アナクロな300回目

2022年07月20日 (水) 12:00 - HMV&BOOKS online - Classical

連載 許光俊の言いたい放題 第300回

 早いもので、この連載も今回で300回、20年である。
 20年は案外あっという間であるようで、いろいろなことがあった。戦争、伝染病、地震、政治家の暗殺などなど。音楽の世界では、世界のオーケストラで活躍する指揮者たちの顔ぶれががらりと変わった。有名楽団の首席指揮者や音楽監督、誰それ?まだ聴いていない、という人が一挙に増えた。また、日本国内では痛感しないかもしれないが、世界的には女性指揮者がすごく増えた。
 そして、日本は閉塞感に落ち込んだままで、静かに沈んでいくのをみんなでじっと見ている気がする。コロナのせいで、ひとの行き来が簡単ではなくなったこともあり、西洋との時差はかえって拡大(少なくともクラシック音楽では)。愛好家はどんどん高齢化していて、コンサートに行ける人は激減。また、プログラムもあいかわらずいつもの名曲でないと受け入れられない。秋にはラトルとロンドン響が、本拠地と同じプログラムをいろいろ持ってきてくれるのに、チケットは売り切れない。シベリウス、バルトーク、エルガー、そんなに嫌ですか。シベリウスの交響曲第7番なんて、ここまでやるかという濃密な音楽が予想されるのになあ。
 これまた世界的には、クラシック音楽の芸能化は順調に進んでいる。いつだって芸能の側面はあったにしろ、である。で、私は気づきました。むやみと美女が強調されている現代だけれど、そうか、カラヤンはそれと同じで芸能人だったわけね。あるいはハリウッドスター的な世界的芸能人になりたかったわけね。
 大いに意外だったのが、LPが復権というか、再評価されたこと。まさか、まさか、ねえ。実は整った再生環境ならLPのほうがCDより音がいいんじゃない?というのは、知っている人は知っていたが、あくまでマニアの世界。一般的にはCDでよい。十分。扱いが簡単だし。LPのすべてが音がよいわけでもないし。
 本も売れなくなった。文庫、新書の印刷部数はかつての半分だし、ましてや専門書など。みんなタダの文章で満腹している。この文章もタダなんですが。最初、これを書き始めたときは、「特定の店の宣伝になるようなことを書いて」と批判もされたものだけれど、これを読んだ人が必ずここで買うとは限らないし、大きな目で見れば、意味があるだろうということで、続けているわけだ。


 さて、そんな300回目だが、まずは、まさかこんなものが出るとは20年前にはまったく予想できなかったチェリビダッケのブルックナー第8番、いわゆるリスボン・ライヴのLPレコード。これは危険です。マジでその場にいる気がしてくる。そういう雰囲気が立ち込める。奏者の顔が見えるような、弓を弦に当てる姿が見えるような気がしてくる。ドキドキしちゃうよ。
 実はこの曲はLPには向かない。ことにチェリビダッケの演奏だと、第3,4楽章が片面に納めるにはちょっと長いのだ。かといって、途中で盤をひっくり返すなど考えられない音楽。そのあたりが作り手の腕の見せ所なのだと音のプロ連中は言う。これに限らないが、LPの制作は一度は途絶えた技術なので、復活させるのは容易ではなかったとも。
 おそらく高価なこれに興味を持つ人は、とっくにCDはお持ちでしょう。なので、演奏については触れません。ちなみに、高価だけど、儲かるものでもないそうです。


 いきなりアナクロな盤から始めたが、次もアナクロ。ムター女王様のジョン・ウィリアムズ。協奏曲は、ベルクのそれをもうちょっと甘くして苦みを薄くした感じ。理屈抜きに心地よい音に埋もれるという感じが、中でも第4楽章は、する。きっとヴァイオリニストは、たったいくつかの有名な協奏曲ばかりでなく、いろいろ弾きたいのだろうなあと想像させる。
おまけで入っている『ロング・グッドバイ』のテーマが絶品。これこそアナクロ美の極致。いったい今はいつですかというくらいオールド・ファッションの超リッチでゴージャスなとろける甘美世界が繰り広げられる。かつて一世を風靡した2時間ドラマの、悲劇的で美人の主人公にふさわしいような。「やめろ、そんなことして何になる?」「止めないで、私にはこれしかないのよ」みたいなシーンが髣髴とされる。猛烈な哀切美。
ヴァイオリン独奏もいいけれど、ボストン交響楽団も実にいい。私はアメリカのオーケストラについてはあくまで一定の評価しかしない人だが、この盤、特にこの曲でのボストン響は本当にすばらしい。厚みがあってやわらかくて、暗いというほど暗くはないが、からっと明るくはない弦楽器群は、ヨーロッパのそれと確実に違うがこれはこれで曲には最高に似合っている。通俗的と言えばその通りだけれど、最高の、そして最高に贅沢な通俗美であることは間違いない。
それと、これまでムターの録音は、もうちょっと音質よくできるんじゃないの?と思うことが多かったのだけれど、その点でもこの盤はいい。


サヴァールのベートーヴェン交響曲全集はすばらしかった。ちょうどコロナの時期あたりから、彼の指揮はもしかしたらワンランクアップしたのではないか。
ハイドン「天地創造」。実は私はハイドンが苦手なのである。CDも放送もない時代だったから仕方がないけれど、ちょっと単純すぎないか、わかりやすすぎないかと思ってしまう。なので、この作品も一般的に言われているほどの名作とは思わない。それに、ハイドンの旋律は、ニュアンスや陰影がないよね。要するに、当時の普通の理解力の人にわかる音楽を書いたわけだからね。
ところが、サヴァールで聴くと、アリアの伴奏のオーケストラが意外に繊細にできているとか、けっこう変わったことやらせているとか、あれっと思うほどおもしろいのである。オーケストラも声も、透明感がいい。で、透明感があるのに、ドラマティックなところは十分以上にドラマティックで、幅が広い。それと、音質もかつてより音楽のツボをわかってきたように感じる。ぞくっとするような転調とか。そう、それが聞こえてほしいのだよというところが聞こえる。
バッハの「クリスマス・オラトリオ」もたいへんよい。基本的には南ヨーロッパのバッハ演奏で、物々しさ、重さ、暗さは少ない。そして、かつてのサヴァールの声楽曲演奏よりも緻密。神経質に緻密なのではなくて、自然に緻密。

20年も書いている間に、音の有料配信が普通になるかと思ったら、案外そうでもなかった。少なくとも日本では。世界のオーケストラの最新の演奏は、しばしば無料配信で聴ける。でも、音質的には全然物足りない。
解説書の文字が小さくて読み辛い年齢になってしまったが、まだまだCDを買うことになるでしょう。だから、曲名だけでも、もうちょっと字を大きくしてね。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

評論家エッセイ情報
チェリビダッケ
ムター
サヴァール

Back To評論家エッセイ

Showing 1 - 5 of 5 items

表示順:
※表示のポイント倍率は、ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

チェックした商品をまとめて

チェックした商品をまとめて