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5 people agree with this review 2011/06/25
近年様々なライヴ録音が発掘されることによってその実力が再評価されつつあるテンシュテットであるが、テンシュテットによる最大の遺産は、何と言っても1977年から1986年にかけてスタジオ録音されたマーラーの交響曲全集ということになるのではないだろうか。テンシュテットは、当該全集の掉尾を飾る第8の録音の前年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施していると言える。かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない。)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。いずれにしても、本盤におさめられた演奏はいずれも圧倒的な超名演であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。オーケストラはいずれも必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルであるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を全面的に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。マーラーの交響曲全集はあまた存在しており、その中ではバーンスタインによる3つのオーケストラを振り分けた最後の全集(1966〜1990年)が随一の名全集と言えるが、聴き手に深い感動を与えるという意味において当該バーンスタインの全集に肉薄し得るのは、本盤のテンシュテットによる全集であると考える。
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14 people agree with this review 2011/06/25
本盤には、アバドによるマーラーの交響曲全集がおさめられているが、その内容からすると、果たして交響曲全集と称することが可能か疑問である。アバドは、若き頃からマーラーを得意としており、DVD作品を含め数多くの演奏・録音を行ってきている。ところが、その録音の経緯をつぶさに見てみると、必ずしも全集の完成を目的として行われたものではないことがよく理解できるところだ。それは、本全集におさめられた各交響曲の録音時期を見てもよく理解できるところであり、第1番はシカゴ交響楽団との演奏(1981年)に次ぐ2度目のベルリン・フィルとの録音(1989年)、第2番はシカゴ交響楽団との演奏(1976年)に次ぐ2度目のウィーン・フィルとの録音(1992年)、第3番はウィーン・フィルとの最初の録音(1980年)、第4番はウィーン・フィルとの最初の録音(1977年)、第5番はシカゴ交響楽団との演奏(1980年)に次ぐ2度目のベルリン・フィルとの録音(1993年)、第6番はウィーン交響楽団(1967年)に次ぐ2度目のシカゴ交響楽団との録音(1979年)、第7番はシカゴ交響楽団との最初の録音(1984年)、第8番はベルリン・フィルとの最初の録音(1994年)、第9番はウィーン・フィルとの最初の録音(1987年)、第10番はウィーン・フィルとの最初の録音(1985年)となっている。要は、録音年代やオーケストラに何らの統一性がなく、とりあえず交響曲全集に纏めてみたと言った類ものとも言えるところだ。特に、アバドの芸風は1990年のベルリン・フィルの芸術監督就任後、そして2000年の大病の克服後にそれぞれ大きく変化してきており、本盤の全集であれば、第8番については録音自体がなかったということで致し方なかったとしても、第1番、第2番、第5番についてはそれぞれ旧録音を収録すれば、より統一性のとれた全集に仕上がったのではないかとも考えられるところだ。アバドが最も輝いていた時期はベルリン・フィルの芸術監督就任前であり、この時期のアバドは、楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力、そして持ち前の豊かな歌謡性が付加された、いい意味での剛柔バランスのとれた名演の数々を成し遂げていた。本盤の全集で言えば、第1番、第3番、第4番、第6番、第7番については、そうしたアバドのかつての長所が大きく功を奏した素晴らしい名演に仕上がっていると言える。もっとも、第9番及び第10番については、マーラーの交響曲の中でも最も奥の深い内容を有した楽曲であり、アバドのこのようなアプローチでは、いささか楽曲の心眼への踏み込み不足の感は否めないところだ。また、アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになり、各楽器セクション間のバランスに執拗に拘るアバドと、カラヤン時代の名うての奏者がいまだ在籍していたベルリン・フィルとの間に少なからず軋轢も生じていたように思われる。そのマイナス要素が顕著にあらわれた演奏が本盤におさめられた第5番であり、これはもしかしたらアバドによるマーラーの交響曲のあらゆる演奏・録音の中でも最も出来の悪いものと言えるのかもしれない。第2番は、ウィーン・フィルとの演奏であることもあって、本演奏の後に録音されたルツェルン祝祭管弦楽団との演奏(2003年)にはさすがにかなわないが、本演奏に先立つシカゴ交響楽団との録音(1976年)と比較すると、アバドの円熟が感じされる素晴らしい名演に仕上がっていると言える。第8番は、合唱付きの壮麗な迫力が持ち味であり、オペラを得意とするアバドにとってはむしろ得意とする楽曲であると言える。それだけに、本演奏においては、この時期のアバドとしては劇的な迫力を有するとともに、雄大なスケールを誇る名演に仕上がっていると言えるのではないかと考えられる。いずれにしても、このように録音時期が異なることに起因するアバドの芸風の変化、また、それによる演奏の出来不出来など、全集としてはかなりの問題を有しているとも言えるが、大半の交響曲については名演と評価しても過言ではあるまい。ただ、全集の価格が11000円というのはあまりにも高額と言えるのではないだろうか。最近では、本全集よりも更に優れた超名演で構成されたテンシュテットによる全集が3000円、本全集よりもはるかに高音質のマルチチャンネル付きのSACDで構成されたジンマンによる全集が9000円であることに鑑みれば、通常盤で、なおかつ演奏に出来不出来がある本全集が11000円というのはあまりにも法外な価格であると言える。本全集におさめられた各交響曲の演奏の中で、第2番については現時点では単独入手が困難であり、名演であることに鑑みれば希少価値があるとも言えるが、それでも第2番を聴くだけのために11000円もの大金を支払うクラシック音楽ファンがどれだけいるのか大いに疑問だ。以上の点を総合的に勘案して、本全集の評価としては★4つとさせていただくこととしたい。
14 people agree with this review
9 people agree with this review 2011/06/25
イタリア人指揮者ではアバドやシノーポリとともにマーラーの交響曲を積極的に採り上げてきたシャイーであるが、本盤におさめられたマーラーの交響曲全集は、1986年から2004年というほぼ20年という長い歳月をかけて完成されたものである。これだけの歳月をかけているだけに、第1弾の第10番と掉尾を飾る第9番では、シャイーの芸風も相当に変容していると言えなくもないが、基本的なアプローチ自体はさしたる変更がないのではないかとも考えられる。シャイーのマーラーは、例えばバーンスタインやテンシュテットのようなドラマティックの極みとも言うべき激情型の演奏を行うというものではない。さりとて、シノーポリのように楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰な演奏を行っているわけでもない。また、ブーレーズのように徹底した精緻さに拘った演奏を行っているわけでもない。では、どの指揮者のマーラーに近いかというと、これには様々な意見があるようであるが、基本的なアプローチとしては、ティルソン・トーマスやマーツァルのように、オーケストラを無理なくバランス良く鳴らし、マーラーの作曲した数々の旋律を実に明瞭に美しく響かせるべく腐心していると言えるのではないだろうか。これに、ベルリン・フィルの芸術監督に就任する前のアバドのマーラーの特徴でもあった、豊かな歌謡性と気迫溢れる圧倒的な生命力が付加され、正に豊かな色彩感と歌謡性、そして力感が漲った生命力を兼ね備えた明瞭で光彩陸離たるマーラー演奏の構築に成功したと言っても過言ではあるまい。加えて、シャイーの演奏は、ベルリン放送交響楽団と録音した第10番を除いては、すべての交響曲がコンセルトへボウ・アムステルダムとの録音であり、しかも録音会場は、豊麗な響きで誉れ高いコンセルトヘボウである。そして、英デッカによる極上の高音質録音も相まって、各楽器セクションが鮮明に分離するとともに、他の指揮者による演奏では殆ど聴き取れないような音型を聴き取ることとができるのも、本全集の大きなメリットであると考えられる。本全集には交響曲「大地の歌」や主要な歌曲集が含まれていないのは残念ではあるが、他方、交響曲第10番はアダージョだけでなく、最新のクック版使用による全曲版を使用しており、収録曲については一長一短があると言えるのかもしれない。いずれにしても、本全集は、マーラーの交響曲の華麗なるオーケストレーションの醍醐味を、SACDによらない通常盤(とは言っても、第3及び第9はマルチチャンネル付きのハイブリッドSACD化がなされている。)によって現在望み得る最高の鮮明な音質で味わうことができるという意味においては素晴らしい名全集と高く評価したい。
9 people agree with this review
18 people agree with this review 2011/06/25
本盤には、ショルティが完成させた唯一のマーラーの交響曲全集がおさめられている。膨大なレコーディングとレパートリーを誇ったショルティであるが、マーラーの交響曲についても比較的早くから取り組んでおり、1960年代というマーラーが知る人ぞ知る存在であった時代にも、ロンドン交響楽団と第1番、第2番、第3番、第9番、そしてコンセルトへボウ・アムステルダムとともに第4番のスタジオ録音を行っている。また、第1番についてはウィーン・フィルとのライヴ録音(1964年)が遺されており、既に1960年代にはマーラーの交響曲はショルティのレパートリーの一角を占めていたと言えるのではないかと考えられる。本盤におさめられた全集は、ショルティが1970年以降に行ったシカゴ交響楽団とのスタジオ録音のみで構成されているが、このうち1970年及び1971年に録音された第5番〜第8番は、前述の1960年代の各スタジオ録音やライヴ録音と共通する演奏様式であり、他方、1980年〜1983年にかけてスタジオ録音された第1番〜第4番と第9番は、1980年代に入って演奏に若干の奥行きが出てきた円熟の演奏様式であり、演奏傾向に若干の違いがあることに留意しておく必要があると言える。もっとも、ショルティのマーラーの交響曲演奏に際しての基本的アプローチは何ら変わりがないと言える。強靭なリズム感とメリハリの明瞭さは、ショルティの鋭角的な指揮ぶりからも明らかであり、これは、最晩年になっても変わりがないものであった。したがって、ショルティのマーラーには、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言える。ただ、第5番〜第8番については、全体に引き締まったシャープな響きが支配しているのに対して、第1番〜第4番と第9番には、若干ではあるが、響きに柔和さと奥行きが出てきているように思われる。いずれにしても、どの曲もショルティの個性が発揮された名演であると言えるが、私としては特に第3番、第5番、そして第8番を特に高く評価したい。第5番は、本全集の第1弾となったものであるが、私はこれほど強烈無比な演奏を聴いたことがない。耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂しており、血も涙もない音楽が連続している。正に、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、同曲の超名演であるバーンスタイン&ウィーン・フィル盤(1987年)やテンシュテット&ロンドン・フィル盤(1988年)にいささかも引けを取っていないと言える。第8番は、ショルティがシカゴ交響楽団を引き連れてヨーロッパを訪問中にウィーンで録音されたものであるが、精密機械のような豪演を繰り広げるシカゴ交響楽団と圧倒的な名唱を繰り広げる合唱団等が融合した稀有の名演であり、同曲をこれほど壮麗かつスケール雄大に響かせた演奏は他にも類例を見ないのではないかと考えられる。第3番は、故柴田南雄氏が「燦然たる音の饗宴」と評した演奏であるが(氏は、それ故に内容空虚であることを指摘して、本演奏を酷評している。)、これほど本演奏を評した的確な表現はあるまい。正に、本演奏は有名レストランでシカゴ交響楽団が出す豪華料理と高級ワインを味わうような趣きがあり、我々聴き手は、ただただレストランにおいて極上の豪華な料理と高級ワインを堪能するのみである。もっとも、あまりの料理やワインの豪華さに、聴き手もほろ酔い加減で幻惑されてしまいそうになるが、本演奏は、それほどまでに空前絶後の「燦然たる音の饗宴」に仕上がっていると言える。確かに、故柴田南雄氏が指摘されているように、楽曲の心眼に鋭く切り込んで行くような奥深さには欠けている演奏であると言えるが、聴き終えた後の充足感が、例えばバーンスタイン&ニューヨーク・フィル盤(1988年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもなく、私としてはマーラーの演奏様式の一翼を担った名演として高く評価したいと考える。そして、これまでにも若干触れてはきたが、本全集の最大のメリットはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。いずれの演奏も、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮しており、各演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。それにしても、我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。現在では、楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつあると言える。これには、我が国の音楽評論家、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、かかる酷評を鵜呑みにして、例えば本全集のような名演を一度も聴かないのはあまりにも勿体ないと言える。私としては、本全集を楽劇「ニーベルングの指環」に次ぐショルティの偉大な遺産であると考えており、英デッカによる極上の優秀録音であることに鑑みても、いまだ未聴のクラシック音楽ファンには是非とも一聴をお薦めしたい名全集と高く評価したい。
18 people agree with this review
7 people agree with this review 2011/06/25
本盤におさめられたマーラーの交響曲全集は、インバル&フランクフルト放送交響楽団の実力を世に知らしめるとともに、インバルの名声を確固たるものとした不朽の名全集であると言える。それどころから、録音から20年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集と高く評価したい。インバルのマーラ―に対する評価については百家争鳴の感がある。それは、指揮者が小粒になった今日において、それだけインバルの存在感が増した証左であるとも考えられる。インバルのマーラーは、近年の東京都響やチェコ・フィルとのライヴでは随分と変容しつつあるが、本盤の各演奏においては一聴すると冷静で自己抑制的なアプローチであるとも言える。したがって、演奏全体の装いは、バーンスタインやテンシュテットなどによる劇場型の演奏とは対極にあるものと言えるだろう。しかしながら、インバルは、とりわけ近年の実演においても聴くことが可能であるが、元来は灼熱のように燃え上がるような情熱を抱いた熱い演奏を繰り広げる指揮者なのである。ただ、本盤のようなスタジオ録音による全集を完成させるに際しては、極力自我を抑制し、可能な限り整然とした完全無欠の演奏を成し遂げるべく全力を傾注していると言える。マーラーがスコアに記した様々な指示を可能な限り音化し、作品本来の複雑な情感や構造を明瞭に、そして整然と表現した完全無欠の演奏、これが本盤におけるインバルの基本的なアプローチと言えるであろう。しかしながら、かかる完全無欠な演奏を目指す過程において、どうしても抑制し切れない自我や熱き情熱の迸りが随所から滲み出していると言える。それが各演奏が四角四面に陥ったり、血も涙もない演奏に陥ったりすることを回避し、完全無欠な演奏でありつつも、豊かな情感や味わい深さをいささかも失っていないと言えるところであり、これを持って本盤におけるインバルによる各演奏を感動的なものにしていると言えるところだ。前述のように、本全集におけるインバルによる演奏に対する見方は様々であると思われるが、私としてはそのように考えているところであり、インバルの基本的なアプローチが完全無欠の演奏を目指したものであるが故に、現時点においてもなお、本全集が普遍的な価値を失わないのではないかと考えている。1985年から1988年という極めて短期間に(1992年のスタジオ録音である第10番のクック全曲版については、もともとの全集とは別個に録音されたものであり、ここでは全集と区別して考えたい。)録音されたということも、各交響曲毎の演奏のムラをなくす結果に繋がっていると言える。そして、本全集でさらに素晴らしいのは、マーラーのような大編成のオーケストラ曲においては画期的とも言えるワンポイント録音による極上の鮮明な超高音質である。様々な楽器セクションがこれほど鮮明に、そしてナチュラルに分離して聴こえるというのは、他の録音でも極めて少ないと言えるところであり、本全集の普遍性に大きく貢献しているのを忘れてはならない。それにしても、本全集はとてつもない廉価であると言える。私が所有しているインバルの交響曲全集は1989年に発売された初期盤であるが、ゴールドディスク仕様で愛蔵家ナンバー入りのものであり、価格は何と56000円であった(いかにもバブル全盛期の産物と言えるが、これは現在でも十分に通用する高音質であり、クラシック音楽界が長期不況下にある今日においては、本全集の完成に要したであろう膨大な費用や労力が今では懐かしく思い出されてならない。)。これに対して本盤は、リマスタリングも行った上で、当初の全集には含まれていなかった第10番のクック全曲版を加えて約8000円というのは驚異的な廉価と言える。いずれにしても、本全集は普遍的価値を有する名演奏と極上の超優秀録音、そして廉価であることを考慮すれば、誰にでも安心してお薦めできる名全集と高く評価したいと考える。
7 people agree with this review
6 people agree with this review 2011/06/25
桁外れのレパートリーの広さと膨大な数のレコーディングを誇るマゼールであるが、本盤におさめられたマーラーの交響曲全集は、マゼールによる唯一のものである。マゼールほどその芸風を変化させた指揮者は、ワルターなど殆ど少ないと言えるが、本盤の録音当時のマゼールは、1960年代の前衛的で先鋭な演奏を繰り広げていたマゼールが1970年代から1980年代初頭のいわば中だるみの時期を経て、ベルリン・フィルの次期芸術監督を狙って再び野心的な演奏を繰り広げ始めた時期に相当する。この時期のマゼールの演奏のすべてが素晴らしいとは言い難いが、それでもベルリン・フィルと録音したブルックナーの交響曲第7番や第8番など、今なおその価値をいささかも失うことのない素晴らしい名演の数々を生み出していたのも事実である。本全集のメリットは、何と言っても全曲ともにオーケストラにウィーン・フィルを起用したことであろう。個別の交響曲をウィーン・フィルと録音した例はそれまでにも何度もあったが、全曲に渡ってウィーン・フィルを起用した全集は本盤がはじめてであり、その後も現在に至るまで皆無であると言える(DVD作品としてバーンスタインの全集があるが、第2番はロンドン響、大地の歌はイスラエル・フィルであった。)。いずれにしても、ウィーン・フィルならではの極上の美音が演奏全体を支配しており、これを聴くだけでも本全集の価値は高いと言えるのではないかと考えられる。そして、マゼールのアプローチであるが、テンポが実にゆったりしているのに大変驚かされる。バーンスタインやテンシュテットのようにドラマティックな劇場型演奏ではなく、むしろ曲想を丁寧に掘り下げて描き出していくという趣きがあると言える。しかしながら、随所に、いかにもマゼールならではの仕掛けが施されており、前述の中だるみの時期の演奏に時として聴かれたある種のあざとさが感じられないわけではないところだ。もっとも、ウィーン・フィルの懐の深い美演が、そのようなあざとさを感じさせる箇所を解きほぐし、演奏全体として格調の高さを損なっていないというのが素晴らしい。その意味では、ウィーン・フィルにはじまって、ウィーン・フィルで終わるという演奏と言えるのかもしれない。したがって、本全集をファーストチョイスとしてお薦めするというのはいささか気が引けるが、ある程度マーラーの交響曲を聴き込んだ熟達した聴き手には、マーラーの交響曲の違った魅力を発見することが可能な演奏として、一聴の価値のある全集と言えるのではないかと考える。また、本全集に交響曲「大地の歌」が含まれておらず、マゼールは本全集に併せて録音を行わなかったようである。マゼールは、その後、バイエルン放送響と同曲を録音(1999〜2000年)しているが、演奏はイマイチであることから、せめて本全集に併せてウィーン・フィルと録音しておけば、もう少しいい演奏を行うことが可能であったのではないかとも考えられるところであり、大変残念な気がするところだ。録音は、1980年代のスタジオ録音であり、従来盤でも十分に通用する素晴らしい音質であると言える。いずれにしても、マゼールの若干のあざとさを感じさせるアプローチなどを考慮しても、ウィーン・フィルによる美しい演奏、鮮明な高音質、そして約3600円という廉価を考慮すれば、★4つの評価が至当ではないかと考える。
6 people agree with this review
シノーポリが心臓発作で急逝してから10年の歳月が経った。まだ50歳代という働き盛りでの急な逝去であったことから、現在においてもそのあまりにも早すぎる死を惜しむファンも多いと聞く。そのようなシノーポリの遺した最大の遺産は、様々な意見もあろうかとは思うが、やはり本盤におさめられたマーラーの交響曲全集と言えるのではないだろうか。本盤には、1990年に録音された嘆きの歌やその他の主要歌曲集、そしてシュターツカペレ・ドレスデンを指揮した番外編でもあった交響曲「大地の歌」も収録しており、シノーポリがDGに録音したマーラーの交響曲や主要な歌曲のすべてが網羅されていると言える。シノーポリのマーラーについては賛否両論があるようであるが、私としては評価しており、本全集も素晴らしい名全集と高く評価したいと考える。シノーポリのマーラーへのアプローチは、他の指揮者とは全く異なる実に個性的なものであったと言える。シノーポリは、精神医学者であり作曲家でもあるという異色の経歴を持つ指揮者であったが、おそらくはそれに起因するスコアリーディングには余人には及ばない凄みがあったのではないかと考えられる。シノーポリは、マーラーの作曲した複雑極まりないスコアに記されたすべての音符を一音たりとも蔑ろにすることなく光を当て、完璧に音化することに腐心しているようにさえ思われる。おそらくは、これほどまでに楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰な演奏というのは比類がないと言えるのではないか。もっとも、ここまで細部に拘ると音楽の自然な流れを損ってしまうということが懸念されるが、シノーポリは音楽がごく自然に流れていくように各旋律を徹底して歌い抜くのである。要は、細部に至るまでの彫琢と歌謡性の豊かさという2つの要素を兼ね備えた稀有の演奏を成し遂げているということであり、ここにシノーポリのマーラーのユニークな魅力があると言える。もちろん、かかるアプローチがうまく適合しない楽曲もある。例えば、第6番は細部への彫琢の末に成し遂げられた明晰さが、ある種の楽天的な雰囲気の醸成に繋がってしまったきらいがあり、同曲の演奏としてはいささか物足りない出来となってしまっている。もっとも、かかるシノーポリの芸風に符号した楽曲ではとてつもない名演に仕上がることになり、特に、第2番、第5番、第7番及び第10番は文句のつけようのない名演であると言える。第2番の終楽章の中間部はいささか冗長さを感じさせる箇所ではあるが、シノーポリの演奏にかかると、同じく軽薄さが指摘されている第7番の終楽章も含め、密度の濃い充実した音楽に聴こえるのが素晴らしい。また、第5番の楽曲の心眼に切り込んでいくような鋭さも見事であると言える。そして、第10番は、誰よりもゆったりしたテンポで奥行きのある深沈とした音楽が連続するが、とりわけ後半の強烈な不協和音とその後の天国的な美しさの対比は、聴いていて戦慄を覚えるほどの凄みのある表現であると言えるだろう。この第10番については、昨年発売されたテンシュテット&ウィーン・フィルによる一期一会の名演(1982年)、そして同じくシノーポリによるシュターツカペレ・ドレスデンとのライヴ録音(1981年)と並んで3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。いずれにしても、シノーポリのマーラーは他の指揮者による演奏とは全く異なる個性的な演奏ではあるが、マーラーの交響曲を愛する者であれば一度は聴いていただくことを是非ともお薦めしたい。録音については、私はそれぞれの楽曲の発売時の初期盤を所有しており、それでも十分に満足できる高音質であると言える。もっとも、シノーポリの最大の遺産でもあり、今後は一部の交響曲(とりわけ第2番、第5番、第7番及び第10番を希望)でもいいので、SHM−CD化、さらにはSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
4 people agree with this review 2011/06/25
シノーポリが心臓発作で急逝してから10年の歳月が経った。まだ50歳代という働き盛りでの急な逝去であったことから、現在においてもそのあまりにも早すぎる死を惜しむファンも多いと聞く。そのようなシノーポリの遺した最大の遺産は、様々な意見もあろうかとは思うが、やはり本盤におさめられたマーラーの交響曲全集と言えるのではないだろうか。本盤には、1990年に録音された嘆きの歌が含まれてはいないのが残念ではあるが、その他の歌曲集やシュターツカペレ・ドレスデンを指揮した番外編でもあった交響曲「大地の歌」も収録しており、シノーポリがDGに録音したマーラーの交響曲や主要な歌曲がほぼ網羅されていると言える。シノーポリのマーラーについては賛否両論があるようであるが、私としては評価しており、本全集も素晴らしい名全集と高く評価したいと考える。シノーポリのマーラーへのアプローチは、他の指揮者とは全く異なる実に個性的なものであったと言える。シノーポリは、精神医学者であり作曲家でもあるという異色の経歴を持つ指揮者であったが、おそらくはそれに起因するスコアリーディングには余人には及ばない凄みがあったのではないかと考えられる。シノーポリは、マーラーの作曲した複雑極まりないスコアに記されたすべての音符を一音たりとも蔑ろにすることなく光を当て、完璧に音化することに腐心しているようにさえ思われる。おそらくは、これほどまでに楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰な演奏というのは比類がないと言えるのではないか。もっとも、ここまで細部に拘ると音楽の自然な流れを損ってしまうということが懸念されるが、シノーポリは音楽がごく自然に流れていくように各旋律を徹底して歌い抜くのである。要は、細部に至るまでの彫琢と歌謡性の豊かさという2つの要素を兼ね備えた稀有の演奏を成し遂げているということであり、ここにシノーポリのマーラーのユニークな魅力があると言える。もちろん、かかるアプローチがうまく適合しない楽曲もある。例えば、第6番は細部への彫琢の末に成し遂げられた明晰さが、ある種の楽天的な雰囲気の醸成に繋がってしまったきらいがあり、同曲の演奏としてはいささか物足りない出来となってしまっている。もっとも、かかるシノーポリの芸風に符号した楽曲ではとてつもない名演に仕上がることになり、特に、第2番、第5番、第7番及び第10番は文句のつけようのない名演であると言える。第2番の終楽章の中間部はいささか冗長さを感じさせる箇所ではあるが、シノーポリの演奏にかかると、同じく軽薄さが指摘されている第7番の終楽章も含め、密度の濃い充実した音楽に聴こえるのが素晴らしい。また、第5番の楽曲の心眼に切り込んでいくような鋭さも見事であると言える。そして、第10番は、誰よりもゆったりしたテンポで奥行きのある深沈とした音楽が連続するが、とりわけ後半の強烈な不協和音とその後の天国的な美しさの対比は、聴いていて戦慄を覚えるほどの凄みのある表現であると言えるだろう。この第10番については、昨年発売されたテンシュテット&ウィーン・フィルによる一期一会の名演(1982年)、そして同じくシノーポリによるシュターツカペレ・ドレスデンとのライヴ録音(1981年)と並んで3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。いずれにしても、シノーポリのマーラーは他の指揮者による演奏とは全く異なる個性的な演奏ではあるが、マーラーの交響曲を愛する者であれば一度は聴いていただくことを是非ともお薦めしたい。録音については、私はそれぞれの楽曲の発売時の初期盤を所有しており、それでも十分に満足できる高音質であると言える。もっとも、シノーポリの最大の遺産でもあり、今後は一部の交響曲(とりわけ第2番、第5番、第7番及び第10番を希望)でもいいので、SHM−CD化、さらにはSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
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バーンスタインはマーラーの交響曲全集をDVD作品を除くと3度にわたって録音した唯一の指揮者であると言える。本盤におさめられた全集はその3度目のものであると言えるが、正確に言うと、バーンスタインは本全集を完成する前に惜しくも鬼籍に入ってしまったところだ。というのも、第8番、「大地の歌」そして第10番の新録音を果たすことができなかったからであり、それ故に、第8番については没後発見されたザルツブルク音楽祭でのライヴ録音(1975年)、「大地の歌」については本盤には未収録、そして第10番は2度目のDVDによる全集中の演奏(1974年)をCDに焼き直したものがおさめられているところである。このような若干の未完成というハンディはあるものの、本全集こそは、あまた存在する様々な指揮者によるマーラーの交響曲全集に冠絶する至高の超名全集と高く評価したい。バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚な表情づけの演奏をするようになった。それは本全集においても例外ではなく、その演奏は、これまでの1度目、2度目の全集と比較してもテンポの遅さや濃厚さが際立っていると言える。しかしながら、他の作曲家による楽曲は別として、マーラーの交響曲や歌曲においては、こうしたゆったりとしたテンポによる濃厚さがすべてプラスに作用していると言えるだろう。そして、バーンスタインのアプローチは、ゆったりとしたテンポや濃厚な表情づけを基軸としつつ、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして大胆なアッチェレランドを駆使してこれ以上は求め得ないようなドラマティックな演奏を行っていると言えるところだ。マーラーの交響曲のテーマは、楽曲によって一部に例外はあるものの、基本的には死への恐怖と闘い、そしてそれと対置する生への妄執と憧憬であると考えるが、バーンスタイン以上にそれを音化し得た演奏は、テンシュテットによる最晩年の演奏以外には存在しないと言っても過言ではあるまい。こうした渾身の大熱演が我々聴き手の肺腑を打つのであり、前述のように、第8番や第10番など、1970年代の録音も一部に含まれてはいるが、本全集の各演奏こそは、史上最大のマーラー指揮者であったバーンスタインがその最晩年になって漸く成し得た究極の名演奏と言っても過言ではあるまい。マーラーに縁があった3つの超一流のオーケストラを起用したのも特徴であり、奥行きのある深沈とした表現が必要不可欠な第9番には北ヨーロッパの楽団ならではのくすんだいぶし銀の音色が魅力のコンセルトへボウ・アムステルダムを起用したり、壮麗な迫力を必要とする第2番にニューヨーク・フィルを起用するなど、各オーケストラの使い分けも実に考え抜かれた最善の選択がなされていると評価したい。第4番の終楽章ではボーイソプラノを起用するなど、若干のやり過ぎの感も否めないところではあるが、本全集全体の評価を貶めるほどの瑕疵があるわけではないものと考える。録音は、第10番を除くとすべてライヴ録音であり、とりわけ1970年代の録音である第8番や、本全集の本来の最初の録音であった第9番など、やや冴えない音質のものも存在していると言える。数年前には、本全集全体のSHM−CD盤が発売されたが、リマスタリングされたものが第5番に限られており、音質改善効果がさほど見られなかったのは残念であった。いずれにしても、史上最高のマーラーの交響曲全集であり、今後はシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化をしていただくなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
本盤にはクーベリックが1967年から1971年という短期間で完成させたマーラーの交響曲全集がおさめられている。本盤の録音当時は、近年のようなマーラーブームが到来する以前であり、ワルターやクレンペラーなどのマーラーの直弟子によるいくつかの交響曲の録音はあったが、バーンスタインやショルティによる全集は同時進行中であり、本全集は極めて希少な存在であったと言える。そして、本全集は既に録音から40年が経過したが、現在においてもその価値をいささかも失うことがない素晴らしい名全集と高く評価したいと考える。本演奏におけるクーベリックのアプローチは、ある意味では極めて地味で素朴とも言えるものだ。バーンスタインやテンシュテットのような劇場型の演奏ではなく、シノーポリのような楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰な演奏を旨としているわけではない。また、ブーレーズやジンマンのような徹底したスコアリーディングに基づいた精緻な演奏でもなく、シャイーやティルソン・トーマスのような光彩陸離たるオーケストレーションの醍醐味を味あわせてくれるわけでもない。クーベリックはむしろ、表情過多に陥ったり、賑々しい音響に陥ることがないように腐心しているようにさえ思われるところであり、前述のような様々な面において個性的な演奏に慣れた耳で聴くと、いささか物足りないと感じる聴き手も多いのではないかとも考えられる。しかしながら、一聴するとやや早めのテンポで武骨にも感じられる各旋律の端々から滲み出してくる滋味豊かさには抗し難い魅力があると言えるところであり、噛めば噛むほど味わいが出てくる演奏ということが可能であると言える。地味な演奏というよりは滋味溢れる演奏と言えるところであり、とりわけ、マーラーがボヘミア地方出身であることに起因する民謡風な旋律や民俗的な舞曲風のリズムの情感豊かで巧みな表現には比類がない美しさと巧さがあると言える。いずれにしても、近年の賑々しいマーラー演奏に慣れた耳を綺麗に洗い流してくれるような演奏とも言えるところであり、その滋味豊かな味わい深さという点においては、今後とも普遍的な価値を有し続ける至高の名全集と高く評価したい。なお、クーベリックはスタジオ録音よりも実演でこそ実力を発揮する指揮者であり、本全集と同時期のライヴ録音が独アウディーテから発売されている(ただし、第4番と第10番は存在していない。)。当該独アウディーテ盤は、本全集には含まれていない「大地の歌」やSACD盤で発売された第8番など魅力的なラインナップであり、楽曲によっては当該ライヴ録音の方が優れた演奏がないわけではないが、オーケストラの安定性などを総合的に考慮すれば、本全集の価値はなお不変であると考える。録音については、私は1989年に初CD化された全集を所有しており、それは現在でも十分に満足し得る音質であると言える。もっとも、その後一部の交響曲についてはリマスタリングが行われたようであるが、クーベリックによる貴重な遺産でもあり、今後はSHM−CD化、さらにはSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに求めておきたいと考える。
0 people agree with this review 2011/06/25
本盤には、ガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーやパリのアメリカ人をはじめ、有名な管弦楽曲4曲がおさめられているが、いずれも素晴らしい超名演だ。演奏の特徴を一言で言えば、音楽の持つ魅力をそのままの形で楽しく味わうことが可能な演奏と言ったところではないだろうか。本名演の成功の要因は、現代最高のエンターテイナーとも称されるレヴァインの指揮によるところが大きいと言える。本演奏でのレヴァインは、ガーシュウィンと同じアメリカ人ということもあって血が騒ぐのかもしれないが、実に楽しげでノリノリの演奏を展開しているのが素晴らしい。そうしたレヴァインの躍動感溢れる楽しげな指揮の下、卓越した技量を有する名うてのプレイヤーが数多く在籍するシカゴ交響楽団も、持ち得る実力を最大限に発揮した最高のパフォーマンスを示しているのが素晴らしい。また、レヴァインによるピアノ演奏もセンス満点の味わい深さが際立っており、シカゴ交響楽団との相性も抜群のものがあると言える。このような演奏を聴いていると、あたかもレヴァインやシカゴ交響楽団の各奏者が楽しげに演奏する様子が眼前に浮かんでくるかのようであり、聴いていて思わず微笑んでしまうほどである。本盤におさめられたガーシュウィンの各管弦楽曲には、それぞれ他の指揮者による様々な名演が存在しているが、音楽の持つ魅力を心の底から楽しんで味わうことができるという意味においては、本演奏はあまた存在する名演の中でも上位を争う至高の超名演と評価しても過言ではあるまい。録音は本盤でも十分に満足できる高音質ではあるが、先日発売されたSHM−CD盤は、本盤よりも若干ではあるが、音質はさらに鮮明になるとともに音場が幅広くなったところである。特に、レヴァインのピアノが実に美しく聴こえるようになったと言えるところであり、あらためてSHM−CDとピアノ曲の抜群の相性の良さを思い知った次第である。いずれにしても、未だ未購入で、レヴァインによる素晴らしい超名演をより良好な音質で味わいたいという聴き手には、SHM−CD盤の方の購入をおすすめしたい。
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1 people agree with this review 2011/06/25
本盤には、ガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーやパリのアメリカ人をはじめ、有名な管弦楽曲4曲がおさめられているが、いずれも素晴らしい超名演だ。演奏の特徴を一言で言えば、音楽の持つ魅力をそのままの形で楽しく味わうことが可能な演奏と言ったところではないだろうか。本名演の成功の要因は、現代最高のエンターテイナーとも称されるレヴァインの指揮によるところが大きいと言える。本演奏でのレヴァインは、ガーシュウィンと同じアメリカ人ということもあって血が騒ぐのかもしれないが、実に楽しげでノリノリの演奏を展開しているのが素晴らしい。そうしたレヴァインの躍動感溢れる楽しげな指揮の下、卓越した技量を有する名うてのプレイヤーが数多く在籍するシカゴ交響楽団も、持ち得る実力を最大限に発揮した最高のパフォーマンスを示しているのが素晴らしい。また、レヴァインによるピアノ演奏もセンス満点の味わい深さが際立っており、シカゴ交響楽団との相性も抜群のものがあると言える。このような演奏を聴いていると、あたかもレヴァインやシカゴ交響楽団の各奏者が楽しげに演奏する様子が眼前に浮かんでくるかのようであり、聴いていて思わず微笑んでしまうほどである。本盤におさめられたガーシュウィンの各管弦楽曲には、それぞれ他の指揮者による様々な名演が存在しているが、音楽の持つ魅力を心の底から楽しんで味わうことができるという意味においては、本演奏はあまた存在する名演の中でも上位を争う至高の超名演と評価しても過言ではあるまい。録音は従来盤でも十分に満足できる高音質ではあったが、今般のSHM−CD化によって、音質はさらに鮮明になるとともに音場が幅広くなったところである。特に、レヴァインのピアノが実に美しく聴こえるようになったと言えるところであり、あらためてSHM−CDとピアノ曲の抜群の相性の良さを思い知った次第である。いずれにしても、レヴァインによる素晴らしい超名演を、このようなSHM−CDによる鮮明な高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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全盛期のライナー&シカゴ交響楽団による圧倒的な演奏の凄さを味わうことができる一枚だ。一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、ブリリアントな金管楽器の朗々たる響き、高弦の美しい響き、迫力満点のティンパニの轟きなど、ライナー時代のシカゴ交響楽団がいかにスーパーオーケストラであったのかがわかるような演奏内容になっている。シカゴ交響楽団と言えば、ショルティ時代の圧倒的な大音量による凄まじい演奏が記憶に新しいところであるが、そのルーツは、ライナー時代にあったことがよくわかるところである。また、XRCDによる極上の高音質録音も素晴らしい。本盤は、1959年のスタジオ録音であり、今から50年以上も前の録音であるが、あたかも最新録音であるかのようなクリアな音質に蘇っており、あらためてXRCDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。このような高音質録音で聴くと、当時のシカゴ交響楽団は、前述のような名技に加えて、特に弦楽合奏において顕著であるが実に艶やかな響きを出していることがよくわかるところであり、かかるオーケストラの音色には抗し難い魅力があったと言える。時代が若干下ることにはなるが、同じアメリカのオーケストラにおいても、オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団はシルキーな音色を特徴としていたし、セル指揮のクリーヴランド管弦楽団は、鉄壁のアンサンブルをベースとしたセルの楽器とも称される室内楽的で精緻な音色を誇っていた。ライナー&シカゴ交響楽団も、本XRCD盤を聴くと、それらのオーケストラにも対抗し得るだけの独特の艶やかな音色を持っていたことがよく理解できるところだ。演奏自体は、正直言って深みのある奥行きのある演奏とは言い難い。したがって、とても名演との評価をすることは困難な外面的な演奏であると言えるが、それでも当時のシカゴ交響楽団のスーパー軍団ぶりや、XRCDによる極上の高音質録音であることを考慮して、★4つの評価とさせていただくこととしたい。
フルトヴェングラー指揮によるベートーヴェンの交響曲第5番の演奏については数多くの録音が遺されており、いずれも名演であると言えるが、その中でも最も評価が高いのは本盤におさめられた、戦後復帰コンサートの3日目である1947年5月27日のライヴ録音と、既に本年1月にEMIよりSACD化されて話題を呼んだ1954年のスタジオ録音であるということは論を待たないところだ。両演奏はあらゆる意味で対照的な性格を有しているが、フルトヴェングラーの指揮芸術の懐の深さをあらわすものとして、クラシック音楽ファンの間でも長年に渡って愛好されてきた名演であると言える。1954年盤は、前述のようにSACD化によって見違えるような鮮度の高い音質に生まれ変わっており、音質におけるハンディはほぼ解消されたと言ってもいいだろう。これに対して1947年盤については、かねてから演奏は最高であるが音質が劣悪との刻印が押されているものであり、かかる音質の劣悪さは数年前にSHM−CD盤が発売されても殆ど変わることがなかった。さらに一昨年、アウディーテより、本演奏の2日前の戦後復帰コンサート初日のライヴ録音がにわかには信じ難い鮮明な音質で発売されたことから、ますます当該1947年盤の立場が危うくなってきていたところであった。そのような中での今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の登場は、正に起死回生とも言うべき壮挙と言えるだろう。もちろん、最新録音のような鮮明な音質になったわけではないが、少なくともこれまでの数々のリマスタリング盤やSHM−CD盤とは次元の異なる高音質に生まれ変わっており、この歴史的な超名演をかなり満足できる音質で堪能できるようになった意義は極めて大きいと言わざるを得ない。演奏は、フルトヴェングラーの実演がいかに凄まじいものであったのかがわかるような壮絶な超名演だ。楽曲の本質を鋭く抉り出していくような彫の深い表現が全体を支配しており、第2楽章の濃厚な味付けはむせ返るようなロマンティシズムに満ち溢れていると言える。終楽章のエンディングに向けて徐々にテンポを加速し、頂点に向けて畳み掛けていくような凄みのあるアッチェレランドを駆使しているが、それでいて全体の堅固な造型がいささかも弛緩することがないのは、フルトヴェングラーだけに可能な圧巻の至芸と言えるだろう。併録のエグモント序曲や大フーガも、濃厚なロマンティシズムとドラマティックな迫力に満ち溢れた素晴らしい超名演だ。フルトヴェングラーは、仮に小品であっても、交響曲に接するのと同じように、楽曲の内容の精神的な深みを徹底的に追及する姿勢で演奏に臨んだが、これら両曲の演奏においても同様であり、その演奏の彫の深さにおいては、他の指揮者が束になっても到底かなわないと言える。いずれにしても、このようなフルトヴェングラーによる歴史的な遺産とも言うべき至高の超名演を、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤という、現在望み得る最高品質のパッケージメディアで味わうことができるのを大いに歓迎したい。
ユニバーサルが昨年より、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の発売を開始したのは、ネット配信が隆盛期を迎えパッケージメディアの権威が揺らいでいる中において、快挙とも言える素晴らしい出来事であった。ユニバーサルは発売開始以降、月に3〜5枚のペースで当該SACD&SHM−CD盤を発売してきているが、小澤によるブラームスの交響曲第2番とブリテンの戦争レクイエムを除いては、かつて発売されていたSACDハイブリッド盤の焼き直しに過ぎなかったと言わざるを得なかった。しかしながら、ライバルのEMIがフルトヴェングラーの遺産のSACD化に踏み切り、大変な好評を得ていることに触発された面もあるのではないかとも思われるが、今般、これまで一度もSACDで発売されたことがないフルトヴェングラーの一連の歴史的な録音を、定評のあるシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤で発売するというのは、昨年以上に素晴らしい壮挙として大いに歓迎したいと考える。本盤におさめられているのはシューマンの交響曲第4番と「マンフレッド」序曲であるが、いずれもそれぞれの楽曲の演奏史上最高の玉座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。シューマンの交響曲第4番は、悠揚迫らぬインテンポで荘重に曲想を進めていく。シューマンの絶望感に苛まれた心の病巣に鋭く切り込んで行くような深沈とした彫の深さにも際立ったものがある。演奏全体の造型はきわめて堅固ではあるが峻厳さを感じさせることはいささかもなく、演奏全体が濃厚なロマンティシズムに満ち溢れているのが素晴らしい。これほどの深みのあるシューマンの交響曲第4番の演奏は他にも例がなく、その後は、ベーム&ウィーン・フィル(1979年)、バーンスタイン&ウィーン・フィル(1984年)、カラヤン&ウィーン・フィル(1987年)などの名演も生まれてはいるが、本フルトヴェングラーによる超名演には到底足元にも及ばないと考える。「マンフレッド」序曲も、フルトヴェングラーならではの濃厚で奥行きの深さと実演ならではのドラマティックな圧倒的生命力を感じさせる至高の超名演であり、ウィーン・フィルを指揮した名演(1951年、既にEMIよりSACD化)よりも更に上位に置きたいと考える。音質は、1953年のスタジオ録音(「マンフレッド」序曲は1949年のライヴ録音であり、若干音質は落ちる。)ということもあって従来盤でもフルトヴェングラーのCDとしては良好な方であったが、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって、にわかには信じ難いような鮮明な音質に生まれ変わった。フルトヴェングラーによる至高の超名演をこのような極上の高音質SACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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