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1 people agree with this review 2011/07/17
アバドによるマーラーの交響曲第9番と言えば、いの一番に1999年にベルリン・フィルとライヴ録音した超名演が思い浮かぶ。アバドは、この演奏のあと大病を患うのであるが、当該演奏には死を予見したかのような凄みがあり、それまでのアバドによる様々な演奏とは一線を画するような至高の高みに達した超名演であった。同曲の本質は、死への恐怖と闘い、そしてそれと対置する生への妄執や憧憬であると言えるが、アバドは、自らが死と隣り合わせになるという絶望的な境遇に陥ったことによってはじめて、その音化に見事に成功したと言えるだろう。ところが、当該演奏の約12年前の本盤におさめられた演奏はどうであろうか。様々な意見もあろうかとも思うが、私としては、聴き手の心の琴線に訴えかけてくるものが今一歩弱いと言わざるを得ないのではないかと考えている。確かに、美しい演奏ではある。本演奏において、ウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、このオーケストラの美音が演奏全体に独特の魅力を付加しているというのも否定し得ない事実ではある。しかしながら、その美しさというのも、例えば、カラヤンのように、余人には及び難い絶対美の世界を構築し得る(1982年盤)のであれば、一つの方向性として説得力があるのだが、本演奏の場合は、美しさのレベルにおいてもとてもカラヤンの域に達しているとは言い難い。また、第1楽章の死への恐怖と闘いについても、前述のアバドによるベルリン・フィル盤のような凄みには到底及んではおらず、いささか中途半端との誹りは免れないのではないかと考えられる。もっとも、随所に聴かれる歌謡性の豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには魅力があると言えるところである。その意味では魅力的な箇所にも事欠かないとも言えるのかもしれない。第10番については、この後の録音がなされていないことから本演奏が現時点でのアバドによる最新の演奏ということになるが、その演奏内容の評価については第9番と同様のことが言えるのではないか。美しくはあるが、かと言って他の演奏を圧するような絶対美の世界を構築し得ているわけではない。楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような凄みはないが、他方、歌謡性豊かな情感には満ち溢れており、その意味では魅力的な箇所も多々存在している。いずれにしても、第9番、第10番ともに、踏み込み不足の誹りは免れないと言えるが、他方、魅力的な箇所も散見されるところであり、ウィーン・フィルによる美演も相まって、総体として佳演との評価をするのにいささかの躊躇もするものではない。なお、初出の時もそうであったが、アバドは、両曲をCD化するに際して、第10番を冒頭に配してその後に第9番をカプリングするという楽曲の配列にしているが、これは何か意味があるのであろうか。少なくとも、第10番の内容に鑑みれば、第9番の終楽章の次に配するのが至当であると考えるのだが、少なくともアバドによる本演奏を聴いても、かかる特異な配置の説得力を勝ち取るだけの根拠を見出すのは困難であると言わざるを得ない。録音は、従来盤でも比較的満足できる音質ではあったものの、今般、SHM−CD化による高音質化が図られたというのは大いに歓迎したいと考える。したがって、かかる高音質化を加味して、全体としての評価としては★4つの評価とさせていただくこととする。
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0 people agree with this review 2011/07/17
バッハの管弦楽組曲は、パイヤールにとっても何度も録音を繰り返している得意中の得意の楽曲であり、本演奏はその3度目の最後の録音に相当するものであるが、素晴らしい名演と高く評価したい。何よりも、現代楽器を使用した小編成のオーケストラによる演奏が素晴らしい。近年の古楽器奏法やピリオド楽器の使用による軽妙浮薄な演奏に慣れた耳で本演奏を聴くと、実に新鮮な気持ちになるとともに、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになるのは私だけではあるまい。もちろん、バッハの時代の演奏様式を再現する行為自体を私としても否定するものではないが、芸術的な感動をどこかに置き忘れてしまった薄味の演奏がどれだけ多く流布しているのであろうか。高名な音楽評論家が推薦される演奏にもそのような薄味の演奏は散見されるところであり、私としてはそうした現状を憂えるものである。要は音楽学者が喜ぶ演奏を行っても、そもそも芸術的な感動が得られない演奏では何らの意味もないのだ。そのような嘆かわしい現状に鑑みれば、本パイヤール盤の価値は計り知れないと言えるところであり、同じく現代楽器を使用した小編成のオーケストラによるリヒターの名演(1960、1961年)と並んで、後世に語り伝えていく必要があるのではないかと考えられるところだ。また、本演奏には、リヒター盤のようなドイツ風の重厚さを旨とするよりもむしろフランス風のエスプリ漂う瀟洒な味わいに満ち溢れており(とりわけ、有名な第3番のアリアなど)、こうしたセンス満点の情感の豊かさにおいて、リヒター盤とは異なった魅力があると評価したい。さらに、本盤で素晴らしいのは、XRCDによる極上の高音質であると言える。本演奏は1976年のスタジオ録音であるが、第3番の序曲のトランペットのクリアでブリリアントな響きなど、今から35年前のものとはとても思えないような鮮明な音質であり、あらためて、XRCDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、パイヤールによるセンス満点の味わい深い名演を、XRCDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
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バッハの管弦楽組曲は、かつてはクレンペラーやカラヤンなどの大指揮者によって重厚な演奏が成し遂げられていた。また、リヒターなどによる小編成のオーケストラによる重厚な名演もあった。しかしながら、近年ではそうした現代楽器を使用した演奏は全く流行らなくなり、ピリオド楽器の使用や現代楽器を活用した古楽器奏法などが主流となっている。もっとも、そのような軽妙浮薄な演奏が感動的かどうかというのは別問題だ。バッハの時代の演奏様式を再現する行為自体には反対するものではなく、音楽学者などは大歓迎するのであろうが、芸術的な感動を与えてくれる演奏というのはほんのひと握りと言っても過言ではあるまい。現に、本年3月に音楽之友社から発売された名曲名盤300選においても、複数の音楽評論家の投票でトップの座を獲得したのがリヒター&ミュンヘン・バッハ管弦楽団盤(1960、1961年)となっているのも、現代においてもなお、かつての現代楽器による重厚な演奏を希求する者が多く存在していることの証左と言えるのではないだろうか。私としても、現代のピリオド楽器や古楽器奏法によるバッハ演奏を今一度見直す時期が来ているのではないかと思われてならないのだ。本盤におさめられたパイヤールの演奏も、現代楽器を使用した小編成のオーケストラによる伝統的な演奏様式によるものであり、このような演奏を聴いていると、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになるのは私だけではあるまい。本演奏で優れているのは、前述のようなリヒターなどの重厚な名演とは異なり、フランス人であるパイヤールならではのフランス風のエスプリ漂う瀟洒な味わいが付加されているということであろう。このことが、本演奏が現代楽器を活用しながらもいささかも重々しくなることがなく、いい意味での剛柔バランスのとれた理想的な名演に仕上がっているのに貢献していると考える。本盤でさらに素晴らしいのは、XRCDによる極上の高音質である。本演奏は1976年のスタジオ録音であるが、今から35年前のものとは思えないような鮮明な音質であり、あらためて、XRCDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。いずれにしても、パイヤールによるセンス満点の味わい深い名演を、XRCDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
アルメニア出身のロシア人作曲家であるハチャトゥリアンは民族色溢れる作風で知られており、様々なジャンルの作品を作曲したが、交響曲の分野においても名作を遺している。3曲ある交響曲の中でどれを随一の傑作と評価するのかについては意見が分かれるところであるが、最も個性的な作品は衆目の一致するところ、本盤におさめられた交響曲第3番ということになるのではないだろうか。3管編成の大オーケストラにオルガンやハープ、パーカッションまでが加わる類例の見ない巨大な編成であり、何よりも15本のトランペットによる壮麗なファンファーレが印象的な大胆な作品だ。曲想も、かかる迫力満点の大音響の箇所と、中央アジアの大自然を彷彿とさせるような抒情的な箇所が巧みに組み合わされており、内容的にもハチャトゥリアンが作曲した最後の交響曲に相応しい極めて充実したものとなっていると言える。本演奏は、ストコフスキーがシカゴ交響楽団を指揮したものである。確かに、演奏内容としては本演奏よりも優れた名演(例えば、コンドラシン&モスクワ・フィルによる名演(1969年)など)が他に存在していると言えるが、ストコフスキーの聴かせどころのツボを心得た聴かせ上手な演奏は、同曲の魅力を味わうのに十分であると言えるし、シカゴ交響楽団の卓越した技量も本演奏の大きな魅力であると言えるだろう。加えて、このような壮麗なサウンドや大音響を特徴とする楽曲だけに、録音が優秀であることが必要不可欠であると考えられるが、その意味でも本盤のようなXRCDは理想的と言える。本盤は1968年のスタジオ録音であるが、今から40年以上も前の録音とは思えないような鮮明な音質を誇っており、同曲のトゥッティにおいても各楽器が明瞭に分離して聴こえるのはほとんど驚異的ですらある。いずれにしても、XRCD化が、本演奏を素晴らしい名演とするのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。併録の序曲「ロシアの復活祭」も、ストコフスキーのエンターテイナーとしての才能が発揮された名演であり、R・コルサコフならではの華麗なオーケストレーションをXRCDによる鮮明な高音質録音で味わうことができることも含めて高く評価したい。
チャイコフスキーのピアノ三重奏曲「ある偉大な芸術家の思い出に」は、チャイコフスキーの室内楽曲の中での最高傑作であるだけでなく、古今東西の作曲家による数あるピアノ三重奏曲の中でも、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲第7番「大公」と並ぶ至高の名作と言えるだろう。しかしながら、ベートーヴェンの「大公」と比較すると録音の点数はさして多いとは言えない。そうした数少ない録音の中でも名演と評価し得るのは、新しいものではウィーン・ベートーヴェン・トリオ盤(1988年)及びチョン・トリオ盤(1988年)、そして古いものでは本盤におさめられた演奏であると考える。本演奏においては何よりも、ピアノにルービンシュタイン、ヴァイオリンにハイフェッツ、そしてチェロにピアティゴルスキーという超大物を据えた(いわゆる百万ドル・トリオ)のが極めて大きいと言える。本録音の発売に際しては、LPのジャケットの表記において、ルービンシュタインとハイフェッツのどちらを上に記述するかで両者(特にハイフェッツ)がもめたとの逸話が遺されているが、それだけ両者がプライドをかけて本演奏に臨んだということではないだろうか。実際のところ、同曲は、副題からも伺い知ることができるように、尊敬するピアニストであったニコライ・ルービンシュタインの死を悼んで作曲されたものであることから、とりわけピアノパートが克明に作曲されているのであるが、ルービンシュタインの卓越した技量をベースとしたスケール雄大な演奏に対して、ハイフェッツのヴァイオリンもその技量や気迫において、いささかも引けを取っておらず、あたかも両者による協奏曲のような迫力を誇っていると言える。チェロのピアティゴルスキーは、持ち味である重厚で人間味あふれる落ち着いた音色で、ルービンシュタインとハイフェッツの火花散るような演奏に適度の潤いと温もりを与えるのに成功していると言っても過言ではあるまい。いずれにしても、本演奏は、モノラル録音であるというハンディを除けば、現時点でも前述のウィーン・ベートーヴェン・トリオ盤やチョン・トリオ盤をはるかに凌駕する随一の超名演と高く評価したい。もっとも、今般のXRCD化によって、今から60年以上も前のモノラル録音とは思えないような鮮度の高い音質に生まれ変わったと言える。ルービンシュタインのピアノタッチがいささかこもり気味なのは残念であるが、ハイフェッツのヴァイオリンやピアティゴルスキーのチェロの弓使いなどが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてXRCDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。今般のXRCD化によって、本名演の価値はますます盤石となったと言えるところであり、同曲演奏史上最高の超名演を、現在望み得る最高の高音質XRCDで味わうことができるのを大いに歓迎したい。
2 people agree with this review 2011/07/17
小澤は、ストラヴィンスキーを得意中の得意としている。とりわけ、バレエ音楽「春の祭典」は十八番と言えるところであり、本盤におさめられた録音のほかにもボストン交響楽団とともに再録音(1979年)を行っているほか、コンサートでもたびたび採り上げているところだ。本演奏は1968年のスタジオ録音であるが、小澤はいまだ30歳代前半であり、小澤としてもこれから世界に羽ばたいて行こうとする熱き情熱に満ち溢れていた時期である。冒頭からテンションは著しく高くパワー全開であり、若き小澤ならではの凄まじいまでの燃焼度の高い演奏を展開していると言える。快速のテンポやスローテンポなどの変幻自在のテンポ設定や猛烈なアッチェレランド、部屋がぶっ飛ぶのかと思うほどの大音響を炸裂させるなど、ありとあらゆる大胆な表現を駆使して才気溢れる圧倒的な爆演を展開しており、これこそ正に切れば血が噴き出てくるような渾身の大熱演と言えるのではないだろうか。本演奏はスタジオ録音であるが、とてもスタジオ録音とは思えないような灼熱のような燃焼度を誇っており、第2部の終結部ではあまりのド迫力に完全にノックアウトされてしまった。このように終始ハイテンションの小澤の凄まじい指揮に、一糸乱れぬアンサンブルで最高の演奏を展開したシカゴ交響楽団のとてつもない超絶的な技量にも大いに拍手を送りたい。音量といい、技量といい、シカゴ交響楽団はこの当時からスーパー軍団であったことがよく理解できるところだ。本盤冒頭におさめられた併録の幻想曲「花火」も、若き小澤ならではの素晴らしい名演だ。そして、本盤でさらに素晴らしいのはXRCDによる極上の高音質であると言える。本盤は今から40年以上も前のスタジオ録音であるが、きわめて鮮度の高い高音質に生まれ変わったところであり、あらためてXRCDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。いずれにしても、若き小澤による才気あふれる圧倒的な超名演を、XRCDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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本盤にはバレエ音楽「ペトルーシュカ」とバレエ組曲「火の鳥」という、ストラヴィンスキーの三大バレエ音楽を構成する人気曲がおさめられているが、いずれも驚くべき超名演だ。両演奏ともに小澤がボストン交響楽団の音楽監督に就任する前の録音であり、いまだ30代の若き小澤が世界に羽ばたこうとしていた熱き時代のものである。この当時の小澤の演奏は、豊かな音楽性を活かしつつ、軽快で躍動感溢れるアプローチに加えて、エネルギッシュで力強い生命力に満ち溢れていたと言える。トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力強さは圧倒的な迫力を誇っており、切れば血が噴き出てくるような熱い情感に満ち溢れていると言える。両曲の随所で聴かれるロシア風の抒情的な旋律の歌い方もいささかも重々しくなることはなく、瑞々しさを感じさせてくれるのが素晴らしい。ボストン交響楽団も、この当時は音楽監督に就任することなど夢想だにはしなかったであろうが、若き才能溢れる指揮者の統率に導かれて、力感溢れる大熱演を披露していると言える。なお、バレエ音楽「ペトルーシュカ」については、これが小澤にとっての唯一の録音であり、他方、バレエ組曲「火の鳥」については、その後、1911年版による全曲録音を1972年及び1983年の2度にわたって行っているが、1919年版による組曲は本演奏が唯一の録音である。その意味では、両演奏ともに貴重な演奏ということができるところであり、若き小澤の才気が爆発した稀有の超名演と高く評価したい。バレエ音楽「ペトルーシュカ」におけるティルソン・トーマスによるピアノ演奏も、小澤の指揮ともどもノリノリの爽快さが素晴らしい。また、本盤で素晴らしいのはXRCDによる極上の高音質であると言える。本演奏については1969年のスタジオ録音であるが、とても今から40年以上も前のものとは思えないような鮮明な音質であり、あらためてXRCDの潜在能力の高さを思い知った次第である。小澤による超名演を、XRCDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
2 people agree with this review 2011/07/16
これは凄い名演だ。近年では健康を害して指揮台に立つのも難儀をしている小澤であるが、本演奏当時はいまだ30代の若さ。これから世界に羽ばたいて行こうという若き小澤による迸る熱き情熱と圧倒的な生命力を感じることが可能だ。小澤の演奏におけるアプローチは、豊かな音楽性を活かしつつ、軽快で躍動感溢れるものであるが、この当時の小澤には、それに加えてエネルギッシュで力強い生命力に満ち溢れていたと言える。ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」においては、冒頭のプロムナードからして切れ味鋭いリズム感が顕著であり、その後は変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化を駆使して、各組曲を実に表情豊かに描き出している。キエフの大門の終結部に向けての畳み掛けていくような気迫と圧倒的な高揚感は、若き小澤だけに可能な圧巻のド迫力を誇っていると言える。他方、ブリテンのパーセルの主題による変奏曲とフーガ(他のレビューでも記したが、「青少年のための管弦楽入門」という青臭い曲名は好みでなく、副題を使用したいと考える。)においても、その躍動するようなリズム感は健在。とりわけフーガにおける疾走するような爽快さは胸がすくようであり、聴き終えた後の充足感には尋常ならざるものがあると言える。こうした若き小澤の統率の下、卓越した技量を発揮したシカゴ交響楽団による名演奏も素晴らしい。とりわけ管楽器の技量とパワーは桁外れであり、巧みなオーケストレーションが施された両曲だけに、本名演への貢献度は非常に大きいと考える。本盤でさらに素晴らしいのは、XRCDによる極上の高音質録音であると言える。今般のXRCD化によって、今から40年以上も前の録音とは思えないような鮮明な高音質に生まれ変わったところであり、シカゴ交響楽団の各楽器セクションが分離して聴こえるというのは殆ど驚異的ですらある。若き小澤による会心の名演を、現在望み得る最高の高音質XRCDで味わうことができるのを大いに喜びたい。
4 people agree with this review 2011/07/16
マルティノンは、シカゴ交響楽団の音楽監督時代を思い出したくない日々だったと回想したと伝えられており、シカゴ交響楽団にとってもマルティノンの時代をライナー時代とショルティ時代に挟まれた低迷期と位置づけているところだ。このようにお互いに不幸な関係にあったとされている両者ではあるが、この両者が成し遂げた数少ない名演の一つが、本盤におさめられたラヴェルの管弦楽集であると言えるのではないだろうか。マルティノンは生前のラヴェルと親交があっただけに、ラヴェルの楽曲を十八番としており、特に管弦楽曲集としては、パリ管弦楽団を指揮した演奏(1974年)が名演として誉れ高いが、本演奏も決して遜色がない名演に仕上がっていると高く評価したい。本演奏において、マルティノンはラヴェルによる光彩陸離たる華麗なオーケストレーションを精緻に表現しているが、どこをとっても気品あふれる情感に満ち溢れており、随所に聴くことが可能なフランス風のエスプリ漂う瀟洒な味わいは、これぞフランス音楽を鑑賞する醍醐味があると言えるだろう。マルティノンの指揮の下、シカゴ交響楽団も卓越した技量を披露していると言えるところであり、とりわけ管楽器のブリリアントな響きと名技にはほれぼれさせられるほどだ。そして、本盤で何よりも優れているのは、前述のような演奏内容の素晴らしさのみならず、XRCD化による極上の高音質であると考える。本演奏は1968〜1969年のスタジオ録音であり、今から40年以上も前の録音ということになるが、今般のXRCD化によって、あたかも最新録音であるかのような鮮明な高音質に生まれ変わったと言える。あらためて、XRCDの潜在能力の高さを思い知った次第ではあるが、マルティノン&シカゴ交響楽団による数少ない名演であることもあり、今般のXRCD化は極めて意義が大きいものと考える。なお、マルティノンはシカゴ交響楽団とともに、ラヴェルのボレロやラ・ヴァルス、「ダフニスとクロエ」組曲なども録音しており、それらについても是非とも管弦楽曲集の第2弾として、XRCD化して欲しいと思う聴き手は私だけではあるまい。
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3 people agree with this review 2011/07/16
ノルウェー出身の気鋭の若手指揮者アイヴィン・オードランが、ドイツの名オーケストラであるケルン放送交響楽団を指揮してグリーグの管弦楽曲全集のスタジオ録音を開始することになったが、本盤におさめられた演奏はその第1弾となるものである。第1弾は、グリーグの最も有名な管弦楽曲である「ペール・ギュント」組曲と交響的舞曲集、そして、リカルド・ノルドロークのための葬送行進曲の組み合わせとなっている。いずれも驚くべき名演と高く評価したい。「ペール・ギュント」組曲は、近年では組曲よりも劇音楽からの抜粋の形で演奏されることが増えつつあるが、本盤のような充実した演奏で聴くと、組曲としても纏まりがある極めて優れた作品であることがよく理解できるところだ。オードランのアプローチは、いささかの奇を衒うということのないオーソドックスなものと言えるが、同郷の大作曲家による最も有名な作品を指揮するだけに、その演奏にかける思い入れは尋常ならざるものがあると言えるところであり、豊かな情感に満ち溢れた演奏の中にも、力強い生命力と気迫が漲っているのが素晴らしい。同曲の随所に滲み出している北欧の大自然を彷彿とさせるような繊細な抒情の表現にもいささかの不足はないところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた名演に仕上がっている点を高く評価したい。交響的舞曲集は、ノルウェーの民謡風の旋律やリズム語法などを採り入れた作品であるが、オードランは、颯爽とした歩みの中にも、祖国への深い愛着に根差した溢れんばかりの万感を込めて曲想を優美に描き出しているのが見事である。それでいて、第1番の冒頭や第4番の終結部における畳み掛けていくような気迫と力強さは、我々聴き手の度肝を抜くのに十分な圧倒的な迫力を誇っていると言える。リカルド・ノルドロークのための葬送行進曲は、演奏されること自体が稀な作品であるが、オードランの心を込め抜いた情感豊かな演奏は、我々聴き手の感動を誘うのに十分であると言える。オーケストラにケルン放送交響楽団を起用したのも成功しており、演奏全体に若干の重厚さと奥行きの深さを与えるのに成功している点を忘れてはならない。また、本盤でさらに素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音であると言える。グリーグの透明感溢れる至純のオーケストレーションを味わうには、臨場感溢れるマルチチャンネル付きのSACDは最適の媒体と言えるところであり、本盤の価値を著しく高めるのに大きく貢献していると評価したい。
3 people agree with this review
昨年末に発売が予告されながら、その後長らく発売が延期されていたマタチッチによる1984年のN響ライヴのXRCD盤がついに発売される運びとなったのは慶賀に堪えない。収録曲目は、ベートーヴェンの交響曲第2番及び第7番、そしてブルックナーの交響曲第8番であり、既に本年3月にBlu-spec-CD盤で発売されているのと同一の音源である。Blu-spec-CD盤は、従来盤とは次元の異なる鮮明な高音質であり、十分に満足できるものであったが、本XRCD盤はやや大人しめの音質であったBlu-spec-CD盤よりも更に音圧が加わったところであり、正に理想的な究極の音質に生まれ変わったと言える。あらためて、XRCDの潜在能力の高さを認識した次第であり、マタチッチによる歴史的な超名演を望み得る最高の音質で味わうことができることになったことを大いに歓迎したいと考える。演奏内容は、定評ある名演だ(既にBlu-spec-CD盤のレビューに記したところであり、詳しくはそちらを参照されたい。)。ブルックナーの交響曲第8番におけるマタチッチのアプローチは、1990年代以降ブルックナー演奏の主流となった荘重なインテンポによる演奏ではない。むしろ、早めのテンポであり、そのテンポも頻繁に変化させたり、アッチェレランドを駆使したりするなど、ベートーヴェン風のドラマティックな要素にも事欠かない演奏となっている。それでいて、全体の造型はいささかも弛緩することなく、雄渾なスケールを失っていないのは、マタチッチがブルックナーの本質をしっかりと鷲掴みにしているからにほかならない。このようなマタチッチの渾身の指揮に対して、壮絶な名演奏で応えたNHK交響楽団の好パフォーマンスも見事というほかはない。いずれにしても、本演奏は、1980年代以前のブルックナーの交響曲第8番の演奏の中では、間違いなくトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。また、ベートーヴェンの交響曲第2番及び第7番についても、渾身の大熱演と言える。マタチッチの手の動きを殆ど排したアイコンタクトによる指揮の下、NHK交響楽団が生命力溢れる壮絶な演奏を繰り広げているのが極めて印象的であると言える。アンサンブルなどに若干の乱れはみられるが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。スケールも雄渾の極みであり、聴き終えた後の高揚感や充足感には尋常ならざるものがあると言える。いずれにしても、巨匠マタチッチによる渾身の名演と高く評価したい。
2 people agree with this review 2011/07/15
本盤におさめられたマーラーの交響曲第8番は、現在のところアバドによる同曲の唯一の録音ということになる。したがって、他の交響曲のように新旧両盤の比較をすることはできないが、いずれにしても本演奏は素晴らしい名演と高く評価したい。私は、アバドの全盛時代はベルリン・フィルの芸術監督就任前であると考えている。そして、ベルリン・フィルの芸術監督就任以降は借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになり、胃がんによって病に伏すまでの間は、大半の演奏が今一歩の凡庸な演奏に陥っていると考えている。もちろん、かかる大病を克服した後はアバドの指揮にも凄みと深みが加わり、円熟の名演の数々を繰り広げるようになるのだが、ベルリン・フィルの芸術監督時代の大半は、かかる円熟に至る道程にあったと言わざるを得ないのではないか。しかしながら、そのようなアバドも、自らの芸風に符号した楽曲においては奇跡的な名演を成し遂げることがあった。本演奏は、正にそれに該当するのではないかと考えられる。アバドの本演奏におけるアプローチは徹底したバランス重視であり、例えばバーンスタインやテンシュテットなどの演奏のようにドラマティックな要素など薬にしたくもなく、楽想をいかに美しく響かせるのかに腐心しているようにさえ思われる。そして、アバドならではの歌謡性豊かな表現は健在であり、どこをとっても汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力があると言える。決して喚いたり叫んだりしない大人し目のマーラーと言えるが、楽曲が第5番や第9番などではないために、いささかの物足りなさを感じさせることはないと言える。それでいて、第2部の終結部の壮麗な迫力は圧倒的であり、アバドの豊かな歌謡性と大編成のオーケストラによる熱演や合唱団などによる熱唱が見事にマッチングした稀有の素晴らしいエンディングであると評価したい。アバド時代になって、ベルリン・フィルにも世代交代の波が押し寄せ、この当時のベルリン・フィルはやや低迷期にあるとの評価もなされていたが、本演奏では、アバドの統率の下、持ち前の底力を発揮した素晴らしい演奏を展開していると言える。アンネ・ゾフィー・フォン・オッターやペーター・ザイフェルト、ブリン・ターフェルなどの豪華歌手を揃えた独唱陣も最高の歌唱を披露しており、ベルリン放送合唱団、プラハ・フィルハーモニー合唱団、そしてテルツ少年合唱団も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。
3 people agree with this review 2011/07/15
本盤におさめられたマーラーの交響曲第8番は、現在のところアバドによる同曲の唯一の録音ということになる。したがって、他の交響曲のように新旧両盤の比較をすることはできないが、いずれにしても本演奏は素晴らしい名演と高く評価したい。私は、アバドの全盛時代はベルリン・フィルの芸術監督就任前であると考えている。そして、ベルリン・フィルの芸術監督就任以降は借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになり、胃がんによって病に伏すまでの間は、大半の演奏が今一歩の凡庸な演奏に陥っていると考えている。もちろん、かかる大病を克服した後はアバドの指揮にも凄みと深みが加わり、円熟の名演の数々を繰り広げるようになるのだが、ベルリン・フィルの芸術監督時代の大半は、かかる円熟に至る道程にあったと言わざるを得ないのではないか。しかしながら、そのようなアバドも、自らの芸風に符号した楽曲においては奇跡的な名演を成し遂げることがあった。本演奏は、正にそれに該当するのではないかと考えられる。アバドの本演奏におけるアプローチは徹底したバランス重視であり、例えばバーンスタインやテンシュテットなどの演奏のようにドラマティックな要素など薬にしたくもなく、楽想をいかに美しく響かせるのかに腐心しているようにさえ思われる。そして、アバドならではの歌謡性豊かな表現は健在であり、どこをとっても汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力があると言える。決して喚いたり叫んだりしない大人し目のマーラーと言えるが、楽曲が第5番や第9番などではないために、いささかの物足りなさを感じさせることはないと言える。それでいて、第2部の終結部の壮麗な迫力は圧倒的であり、アバドの豊かな歌謡性と大編成のオーケストラによる熱演や合唱団などによる熱唱が見事にマッチングした稀有の素晴らしいエンディングであると評価したい。アバド時代になって、ベルリン・フィルにも世代交代の波が押し寄せ、この当時のベルリン・フィルはやや低迷期にあるとの評価もなされていたが、本演奏では、アバドの統率の下、持ち前の底力を発揮した素晴らしい演奏を展開していると言える。アンネ・ゾフィー・フォン・オッターやペーター・ザイフェルト、ブリン・ターフェルなどの豪華歌手を揃えた独唱陣も最高の歌唱を披露しており、ベルリン放送合唱団、プラハ・フィルハーモニー合唱団、そしてテルツ少年合唱団も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。録音については従来盤でも比較的満足できる音質であったが、今般、SHM−CD化による高音質化が図られたというのは、本演奏の素晴らしさに鑑みても大いに歓迎したいと考える。
2 people agree with this review 2011/07/14
アバドはマーラーの交響曲第7番を2001年にベルリン・フィルとライヴ録音していることから、本盤におさめられた演奏は、その17年も前のアバドによる最初の録音(スタジオ録音)ということになる。ベルリン・フィル盤は、ベルリン・フィルの卓越した名技を活かしつつ、胃がんを発表した後の明鏡止水にも似たような境地が漂う何とも言えない深い味わいがあり、至高の名演に仕上がっていると言える。これに対して、本演奏もベルリン・フィル盤とは違った魅力のある名演と高く評価したい。当時のアバドは、ある意味では全盛時代にあったと言えるのではないだろうか。ベルリン・フィルの芸術監督に就任してからは借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになるのだが(前述の胃がん克服後は、彫の深い名演を成し遂げるようになったことは忘れてはならない。)、この時期のアバドには楽曲の核心に向けてぐいぐいと喰い込んでいくような力強い推進力があったと言える。本演奏においても、アバドのエネルギッシュな生命力は健在であり、とりわけ第1楽章や終楽章のトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫溢れる力強さは圧巻の迫力を誇っていると言える。第3楽章もアバドには珍しいような変幻自在のテンポや粘ったようなリズムなどを効果的に駆使して、実に魅力的な演奏を繰り広げているのが素晴らしい。それでいて、とりわけ第2楽章や第4楽章のいわゆる夜の歌において顕著であるが、豊かな情感に満ち溢れた歌謡性はアバドならではのもので、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力に満ち溢れていると言える。正に、本演奏は、この時期のアバドならではの剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。また、アバドの統率の下、当時、ベルリン・フィルと並んで世界最高水準の技量を誇っていたシカゴ交響楽団も、その持ち前の超絶的な技量を駆使して、望み得る最高の演奏を繰り広げているのも、本名演に大きく貢献している点を忘れてはならない。
アバドはマーラーの交響曲第7番を2001年にベルリン・フィルとライヴ録音していることから、本盤におさめられた演奏は、その17年も前のアバドによる最初の録音(スタジオ録音)ということになる。ベルリン・フィル盤は、ベルリン・フィルの卓越した名技を活かしつつ、胃がんを発表した後の明鏡止水にも似たような境地が漂う何とも言えない深い味わいがあり、至高の名演に仕上がっていると言える。これに対して、本演奏もベルリン・フィル盤とは違った魅力のある名演と高く評価したい。当時のアバドは、ある意味では全盛時代にあったと言えるのではないだろうか。ベルリン・フィルの芸術監督に就任してからは借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになるのだが(前述の胃がん克服後は、彫の深い名演を成し遂げるようになったことは忘れてはならない。)、この時期のアバドには楽曲の核心に向けてぐいぐいと喰い込んでいくような力強い推進力があったと言える。本演奏においても、アバドのエネルギッシュな生命力は健在であり、とりわけ第1楽章や終楽章のトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫溢れる力強さは圧巻の迫力を誇っていると言える。第3楽章もアバドには珍しいような変幻自在のテンポや粘ったようなリズムなどを効果的に駆使して、実に魅力的な演奏を繰り広げているのが素晴らしい。それでいて、とりわけ第2楽章や第4楽章のいわゆる夜の歌において顕著であるが、豊かな情感に満ち溢れた歌謡性はアバドならではのもので、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力に満ち溢れていると言える。正に、本演奏は、この時期のアバドならではの剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。また、アバドの統率の下、当時、ベルリン・フィルと並んで世界最高水準の技量を誇っていたシカゴ交響楽団も、その持ち前の超絶的な技量を駆使して、望み得る最高の演奏を繰り広げているのも、本名演に大きく貢献している点を忘れてはならない。録音については従来盤でも比較的満足できる音質であったが、前述のベルリン・フィル盤が存在することもあって、その陰に隠れた存在に甘んじていたと言える。もっとも、今般、SHM−CD化による高音質化が図られたというのは、本演奏の再評価に繋がるものと言えるところであり、大いに歓迎したいと考える。
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