トップ > 音楽CD・DVD > ニュース > ジャパニーズポップス > インタビュー:藤井努(元 Blankey Jet City マネージャー)

インタビュー:藤井努(元 Blankey Jet City マネージャー)

ROCK NEXT STANDARD

2013年1月1日 (火)

 90年代日本のロックを代表するバンド、ブランキー・ジェット・シティ。浅井健一、照井利幸、中村達也という屈強な男たちが、声と楽器でもって戦っているような、比類なく激しく美しいロックは、解散後13年がたつ今も、後進に大きな影響をあたえ続けている。
 そんな彼らの映画が公開される。解散ツアーとなった2000年5月〜7月の『LOVE IS DIE DIE IS A CHANGE』の模様を描いたドキュメンタリー『VANISHING POINT』である。ラスト・ライヴとなった7月の横浜アリーナ公演はすでに『LAST DANCE』としてDVDになっているが、『VANISHING〜』は、そこに至るまでの彼らを追ったものである。
 監督は映像作家の翁長裕。それまでブランキーのビデオ作品をいくつも手がけていたが、解散の報を聞き自らツアー同行を申し出、手弁当で全公演に密着し、オン/オフステージでのメンバーの素顔をカメラに収めた。解散後すぐにでも映画化される予定だったが、さまざまな事情でお蔵入りとなり、13年がたって、ようやく完成したのである。
 残された膨大な映像から厳選されたオン/オフステージのブランキー。ステージの袖から手持ちのビデオカメラ一本で撮られたライヴ映像の、息を呑むような生々しさ。楽屋裏でのメンバーの言葉少ななやりとり。演奏の歯車が合わず、いら立ちを隠せない。「(このまま演奏しても)恥かくようなもんだわ」と吐き捨てる照井の一言にドキリとする。すでに解散が決まっているのに、ただのファンサービス興行と割りきることだって簡単なのに、彼らは決してそうしない。その厳しさは彼らの生きる姿勢そのものなのだ。そうした紆余曲折の果てに辿り着いた横浜アリーナのライヴ。すべてが感動的だ。
 彼らのすべてを知る当時のマネージャー、藤井努氏に映画化の経緯などをお訊きした。
取材・文/小野島 大

――完成した作品をご覧になってどうでした?

「製作途中ではパソコンのモニターであるとか、テレビのディスプレイで観ていたわけですけど、完成して、試写会場のでっかいスクリーンで観た時に、ライヴを1本観たような臨場感をすごく感じて圧倒されました。今回の映画は、翁長裕(監督)が最後のツアーに1台のビデオカメラを持って密着したわけで、要するに定点で撮っているわけではないし、翁長さんの視点からライヴをいろんなところで撮って、それを1台のカメラで追っかけているわけじゃないですか。だから、素材としてもそういう素材だし、音もビデオカメラの音で――プラス少し、DATの音とかもミックスしてやっているけども――どれくらいのものができるのかな…、と思ってました。当時から、この映画を完成させるにあたっては、<オフィシャル側が提供する上質なブートレグ>という打ち出しにしようかと思っていたんです。映像や音のクォリティから言っても、どんなに努力しても、これまでリリースしてきたCDなどの音のそれまで達することは、到底できないだろうと思ってましたし。でも、ああやって映画館のでっかいスクリーンで、大音量で観たら、これはもうライヴそのものだなっていう感じを受けましたね」

――順を追ってお訊きしますが、解散が発表されて、解散ツアーの日程が発表になり、そこに翁長さんから、同行したいという申し出があったということですね。

「そうですね、解散のことは、我々がけじめをつけるために「解散」と謳って終わらせると決めたことなので、公に発表されるまでは親しい方々に対しても沈黙を貫きました。だから翁長さんも新聞発表を見て……。衝撃が走ったと思うんですけど、即座に電話をいただきましたよ。入っていた仕事全部キャンセルしたから、って」

――その時は、すんなりOKだったんですか?

「ええ、もう迷う事なく、どうぞと。もう最後のツアーですからね。まあ、最後でなくても来る者はあまり拒まないという体制でしたらから我々は。その人にある種の才能と情熱さえあれば、バックボーンがなんであれ、まずはやってみよう。やってから判断しよう、というのが当時の我々のスタイルだったんで」

――翁長さんとの付き合いというのはその前から…

「翁長さんとブランキーの付き合いは、94年にリリースした『MONKEY STRIP』というビデオからですね。川崎クラブチッタの円形ステージでやったライヴ・シューティング・ギグ。つまり、ビデオを撮る目的で行ったライヴの時が最初です。ツアーでいうと「スージーの青春」というツアーでした」

――その時、藤井さんはもうマネージャーだったんですね。

「やってました。1年目ぐらいですね」

――その時翁長さんを起用した理由はなんだったんですか。

「それは僕が決めたわけではないんです。ただ、それ以前は映像であまり相性のいい人がいないというか、意見が合わないというか、なかなかすんなりいかなかったということは聞いていました。それで当時のスタッフの考えもあり、翁長さんの名前が出てきたのではないかと。実績のある方でしたからね。逆にそれまでやってなかったのも不思議だなという…」

――実際にブランキーとの相性というのはどうだったんですか。

「自然にすんなり入ったということを記憶してますけど」

――メンバーからの意見で、あの人はいいとか?

「ライヴの収録に関しては特になかったような。メンバーからの意見も聞いた記憶がないですね。PVについてはたまに話しましたけど。たいがいは、よほどのことがない限り、スタッフ側が提案をして、じゃ、それでいってみようか、という感じだったと思います。彼らのスタイルとして、ライヴは自分たちの仕事であり、それを撮るのは監督の仕事。互いにプロとして、その時にやれる限りの最高のパーフォーマンスを発揮できればそれでいい。シンプルに、相手を信じているからこその姿勢だったと思います。『MONKEY STRIP』の時も、特に問題もなく、当然のように作って、当然のように出したというか。その直後に今度は『SKUNK』、EMIでの最後のアルバムになったわけですけど、そのレコーディングのためにロンドンに行くことになり、その時にも翁長さんに同行撮影をお願いしました。アルバムの出るタイミングに合わせて、代々木公園でのフリーライヴも企画していて、ビデオの撮影総指揮を翁長さんにお願いしたんです。そのフリーライヴ映像にはドキュメンタリーも合わせて入れようということで、ロンドンでのレコーディング・シーンと向こうで何本かツアーの予定もあったのでその映像、それからジャケット撮影でメキシコまで行ったんですが、そこまで全部、翁長さんには帯同してもらいましたね」

――DVD『Are You happy?』ですね。

「そう、だからロンドンで同じ釜の飯を喰って過ごす時間も長かったんですよ。その時に翁長さんとメンバーの絆が芽生えた感がありますね。夜な夜ないろんな話をして。翁長さんも、メンバー3人がそれぞれどういう思考の持ち主であるか、あの時に実感として感じたと思うんですよ。あれからじゃないかな」

――そういう絆があったからこそ、ラスト・ツアーの同行も成立し得たという…。

「そうですね」

――翁長さんの作風に関してはどういう風に受けとめていたんですか?

「翁長さんの作風は、僕の個人的見解ですが、人間くさい部分を抽出するというか…、その人の素の部分を紹介したがる気がしますね(笑)。僕は中立な立場だったので、メンバーが良しというものは良しなんですが、ロックバンドがオフステージの部分をお客さんに対して見せたいとは、普通は思いませんよ。でも翁長さんは、そういうところを突いて、ファンの人にこういうところを紹介してあげたらいいんじゃないか、っていう視点で凄く考える人だから。このシーンって必要なの?というやりとりはいくつかあった記憶はありますね。まあ翁長さんでなくても、あの3人の人間性を知れば、ロックバンドとということとは別に、彼らの人となりを誰かに伝えたくなるのは分かります。いい大人のくせに心根が真っすぐで、繊細で、でもって強靭なんだけど今にも切れそうなワイヤーみたいな。そういう部分を「ブランキー・ジェット・シティ」のライヴの作風として相見えて表現するのは、とても難しいし、勇気のいる作業だと思いますが、翁長さんの場合、単にそこをサービス的に見せる…というのではなく、この唄のシーンや、この時のアーティストの表情があってこその、この音楽であり、こういう存在なのだと。翁長さんはそういう風味を表現して、人々によりリアルな感動を伝えようと、そう考える人なんだと思います。人に対して優しく、辛抱強く、そして頑固な製作者じゃないと務まらないですよね。そんな人だからこそ、メンバーも信頼をおいていたんだと思いますね」

――でもツアーにずっとカメラマンが同行して、ステージだろうが楽屋だろうが、ずっとカメラが回っているのは、結構大変じゃないのかと思うんですが。

「いや全然。なにも大変ということはなかったですよ。ほかにも沢山いましたからね。番場(秀一)とかカメラマンの富永よしえ、当時アシスタントだった荒井俊哉、あと久保憲司。これらの人たちはカメラを持って全部くっついてまわってたし。一緒に回りたいっていう人には、最後だし、こちらも手厚く迎えていました」

――メンバーは嫌がらなかったですか?

「全然。皆さん空気は読める人たちでしたし、メンバーに対しては心配無用でした。むしろ、一緒にまわりたいっていう人が、その緊張感に耐えられるかどうかですよね(笑)。当時のライヴのブランキーの楽屋っていうのは、ちょっと心臓が弱い人だと口から出そうっていうか、そういう雰囲気がありましたからね」

――それは緊張感?

「3人の仲が悪いわけじゃないですよ。解散ツアーでは、たいがいのバンドは、楽屋を別にしたりするじゃないですか。そんなの最初から最後まで一回もなかったですからね。3人が同じところにいる。でも喋らない。喋らないっていうのは、それだけの仲だからじゃないですか。すべてを知り尽くした同士だから無駄な話もしないし、逆にくだらない話もするし。そういう雰囲気のなかで、やはりライヴが始まる直前っていうのは、テンションを高めるようなオーラが出てきますよね。ある種の殺気のような。そういう空間に入って来れるようなスタッフってなかなかいないですよ。普通の人間なら嫌がるっていうか、耐えられないというか。いざ向き合うとなったら真剣を相手にしてるような気分にされますし」

――わかります。

「ツアースタッフなんかはまだ慣れてるけど、それでも気をきかせて近づかないですよね。何かこう、結界みたいなものがあって。最初に挨拶をしても、それ以降はみんな入ってこれない。別に入っちゃだめだとは言ってないけど、誰もあんまり…。そういうムードはあったと思う」

――そんななかで、翁長さんは淡々とカメラを回して…。

「淡々とまわしてましたね」

――映画では、もっとリラックスした、いわゆる打ち上げの様子とか一切出てこないですけど、翁長さんによれば、映像はあるけれど、あまり使いたくないようなお話でしたね。

「たぶん、翁長さんが見せたいブランキーはそれじゃなかったんでしょうね」

――映画のなかで、楽屋で3人がずっと話し込んでいるシーンが出てきますね。あの時、藤井さんはその場にいたんですか?

「必ずいますね。ただ、むしろこれは3人だけで話させたほうがいいなって言う時は外すときもある。その逆に、口をはさむ時もあります。ただ、大事なことっていうのはあまり余計な人間が入らないほうがいいから、そういう時は、むしろ誰にも口出しさせないようにする。もう入らないでくれって言って、3人だけにすることもありました」

――映画の中で、「こんな演奏じゃ駄目だ」みたいな話になって、かなり緊迫した場面だと思うんですけど、そういう時も普通にカメラはまわしてますね。それは構わない?

「構わないですね。真実なんで。撮るだけ撮ればいいじゃんという。撮ってることに対してはヤバいとも思わなかったし、正しいことを言ってる話し合いのシーンだから、撮りたいなら、撮ってくださいと。もちろん、それらは翁長さんが撮っているということが前提でしたけどね」

――逆に、これは撮らないでほしいっていうのは?

「なかったですね。翁長さんには何もリクエスト出してないんですよ。ただ、ライヴの場面はもうちょっと正面で撮ってくれていれば良かったのに、とは、あとから映像を観て思いましたけど(笑)。まあ会場の状況からそれは無理な話とは分かっていますが」

――じゃあ撮っている事に対してメンバーからも別に意見もなく…。

「何もないですね」

――カメラが入ったからといってメンバーの態度が変わるとか…。

「何も変わらないですね。何も変わらないけど、例えば、達也なんかは結構気を遣うタイプだから、翁長さんがカメラを持って向かってきたら、おどけてみせたほうがいいかな、っていうようなサービス精神はでるんじゃないですか。彼の性格を考えると。あと、ライヴの場合、ステージ上に3人も4人もカメラマンがいたら、観ている人のことを考えると、あまり喜ばしいことじゃないですよね、普通は。でも翁長さんとか、翁長さんが連れてくるスタッフの方は、やはりすごい腕を持っていて、すごい映像を撮るし、決定的瞬間を逃さない。ですから翁長さんの仕事に関しては、どこまでも入ってきていいと。最初からドラムの横にいたっていいよ、そういう感じでやってました。あまりちょこちょこやってると、観ている人の注意力が散漫になってしまうけど、そういう部分も心得ている人たちだったんで。そういうムードも分かっているから、逆にメンバーがそういうことを言う事は一切なかったですよ。翁長さんはブランキーのスタッフとも打ち解けてたし、同じような感覚で一緒に回れたかなと」

――『LAST DANCE』のビデオ・シューティングを翁長さんに任せると決まったのは、ツアー同行することが決まった後の話ですか?

「そうですね。翁長さんがまわりたいって言ってから、僕から発注したと思います。実は最初は別の人に頼もうかと思ってたんです。解散するって決めて……もう、なくなるわけじゃないですか。そうした時に、何かを残してあげたくなったんですよね。次の世代の才能が、このブランキーの最後の仕事を真摯にやることで、すごく飛躍するチャンスになるんじゃないかと、若い連中に刺激を残したいなと思って。翁長さんではなくて、比較的若いヤツにやらせてみたいなって思ったんです。翁長さんとは(その時点で)もう何回かやってるし、ベテランだし、翁長さんの連れて来るスタッフも間違いないんですよ。みんな僕もよく知ってるし。そういう選択肢もあったけど、でも、もうなくなっていくバンドだから、次の世代の糧となるようなこともちょっと考えてみたかった。何が後に残せるかなって思ったんですよ。最後にフェス(フジ・ロック・フェススティヴァル)で終わったのもそういう発想からです。だから最初は違う人間を頭に思い浮かべてましたけどね。まあ何人かに話してはみたのですが、ちょっとまだ荷が重いかな…と思うところもあり。それで翁長さんにお願いしたんです」

――実際に解散ツアーをやると決めたのは、どういう理由だったんですか。

「もともとが<解散します>って宣言すること自体が自分たちに対するけじめだったんです。べつに黙っていても良かったと思うんですよ。正直言って、ツアーを回る必要なんかなかったかもしれない。そのまま何も言わないで、永遠に活動を止めるっていうのも、もしかしたらブランキーらしいやり方なのかもしれないと。ただ、これまでブランキーというのは、ああいうすごいハイテンションで、ライヴもレコーディングも3人の魂がぶつかり合ってやってきたものだから、ことあるごとに必ずそういう話(解散)が出ていました。これはよくご存じだと思いますが。そういった経緯にけじめをつけるためにも解散と決めようと。決めた以上は、世話になった人たちもいるし、けじめをつけるために、ツアーを回ろうと。それがあのツアーであり、横浜アリーナまでだったんですよ。けじめの取り方として。あのあとフジロックもやってますが、どちらかというと僕的には3人に対するプレゼントであったし、もしかしたら(ブランキーのファンの中には)ブランキーしか知らない人たちもいるかもしれないじゃないですか。でもああいう日本で生まれた新しい文化というか…素晴らしいじゃないですかフジロックって…そういうところで、ブランキーだけじゃない音楽に触れてもらえるきっかけになるんじゃないかとか。それをメンバーに話した時に「俺ららしくていいかもね」と。で、それを最後に決めたんですけどね。さきほどの(ラストダンス)の話じゃないですけど、何を残せるのかっていうこともちょっと考えだしたんです。終わるけども、ただ終わるのも寂しいじゃないですか」

――その解散ツアーっていうのもなかなかしんどかったのでは。

「それはしんどかったですねえ。あの解散宣言の新聞広告を作って、それを発表して以来、あの頃は毎日がハイテンションだったから。ツアーに出るまでにすべてをどんどん決めていって。いざ初日の札幌に着いた瞬間に初めて気がついたんですよね。これは重たいなって。なんともマヌケな話ですが…」

――最後だから気楽になれる、っていうものじゃない?

「全然。解散ツアーに実際出る前、企画出して、リハもやって、曲順も決めて、さあ、行こうぜ!って出て。いつもだと、ツアーのなかでこれがどれだけ成熟するか?とか、そういうワクワク感があるわけですよね。どんなことが待っているのかな?とか。で、着いてみて初めて「あれ、今回のツアーっていうのは何が残るのかな」って、ここで気がついたわけですよ。これが最後だから悔いのないようにやるしかないわけだけど、ただどんなに一生懸命やっても、(ブランキーにとっては)その先には何もないわけだから。すごいいい演奏ができたとして、ここをこうしたらもっと良くなるんじゃないかとか、ツアー中ってそういう話になるじゃないですか。(でも)そういう話をしたって仕方がないライヴだから。その先、やらないんだから。ブランキーとしての発展とか成長とかっていうのはまったく一切無視したツアー。なんのためのツアーかといったら、ぶっ壊すためのツアーなんですよ。ぶっ壊すために旅に出てるんだと思った時に、ドーンと落ちて。あ、そういうことかって、その日(札幌)に痛感しました」

――だから映画のサブタイトルが「破壊への旅」なんですね。

「そうですね。その時の心境はこうだった、っていうのを映画の製作中に翁長さんにメールしたんですよ。要は破壊への旅だったと。負の力に支配されて。そういう風に思ったんだよって言った時に、翁長さんが、それがいいからそれにしようって。(僕は)みなさんがいいんだったら、それでいいですよと」

――「破壊への旅―― 何かを失うために旅に出るのが、こんなにも辛いことだったとは」とありますが、これは当時の藤井さんの心境なわけですね。

「そうですね。これはつらいと思いました。覚えてないんですよ、札幌のことを。なんか、ベンジーに「しっかりしろよ」と励まされたような覚えがありますが、あまりにも気持ちが落ちて、その日の記憶が…」

――普段のツアーとは雰囲気も違ってた?

「最初のうちは、確実に違ってましたね。でもそれが途中から同じになりました」

――それはなんで?

「なんだろ。最初(札幌)は、いろんなことに気がついて、ああ、ここで(ライヴを)良くする話をしてもしかたがないんだと思った時に、あまりポジティヴな発想にはならないかなと思ったんだけど、でもやっぱり(ライヴを)観ていると言いたくなるわけですよ。こここうしたほうがいいんじゃないか、ああしたほうがいいんじゃないか、この曲順変えようとか。メンバーともスタッフとも話をして。そのへんに関しては、最後だからこう、というのはあまりなかったですね。とちらかというと、僕がその時考えていたのはメンバーのことよりも、お客さんのことかな。その地での一期一会という点からいくと、お客さんのほうが、もう最後なんだって気持ちは強かったと思いますしね。こちらとしても、少しでもいいものをみせてあげたいって思うから、メンバーに無理言って、本人たちが普段やらない曲もやってあげて欲しいとか。だから結構、メンバーはリクエストには応えてくれてるんですよ。特に横浜アリーナ2日間の演奏曲については。だからこそ、フジロックを最後にやった意味もあった。単純にストレートにぶち抜けて終わるっていう」

――メンバーにもそういう気持ちはあったんですか。お客さんに一番いいブランキーをみてもらいたいという、そういう気持ち。

「ないでしょう、それは(笑)。もともとお客さんの顔色を見ながら演奏するバンドではないですから。でも、これが最後でしたからね。少しでもいい演奏を見せたいという気持ちはあったかもしれない。ただ、そんな渦中でも、なにをもってして「いい」と言うのか、百人にいれば百の感性がそこにあると。お客さんに対してはそういう認めかたをしていたと思います。要するに彼らが確信し得ていることは、自分たちのテンションだけですよね。どのような構成であれ、自分たちが最高に狂える演奏に身体を張る。五感を集中させる。そうすると先が読めてくる。あの3人によるガチな殴り合いにも、和気あいあいとした会話にも見えたブランキーの演奏っていうのは、3人の人間関係がそのままカタチとなって表れる。そこがたまらなく面白かったんですよ。三角形のカタチが毎日、や、毎秒変わっていくあの感じがね。まさにスリーピースのスリルってやつですよね。…あ、すいません。質問の答えになっていませんね(笑)。うん、いいブランキーという定義は人それぞれだと思うので、よく分かりませんが、少しでも楽しんでもらえるものを、という気持ちは確かに存在していたと思います。でも、どちらかと言えば、どういう生き様をファンの人に見せられるかっていうことを考えていたんじゃないですかね。特に照井くんは。むしろ自分らが楽しくないものだとしたら、ツアーをまわるっていうことにも賛成はしなかったと思うんですよね。最後に思いっ切りやってやるというか」

――メンバーは楽しんでました?

「楽しんでいたと思いますよ。もちろん、ライヴだから楽しくなかった瞬間もあるとは思います。人間だから波ってあるじゃないですか。当然。長期にわたるツアーで…なにしろみんな、客観的に見られる余裕っていうのは、あまりなかったんじゃないかと。それはスタッフにしても同じだったと思いますね。ブランキーのツアースタッフは自分の仕事にプライドをもった職人気質が揃っていました。そのプライドの象徴であるバンドがなくなってしまうのだから…、彼らにとっても、そういう自身の喪失感との戦いだったと思います。ツアーが終了したあとに襲われるであろう虚無感を想像しながら現場に集中するという。最後のツアーが楽しければ楽しいほど後が辛くもなる。全員がそういう気持ちを胸で押し殺しつつ、普段と変わらぬ仕事をするんです。そのことをメンバーに悟られないようにするには、普段より淡々と仕事をせざるを得ないというか(笑)。でも難しいですよね。これも人間だから。互いにそんな波長は感じあっていたと思います。だからメンバーも、そういうムードを察して逆に気を遣っていたかもしれません。楽しもうよって。ほんとにいつもと変わらぬ軽い口調で、サラっと。こういうところが好きでしたね。いいチームでした。そうそう、コンサートでメンバーの楽器を管理するローディというスタッフがいるじゃないですか。楽器とは武士にとっての刀に匹敵するものです。それを任されるのだから、そこには相当の信頼関係が必要ですよね。楽器車1台で回るツアーから一緒にやってきた仲間たちで。彼らは通常のライブ終了直後は、ステージ上の楽器のメンテナンスや保管に努めるため、わざわざ楽屋に「お疲れさまでした」とかの挨拶には決して来ませんが、それが最後の横浜アリーナでは、終了直後に歴代のローディたちがメンバー楽屋の入り口で一列に並んでいたんですよ。そして順番にメンバーと最後の握手を交わしつつ「一緒に仕事ができて光栄でした」と、全員が口々にそう言っていました。なんか、最後にして新鮮な光景だったな。あれは」

――その横浜アリーナまでたどり着いて、終わった瞬間は、どんなことを思いました?

「覚えてないですね。あまり感傷的になった覚えはないですね」

――これが最後だっていう感情はなかった。

「それはありましたよ! もうこの曲聴けないのかなあ…とか」

――泣きました?

「内緒です(笑)。いや泣いてないな。怒ってました(笑)」

――そういえば藤井さんは映画にはほとんど映らないですね。

「極力映らないようには心がけてました。ブランキーの3人をカッコよくみせたいわけで、余計なやつはあまり映らないほうがいいなと、普段から思ってたんです。特に僕は彼らのマネジメントだし、ベンジーと達也とは同学年(照井は1つ上)ということもあり、普段から公私ともにフレンドリーに接することが多かったのですが、それでも超えてはいけない線というのは自覚していました。それだけステージに立つ者と、立たない者とでは、まとっている空気が違うんだと。これは僕の流儀ですけどね。だからなるべく翁長さんの背後をキープして(カメラを)まわしている時は、あまり発言もしないようにしようと。後々、映画にするつもりだったから」

――翁長さんが同行するって決めた時から、映画にするということは考えてた?

「考えてましたね。そのことは一度ファンに発表したことがあります。ホームページのBBSの私信で、映画を作りたいと思っていると。楽しみですとか、いろいろな意見をいただいたんですけど全然実行できなかった」

――なぜ実現しなかったんですか?

「先に進むためにすぐやってしまうか、もしくはしばらく時期をみてやるか、というところでちょっと悩んだんですね。当時は、解散して3人ともすぐ次に向かおうとしていたわけだから。あまりこちらで引っ張ってそれをやるっていうのもよくないし、(解散にあたって)色々なものがでたし、そうやってお客さんの財布のヒモを緩めるのも音楽業界の解散ビジネスみたいでブランキーには似つかわしくないと思って、そういうリリースものを僕らのほうで止めたんですよ。出さないでくれって。それに僕にしても、もはやブランキーの仕事を終わりにしたいという気持ちはありましたね。正直に言うと。じゃないと、先に進めない。とりあえずメンバーが向かう道を邪魔したくないな、っていうのがあったので、そこに関しては交通整理してあげなきゃいけない。それで、翁長さんから(解散後)1年待たないくらいで映画製作のオファーがありました。今の感じを、放熱具合をあまり時が過ぎてからやるのは自信がない、今のうちにやりたいって言われてたんです。まあ、当然のことですよね。でもその時は、色々な理由があって、ごめんなさいしました」

――その時にラフ編集みたいな感じのものを作ったって、翁長さんが言ってたんですけど、観たんですか?

「うーん、覚えてないですけど、ベストの黒盤に収録している未発表曲の「黒い宇宙」という楽曲、『LOVE FLASH FEVER』の時に作った楽曲なんですけど、それをベスト盤に入れることになった時に、翁長さんが、ラストツアーとかの映像を交えたPVにしてくれたんですよ。それを作った時、これが僕の作る映画の感じになるだろうと(翁長さんは)言ってましたね。あの「黒い宇宙」がまた泣かせるような感じで。「おおーこれか」「こんなの今みたら死んじまうぜ」みたいな感じでしたね。

――それで13年…。

「や(笑)、それからもう一回映画化の話はあったんですけど、いわゆる楽曲使用とかそういう法整備みたいな問題は置いておいて、なにしろ一番に考えたのは、今が時期なのかどうなのかっていう。で、その時期ではないと思った」

――で、今回は?

「翁長さんから、たぶん今年に入って連絡があって、今度、ローソンさんとパルコさんとのスタッフィングでやりたいと。そろそろいい時期だと思うんだけど、って。わかりました、話しましょうかと」

――結果的にやることになったのは、今がその時期であると考えたからですか?

「そうですね。昨年あたりから、そろそろやらなきゃな、とは真面目に考えていたんです。というか…。1つの理由に、たとえば僕が音楽の世界から足を洗って、他の仕事でもやろうかなって考えた時に、ひとつだけやり残したことがある。映画作んないと俺は殺されるな、ファンの人たちと約束したし。どうしようどうしようとは思っていたんですよ。やらなきゃいけないな、と思っていた頃にそんな連絡をいただいて。翁長さんがやるっていうなら、やろうと思ったんですよ。ただどういうやり方がいいのか。最初、自分だけでやろうとしてたんですよ。翁長さんが監督で。いまは、こんなに大きなプロジェクトになって、いろんなスタッフの人たちとやっているけれども、インディーズの映画として各地を単館でぶらぶら回るという。映画の仕事も何回か経験したので、そういうツテで色々な人たちに話を聞いて、こうやってやれるよ、みたいなことは聞いてたんで。一応やるためにいろんなことは調べていたんですよ。いろんな動きは、実はこそこそしてたんです。もはや時は熟したな…、的な。でも翁長さんからそういう話が来たから。一ヶ月ぐらいかけてお返事は考えさせてもらいましたけど」

――迷っていた理由と最終的に決めた理由は?

「迷っていたのは、自分が描く理想のようにできるのかな、っていうことだったかな。決めた理由は、これは翁長さんの映画だな、って確認して割り切ったからですよ。ブランキーの映画だけど、翁長裕の映画だから、翁長さんの好きなように、やりたいスタッフィングでやればいいんじゃないかと。僕はそれに対して力を貸していけばいいんだなと。僕は監督じゃないですからね。あとはホントにそろそろいいかと思ったんです。潮時だろうと」

――映画化するにあたって、メンバーの意向とかは働いてるんですか?

「いえ、特に意向めいたものはありません。制作過程も一切見せていませんよ。これまでも達也には、いつかやんなきゃいけないんだよ、とはよく言ってたんですが、その程度の話で、内容について真剣に語ったことはありませんでした。照井さんにも、同じように絶対やるって話したことがあって。その時はいいもの作りたいっていう話だけはしてました。ベンジーとはそういう話をしてなかったかもしれないですね。ただ(それまでも)いろいろな企画が出るぞってなった時には、必ずメンバーに報告に行きます。それでどんなことをするにせよ、メンバーからは、(こちらが)しっかりやるんだったらいいよって。今回もそうやって話しました。ベンジーからは、やるならこれ以上古くなる前にやったほうがいいかもね、もうそんなに経つんだね、って。彼らしいシンプルで優しい意見をいただきました(笑)。 で…、(暫し沈黙)これはオフレコにしようと思っていたのですが。今回、いざって段になり、照井さんに話をしに行った際に、死ぬ気でやる覚悟があるなら(映画化を許す)と、厳しく言われたんです。照井さんの言葉はよくわかります。僕にとっても美学というものがあって、今の今、過去をほじくり返して主人の墓を荒らすような作業をするわけですから。いったいどういう理由でそれをするのかと。単純に昔ファンと約束してしまったからだろうかと。自問自答していたのですが、明確な答が出せないままでいたんですよ。ただ漠然と感じていたのは、絶対にやるべきなんだ、という勘だけでした。解散してから今現在までも、前だけ向いて生きてきたつもりだし、これから先もそのつもりでいます。メンバーに至ってはその最たるものでしょう。ですから、今さら昔の自分の姿をスクリーンに映し出してどうするんだって、そう思ったはずなんです。それでも今回の映画化を許してくれたのは、彼らのファンに対する思いやりからなんだと思います。照井さんから、死ぬ気でやれよって言われた。その別れ際に「いいものが完成して、ファンが喜んでくれたらオレはそれでいい」とも言ってもらい、僕のなかで勘だった部分が確信に変わった気がしました」

――それは強烈だったでしょうね。で、実際に製作作業に入って、藤井さんから強烈なダメ出しを喰らったと、翁長さんが言ってましたけど・・・(笑)

「そうですかね。でもあれは、ダメ出しっていうか、違うんですよ。核心(となる部分)をお互いに探ろうとしても、どんな映画になるかということが最初わからなかったんです。と言うのも、映画化にあたり僕自身が決めていたことは、これは翁長さんの映画なんだから、最終的には翁長さんのやりたいように…、ということだけだったんですが。でも単なるドキュメンタリー映画にしちゃ絶対にダメだと。そこだけは譲らない心算でした。まあ翁長さんが作る以上、そういう体のものにはならないだろうな、と思ってはいましたが。でも、そこに至るまでの過程を製作委員会の全員が一緒に共有していかないと、いい仕事ができないだろうと。そのことを危惧していたんです。だって当時のことを知るのは僕と翁長さんとデザインまわりを担当してくれた大箭くんだけだったので。あ、あと小野島さんもですね(笑)。それでなんだか当時のテンションが甦ってきましてね。これはブランキーが題材だぜってことで。あんまりスマートに終わって欲しくないなと思ったから。悪いけど結構無理難題(を言った)というか。(その時観たものでも)成立はしてるんですけど、正直言って僕には退屈に感じる部分もあったので。なんかこう「狂気」が不足しているような…。それで、このシーンを入れるなら今のままでは認められない!とか、数回に渡り色々と意見を言わせてもらいました。製作委員だろうがなかろうが、この映画に関わる者全員には当時のテンションで接しています。もっと頑張ってもらいたいから。というより、俺がメンバーに与えられているプレッシャーはそんなもんじゃないぞというのもあるし。なによりも、これを観るのは目の肥えたブランキーのファンなのだから。そりゃこっちが命張らないと通用しないよ、と。そういう気持ちが一番強かったかな。でもあんまり言うのもね。だって翁長さんが全身全霊で取り組んでいるのは知っているし、翁長さんのアプローチでちゃんと考えていますからね。それに、ブランキーらしいもっとヒリヒリした感じのライヴ映像がほしいって言っても、元々の素材の問題もあるし、時間と予算の問題だってあります。それらのどうにもできないことについて、僕も充分に承知していたんですよ。だが、しかし、それでもあえて言ってのける(笑)。これが僕の役割なんだろうし、僕にしかできないことですからね(笑)。でも、そうやって紆余曲折があった効果は確実にありましたよ。不思議なもんで。翁長さんとも互いのエゴみたいなものを吐き出しあった結果、全体の流れにバシーンと1本稲妻が走ったというか、約90分(映画版)という制約のなかで、あのラスト・ツアーのテンションを再現することができたと思います。まあ、今回の僕の意見っていうのは、ブランキーの仕事に関わる者に対する儀式みたいなものですかね。しかしながら、野生の直感であれこれ物言いをして、各位の皆様には相当な面倒をおかけしたかと思いますので、この場を借りて謝罪します。字幕が入ったことでわかりやすくなったというか、かなりコアな映画から、普通の人でも観られる映画に変わったなという印象はありますね。結局、翁長さんの言葉でやるしかないわけだから、これだけ時間が経ってしまったから、このスタイルでもいいだろうと思いました。肝心の僕からのダメ出し(笑)のシーンについては、内緒ですけど、完璧に凌駕してくれてましたよ。さすがでした。DVDヴァージョンはディレクターズ・カットということで、映画版よりも40分くらい多く色々なシーンが収まっているんですが。それについては100%監督の意向を尊重しています。ですから、文字通りディレクターズ・カットになっています」

――解散から近い時期に作られていたら、もっとバンドよりの内容に…

「こういう風にはなってないかもしれませんね」

――メンバーは観たんですか?

「試写会には達也だけ。僕がガチャガチャやっているのを知っていたので来てくれました」

――達也の観た感想は?

「当時の細胞が甦ってしまうって、一晩苦しんでいました(笑)。あとベンジーはディレクターズ・カットのDVDヴァージョンで観ていますね。照井さんは観ていません。今は観ないって。前だけ(向いて)生きていく、って。照井さんらしいと思います。まあ、一番客観的に観れないのは当の本人たちでしょうからね。僕自身の感想は、たまにはこうやって過去の自分と向き合ってみるのも悪くないなって、素直にそう思いました。もしかしたら、それが今回の作業で一番の収穫だったかもしれません。どうにも血が沸いてしまったけど、13年経った今だからこそ消化することができた。そのうえで今の、これからの自分と向き合っていけるような。そんな気持ちになれましたね。なんだか、またしてもブランキーの3人に背中を押してもらった感じがします」

――ファンからの反響は?

「この前、イベント会場で昔のファンの人に声かけられて。やっとやるんですねって、言われました」

――謝りました?

「謝りました(笑)。(解散して)1年、2年目ぐらいまでは「いつやるんですか?」って聞かれたんですけど、それもだんだんなくなって。もうみんな愛想尽かしているというか、諦めてるな、って。ただ、こうやって映画館に集まれるって機会を作ってくれた。ということは、また前みたいに同じ目的を持った人たちがそこに集まるっていう空間が味わえるわけでしょ。それはすごい楽しみなんじゃないかと思うんですよ。フジロックとかもそうじゃないですか。ああいうでっかい場所で、泥だらけだし、不便な事が多いのに、ただ音楽が好きっていうだけの、同じ目的の人が集まってくるという、そういう連帯感というんですか。ブランキーの映画だって、それを観ようって目的のためにいろんな所から集まるわけでしょ。その感じが楽しいんじゃないかと思うんですよ。だから会場(映画館)でもいろんな趣向をこらしたり、みたいなことを頑張ってくれていますけどね。あと、今回の映画化の宣伝を一般の方々も手伝ってくれています。各々が関わる場でポスターを貼ってくれたり、フライヤーを置いてくれたり。公式のフェイスブックで募集して、その結果も紹介されているんですが、なんか13年経っても皆カッコいいんですよ。ブランキーのファンって、昔から心根が凛としてカッコいい連中が多かったけど、今もそうなんだな…って。それがとても嬉しく感じました」

――これを出すことによって、何が生まれることを期待します?

「計算はできないですし、メンバーに対しては(期待することは)ないんですけど、今のバンドであったりとか、音楽業界人であったりとかに向けては何かを観て感じて欲しいなとは思いますね。昔のように、彼らのようなバンドを大切に育てる包容力が今の音楽業界で復活してほしいと、そこに期待してます。映画化をここまで引っ張ってしまった理由は色々ありますが、今のタイミングが偶然ではなく、観る者すべてにおいて必然だったと。一般のお客さんも含め、そういう風になったら本望です」

――さっき、若い人に何かを残したいと言ってましたけど…

「ブランキーのカッコよさっていうのは、サウンドとか詩の世界とかテクニカル的なところも多分にあるとは思うんですけど、そこではなくて3人の人間性というか、考え方であったりとか、生き様というか、そういったものが凛としていてぶつかり合っていった、そのスパークの加減を観るのがたまらなかったわけじゃないですか。(今は)それだけひたむきに音楽をやる連中が少ない。ロックはあってもロールしてるバンドがいないというか。昔は、音がずれていてもなんでも、気持ちがどこに向かっているのかがガッチリわかるバンドっていうのがいた。特に90年代後期は世界中で日本のロックバンドが一番ド真ん中を突っ走っていました。自分も最近は、聴いてもガツンとくるバンドがいないなあって。だけど(そんな連中が映画を)観れば、何か変わらないか、っていう期待はしてますよ。自分で説明できないけども鳥肌がたつとか、わからないけど感動するというか、そういうエネルギーに満ち満ちている音楽ですからね。言葉じゃない衝動みたいなもの。バンドの放熱をそこに感じるような、そういう音楽ですから。それを観てもらいたい」

――これでみんな思い出すだろうし、知らない人は知る事になるだろうし、いい機会じゃないですか?

「そうですね。何かのきっかけになって。皆様の人生の幸せなツールの一つにでもなってくれればと思いますけど。これを聴いて観てしまったことで、道をはずしてしまう人もいるかもしれませんが、それはそういうことで(笑)。楽しくなるんじゃないかな」

――こういうバンドはなかなか出てこないでしょうね。もし彼らがもう一度集まってやったところで、これと同じことができるとは思えないし。

「そうですね。だからこの映画は、この時代のかけがえのない時間の切り取りですよね」

関連記事

※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

完全未公開ドキュメンタリー映画

VANISHING POINT

DVD

VANISHING POINT

Blankey Jet City

ユーザー評価 : 5点 (2件のレビュー) ★★★★★

価格(税込) : ¥5,217

発売日:2013年01月30日

  • 販売終了

%%header%%閉じる

%%message%%

完全未公開 写真集

写真集「break on through」

本

写真集「break on through」

Blankey Jet City

価格(税込) : ¥4,715

発行年月:2013年01月

  • 品切れ

%%header%%閉じる

%%message%%

BLANKEY JET CITY 『SINGLES』リリース決定!

SINGLES (SHM-CD+DVD)【初回限定盤】

SHM-CD

SINGLES (SHM-CD+DVD)【初回限定盤】

Blankey Jet City

価格(税込) : ¥3,981

発売日:生産中止

  • 販売終了

%%header%%閉じる

%%message%%

【MUSIC MAGAZINE 特集】 BLANKEY JET CITY 伝説のラスト・ツアー!

MUSIC MAGAZINE 2013年 2月号

本

MUSIC MAGAZINE 2013年 2月号

MUSIC MAGAZINE編集部

価格(税込) : ¥838

発行年月:2013年01月
通常ご注文後 2-3日 以内に入荷予定

  • ポイント 1 倍
    欲しい物リストに入れる

%%header%%閉じる

%%message%%

EMI〜ポリドール在籍時のアルバムが高音質SHM-CD+スペシャル・プライスで限定発売!

邦楽&K-POP 2点で最大30%オフ このアイコンの商品は、 邦楽&K-POP 2点で最大30%オフ 対象商品です

映像作品

  • DOG FOOD

    DVD

    DOG FOOD

    Blankey Jet City

    ユーザー評価 : 5点 (2件のレビュー)
    ★★★★★

    価格(税込) : ¥3,080
    まとめ買い価格(税込) : ¥2,402

    発売日:2013年03月27日


    • 邦楽&K-POP 2点で最大30%オフ 販売終了
  • %%header%%閉じる

    %%message%%

  • Angel Fish Complete Edition

    DVD

    Angel Fish Complete Edition

    Blankey Jet City

    ユーザー評価 : 5点 (8件のレビュー)
    ★★★★★

    価格(税込) : ¥3,080
    まとめ買い価格(税込) : ¥2,402

    発売日:2013年03月27日


    • 邦楽&K-POP 2点で最大30%オフ 販売終了
  • %%header%%閉じる

    %%message%%

  • MONKEY STRIP

    DVD

    MONKEY STRIP

    Blankey Jet City

    ユーザー評価 : 5点 (2件のレビュー)
    ★★★★★

    価格(税込) : ¥3,080
    まとめ買い価格(税込) : ¥2,402

    発売日:2013年03月27日


    • 欲しい物リストに入れる
  • %%header%%閉じる

    %%message%%

  • Are You Happy?

    DVD

    Are You Happy?

    Blankey Jet City

    ユーザー評価 : 5点 (7件のレビュー)
    ★★★★★

    価格(税込) : ¥3,080
    まとめ買い価格(税込) : ¥2,402

    発売日:2013年03月27日


    • 欲しい物リストに入れる
  • %%header%%閉じる

    %%message%%

  • CLIPS BABYFACE PRESIDENT/CANDY or HELL

    DVD

    CLIPS BABYFACE PRESIDENT/CANDY or HELL

    Blankey Jet City

    価格(税込) : ¥3,080
    まとめ買い価格(税込) : ¥2,402

    発売日:2013年03月27日


    • 邦楽&K-POP 2点で最大30%オフ 販売終了
  • %%header%%閉じる

    %%message%%

  • BARRACUDA〜TOKYO SIX DAYS〜

    DVD

    BARRACUDA〜TOKYO SIX DAYS〜

    Blankey Jet City

    ユーザー評価 : 5点 (6件のレビュー)
    ★★★★★

    価格(税込) : ¥3,080
    まとめ買い価格(税込) : ¥2,402

    発売日:2013年03月27日


    • 邦楽&K-POP 2点で最大30%オフ 販売終了
  • %%header%%閉じる

    %%message%%

  • LAST DANCE

    DVD

    LAST DANCE

    Blankey Jet City

    ユーザー評価 : 5点 (35件のレビュー)
    ★★★★★

    価格(税込) : ¥3,080
    まとめ買い価格(税込) : ¥2,402

    発売日:2013年03月27日


    • 欲しい物リストに入れる
  • %%header%%閉じる

    %%message%%

邦楽&K-POP 2点で最大30%オフ このアイコンの商品は、 邦楽&K-POP 2点で最大30%オフ 対象商品です

浅井健一 3年ぶりフルアルバム 『PIL』

PIL (+DVD)【初回限定盤 : LPジャケットサイズ仕様】

CD

PIL (+DVD)【初回限定盤 : LPジャケットサイズ仕様】

浅井健一

ユーザー評価 : 5点 (2件のレビュー) ★★★★★

価格(税込) : ¥4,400
会員価格(税込) : ¥3,828

発売日:2013年01月16日

  • 販売終了

%%header%%閉じる

%%message%%