「この『ゴルトベルク』にシビレた」

2007年7月18日 (水)

連載　許光俊の言いたい放題　第116回

「この『ゴルトベルク』にシビレた」

　しばらく前のことだが、フッソングがアコーディオンで弾いたバッハが話題になったことがあった。確かに、バリバリと突き進む腕前は文句ないが、私としては無機質というか冷たい感触が好みではなかった。
　その少しあと、御喜美江のアルバムが出た。これは筋肉派フッソングとは好対照の、非常に柔らかでやさしい味わいで、繰り返し聴いたものだ。今回改めて聴き直してみたが、バロック宮廷風の雅を強く感じさせるのがとてもいい。トリルなど、フランスのチェンバロみたいだ。
　だが、このふたりのアコーディオンを聴いたとき以上に衝撃的だったのが、最近のヴォルフガング・ディメトリーク「ゴルトベルク変奏曲」だ。この人、ひとことで言えば、アコーディオンのファジル・サイなのである。サイのたとえばモーツァルト「キラキラ星変奏曲」を聴いたことがある人なら、このたとえはすぐにわかるだろう。情感の表出は非常に強く、ひとつひとつの変奏をきわめて表情豊かに示していくのだ。私はこれを聴きながら何度もビートルズみたいだなあと思った。演奏家の体温、喜怒哀楽がきわめてダイレクトに伝わってくるのである。冒頭主題のただ者ではないひそやかな風情から始まり、情熱的な疾走、燦然たる輝き、暗い悲しみ・・・さまざまな心象風景が通り過ぎていく。現在進行形と言おうか、曲とともに生き、曲とともに死ぬといった感じで演奏家と作品が一体化しているのだ。最後の変奏に至っては、厳かなまでの青春賛歌（死語）ではなかろうか。そして、主題の回帰の直前に置かれた間の長いこと。まるで曲が終わったかのような沈黙から、ゆっくりと、かすかに主題が浮き上がってくる。まるでチェリビダッケのブルックナーではないか。超ロマンティック！　
　「ゴルトベルク」の演奏は今や数え切れないほどだけれど、これほどまでに演奏家が自己をさらけ出した「ゴルトベルク」は例のグールド以外にはないと断言できるだろう。

　変奏曲と言えば、ブラームスもこのジャンルの大家だった。近々発売されるクルト・ザンデルリンクのブラームス交響曲第４番は、実にいい演奏である。ただし、すでに令名高いベルリン交響楽団との演奏より時期が若干早いだけあって、あの、あと一方で崩壊寸前という独特の爛熟の味はなく、むしろ春のような明るさを感じさせるのがユニークだ。ミュンヘン・フィルの音色も作用しているが、まるで第２交響曲みたいに平和な美しさが全編を覆っている。フルトヴェングラーのせっぱ詰まったような演奏とは正反対ののびやかで豊かな歌の洪水なのだ。ザンデルリンクは、引退コンサートでの「ハイドン変奏曲」でもすばらしい演奏をしていたが、ここでも特にフィナーレのパッサカリアが聴きものだ。安っぽい説明口調になることなく、ひとつひとつの変奏をくっきりと描き出す。しみじみ、ブラームスはすばらしい音楽を書いたものだと思わせてくれる。この楽章について言うなら、私は他の誰よりもザンデルリンクのやり方が説得力があると思う。

（きょみつとし　音楽評論家、慶応大学教授）　

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