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TOP > My page > Review List of GIACOMO
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2 people agree with this review 2025/05/24
ショップで見つけたら買おうと思っていたCD、一足先に友だちが購入していて貸してくれた。ヴェルディのオペラ「シモン・ボッカネグラ」、1857年オリジナル版の初録音だ。 この作品が作曲家の晩年に大幅改訂され、現在演奏されるのはその1881年改訂版であるのは周知のこと。では、そのオリジナル版はといえば、クラウディオ・アバドが録音した前奏曲しか、私は聴いたことがなかった。「知られざるヴェルディ」という邦題が付いた、まさに珍品CDだった。 そのアバドは、1970年代に「シモン・ボッカネグラ」をスカラ座で上演し、この作品の復権の立役者となった指揮者で、名盤の誉れ高い録音もドイツ・グラモフォンに残っている。LP時代からCDになっても、私の手元に常にあった音源だ。素晴らしいキャストとも相俟って、彼の代表作と言っても過言じゃない。 さて、1857年オリジナル版、これほど違うとは、聴いてみてびっくりだった。ある意味、別の作品と言っていいぐらいのところがある。歌はほぼ同じの箇所にしても、伴奏形が違っていたりして、その異同を数え上げればきりがないという感じ。改訂版には全く新しく追加された部分があり、その関係もあってオリジナル版からバッサリ削られた部分も相当にある。初めて聴く音楽が耳に飛び込んで来るのはとても刺激的だ。 いちばん驚いたのは、プロローグに続く第一幕第一場の冒頭、アメーリアのアリア、“Come in quest’ora bruna”(こんな曉どきに)だ。何と、あとに、聴いたことのないカバレッタがある。しかも、それがなかなか魅力的なのだ。この録音で歌っているのは中村恵理さんというのも嬉しい。舞台でこそ本領発揮する人だけど、こうして録音で聴いてみるとその秘密が少し解ったような気がする。どういう経緯で彼女が抜擢されたのか知らないが、プロデューサーの慧眼ということか。この人の声には色がある。とヘンな言い方ではあるが、音域による違いということではなく、同じ音高でも多彩なパレットがあるという感じ、それはメロディや言葉により繊細に変化する。それが耳に心地よいだけでなく人物の感情を具に伝えるのだと思う。そんなことが解るのも録音の効用、私にとっては蘇ったカバレッタ同様の新発見。 【引用】 この歌(オリジナル版では“Cavatina”だが、改訂版では何も表示がない。“Scena”とか“Romanza”とよぶ場合もある)は、間に変ホ短調の短い中間部を挟んで主部がもういちどくりかえされる3部形式の簡潔な構造をもち、在来のアリアのようなカバレッタは見当らない。 (高崎保男 「ヴェルディ全オペラ解説 3」)【引用おわり】 最もダイナミックな改訂は、第一幕第二場だろう。なにしろ、改訂版で全面的に書き換えられたのだから。総督の宮殿の議会場のシーン、これがオリジナル版にはない。改訂版では、党派が争う騒ぎのあと、”Plebe! Patrizi! Popolo dalla feroce storia!”(平民よ!貴族よ!残虐な歴史の人々よ!)と、シモン役にしてみれば大見得を切る見せ場、聴かせどころになるが、その音楽が全くない。それどころか、奸計を企てるパオロに呪いをかける幕切れのシーンも、もちろん、ない。 アッリーゴ・ボーイトによる改訂台本にヴェルディが音楽を付ける、そうなると、もう「オテロ」そのものと言っていい。イャーゴのクレードそっくりの強烈な不協和音が炸裂するのもこの場面だ。ジェノヴァ総督(Doge)という最高権力者としてのシモンを際立たせる圧倒的な効果は、20年以上あとに付加されたもの。別の見方をするなら、オリジナル版で色濃い家庭劇的なものから、一部では政治劇的なものに変質したという言い方もできる。ただ、1857年の音楽と1881年の音楽が混在することで、すべてよしとは行かず、上手く接合・混交できたというわけでもない。 その典型は、第一幕第一場の終わり方だろう。改訂版の最大の欠陥と言ってもいい箇所、生き別れとなった父娘の再会となる長い二重唱での高揚のあと、とって付けたような短い場面がある。ドラマの進行上、やむにやまれずというのは解るにしても、感動の余韻が減殺される負の効果は否定できない。 【引用】 シモンがアメーリアの後姿をじっと見送りながら三たび “Figlia!”とへ音上でつぶやくところで、本来ならばこのナンバーは終る - 事実、そのような形で幕となる上演法もめずらしくない - のだが、現行版ではこのあとにパオロとシモン、およびピエトロとの短い対話が付け加えられている。 (前書)【引用おわり】 こうしてみると、オリジナル版、改訂版ともに捨てがたいものがある。この録音、1857年オリジナル版は自筆原稿による校訂ということで、今回初めて世に出たのだと思うが、一度聴いただけでも、いろんなことが頭に浮かび興味が尽きない。確かに、文章にしても、20年以上前に書いたものに手を入れるのは難しい。全面的に書き直せばいいが、部分をいじるとおかしなものになるという経験はしたことがある。それと同じことか。初版には初版なりの良さがあり、スタイルの一貫性だけでなく、その頃の空気もまとっているわけだから。「シモン・ボッカネグラ」と同時期に作曲された「仮面舞踏会」がそうであるように、1857年オリジナル版は、全曲を通した統一感があるバージョンだと言える。と思ったら、それと同じようなことを校訂者が書き記していたので、その部分を訳出してみた。 【引用】 1857年版は、より鮮明な色彩、より自然な表現、そして何よりも透徹したスタイルで貫かれている。もっと言えば、20年後のヴェルディは、いつも必然的に優れているのだろうか。「アイーダ」は「イル・トロヴァトーレ」にまさるのか。「オテロ」は「ドン・カルロス」にまさるのか。イタリア・オペラは時とともに漸進して行ったのだという昔ながらの考えにとらわれている限り、実際のところ明確な答えは得られないだろう。このような価値観についての問いかけは、この作曲家を愛する多くの人が議論に値すると考えるだろう。もっとも、それは演奏の質によっても大きく左右されるし、おそらく同じくらい、聴衆の性質、つまり、彼らが誰であるか、どこにいるか、そして彼らを取り巻くムード(政治的な、あるいはより広く文化的な)によっても大きく左右される。特に、音楽スタイルの特質に充分配慮されたうえで演奏された場合、オリジナルの「ボッカネグラ」を聴くことは、私たちにこの重要な問題を提起する。確かに、ヴェルディは改訂は進歩だと考えていた。しかし、時代は変わり、それとともに芸術作品から引き出せる意味も変わる。古い「ボッカネグラ」は、その後継作品と同じように、突然、新鮮で新しい、現代に適合した作品となるかもしれないのだ。 (ロジャー・パーカー 「Simon Boccanegra 1857」ライナーノーツより)【引用おわり】 考えてみれば、1857年というのは、日本では安政年間で、すでに統一国家として千年超の歴史をもっていたが、イタリアではまだ国民国家以前の状況。それが1881年には、日本では明治維新を経て近代国家として歩み出していたわけだし、イタリアではリソルジメントを経てイタリア王国が生まれていた。20年あまりとは言え、何とも激動の時代、世の中の雰囲気、はては音楽の嗜好が変わっても何ら不思議じゃない。ただ、それを進歩と見るか否かは、また別の問題だということだろう。
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