「パヴァロッティを悼む」
Monday, September 10th 2007
連載 許光俊の言いたい放題 第121回「パヴァロッティを悼む」
ルチアーノ・パヴァロッティが死んだ。イタリアでは盛大な葬儀が執り行われたというが、それも当然だろう。なぜなら、イタリア・オペラが衰退していく中で、彼は唯一の偶像だったのだから。
パヴァロッティが太った巨体からものすごい声を出すあの姿は、おそらく世界中の人々が思い浮かべる「オペラ歌手」というイメージにもっとも一致していたに違いない。そう、実際「オペラ歌手」はパヴァロッティをもって死滅したと言ってもよいのかもしれない。かつて、オペラ歌手といえば、不健康なほど太っていて、まったくかっこいいわけでもなく、にもかかわらず英雄や美男美女を演じるというまことに不思議な職業であった。しかも、演技は素人くさく、ありきたりの身振り手振りを繰り返すだけというのも珍しくなかった。ところが、ひとたびすさまじい声を発っするや、そんなことはどうでもよくなってしまい、聴き手は大喜びでひれ伏したものだった。
今やこうしたオペラ歌手は天然記念物にも似たものになってしまったのかもしれない。気が付けば、オペラに出演する歌手は、揃いも揃って、ごく普通の人みたいな姿形になってしまっている。声に関しては世界一うるさいはずのミラノも、保守的なウィーンも、例外ではない。この前私が日本で見たチューリッヒ・オペラの主演級歌手たちも、不健康な体格の人など誰もいなかった。わずか十年かそこらでこうなってしまうなんて、いったい誰が想像できたろう。オペラ歌手が太っているというのは、地動説と同じくらい確かなはずだったのに!
今から30年ほど前だろうか、当時の日本の演出家としては異常に先鋭的だった三谷礼二氏は、パヴァロッティが出演すると、その見かけのせいで、悲劇だろうが何だろうが全部喜劇になってしまうと書いていた。パヴァロッティは、キャリアの最後のほうでは、もはやほとんどオペラハウスに出演しなくなった。いろいろな理由があるだろうが、結果として、彼はいっそうのリアルさを追求する劇場から追い出されてしまったのかもしれない。
歳を取ったパヴァロッティは、いくつかのアリアやナポリ民謡を巨大な会場や屋外で歌うという形式のコンサートを催すようになった。マイクやスピーカーを使うコンサートは、オペラ・ファンには軽蔑されたが、新たな聴衆を獲得した。その新たな聴衆がオペラハウスに通うようになったかは大いに疑問の余地があるにしても。
そうなると、もう高い声が出にくくなって、「オー・ソレ・ミオ」を以前より低く移調して歌ったりしても、文句を言う人はいなかった。若いときより声ががさついたことに(歳をとったのだもの、当たり前じゃないか)不満を述べる人もあまりいなかった。スカラ座でなら、スキャンダルになっただろうが。彼は批評など存在しない世界に住まいを移してしまったのだ。もちろん、それはいっそうの富を彼にもたらしたろうし、パヴァロッティは金のためにそんなことをしていると非難する人たちもたくさんいた。が、稼ぎの問題は別にしても、数万人かそれ以上に人たちが素朴に彼の歌を喜んでくれるという光景が、パヴァロッティに大きな満足を与えたであろうことも想像に難くない。二千人の小うるさい客を相手に歌うよりも(そして、ブーイングを受けるよりも)、もっと大勢の喜んでくれる人々のために歌いたいというのは、歌手としてはあまりにも当然とも言えるのではないか。
パヴァロッティが絶頂を迎えた1970年代は、オペラにおいて歌手よりも指揮者が注目されるようになった時代だった。そして、そういう時代のスターであるカラヤンもアバドもムーティも、パヴァロッティよりはプラシド・ドミンゴとの共演を好んだように見受けられる。ドミンゴは、オテロやアルフレードやカヴァラドッシに化けることができるけれど、パヴァロッティはパヴァロッティのままであり続けるしかなかった。指揮者を通じて作曲家の精神に迫ろうという野望に憑かれた時代の趨勢が、何を歌ってもパヴァロッティ以外になり得ない歌手を忌避するのは当然だった。
パヴァロッティが参加したオペラ全曲録音の大半は、意外と指揮者がしょぼい。今日、彼のオペラ全曲版録音があまり聴かれていないとしたら、それが大きな理由だ。声のほうはとにかく立派な人たちが集められているのに、オーケストラはオマケみたいなものだから。たとえ、それがかつてのオペラの姿だったとしても、現代のわれわれにとっては、物足りないのだ。そして、パヴァロッティが共演した大歌手たちは、ジョーン・サザーランドをはじめとして、かつての名声はどこへやら、すっかり忘れられつつある。パヴァロッティが出演した全曲盤で、日本でもっとも評価されかつ売れたのはおそらくプッチーニ『ラ・ボエーム』だろうけれど、もしカラヤンの指揮でなければ、それほどまでに好評を得たかどうかは疑わしい。実際、私たちはその録音を「カラヤンの『ボエーム』」とは呼ぶけれど、「パヴァロッティの『ボエーム』」とは呼ばないのだ。
彼が残した多くの録音のうち、妙に私の心に残っているものがひとつある。ショルティが指揮している『ばらの騎士』だ。第1幕でパヴァロッティは<テノール歌手>という役を歌っている。ほんのちょい役で大歌手を登場させるというのは、昔のデッカらしいしゃれたアイディアだが、今日になって考えると、何とも皮肉というか意味深長な感じがする。結局、彼が演じた最高の役は、ロドルフォでもラダメスでもカヴァラドッシでもなく、「テノール歌手」に違いないのだから。『ばらの騎士』での場違いなまでに堂々たる歌いぶりは、何か不吉な気配、不思議な悲哀を漂わせている。
私は決してパヴァロッティの大ファンではないけれど、そして、彼が開いた大規模なコンサートを聴きに行く気など毛頭なかったけれど(それでも一度は出かけたが)、にもかかわらず、彼の死を知って不思議と喪失感を抱くのはいかんともしがたい。今日、優秀な歌手はポツポツと現れているが、大歌手と呼びたくなるような者は皆無と言ってよいだろう。パヴァロッティをもって、イタリア・オペラ―理屈抜きに偉大な声に陶酔するという、これ以上ないくらい単純で野蛮な、だが強烈な快楽―の栄光は終わってしまったのではないかという疑いをぬぐい去ることはできない。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)
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