チェンバロは1台でも雅だが、2台あるとどうなるか。
2025年08月07日 (木) 12:40 - HMV&BOOKS online - Classical
連載 許光俊の言いたい放題 第317回

若手の音楽家が次々に世に出る。いいことですよ、もちろん。ただ、あれこれ聴いているけれど、これはぜひという人はあまりいない。当たり前です。すごい才能がある人がそんなにいるはずがない。
どこで線を引くか。盛り上がれば幸せ? それもありでしょう。が、これまで長いことすごい演奏家の仕事を満喫してきた私としては、その程度ではつまらない。自分にとってつまらないものを「これくらいの演奏でも、あんたは嬉しいでしょ?」と他人に薦めるわけにもいかないので、このページではあまり若手は出てこない。音楽は食べものじゃないんで、食べないと死ぬわけではないので、無理に薦める必要もない。
近頃、私の「できるだけたくさん聴きたい演奏家リスト」に加わったまれな例外がピション。先ごろ発売された「ロ短調ミサ」も、おお、こんな鳴り方があったのかと思わせる。というピションも非常に若いわけではないけれど。彼はこの曲を年末にベルリン・フィルでも振る予定。となると、おお、ベルリン・フィル!と思う人も多かろうが、いやいや常日頃自分の合唱団・楽団でやっているほどに徹底的なことを客演ではできませんよ。まあ、でも奇跡が起きるケースもないことはないけど。そして、それを期待して行くのが、バクチみたいなコンサートの愉しみのひとつだけど。そのバクチ、私も一口乗りましたけどね、さてどうなるか。

さて、「ロ短調ミサ」では、長いこと、やれリヒターが、クレンペラーが、カラヤンが・・・と言われてきたものの、今にしてみれば、彼らは彼らで同時代の同じ雰囲気があった。大作なのだもの、やはり重厚荘重にやるのが常識だった。ロ短調はシューベルトの「未完成」、チャイコフスキーの「悲愴」と同じ調性だということも、演奏家を深刻路線へ引っ張ったかもしれない。
でも、20世紀末に作られたヘンゲルブロックの録音は、もうまったく違うところにいて、もしかしてこれが彼一生のベストのレコーディングになるかと思われるほど、ユニークかつ美しかった。エロティックなまでに透明な合唱や器楽。ちょっとした線、重なりがたまらない。まったく重ったるくないのに、軽薄ではない。
ピションもその方向。冒頭からして、子音が鮮烈。鮮烈だけでなく、表現的。よく切れる包丁で、まぐろの塊をざっくと切って、おいしそうな断面が目に飛び込んでくる、そんな感じ。その一方でやわらかな響きは溶けそう。カラヤンが大トロなら、こちらは赤身かせいぜい中トロ。もちろん天然もの。え、カラヤンは養殖まぐろかって? ええ、まあ、そんな感じですね。そっちが好きな人はどうぞ。
繊細で端正な線の絡み合いが美しい。端正と書いたが、定規で線を引いたきっちりかっちりというものではなく、しなやか。緊密ですきがない。それでいて表情や感情表現や劇性が不足しているわけでもない。「ロ短調ミサ」は、宗教音楽なのだ。さまざまな作曲テクニックを見せびらかすために書いた曲ではないのだという当たり前のことを痛感させる。
ピションのモンテヴェルディの録音をこのページで紹介したときにも書いたが、バッハのこの曲を聴いていても、遠い中世、さらにはそれ以前に響いたであろう聖歌の残響が感じられる。余談だが、かつてチェリビダッケが晩年に「ロ短調ミサ」を振ったとき、出演したテノールのシュライアーが、「まったくバッハの演奏のやり方を理解していない」と批判した。いやいや、そうではなかった。少なくても、この曲には中世からルネサンス音楽への流れが反映されていて、チェリビダッケはそちら側の視点から作品を眺めていたのである。ピションを聴くと、改めてそういうふうに連想が働く。
今や世界中に古楽団体は数えられないほどあるが、その大半はいまだズンジャカ路線のただただ元気がよくて、永遠に二拍子をやっているような弾き方をしているようである。そういう単細胞で思慮の浅い演奏とは別次元の音楽をピションはやっている。

ジュスタン・テイラーはまだナマを聴いていないけど、今私が注目している人。チェンバロが本職だが、ピアノ方面にも進出中しているらしい。
ゆるくリラックスした気分で近頃時々愉しんでいるのが、チェンバロ2台のアルバム。チェンバロも弾くクリスティとの共演。
チェンバロは1台でも雅だが、2台あるとどうなるか。豪勢きわまりない。これはやばい。黄金の小玉が次々にプツプツとつぶれていくような快感、贅沢感。
その昔の話、バッハが書いた複数チェンバロのための協奏曲がたびたび録音されたものだが、そのころ使われていたチェンバロは、現代風チェンバロというか、オーセンティックなものではなかった。ちゃんと修復された昔の楽器や、正しくコピーした楽器の豊穣な音色には驚くしかない。もし私がチェンバロが弾けたら、こんなにすばらしい楽器を2台も持っていたら、そしてそれにふさわしい屋敷があったら、どれほど幸せかと思う。それくらいに弾いている人たちの幸福感が伝わる録音である。
ではあるけれど、こんな音楽がたとえマンションだろうとアパートだろうと、自分の部屋で再生されること自体がすごいことである。この音楽が鳴っている間、あたかも宮殿にいるかのような幻想に酔える。
テイラーはショパンと同じ時代の楽器を使った小曲集も作った。なんとアップライトのピアノ。1839年って、もう少しで二百年前になる楽器。というと、小学校の木琴(今でもあるのかな)みたいなせせこましくてショボい響きを私などは思い浮かべてしまうのだが、全然そうではない、思いのほかリッチな音色。
それに演奏が、古楽系の人とは思えないほどロマンティックで余韻がある。わが身を切り刻むような悲劇性で大ホールの聴衆を圧倒するようなやり方ではないのが上品だし、ノクターンやエチュードは本来そういうものだろう。ああ、なるほど、チェンバロ奏者がショパンを弾くということの意味はこれか。チェンバロも本来はホールで弾くような楽器ではない。
ことにハーモニー感がいい。楽器がきれいに鳴る。旋律にニュアンスが宿る。

ところで、9月に、ムーティが来日して「シモン・ボッカネグラ」をやる。東京・春・音楽祭の企画なので、本番2回の前に練習を公開する。ムーティがイタリア・オペラのキモを教えるというセミナーだから、本番よりむしろこっちが本人にとっては大事なのかもしれない。
本番のチケットは早々に売り切れたが、練習も行ける人は行ったほうがいい。というより、ぜひ行ったほうがいい。練習を見るのにお金を払うのかと思う人もいるだろうが、一度見たら忘れない。世界の一流の力量の高さには驚くだろう。ムーティが出てきただけで、空気が変わる。その手の言い方は時々使われるが、ほんとにそうなのである。あ、この人が今、ステージの上をすべて支配しているというただならぬ雰囲気になる。
若者の指揮者が振っているところを、「ここはこうやるんだよ」とムーティが振り始めたとたんに音楽が化ける。理屈ではなく、「こういう人が世界的指揮者なのか」と納得がゆくはずだ。これを知ったら、凡百の演奏家は、たとえ外面をそれらしく取り繕っても、舞台に出てきただけで、あーあ、この人はダメだとわかるようになりますよ。残酷なことに。

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若手の音楽家が次々に世に出る。いいことですよ、もちろん。ただ、あれこれ聴いているけれど、これはぜひという人はあまりいない。当たり前です。すごい才能がある人がそんなにいるはずがない。
どこで線を引くか。盛り上がれば幸せ? それもありでしょう。が、これまで長いことすごい演奏家の仕事を満喫してきた私としては、その程度ではつまらない。自分にとってつまらないものを「これくらいの演奏でも、あんたは嬉しいでしょ?」と他人に薦めるわけにもいかないので、このページではあまり若手は出てこない。音楽は食べものじゃないんで、食べないと死ぬわけではないので、無理に薦める必要もない。
近頃、私の「できるだけたくさん聴きたい演奏家リスト」に加わったまれな例外がピション。先ごろ発売された「ロ短調ミサ」も、おお、こんな鳴り方があったのかと思わせる。というピションも非常に若いわけではないけれど。彼はこの曲を年末にベルリン・フィルでも振る予定。となると、おお、ベルリン・フィル!と思う人も多かろうが、いやいや常日頃自分の合唱団・楽団でやっているほどに徹底的なことを客演ではできませんよ。まあ、でも奇跡が起きるケースもないことはないけど。そして、それを期待して行くのが、バクチみたいなコンサートの愉しみのひとつだけど。そのバクチ、私も一口乗りましたけどね、さてどうなるか。

さて、「ロ短調ミサ」では、長いこと、やれリヒターが、クレンペラーが、カラヤンが・・・と言われてきたものの、今にしてみれば、彼らは彼らで同時代の同じ雰囲気があった。大作なのだもの、やはり重厚荘重にやるのが常識だった。ロ短調はシューベルトの「未完成」、チャイコフスキーの「悲愴」と同じ調性だということも、演奏家を深刻路線へ引っ張ったかもしれない。
でも、20世紀末に作られたヘンゲルブロックの録音は、もうまったく違うところにいて、もしかしてこれが彼一生のベストのレコーディングになるかと思われるほど、ユニークかつ美しかった。エロティックなまでに透明な合唱や器楽。ちょっとした線、重なりがたまらない。まったく重ったるくないのに、軽薄ではない。
ピションもその方向。冒頭からして、子音が鮮烈。鮮烈だけでなく、表現的。よく切れる包丁で、まぐろの塊をざっくと切って、おいしそうな断面が目に飛び込んでくる、そんな感じ。その一方でやわらかな響きは溶けそう。カラヤンが大トロなら、こちらは赤身かせいぜい中トロ。もちろん天然もの。え、カラヤンは養殖まぐろかって? ええ、まあ、そんな感じですね。そっちが好きな人はどうぞ。
繊細で端正な線の絡み合いが美しい。端正と書いたが、定規で線を引いたきっちりかっちりというものではなく、しなやか。緊密ですきがない。それでいて表情や感情表現や劇性が不足しているわけでもない。「ロ短調ミサ」は、宗教音楽なのだ。さまざまな作曲テクニックを見せびらかすために書いた曲ではないのだという当たり前のことを痛感させる。
ピションのモンテヴェルディの録音をこのページで紹介したときにも書いたが、バッハのこの曲を聴いていても、遠い中世、さらにはそれ以前に響いたであろう聖歌の残響が感じられる。余談だが、かつてチェリビダッケが晩年に「ロ短調ミサ」を振ったとき、出演したテノールのシュライアーが、「まったくバッハの演奏のやり方を理解していない」と批判した。いやいや、そうではなかった。少なくても、この曲には中世からルネサンス音楽への流れが反映されていて、チェリビダッケはそちら側の視点から作品を眺めていたのである。ピションを聴くと、改めてそういうふうに連想が働く。
今や世界中に古楽団体は数えられないほどあるが、その大半はいまだズンジャカ路線のただただ元気がよくて、永遠に二拍子をやっているような弾き方をしているようである。そういう単細胞で思慮の浅い演奏とは別次元の音楽をピションはやっている。

ジュスタン・テイラーはまだナマを聴いていないけど、今私が注目している人。チェンバロが本職だが、ピアノ方面にも進出中しているらしい。
ゆるくリラックスした気分で近頃時々愉しんでいるのが、チェンバロ2台のアルバム。チェンバロも弾くクリスティとの共演。
チェンバロは1台でも雅だが、2台あるとどうなるか。豪勢きわまりない。これはやばい。黄金の小玉が次々にプツプツとつぶれていくような快感、贅沢感。
その昔の話、バッハが書いた複数チェンバロのための協奏曲がたびたび録音されたものだが、そのころ使われていたチェンバロは、現代風チェンバロというか、オーセンティックなものではなかった。ちゃんと修復された昔の楽器や、正しくコピーした楽器の豊穣な音色には驚くしかない。もし私がチェンバロが弾けたら、こんなにすばらしい楽器を2台も持っていたら、そしてそれにふさわしい屋敷があったら、どれほど幸せかと思う。それくらいに弾いている人たちの幸福感が伝わる録音である。
ではあるけれど、こんな音楽がたとえマンションだろうとアパートだろうと、自分の部屋で再生されること自体がすごいことである。この音楽が鳴っている間、あたかも宮殿にいるかのような幻想に酔える。
テイラーはショパンと同じ時代の楽器を使った小曲集も作った。なんとアップライトのピアノ。1839年って、もう少しで二百年前になる楽器。というと、小学校の木琴(今でもあるのかな)みたいなせせこましくてショボい響きを私などは思い浮かべてしまうのだが、全然そうではない、思いのほかリッチな音色。
それに演奏が、古楽系の人とは思えないほどロマンティックで余韻がある。わが身を切り刻むような悲劇性で大ホールの聴衆を圧倒するようなやり方ではないのが上品だし、ノクターンやエチュードは本来そういうものだろう。ああ、なるほど、チェンバロ奏者がショパンを弾くということの意味はこれか。チェンバロも本来はホールで弾くような楽器ではない。
ことにハーモニー感がいい。楽器がきれいに鳴る。旋律にニュアンスが宿る。

ところで、9月に、ムーティが来日して「シモン・ボッカネグラ」をやる。東京・春・音楽祭の企画なので、本番2回の前に練習を公開する。ムーティがイタリア・オペラのキモを教えるというセミナーだから、本番よりむしろこっちが本人にとっては大事なのかもしれない。
本番のチケットは早々に売り切れたが、練習も行ける人は行ったほうがいい。というより、ぜひ行ったほうがいい。練習を見るのにお金を払うのかと思う人もいるだろうが、一度見たら忘れない。世界の一流の力量の高さには驚くだろう。ムーティが出てきただけで、空気が変わる。その手の言い方は時々使われるが、ほんとにそうなのである。あ、この人が今、ステージの上をすべて支配しているというただならぬ雰囲気になる。
若者の指揮者が振っているところを、「ここはこうやるんだよ」とムーティが振り始めたとたんに音楽が化ける。理屈ではなく、「こういう人が世界的指揮者なのか」と納得がゆくはずだ。これを知ったら、凡百の演奏家は、たとえ外面をそれらしく取り繕っても、舞台に出てきただけで、あーあ、この人はダメだとわかるようになりますよ。残酷なことに。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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