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本 美唄鉄道 北海道運炭鉄道追憶

美唄鉄道 北海道運炭鉄道追憶

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    ココパナ  |  北海道  |  不明  |  2021年04月15日

    北海道の空知地方にある人口2万人の美唄市は、かつて美唄川の上流域に良質な炭田があり、財閥の投資により、巨大な炭鉱が経営された。最盛期の美唄市の人口は9万人を越えていた。函館線の美唄駅と、産炭地を結ぶ鉄道が運炭のための「美唄鉄道」が敷設された。傾斜に強い車両として、国鉄が鹿児島線の矢岳越え・奥羽線の板谷越えを中心に活躍した4110型蒸気機関車が転用され、蒸気機関車ファンも集まった。現在、美唄市から道道135号線を東に進み、町はずれを少し左手の方に入っていくと、蒸気機関車が一輌屋外展示してある。知らない人はまず気付かないような場所だけれど、手入れの行き届いた美しい姿だ。そこはかつて美唄鉄道の東明駅があったところ。1951年には、この駅を1日に3,450人の乗客が利用していた。今では夏であれば、草生した傍らを鄙びたサイクリングロードが通る市街地の端の住宅地といったところ。往時の面影はない。この蒸気機関車をもう少し見ると、多少の知識のある人は、「ちょっと変わってるな」と思うに違いない。D51とか、C62とかとは全然違う。まず蒸気機関車に付き物の炭水車(動力である石炭と水蒸気を生産するための水を搬送する後部接続車輛)がない。そして動輪が5つもある。これが4110型と呼ばれるタンク内臓型の蒸気機関車の特徴だ。美唄鉄道を象徴する1両だ。このとても変わった、けれども不思議と見る者を魅了する造形を持った蒸気機関車が、なぜ美唄鉄道を象徴する存在になったのだろうか。本書は、そんな美唄鉄道の歴史、車両について、実に詳細な記述がされた第一級の資料であり、写真集である。1915年に開通し、1972年に廃止された同鉄道の歴史もまとめられている。本書の内容は、写真集としての情緒性より、アカデミックな資料性に重点を置いているともいえる。冒頭にこそグラフと題した歴史的写真が掲載されているが、その後は各車両の写真も機能性、構造がよくわかるカタログ的なもの。しかし、それゆえに、これらの貴重な車両の詳細がわかる貴重なデータ集だ。美唄鉄道で運用された全蒸気機関車、客車、貨物車について、わかりうる情報はすべて記載してある。当然のことながら、晩年まで活躍した4110型にとどまらず、9040、9200型等についても詳細な記載がある。特に戦前の蒸気機関車についても写真データがある点が無類な貴重さで、当時から精力的な撮影活動を続けた西尾克三郎(1914-1984)氏をはじめとする諸氏の努力のたまものに他ならない。解説文も重厚な内容で、関連資料からの引用などと合わさり、この鉄道のことを体系的に知ることが出来る。ちなみに、私はこの鉄道にちょっとした思い入れがある。廃止までの数年間、私の父が何度も美唄周辺に足を運び、1,000枚近い写真を撮影していたためだ。私にとって、本資料は、それらの父の記録に学術的な肉付けを与えてくれるものとも言えそうだ。情緒的な写真集が主流の中で、本書のようなピリッと辛口な資料に重点を置いた書物は、一層の重々しさを感じさせるもの。ここまでの資料を収集した関係者の努力には心底敬服したい。最後に、先述した東明駅跡に保存されている2号機の歴史を書いておこう。この機は美唄鉄道の自社発注により、川崎造船神戸造船所で1919年に作製された。1919年6月25日に美唄鉄道に入線した2号機は、廃止となる1972年5月31日まで美唄鉄道を走り続けた。最期の日、美唄駅に入線した2号機は、隣の東明駅まで回送された。この3kmの運転が最後の旅だった。東明駅に着いて火を落とされた蒸気機関車は、周囲から鉄路が取り払われ、あたりの風景がすっかりかわってしまった今も、かの地に静かにたたずんでいる。

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