「春はベートーヴェン」

Monday, April 5th 2010

連載　許光俊の言いたい放題　第176回

「春はベートーヴェン」

　４月になった。新入社員や新入生にとっては毎日が新鮮な季節だ。今年はことのほか桜が盛大に咲いているような印象を持つのは気のせい？
　さて、ここ一年ほどはどういう訳かあちこちうろつくのが楽しくて、家でじっくり何かをするということがあまりなかった。だから、買ったのに聴いていないＣＤが山積みになっているし、このコラムもあまり更新できなかった。
　ちょっと部屋を片づけているときに出てきたのが、クルト・ザンデルリンク指揮のベートーヴェン交響曲第２番、第５番。オーケストラはベルリン交響楽団だ。どうしてこんなものを聴かずに放っておいたのだろうといぶかしく思いながら再生してみると、これがいい。ザンデルリンクとこのオーケストラのベートーヴェンが悪いはずはないけれど、予想を上回る。第２番では筋肉質のリズムが痛快。空気のように軽いのではなく、重みがあるものが飛び跳ねているという風情が昨今ではかえって珍しくて新鮮。第２楽章の豊麗な流れも嬉しくなる。いかにも春にふさわしい。１９７０年代のライヴだが、音質も良好。
　第５番は、シャウシュピールハウスという東独が威信をかけて建てたホールのこけらおとしライヴ。もったいぶっていないのに薄味ではない。重心が低い音が朗々と鳴っている。聴いていると、何だか豊かな気分になってくる。すごいことではないか。普通はどこか鈍くなりがちな第２楽章にしても、実にのびやかで希望に満ちた音楽になっている。こんなふうに聞こえるのかとちょっとびっくりした。もちろんそれ以後もフルトヴェングラー風の壮大さ、ケーゲルのような異常性とは無縁の健康的な音楽である。でも、決して軽々しくはない。
　このコラムでもザンデルリンクは何度も取り上げた。だから、またまた書くのも気が引けるのだが、聴くとやはり褒めたくなるのである。

　ベートーヴェンといえば、盤鬼平林直哉が復刻したシューリヒトが予想外に楽しめた。私はシューリヒトにあまり興味がなく、積極的に聴きたい気は起きないのだが、この「田園」、確かに手元にある盤よりも音がずっと美麗なのだ。フランスのオーケストラならではの蠱惑的な響きが堪能できるのである。特に最初の２つの楽章は、普通の「田園」とはひと味もふた味も違った妙に官能的な美しさがいい。反対に、第７番のほうでは、意外にも響きの鮮烈さ、俊敏さに気付かされる。
　これがシューリヒトが一番やりたかった演奏なのかどうか私にはわからないけれど、楽しめる１枚であることは間違いない。フランス風の感覚が好きな人には特にお薦めだ。

　ところで、前回、拙著『これからを生き抜くために大学時代にすべきこと』について書いたのだが、これが書いた自分が驚くほど好評である。書店によってはたちまち品切れになったところも少なくないらしい（ある学生からは「発売当日に買いに行ったら入荷分がすべて売れてしまったそうで、失礼ながら驚きました」と言われた。
　自慢のように受け取られるのも嫌なのだけれど、私が当惑してしまうほどの褒め言葉を何人もの方からいただいた。この本のターゲットは、書名から明らかなように１８歳から２０代初めくらいの若者だ。ところが、もっと年上の層からの反応がきわめていいのである。大学生でも、１年生よりは４年生のほうが反応がいい。たぶん、いろいろな経験をした大人のほうが、私が言いたいことをきちんとわかってくれるのだろう。実際、ある（ナマイキな）学生からは、「込められた深い意味が同世代のみんなにわかりますかねえ・・・」と言われた。もしかして、もっと簡単に書かないとダメ？　充分明快に書いたつもりなんだけどな。
　これだから、本を書くのは難しい。他人の反応はいつも期待とは少し（あるいは大いに）異なっている。演奏家だって、おそらく同じような経験をしていることだろう。

（きょみつとし　音楽評論家、慶応大学教授）　