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Review List of つよしくん 

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     2011/06/09

    ヴァントが最晩年にベルリン・フィルを指揮して行ったブルックナーの交響曲の数々の演奏はいずれ劣らぬ歴史的な超名演であるが、その中でも最高峰の超名演は、紛れもなく本盤におさめられた第7であると考える。ヴァントは、同時期にミュンヘン・フィルとともにブルックナーの数々の交響曲を演奏しており、それらの演奏もベルリン・フィル盤と同様にいずれも至高の超名演であるが、第7についてはミュンヘン・フィル盤がないだけに、なおさら本演奏の価値が際立っていると言える。ブルックナーの第7には、マタチッチ&チェコ・フィル(1967年)、朝比奈&大阪フィル(1975年、聖フローリアンライブ)、マゼール&ベルリン・フィル(1988年)、カラヤン&ウィーン・フィル(1989年)、スクロヴァチェフスキ&読売日響(2010年)など、多種多様な名演が目白押しであるが、本ヴァント&ベルリン・フィル盤は、それら古今東西のあまたの名演に冠絶する史上最高の超名演と高く評価したい。ヴァントのアプローチは、例によって厳格なスコアリーディングに基づく計算し尽くされたものであり、凝縮化された堅固な造型が持ち味だ。ただ、1980年代のヴァントは、こうしたアプローチがあまりにも整理し尽くされ過ぎていることもあって神経質な面があり、いささかスケールの小ささを感じさせるという欠点があった。しかしながら、1990年代に入ってからは、そのような欠点が散見されることは殆どなくなったところであり、本盤の演奏でもスケールは雄渾の極みであり、神々しささえ感じさせるほどだ。音楽はやや早めのテンポで淡々と流れていくが、素っ気なさなど薬にしたくも無く、どこをとってもニュアンス豊かな情感溢れる音楽に満たされているのが素晴らしい。ヴァントは、決してインテンポには固執せず、例えば第1楽章終結部や第3楽章のトリオ、そして終楽章などにおいて微妙にテンポを変化させているが、いささかもロマンティシズムに陥らず、高踏的な優美さを保っている点は見事というほかはない。金管楽器などは常に最強奏させているが、いささかも無機的な音を出しておらず、常に奥行きのある深みのある音色を出しているのは、ヴァントの類稀なる統率力もさることながら、ベルリン・フィルの圧倒的な技量の賜物と言えるだろう。

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     2011/06/09

    ヴァントがその最晩年にベルリン・フィルと成し遂げたブルックナーの交響曲の演奏の数々は、いずれも至高の超名演であるが、本盤におさめられた第5は、一連の演奏の中でのトップバッターとなったものである。ヴァントの伝記などを紐解くと、ヴァントは、ブルックナーの交響曲の中でも特に第5と第9を、妥協を許すことなく作曲した楽曲として特に高く評価していたことが記されている。それだけに、ヴァントとしても相当に自信を有していたと考えられるところであり、ベルリン・フィルを指揮した演奏の中でも第5と第9は、他の指揮者による名演をはるかに引き離す名演を成し遂げていると言えるのではないだろうか。辛うじて比較し得る第5の他の名演としては、ヨッフム&コンセルトへボウ・アムステルダム盤(1964年)、朝比奈&東京交響楽団盤(1995年)が掲げられるが、前者はいささかロマンティシズムに傾斜する傾向、後者はオーケストラの力量に難点があり、ヴァント&ベルリン・フィル盤には遠く及ばないと考える。唯一対抗し得るのは、同じヴァントによるミュンヘン・フィル盤(1995年)であると考えるが、剛毅な性格を有する第5には、ベルリン・フィルの音色の方がより適しているのではないかと考える。現在、DVDでしか発売されていない朝比奈&シカゴ交響楽団による演奏(1996年)が今後CD化されるとすれば、本盤を脅かす存在になる可能性はあるが、そのようなことがない限りは、本名演の優位性は半永久的に安泰と言っても過言ではあるまい。本演奏におけるヴァントのアプローチは、眼光紙背に徹した厳格なスコアリーディングに基づく峻厳たるものだ。やや早めのインテンポによる演奏は、巧言令色とは正反対の質実剛健そのものと言える。全体の造型はきわめて堅固であり、それによる凝縮化された造型美はあたかも頑健な建造物を思わせるほどであるが、それでいて雄渾なスケール感を失っていないのは、ヴァントが1990年代半ば、80歳を超えて漸く達成し得た圧巻の至芸と高く評価したい。金管楽器なども常に最強奏しているが、いささかも無機的な響きになることなく、常に奥深い崇高な音色を出しているというのは、ベルリン・フィルのブラスセクションの卓越した技量もさることながら、ヴァントの圧倒的な統率力の賜物と言うべきであろう。また、峻厳な装いのブルックナーの第5においても、第2楽章などを筆頭として、聖フローリアンの自然を彷彿とさせるような抒情的な音楽が随所に散見されるが、ヴァントは、このような箇所に差し掛かっても、いささかも感傷的には陥らず、常に高踏的とも言うべき気高い崇高さを失っていない点が素晴らしい。このように、非の打ちどころのない名演であるのだが、その中でも白眉は終楽章であると言える。ヴァントは、同楽章の壮大で輻輳したフーガを巧みに整理してわかりやすく紐解きつつ、音楽がごく自然に滔々と進行するように仕向けるという、ほとんど神業的な至芸を披露しており、終楽章は、ヴァントの本超名演によってはじめてその真価のベールを脱いだと言っても過言ではあるまい。

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     2011/06/09

    ヴァントがブルックナーの交響曲の中でも特に高く評価していたのが、第5と本盤におさめられた第9であったというのは、ヴァントの伝記などを紐解くとよく記述されている公然の事実だ。実際に、ブルックナーの第9は、ヴァントの芸風に見事に符号する交響曲と言えるのではないか。最後の来日時(2000年)に、シューベルトの「未完成」とともに同曲の素晴らしい名演を聴かせてくれたことは、あれから10年経った現在においても鮮明に記憶している。いずれにしても、本盤におさめられた演奏は至高の超名演だ。同時期にミュンヘン・フィルと行った演奏(1998年)もあり、ほぼ同格の名演とも言えるが、同曲の峻厳とも言える性格から、オーケストラの音色としてはベルリン・フィルの方が同曲により適していると考えられるところであり、私としては、本盤の方をより上位に置きたいと考える。なお、前述の来日時の2000年盤との比較については、なかなか難しい面があるが、オーケストラの安定性(ホームグラウンドで演奏しているかどうかの違いであり、北ドイツ放送交響楽団との技量差はさほどではないと考える。)において、本盤の方がわずかに上回っていると言えるのではないか。なお、本名演に匹敵すると考えられる同曲の他の名演としては、シューリヒト&ウィーン・フィル盤(1961年)、朝比奈&大阪フィル盤(1995年)が掲げられるが、前者は特に終楽章のスケールがやや小さいこともありそもそも対象外。後者については、演奏内容はほぼ同格であるが、オーケストラの力量においては、大阪フィルはさすがにベルリン・フィルと比較すると一歩譲っていると言えるだろう。今後、本名演を脅かすとすれば、未だDVDも含め製品化されていない、朝比奈&シカゴ交響楽団による演奏(1996年)がCD化された場合であると考えるが、権利関係もあって容易には事が運ばないと考えられるところであり、おそらくは、本名演の天下は、半永久的に揺るぎがないものと考える。本名演でのヴァントのアプローチは、いつものように眼光紙背に徹した厳格なスコアリーディングによって、実に緻密に音楽を組み立てていく。造型の堅固さにも際立ったものがある。金管楽器なども最強奏させているが、無機的な音はいささかも出しておらず、常に深みのある壮麗な音色が鳴っている。スケールも雄渾の極みであり、前述の堅固な造型美や金管楽器の深みのある音色と相まって、神々しささえ感じさせるような崇高な名演に仕上がっていると言える。特に、終楽章のこの世のものとは思えないような美しさは、ヴァントとしても、80代の半ばになって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるだろう。いずれにしても、前述のように、本名演が古今東西の様々な名演に冠絶する至高の超名演であるということに鑑みれば、ヴァントは、本超名演を持って、ブルックナーの第9の演奏史上において、未踏の境地を切り開いたとさえ言えるだろう。

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     2011/06/09

    ブルックナーの11ある交響曲の中でも第4は、ブルックナーの交響曲の演奏が現在のようにごく普通に行われるようになる以前の時代から一貫して、最も人気があるポピュラリティを獲得した作品と言える。ブルックナーの交響曲全集を録音しなかった指揮者でも、この第4の録音だけを遺している例が多いのは特筆すべき事実であると言えるのではないか(ジュリーニなどを除く)。そして、そのようなブルックナー指揮者とは必ずしも言い難い指揮者による名演が数多く遺されているのも、この第4の特殊性と考えられる。例えば、ベーム&ウィーン・フィル盤(1973年)、ムーティ&ベルリン・フィル盤(1985年)などはその最たる例と言えるところである。近年では、初稿による名演も、インバルを皮切りとして、ケント・ナガノ、シモーネ・ヤングなどによって成し遂げられており、第4の演奏様式も今後大きく変化していく可能性があるのかもしれない。ただ、この第4は、いわゆるブルックナー指揮者と評される指揮者にとっては、なかなかに難物であるようで、ヨッフムなどは、二度にわたる全集を成し遂げているにもかかわらず、いずれの第4の演奏も、他の交響曲と比較すると必ずしも出来がいいとは言い難い。それは、朝比奈やヴァントにも当てはまるところであり、少なくとも1980年代までは、両雄ともに、第4には悪戦苦闘を繰り返していたと言えるだろう。しかしながら、この両雄も1990年代に入ってから、漸く素晴らしい名演を成し遂げるようになった。朝比奈の場合は、大阪フィルとの1993年盤(ポニーキャノン)と2000年盤(エクストン)盤が超名演であり、これにN響との2000年盤(フォンテック)、新日本フィルとの1992年盤(フォンテック)が続くという構図である。これに対して、ヴァントの場合は、本盤におさめられたベルリン・フィル盤(1998年)、ミュンヘン・フィル盤(2001年)、北ドイツ放送響とのラストレコーディング(2001年)の3点が同格の超名演と高く評価したい。本演奏におけるヴァントは、必ずしもインテンポに固執していない。第3楽章などにおけるテンポの変化など、これまでのヴァントには見られなかった表現であるが、それでいてブルックナーの本質を逸脱しないのは、ヴァントが最晩年になって漸く成し得た圧巻の至芸と言えるだろう。また、眼光紙背に徹した厳格なスコアリーディングを行っており、全体の造型はきわめて堅固ではあるが、細部に至るまで表現が緻密でニュアンスが豊かであり、どこをとっても深みのある音色に満たされているのが素晴らしい。金管楽器なども完璧に鳴りきっており、どんなに最強奏してもいささかも無機的には陥っていない。これは、ベルリン・フィルの卓越した技量によるところも大きいが、ヴァントによる圧倒的な統率力にも起因していると考えられる。第2楽章は、聖フローリアンを吹く一陣のそよ風のようにソフトに開始されるが、その筆舌には尽くし難い繊細さは崇高な高みに達している。その後は、ブルックナーならではの情感豊かな音楽が続いていくが、ヴァントはいささかも感傷的には決して陥らず、高踏的な美しさを保っているのが素晴らしい。いずれにしても、本演奏は、ヴァントが80代半ばにして漸く成し遂げることが出来た第4の至高の超名演であり、これぞまさしく大器晩成の最たるものと評価したい。

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     2011/06/09

    ヴァントが最晩年にベルリン・フィルを指揮して成し遂げたブルックナーの交響曲の演奏は、いずれも素晴らしい歴史的な超名演であるが、その最後の録音となったのが、本盤におさめられた第8である。ブルックナーが完成させた最高傑作が、この黄金コンビによるラストレコーディングになったというのは、ブルックナー演奏にその生涯を捧げてきたヴァントに相応しいとも言えるが、次のコンサートとして第6が予定されていたとのことであり、それを実現できずに鬼籍に入ってしまったのは大変残念というほかはない。そこで、この第8であるが、ヴァントが遺した数々の第8の中では、同時期のミュンヘン・フィル盤(2000年)と並んで、至高の超名演と高く評価したい。本盤の前の録音ということになると、手兵北ドイツ放送交響楽団とスタジオ録音した1993年盤ということになるが、これは後述のように、演奏自体は立派なものではあるものの、面白みに欠ける面があり、本盤とはそもそも比較の対象にはならないと考える。ただ、本盤におさめられた演奏は、ヴァントが指揮した第8としてはダントツの名演ではあるが、後述の朝比奈による名演と比較した場合、第4、第5、第7及び第9のように、本演奏の方がはるかに凌駕していると言えるのかというと、かなり議論の余地があるのではないだろうか。というのも、私見ではあるが、第8は、必ずしもヴァントの芸風に符号した作品とは言えないと考えるからである。ヴァントのブルックナーの交響曲へのアプローチは、厳格なスコアリーディングに基づく堅固な造型と緻密さが持ち味だ。また、金管楽器を最強奏させるなどのオーケストラの凝縮化された響きも特徴であるが、1980年代のヴァントの演奏は、全体の造型美を重視するあまり凝縮化の度が過ぎたり、細部への異常な拘りが際立ったこともあって、スケールが小さいという欠点があったことは否めない。そうしたヴァントの弱点は、1990年代後半には完全に解消され、演奏全体のスケールも雄渾なものになっていったのだが、前述の1993年盤では、スケールはやや大きくなった反面、ヴァントの長所である凝縮化された濃密さがいささか犠牲になった嫌いがあり、峻厳さや造型美だけが際立つという第8としてはいわゆる面白みのない演奏になってしまっていると言える。むしろ、来日時の手兵北ドイツ放送交響楽団とのライブ盤(1990年アルトゥス)の方が、ライブ特有の熱気も付加されたこともあって、より面白みのある素晴らしい名演と言えるのではないだろうか。いずれにしても、ヴァントの持ち味である厳格なスコアリーディングに基づく堅固な造型や緻密さと、スケールの雄大さを兼ね備えるというのは、非常に難しい究極の指揮芸術と言えるところであるが、ヴァントは、ベルリン・フィルとともに、第5、第4、第9、第7と順を追って、そうした驚異的な至芸を成し遂げてきたのである。ところが、この第8は、スケールは雄大であるが、堅固な造型美や緻密さにおいては、ヴァントとしてはその残滓は感じられるものの、いささか徹底し切れていないと言えるのではないだろうか。これは、ヴァントが意図してこのようなアプローチを行ったのか、それとも肉体的な衰えによるものかは定かではないが、いずれにしても、ヴァントらしからぬ演奏と言うことができるだろう。したがって、本盤におさめられた演奏については、細部には拘泥せず曲想を愚直に描き出して行くことによって他に類を見ないスケールの雄大な名演の数々を成し遂げた朝比奈のいくつかの名演(大阪フィルとの1994年盤(ポニーキャノン)、N響との1997年盤(フォンテック)、大阪フィルとの2001年盤(エクストン))に並ばれる結果となってしまっているのは致し方がないところではないかと考える。もちろん、これはきわめて高い次元での比較の問題であり、本盤におさめられた演奏が、第8の演奏史上に燦然と輝く至高の超名演であるとの評価にはいささかも揺らぎはない。

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  • 6 people agree with this review
     2011/06/09

    ベームは、いわゆるブルックナー指揮者とは言い難いのではないだろうか。ドレスデン・シュターツカペレとともに第4及び第5、ウィーン・フィルとともに第3、第4、第7及び第8をスタジオ録音しており、これ以外にも若干のライブ録音が存在しているが、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスの各交響曲全集を録音した指揮者としては、必ずしも数多いとは言えないのではないかと考えられる。しかしながら、遺された録音はいずれも決して凡演の類ではなく、特に、ウィーン・フィルと録音した第3及び第4は、他の指揮者による名演と比較しても、今なお上位にランキングされる素晴らしい名演と高く評価したい。ところで、この第3(1970年)と第4(1973年)についてであるが、よりベームらしさがあらわれているのは、第3と言えるのではないだろうか。ベームの演奏の特色は、堅固な造型、隙間風の吹かないオーケストラの分厚い響き、峻厳たるリズム感などが掲げられると思うが、1970年代初頭までは、こうしたベームの特色が存分に発揮された名演が数多く繰り広げられていた。しかしながら、1970年代後半になると、リズムが硬直化し、テンポが遅くなるのに併せて造型も肥大化することになっていった。したがって、スケールは非常に大きくはなったものの、凝縮度が薄くなり、それこそ歯応えのない干物のような演奏が多くなったことは否めない事実である(ドレスデン・シュターツカペレを指揮したシューベルトのザ・グレイトのような例外もあり)。第4は、そうした硬直化にはまだまだ陥っているとは言えないものの、どちらかと言えば、ウィーン・フィルによる美演を極力活かした演奏と言うことができるところであり、名演ではあるが、ベームらしさが発揮された演奏とは言い難い面があるのではないだろうか。これに対して、本盤の第3は、徹頭徹尾ベームらしさが発揮された演奏ということが可能だ。堅固な造型、隙間風の吹かないオーケストラの分厚い響きは相変わらずであり、峻厳たるリズムで着実に進行していく音楽は、素晴らしいの一言。全体のスケールはさほど大きいとは言えないが、ヴァント&ケルン放送交響楽団盤(1981年)よりははるかに雄渾と言えるところであり、これだけの凝縮化された密度の濃い音楽は他にもあまり例はみられない。金管楽器がいささか強すぎるきらいもないわけではないが、全体の演奏の評価に瑕疵を与えるほどのものではないと考える。ブルックナーの第3の他の名演としては、1990年代に入って、朝比奈&大阪フィル盤(1993年)が登場するが、それまでは本演奏はダントツの名演という存在であった。朝比奈盤に次ぐのが、ヴァント&北ドイツ放送交響楽団盤(1992年)であると考えるが、本演奏は、現在でもこれら両名演に次ぐ名演の地位をいささかも譲っていないと考える。音質は、本盤でも十分に満足できる音質であると言えるが、数年前に発売されていたSHM−CD盤がベストの音質であったと言える。もっとも、ベームによる至高の名演もあり、今後はシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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     2011/06/09

    ベームは、ベートーヴェンの交響曲全集を完成させるなど、ベートーヴェンを重要なレパートリーとしていたが、ライブ録音も含め数あるベームによるベートーヴェンの交響曲の演奏の中でも最高の名演は、本盤におさめられた田園ということになるのではないか。それどころか、他の指揮者による田園の名演の中でも、ワルター&ウィーン・フィル(1936年)、ワルター&コロンビア交響楽団(1958年)と並ぶ至高の超名演と高く評価したい。なお、ベームには、1977年の来日時のライブ録音(1977年)もあるが、オーケストラの安定性などを含めて総合的に評価すると、本演奏の方をより上位に置きたいと考える。ワルターが、田園を情感豊かに描き出したのに対して、ベームの演奏は重厚でシンフォニックなものだ。全体の造型は例によってきわめて堅固であるが、その中で、ベームはオーケストラを存分に鳴らして濃厚さの極みと言うべき内容豊かな音楽を展開している。スケールも雄渾の極みであり、第4楽章の畳み掛けていくような力強さや、終楽章の大自然への畏敬の念を感じさせるような崇高な美しさにおいても、いささかも不足することはない。テンポは全体として非常にゆったりとしたものであるが、最晩年のベームが陥ったリズムの硬直化がいささかも見られず、音楽が滔々と淀みなく流れていくのも素晴らしい。このようなベームの重厚でシンフォニックな演奏に適度な潤いと深みを与えているのが、ウィーン・フィルによる素晴らしい演奏だ。その演奏は、正に美しさの極みであり、とりわけウィンナ・ホルンなどの朗々たる奥行きのある響きには抗し難い魅力があると言える。また、本盤には、シューベルトの第5がカプリングされているが、これまた素晴らしい名演だ。ベームのシューベルトは、堅固な造型の中にも、豊かな情感が満ち溢れており、硬軟併せ持ついい意味でのバランスのとれた演奏と言える。私見ではあるが、ワルターとクレンペラーの演奏を足して2で割ったような演奏様式と言えるのかもしれない。録音も、リマスタリングを繰り返してきたこともあって通常CDでも比較的鮮明な音質である。数年前に発売されたSHM−CD盤はさらに高音質であったが、現在は入手困難のようである。演奏史上にも残る超名演だけに当該SHM−CD盤の再発売、さらには今後のSACD&SHM−CD化を大いに望みたい。

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     2011/06/09

    ブーレーズによるドビュッシーの管弦楽曲集と言えば、1960年代後半にクリーヴランド交響楽団やニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮した名演(1966〜1968年)がいの一番に思い浮かぶ。それは、各管弦楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くすとともに、一切の主観や情感を拝した前衛的とも言える斬新な演奏であった。本盤におさめられた演奏は、それから20年以上の期間を経て行われた録音であるが、ブーレーズは随分と丸くなったというのが第一印象だ。これは、ドビュッシーに限らずに、他の作曲家の楽曲における演奏についても言えることであり、1990年代に入ってDGに行った録音にはすっかりと好々爺となったブーレーズによる円熟の演奏を聴くことが可能である。もっとも、そこは腐ってもブーレーズであり、何も万人受けをするような通俗的な演奏をするようになったわけではない。むしろ、スコアリーディングについては深化したと言えるところであり、徹底したスコアの読み込みによって、楽想をあたかもレントゲンで撮影するかのように、楽想を精緻に描き出していくというアプローチ自体には何ら変わりがないところだ。もっとも、かつては一切を拝していた情感の豊かさが付加されたところであり、これがブーレーズの近年の演奏の円熟ぶりであり、はたまた魅力の一つであると言えるだろう。本演奏においても、ブーレーズは徹底したスコアリーディングに基づいて楽想を精緻に描き出しているが、情感の豊かさにおいてもいささかも不足はなく、いい意味での剛柔バランスのとれた名演に仕上がっている点を高く評価したい。なお、とある影響力のある高名な音楽評論家が本盤を徹底的にこき下ろしているが、かかる罵詈雑言に右顧左眄することなく、信用できるのは自分の耳だけであるということを肝に銘じておきたいものだ。録音は従来盤でも十分に満足できる音質を誇っていたが、今般のSHM−CD化によって音質がより鮮明になるとともに、音場が幅広くなったと言える。ブーレーズによる円熟の名演を、SHM−CDによる鮮明な高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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     2011/06/07

    最近では非常に人気のある作品であり、数々の録音がなされているカルミナ・ブラーナであるが、録音以来40年以上が経過した現在においてもなお、本ヨッフム盤の価値がいささかも色あせることはない。それどころか、本演奏は、プレヴィン&ウィーン・フィル盤(1995年)などの様々な指揮者による名演に冠絶する至高の超名演と高く評価したい。作曲家オルフが認めた演奏であり、ヨッフム自身が同曲の初演者であるということもあるが、それだけでなく、やはり演奏自体が非常に優れていると言える。同曲は、紛れもないドイツ音楽であるが、ヨッフムの演奏は、同曲をドイツ音楽であることをあらためて認識させてくれるのが何よりも素晴らしい。同曲は、華麗な合唱やオーケストレーションを誇る楽曲であることから、最近ではそうした華麗さに焦点を当てた演奏が数多くなされているように思うが(それも、魅力的ではある。)、ヨッフムの演奏は、外面的な華麗さよりは、ドイツ音楽ならではの質実剛健さを基調としていると言える。したがって、全体の造型の堅固さには際立ったものがあるが、それでいてヨッフムは、これ以上は求め得ないようなドラマティックな演奏を展開しており、その畳み掛けていくような気迫と力強い生命力は、圧倒的な迫力を誇っていると言える。あたかも壮大なドイツオペラを鑑賞しているような趣きがあり、そのスケールは雄渾の極みであると言える。歌手陣も優秀であり、特に、ソプラノのヤノヴィッツとバリトンのフィッシャー・ディースカウの歌唱は秀逸である。このうち、フィッシャー・ディースカウの歌唱はうますぎるとさえ言えるが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団やシェーネベルク少年合唱団も最高のパフォーマンスを示していると言える。録音は、何度もリマスタリングを繰り返してきたこともあって比較的良好であるが、数年前に発売されたSHM−CD盤がこれまでのところでは最も音質が優れていた。ただ、これだけの歴史的な名演だけに、今後、SACD&SHM−CD化を望む聴き手は私だけではあるまい。

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     2011/06/07

    本盤におさめられたR・コルサコフによる交響組曲「シェエラザード」の演奏は、カラヤンによる唯一の録音である。カラヤンは、同じロシア5人組のムソルグスキーによる組曲「展覧会の絵」やチャイコフスキーによる三大バレエ音楽の組曲を何度も録音していることに鑑みれば、実に意外なことであると言えるであろう。その理由はいろいろと考えられるが、何よりもカラヤン自身が本演奏の出来に十分に満足していたからではないだろうか。それくらい、本演奏は、正にカラヤンのカラヤンによるカラヤンのための演奏になっていると言えるだろう。本演奏は1960年代後半のスタジオ録音であるが、これはカラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代に相当している。ベルリン・フィルにとってもあまたのスタープレイヤーを擁した黄金時代であり、健康状態にも殆ど不安がなかったカラヤンによる圧倒的な統率の下、凄みのある演奏を繰り広げていた。鉄壁のアンサンブル、金管楽器のブリリアントな響き、木管楽器の超絶的な技量、肉厚の弦楽合奏、雷鳴のようなティンパニの轟き(もっとも、この時はフルトヴェングラー派のテーリヒェンが演奏していたが)などを駆使しつつ、これに流麗なレガートを施したいわゆるカラヤンサウンドとも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していたと言える。こうしたカラヤンサウンドは、本演奏においても健在であり、おそらくはこれ以上は求め得ないようなオーケストラの極致とも言うべき演奏に仕上がっていると言える。加えて、当時世界最高のコンサートマスターと称されたシュヴァルベによるヴァイオリンソロの美しさは、抗し難い魅力に満ち溢れており、本演奏に華を添えていることを忘れてはならない。また、オペラを得意としたカラヤンならではの演出巧者ぶりは同曲でも存分に発揮されており、各組曲の描き分けは心憎いばかりの巧さを誇っていると言える。このような諸点を総合的に勘案すれば、本演奏は非の打ちどころがない名演と評価し得るところであり、カラヤンとしてもこの名演を凌駕する演奏を行うことは困難であることを十分に自覚していたのではないかとさえ考えられるところだ。併録の歌劇「イーゴリ公」からの抜粋であるだったんの娘の踊りやだったん人の踊りなども、これまた全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏の凄さを感じることが可能な素晴らしい名演だ。

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     2011/06/07

    本盤におさめられたR・コルサコフによる交響組曲「シェエラザード」の演奏は、カラヤンによる唯一の録音である。カラヤンは、同じロシア5人組のムソルグスキーによる組曲「展覧会の絵」やチャイコフスキーによる三大バレエ音楽の組曲を何度も録音していることに鑑みれば、実に意外なことであると言えるであろう。その理由はいろいろと考えられるが、何よりもカラヤン自身が本演奏の出来に十分に満足していたからではないだろうか。それくらい、本演奏は、正にカラヤンのカラヤンによるカラヤンのための演奏になっていると言えるだろう。本演奏は1960年代後半のスタジオ録音であるが、これはカラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代に相当している。ベルリン・フィルにとってもあまたのスタープレイヤーを擁した黄金時代であり、健康状態にも殆ど不安がなかったカラヤンによる圧倒的な統率の下、凄みのある演奏を繰り広げていた。鉄壁のアンサンブル、金管楽器のブリリアントな響き、木管楽器の超絶的な技量、肉厚の弦楽合奏、雷鳴のようなティンパニの轟き(もっとも、この時はフルトヴェングラー派のテーリヒェンが演奏していたが)などを駆使しつつ、これに流麗なレガートを施したいわゆるカラヤンサウンドとも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していたと言える。こうしたカラヤンサウンドは、本演奏においても健在であり、おそらくはこれ以上は求め得ないようなオーケストラの極致とも言うべき演奏に仕上がっていると言える。加えて、当時世界最高のコンサートマスターと称されたシュヴァルベによるヴァイオリンソロの美しさは、抗し難い魅力に満ち溢れており、本演奏に華を添えていることを忘れてはならない。また、オペラを得意としたカラヤンならではの演出巧者ぶりは同曲でも存分に発揮されており、各組曲の描き分けは心憎いばかりの巧さを誇っていると言える。このような諸点を総合的に勘案すれば、本演奏は非の打ちどころがない名演と評価し得るところであり、カラヤンとしてもこの名演を凌駕する演奏を行うことは困難であることを十分に自覚していたのではないかとさえ考えられるところだ。併録のイタリア奇想曲や大序曲「1812年」も、カラヤン唯一の録音であるが、これまた全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏の凄さを感じることが可能な素晴らしい名演だ。カラヤンは、大序曲「1812年」において、冒頭にロシア正教による合唱を付加している。さらに終結部にも付加すればより効果的であったのではないかとも思われるが(デイヴィスやマゼールなどの演奏に例あり)、十分に堪能できる名演であり文句は言えまい。

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     2011/06/07

    カラヤンはR・シュトラウスを十八番にしていたが、とりわけ交響詩「英雄の生涯」に私淑していたと言える。スタジオ録音では本盤におさめられた演奏のほか、1959年盤(DG)と1974年盤(EMI)の3種が存在しており、ライブ録音でもモスクワ盤(1969年)や、ロンドン盤(1972年及び1985年)など複数が存在している。前述した演奏のいずれもがベルリン・フィルとのものであることが特徴と言えるところであり、カラヤンが同曲を演奏するにあたってはオーケストラの機能性を重視していたことがよく理解できるところだ。カラヤンはライブでこそその真価を発揮する指揮者であり、前述の3種のライブ録音は素晴らしい超名演ではあるが、ここでは本盤を含め3種あるスタジオ録音の間の比較を軸に論じていくこととしたい。いずれも名演の名に値すると思うが、演奏の性格は大きく異なると考えられる。1959年盤については、カラヤンによるDGへのデビュー盤でもあるが、この当時はベルリン・フィルにフルトヴェングラー時代の重心の低い音色の残滓が存在しており、シュヴァルベのヴァイオリンソロはいかにもカラヤン好みの官能的な美しさを誇ってはいるものの、オーケストラの音色はいわゆるカラヤンサウンドで満たされているとは言い難い面があり、カラヤンの個性が完全に発揮されているとは言い難いとも言える。これに対して1974年盤は、カラヤン色が濃い演奏と言える。シュヴァルベのヴァイオリンの官能的な美しさは相変わらずであるが、オーケストラは肉厚の弦楽合奏、ブリリアントな金管楽器の朗々たる響き、桁外れのテクニックを示す木管楽器、雷鳴のように轟くティンパニなどをベースに流麗なレガートが施されるなど、いわゆるカラヤンサウンドが満載であり、徹頭徹尾カラヤン色に染め上げられた演奏に仕上がっていると言える。これに対して本演奏(1985年)は、カラヤンの統率力の衰えから、カラヤンサウンドを聴くことができるものの、1974年盤のように徹頭徹尾ということにはなっていない。したがって、音のドラマの構築という点では1974年盤よりも劣っていると言わざるを得ないが、本演奏にはカラヤンが自らの人生を自省の気持ちを込めて顧みるような趣きが感じられるところであり、枯淡の境地にも通じるような味わい深さといった面では、1959年盤や1974年盤をはるかに凌駕していると言えるだろう。これには、ヴァイオリンソロが官能的な美しさを誇るシュヴァルベから質実剛健なシュピーラーに変わったのも大きいと考えられる。いずれにしても、これら3種の名演の比較については困難を極めるところであり最終的には好みの問題になるとは思うが、私としては、カラヤンが最晩年に至って漸く到達した枯淡の境地、至純の境地を味わうことができる本演奏を随一の至高の超名演と高く評価したい。これだけの超名演であるにもかかわらず、いまだにSACD化どころかSHM−CD化すらされていないのは実に不思議な気がする。今後はSHM−CD化、さらにはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望みたい。

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     2011/06/07

    本盤におさめられたヴィヴァルディの協奏曲集「四季」は、ムターにとっては2度目の録音ということになる。前回の録音は本盤から15年前の1984年のものであり、帝王カラヤン&ウィーン・フィルをバックにしたものであった。ムターがカラヤンの赤いセーターを羽織った衝撃的なジャケットや、カラヤンにとってのEMIへの最後の録音という何かと話題の多いものではあったが、演奏自体は終始カラヤンのペースに乗ったものであり、名演ではあるもののムターの個性が全面的に発揮されたものとは言い難い面があったと言わざるを得ない。これに対して、本演奏はムターによる弾き振りによるものであり、バックも17名の若手奏者で構成されるトロンハイム・ソロイスツであることから、正にムターの個性が全面的に発揮された演奏ということが可能である。そして演奏は、いかにもムターならではの個性的な演奏であると言えるだろう。ムターは、持ち前の卓越した技量をベースとしつつ、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化などを駆使して、彫琢の限りを尽くした演奏を行っていると言える。各楽章の描き分けも大胆に行っているし、わざと旋律を途切れがちに弾いて見せたり、消え入りそうな最弱音を駆使したり、はたまた粘ったような奏法を垣間見せたりするなど、その表現力の幅の広さは桁外れの凄さであると言える。ムターは、このように自由奔放とも言えるような演奏を行っているのであるが、いささかも格調の高さが損なわれることなく、どこをとっても瑞々しいまでの情感が宿っているのは、ムターの類稀なる音楽性の豊かさの賜物であると考えられる。いずれにしても、本演奏は、チョン・キョンファやヤンセンなどの若手女流ヴァイオリニストによる名演とも十分に互角に渡り合えるだけの素晴らしい名演と高く評価したい。タルティーニのヴァイオリン・ソナタ「悪魔のトリル」も、このようなムターの個性全開の素晴らしい名演だ。録音は、本盤でも十分に満足できる音質であるが、先日発売されたSHM−CD盤は、本盤よりも若干ではあるが音質が鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。いまだ未購入で、ムターによる個性的な名演をできるだけ良好な音質で味わいたいという聴き手には、SHM−CD盤の方の購入をお奨めしておきたい。

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     2011/06/07

    本盤におさめられたヴィヴァルディの協奏曲集「四季」は、ムターにとっては2度目の録音ということになる。前回の録音は本盤から15年前の1984年のものであり、帝王カラヤン&ウィーン・フィルをバックにしたものであった。ムターがカラヤンの赤いセーターを羽織った衝撃的なジャケットや、カラヤンにとってのEMIへの最後の録音という何かと話題の多いものではあったが、演奏自体は終始カラヤンのペースに乗ったものであり、名演ではあるもののムターの個性が全面的に発揮されたものとは言い難い面があったと言わざるを得ない。これに対して、本演奏はムターによる弾き振りによるものであり、バックも17名の若手奏者で構成されるトロンハイム・ソロイスツであることから、正にムターの個性が全面的に発揮された演奏ということが可能である。そして演奏は、いかにもムターならではの個性的な演奏であると言えるだろう。ムターは、持ち前の卓越した技量をベースとしつつ、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化などを駆使して、彫琢の限りを尽くした演奏を行っていると言える。各楽章の描き分けも大胆に行っているし、わざと旋律を途切れがちに弾いて見せたり、消え入りそうな最弱音を駆使したり、はたまた粘ったような奏法を垣間見せたりするなど、その表現力の幅の広さは桁外れの凄さであると言える。ムターは、このように自由奔放とも言えるような演奏を行っているのであるが、いささかも格調の高さが損なわれることなく、どこをとっても瑞々しいまでの情感が宿っているのは、ムターの類稀なる音楽性の豊かさの賜物であると考えられる。いずれにしても、本演奏は、チョン・キョンファやヤンセンなどの若手女流ヴァイオリニストによる名演とも十分に互角に渡り合えるだけの素晴らしい名演と高く評価したい。タルティーニのヴァイオリン・ソナタ「悪魔のトリル」も、このようなムターの個性全開の素晴らしい名演だ。録音は、従来盤でも十分に満足できる高音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質がさらに鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。いずれにしても、ムターによる個性的な名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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     2011/06/06

    本盤におさめられたブルックナーの第7は、クラシック音楽史上最大のレコーディング・アーティストであったカラヤンの最後の録音である。カラヤンは、様々な名演を数多く遺しているが、本演奏はそうした数多くの名演の中でも、そして、様々な指揮者によるブルックナーの第7の名演の中でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。カラヤンは、膨大な録音を行っていることからも伺い知ることができるように、常にレコーディングを意識して活動していたと言える。カラヤンの演奏は、鉄壁のアンサンブルを駆使して、楽曲を徹底的に美しく磨き抜くとともに、流麗なレガートの下、金管楽器のブリリアントな響き、雷鳴のようなティンパニ、肉厚の弦楽合奏などが混然一体となった重量感溢れる演奏(一般的に、カラヤンサウンドと言われる。)を特徴としていた。特に、そうした特徴は、長らく芸術監督をつとめたベルリン・フィルとの演奏において顕著であり、数々のスタープレイヤーが揃っていた当時のベルリン・フィルの卓越した技量も相まって、1960〜1970年代のカラヤン全盛期には、オーケストラ演奏の極致とも言うべき数々の名演奏を成し遂げていた。とある影響力の大きい某評論家などは、かかる演奏に対して精神的な深みの欠如を云々しているが、そうした批判を一喝するだけの圧巻の音のドラマを構築していたと言える。ところが、1980年代に入ると、ザビーネ・マイヤー事件の勃発によりベルリン・フィルとの関係が修復不可能にまで悪化するとともに、カラヤン自身の健康悪化も加わり、カラヤンの演奏には、1970年代までの演奏のような凄みが欠如するようになった。そうした失意のカラヤンにあたたかく手を差し伸べたのがウィーン・フィルであった。1980年代以降、カラヤンがウィーン・フィルを指揮した演奏には、圧倒的な統率力でオーケストラを統御して音のドラマを構築した全盛期の面影はなくなり、むしろ、自我を抑制し、音楽そのものを語らせる自然体の演奏を心掛けるようになったと言える。これは、ウィーン・フィルというオーケストラの特色を重んじたものか、あるいはカラヤンの肉体的な衰えによるものかは定かではないが、いずれにしても、こうしたカラヤンの芸風も、最晩年になって漸く到達し得た悟りにも似た清澄な境地であったのかもしれない。したがって、この時期にウィーン・フィルと録音した演奏には、いわゆるカラヤン的な演奏とは随分と異なる装いの名演が多く、チャイコフスキーの第6、ドヴォルザークの第8及び第9、シューマンの第4、ブルックナーの第8など、枚挙にいとまがない。そうした一連の名演の中での頂点に君臨するのが、本盤におさめられたブルックナーの第7であると言える。ここには、オーケストラを統率して、圧倒的な音のドラマを構築したかつてのカラヤンはどこにも存在しない。ただただ、ブルックナーの素晴らしい音楽が、これ以上は求め得ないような美しさを持って滔々と流れていくのみだ。しかも、表面上の美しさにとどまることなく、どこをとっても奥深い情感がこもっており、あたかもカラヤンがこれまでの波乱に満ちた生涯を自省の気持ちを込めて振り返るような趣きさえ感じられる。このような崇高な高みに達した名演は、カラヤンとしても生涯の最後になって漸く到達し得た至高・至純の境地にあると言えるのではないか。正に本名演こそは、クラシック音楽史上最大のレコーディング・アーティストであったカラヤンによるラスト・レコーディングに相応しい至高の高峰に聳え立つ超名演であると高く評価したい。なお、音質は本盤でも十分に満足できる音質であり、さらにSHM−CD盤なども発売されているが、本名演の歴史的な価値に鑑み可能であれば、現在話題のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤で発売して欲しいと思う聴き手は私だけではあるまい。

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