家になるなどということはそう簡単には起こらない。労働者階層の人間は、労働者として生きていくための教育を受けるし、知識階層を形成する人間は大学で相応の勉強をする。だからといって労働者が知識人に劣るというような差別があからさまにあるわけではない。ただ両者は平行する線のように決して交わらない。知識人のほうが高収入を得られる可能性は高いが、累進課税率が半端ではなく高いので、実際の収入はそう極端には違ってこない。しかし、この映画の主人公のような末端の労働者が、彼が夢見るような事業を起こすことなど、実は不可能に近いのである。そういう事情を踏まえてカウリスマキ監督がこの主人公に注ぐ暖かいまなざしというものを見てみると、そこには結構鋭いとげがある。と同時にそんなシニシズムの視線の先でそれでもなおしぶとく夢を捨てずにいる敗北者の図太さのようなものが透けて見えてくる。そこら辺がアキ・カウリスマキ監督の狙いなのだろう。愚かなまでにひたむきに夢にすがりつく男。ヘルシンキの街の薄暗いあかりは彼のためにともっている。

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     2011/06/26

    美しい映画である。だがこの映画に描かれている人間模様は決して美しいものではない。スターリンの粛清の嵐が吹き荒れていたソ連邦の初期が舞台となっている。初期といってもスターリンの支配体制が確立され、KGBにつながる秘密警察が暗躍していた時代である。もう革命の余韻はないに等しい。スターリンに直接電話をかけることができるというコトフ大佐の家にかつての彼の部下が現れる。この男と、ミハルコフ自身が演じるコトフ大佐と、彼の妻がストーリーの中心にせりあがってくる。三人の関係が少しずつ明らかになっていき物語りは急激なカタストロフィーを迎える。ラストシーンのワンシーンかツーシーン前、気球に吊られたスターリンの肖像がゆっくりと空に上ってゆく。かなうことなら、ここはできるだけ大きな画面で見ることをお勧めする。この映画の中でも白眉ともいえる美しいシーンである。ニキータ・ミハルコフはスターリンの時代を描いてはいるがすべての罪をスターリンに押し付けるような描き方はしていない。スターリンの時代を(あるいはブレジネフの時代を)同時代人として生きた自分たちも、それなりの罪を犯していたのだと言いたかったのかもしれない。『愛の奴隷』はニキータ・ミハルコフが70年代に撮った映画である。よく許されたものだと思うような大胆なところがある映画だが、映画の語法自体は比較的穏やかなものだ。そしてやはり映像が美しい。この映画も新しいロシアの監督たちとは一線を画したオーソドックスな技法に基づいている。しかし何度も言うが、やはり美しい映画である。

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     2011/06/26

    オードリー・ヘプバーンは不思議な女優だ。『ローマの休日』では一日だけローマの街中ではめをはずす王女という役どころをしっかりと演じている。確かに王女に見えるのである。『マイ・フェア・レディー』では品のない下町の花売り娘が、社交界の華となるまでを演じるが、それだけには終らない。彼女を指導し教育する教授に対する複雑でコントロールしがたい思慕の思いもたくみに演じてみせる。脚本が良かった。監督が良かった。もちろんそういうことも言えるだろう。だが彼女の女優としての演技の確かさ、職業意識の高さも否めない事実であろう。若いころダンサーとして働きその収益を反ナチズムのパルチザンの運動にささげたというオードリーの社会的な意識の高さがそのまま職業倫理となって、彼女の仕事を貫いているのである。そういう意味でこの『尼僧物語』は彼女の本領を発揮して余りある傑作である。神への真摯な愛と謙譲の心との板ばさみになりひたむきであればあるからこそ、僧衣を脱がなくてはならなくなる尼僧。そんな難しい役どころをオードリー・ヘプバーンは、実に見事に演じきっている。ラストシーン、私服に着替えて修道院を立ち去る(シスター・ルーク)オードリーの姿はどこまでも神聖で崇高なものである。

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     2011/06/26

    ラース・フォン・トリアー監督の作品にはきわめて難解なものもあるが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『ドッグヴィル』のように見るものをぐいぐいと引き込んでいく映画作品もある。この『ヨーロッパ』はどちらかといえば後者に当たるといえよう。なんと呼ぶのだろう部分的にカラーを用い、モノクロの映像がぐんと引き立てられる。それは重要なシーンでのことだとはわかるのだが、どういう風に重要だということは見ているものには、少なくとも僕にはうまく説明ができない。当たり前の映画の語法が用いられているのではないということもよくわかるのだが、それを説明するのは難しい。とはいえ、難解な言葉で難解な映画について語る一部の特別な人たちがこの映画の対象として設定されているとも思えない。見ていて確かに面白いし、感覚的にも理知的にも脳を刺激される。『ドッグヴィル』であれほど辛らつにアメリカの擬似的民主主義と平等の理念をこき下ろしたラース・フォン・トリアーは、解放軍としてのアメリカと弾圧者としてのナチズムを鮮やかに転倒させる。ヨーロッパの抜け出がたい不幸と、悲運を見事に描いて見せるが、そこにはいかなる感傷もない。『エレメント・オブ・クライム』『エピデミック』と一気に続けて見たいところだが、両作品とも今は手にはいらない。残念である。

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     2011/06/26

    中学生のころに見た『シェルブールの雨傘』。全てのせりふが歌で構成されているミュージカルですね。懐かしい。カトリーヌ・ドヌーヴを銀幕上で見たのはこちらが先だっただろうか。それとも、ルイス・ブニュエル監督の『昼顔』だったでしょうか。こんなに美しい女の人がこの世に存在するなんて・・・とため息をつくしかありませんでした、
    解説を読むと『昼顔』は66年、『シェルブールの雨傘』は63年。日本公開はもう少し遅かったのではないでしょうか。13、14歳の僕は、どちらの映画も本当に理解してはいなかった。ただただ悲しくやるせなく、そして美しい映像に酔い痴れたものです。『シェルブールの雨傘』では13歳の少年にはその結末は残酷なものに見えました。恋愛の情熱と時間の残酷さ。最後のシーンでドヌーヴがシェルブールを後にするときの表情がたまりません。美しいだけではない。微妙な感情の機微をたくみに演じきっています。
    後年ドヌーヴは演じることの基本をこの作品を含めて4本監督したジャック・ドゥミに学んだと述べているそうですが、あながち社交辞令とも思えません。
    次にドゥミと組んだ作品が『ロシュフォールの恋人たち』。66年制作です。ドヌーヴと25歳で夭折した実姉のフランソワーズ・ドルレアックが双子の姉妹役で出ています。こちらのほうは『シェルブールの雨傘』とは違って3組の恋人たちの恋の行方がいささかコミカルなタッチで描かれています。ドヌーヴの恋だけが実らずに終るのかと思ってみていると最後に実にほほえましいラストシーンが用意されています。このシーンは多くを語りませんが、前作とは打って変わって、夢見る乙女の恋のファンタジーをいっぱいに広げ、見ている少女たちを満足させるものとなります。
    3作目が『ロバと王女』。70年制作の作品です。段々に女性的エロスの色彩が濃厚になり、音楽の占める割合が減っていきます。60歳を過ぎた男性の監督が撮ったとは思えないほど女性的エロティシズムにあふれています。
    4作目が『モン・パリ』73年の制作です。『シェルブールの雨傘』から10年。最初の2作はともかく、あとの2作は監督ジャック・ドゥミ、音楽ミシェル・ルグラン、主演カトリーヌ・ドヌーヴということが共通しているということ以外には大きな共通点はないように見受けられます。
    ですが、見方を変えれば、『シェルブールの雨傘』のようなミュージカル史上においても数少ない傑作、というよりフランス映画史上においてもけっして小さな存在であるとは思えない優秀な作品が、どんな脳みそを持った人たちの共同作業で現実のものになったのかということを知ることができるのはこの企画の大きなポイントになるのではないかと思います。
    もちろん、僕のようなカトリーヌ・ドヌーヴの熱烈なファンにとっては、別な意味で貴重な企画なのですが。僕が最初に買ったLPレコードが『シェルブールの雨傘』でした。2枚目がクリフォード・ブラウンのいわゆるモダンジャズ。理解していたかどうかは別としてそれなりに小遣いを投入して買ったものです。カトリーヌ・ドヌーヴは単なる美人女優ではありません。2000年に制作された『ダンサー・イン・ザ・ダーク』において優れた演技を見せて主演のビョークを引き立てたことも記憶に新しいところです。
    そんなカトリーヌ・ドヌーヴの演技派女優としての開眼の様子を、このDVDボックスは教えてくれます。

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