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飯島愛とブレンデル

Thursday, December 25th 2008

連載 許光俊の言いたい放題 第156回

「飯島愛とブレンデル」

 聖夜などと呼ばれるわりには、世間ではやれプレゼントだのデートだのと慌ただしいが、私のような職業の者は曜日も祝日も関係なく、仕事が山積である。
 で、今日も仕事の合間に近所のスーパーで夕食の材料を買ってきたのだが、途中車のラジオで「飯島愛さんが・・」というニュースを聞いて耳を疑った。NHKのニュースで飯島愛の名前が出るとしたら、理由は限られる。紅白歌合戦の司会者になったか、連続ドラマの主人公になったか、あとは何か悪い理由である。紅白歌合戦やドラマの可能性がまずないことは誰にもわかろう。とすると・・・。案の定、予期せぬ死なのだった。自殺か、病死か。いずれにせよ、悲惨な死だったようである。
 もう15年以上前のことだが、私はレコード会社の人とみると、必ず提案したものである。当時人気が高まりつつあった飯島愛を起用して「ピーターとオオカミ」を録音したらどうかと。これこそクラシックの既成イメージをたたき壊す画期的アイディアに相違ないと。
 しかし、これに耳を傾ける会社はなかった。おそらく彼女がAV女優だったからだろう。AV女優でどこが悪い? 損をする可能性が高い投資を平気で勧める証券マンや銀行員と、どっちが恥ずべき職業だ?
 見たまえ。今やあの英国のロイヤル・オペラですら大衆紙「サン」と組み、同紙自慢のヌードモデルをオペラハウスに来させる時代なのである。いまだ日本のクラシック関係者は、クラシックがお上品で健全なものと思いたがっているふしがある。彼らが試みる啓蒙企画など、しょせん学級委員が劣等生にサービスしているみたいな高慢な感じがして、私は嫌悪感を覚える。
 飯島愛が「ピーターとオオカミ」のナレーターを務めたり、コンサートのプレトークに出演する可能性はもはやない。たまたま今私の手元には、ちょうど届けられたばかりのCD−Rがある。ある指揮者とオーケストラによるものすごく美しいワーグナー演奏だ。まだ明らかにする時期ではないだろうから具体的な名前を記せないのが残念だが、そのあまりにも美しい「ローエングリン」第1幕前奏曲を聴きながら、もしかしたらクラシックの仕事をしてみたかもしれない(私の勝手な希望だけれど)ひとりの薄幸な女性のために、ささやかな哀悼の意を表したい。

 ところで、今日はイーヴォ・ポゴレリチの来日公演が急遽中止という情報も流れてきた。私などは、1月の最大の楽しみと期待していたので残念至極である。
 そして、今月、アルフレート・ブレンデルがステージを去った。1970年代終わり頃からあと、ドイツ・オーストリア系では最高のピアニストとされてきた人である。20年前には、推薦盤というと何でもかんでもこの人の名前が挙げられて、私などは大いに辟易したものだ。
 けれども、私はこの人には否定的だった。録音はまだしも、ミュンヘンのヘルクレスザールでのリサイタルのおり、あまりに音が汚く、しかもわざとらしい弾き方に、心底イヤになってしまったのである。一度こうしたナマを聴いてしまうと、録音を聴く気もおきない。私にはまったく縁がない別世界の人と思っていた。ただし、唯一例外として、著作は大いに認めていた。音楽之友社から邦訳が出ていたが、実にまともな内容なのである。間違いなく一級の知性の持ち主である。
 ところが、少し前に発売されたブリリアントのセットをなにげなく聴いてみて、意外にも感心したのだ。特にベートーヴェン。ソナタ以外にもバガテルだの協奏曲だの何枚か聴いて、そうかと合点がいった。この人は度はずれて丁寧な弾き方をする。この弾き方はおそらく小ホール及び録音向きなのだ。大きなホールだと、微少なニュアンスがつぶれてしまうがために「なにやらちょこちょこやっているな」という卑小な感じになってしまう。当たり前のことながら、世界的名演奏家となったブレンデルのリサイタルは東京であれヨーロッパの大都市であれ、大きなホールで開かれるのが常だった。うんと前の席にすわれば、おそらく彼の目指す音楽がよく理解できたに違いない。
 ブレンデルのレパートリーは決して狭くなく、このセットにもさまざまな曲が入っているが、結局ベートーヴェンが一番よいように思われる。シューベルトの「即興曲」など聴くと、この人の特徴がよくわかるだろう。実に丹念に考えられている。でも、それが少々うっとうしいのだ。これはこれでありというか、良心的な演奏とは認めるけれど、芸術としてまだまだ練れていない、できあがっていない、熟成していない。モーツァルトでも同様な印象になってしまっている。
 けれど、ベートーヴェンだと、これで全然よいのである。「悲愴」第1、3楽章なんか、音の動きや計算が透けて見えるほどにおもしろくなってくる。つまり、ベートーヴェンの音楽がどれほど意志的かということだ。それでいて第2楽章はすなおに美しい。なんだ、こういう音楽もできるじゃん。どうして、モーツァルトやシューベルトでこうやらなかったの? 
 「熱情」第1楽章は、いっそうわかりやすい例かもしれない。精神の飛翔だの、幻想だの、パッションだのじゃなくて、丹念な音の構築で聴かせる。超清潔好きで几帳面な青年みたいな感じ。第2楽章など、ここまで明晰に弾かなくてもいいでしょうとまで思わされる。第3楽章は、まったくスケール感などに興味がないのがありあり。こういう演奏、もしかしたら、ギーレンだの何だのを知っている今聴くからおもしろいのかも。「熱情」は抵抗感を持つ人が多いかもしれないが、第22番第2楽章など実におもしろい。別にフォルテピアノでやらなくてもこれで十分ではという効果が上がっている。音を引きずらないのである。
 こんなベートーヴェンのソナタをあれこれ聴きながら、ちょっと彼のよさに気づくのが遅すぎたかと思った。ベートーヴェンを弾くリサイタルを、とびきりいい席で一度聴いておくべきだったと、今更ながら後悔の念を覚えても時すでに遅し。
 マッケラス指揮ウィーン・フィルとの引退コンサートは、オーストリアの新聞ではもちろん賞賛されている。今後、彼は「音楽におけるユーモア」ということについて語りたいらしい。公演は止めても講演はやるとか。本当にユーモアのある人は、そんなことわざわざ語らないと思うけど・・・。

 かたや誰もが知る芸能人になりながらも三十代半ばで思いがけず孤独な死を遂げ、かたや功なり名を遂げた70歳半ばで惜しまれながら引退し、なお将来の計画を語る。まさに人生いろいろである。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 

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