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「乙女は何を祈るのか」

Tuesday, October 30th 2007

連載 許光俊の言いたい放題 第127回

「乙女は何を祈るのか」

 「乙女の祈り」は日本でもっともよく知られたピアノ曲のひとつだろう。しかし、はっきり言って「エリーゼのために」と比べるとつまらない。安定しすぎているというか、ニュアンスに乏しいのだ。変奏が実に表面的なのだ。私にはラジオ体操の音楽みたいに聞こえる(というか、ラジオ体操がこっちをマネしているのだろうが)。だいたい、乙女が祈ると言ったら、恋愛ごとに決まっている。だとしたら、あんな健康的な音楽ではまずいのでは、などとも思う。
 その「乙女の祈り」を書いたバダジェフスカの作品集が出た。ポーランドの人で、本当はボンダジェフスカというらしい。弾いているのは20歳のユリア・チャプリーナ嬢。ジャケットを見るといかにも美少女っぽい雰囲気のピアニストだ。これなら「乙女の〜」という曲を弾いても見事にさまになるだろう。
 1曲目に「乙女の祈り」が入っている。ああ、つまらないやと思いながらとりあえず聴く。だが、トラック2に入ったところで「おっ」と思った。なんだこれは、まるでシューマンの「子供の情景」じゃないか。決して複雑な音楽ではない。だが、そっと語りかけるような親密な雰囲気がある。悲しいようで嬉しいようでどちらかよくわからない、という微妙さがある。ちなみにこの2曲目「乙女の感謝」という題名。名前からすると、猛烈にくだらなそうに思えたが、聴いてみて正解だった。ピアニストの力も大きいかもしれない。低い音域で弾かれる主旋律がよく考えられた強弱で弾かれていて、これが特に効いているのだ。
 そして、3曲目のマズルカは、ショパンみたい。で、以後もざっと聴いてみてわかったことは「乙女の祈り」がこの作曲家の最上の作品ではないということ。そして、楽しげな中にも憂愁を感じさせるのがこの人の個性だということ。誰が聴いてもわかりやすい美しさのようでいて、実は秘められた暗さがあるのだ。「天使の夢」という曲など(ちょっと恥ずかしい曲名)、ドラマに陰影を与える劇伴として効果的だろう。「エオリアン・ハープ」という曲では、シューベルトみたいな暗黒の沈黙が突然はさまってきて驚いた。
 特に「乙女の祈り」は発表当時、大ヒットしたという。おかげで以後、ボンダジェフスカは「○○の祈り」という曲をたくさん所望されたらしい。どういうわけか、その後、世間は冷たかった。音楽事典の類など、ここまで書かなくてもと思われるほど冷酷にこきおろしている。作曲したのが女性だったからか。指揮と同じく、作曲という仕事も長い間男がするものと決まっていたのだ。
 ともかくも、十分聴く価値がある音楽である。少なくとも私にとっては、シュトラウス一家のワルツよりよほど好ましい。解説書も丁寧で詳しい。

 鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパンの「ロ短調ミサ」を聴いた。この演奏者たちについてはすでに多くの賛辞が捧げられている。だが、私は1枚のCDを聴いたことがあるきりだ。バッハのカンタータだったが、それを聴いてみて、「あ、やっぱり」と興味を喪失していたのである。非常に丁寧な演奏が行われていることは間違いない。しかし、あまりにも薄味であり、おとなしい。これは好意的な言い方であって、悪く言うなら、生気や活気に乏しく、リズムや抑揚がべったりして死んでいるということだ。日本のオーケストラや独奏者にも共通する弱点だが、強拍、弱拍の区別が曖昧で、長短も寸詰まり気味に同じようになってしまう。だからリズムや音型がくっきりとしてこないのだ。私はどうにもこうにもこれが苦手である。たとえていうならこういうこと。日本語の難しい単語も知っていて、発音もきれいな外国人がいたとする。でも、英語のアクセントや抑揚でしゃべったら、それはあまり日本語に聞こえないだろう。私はたとえばそういう立て板に水の変な日本語をエジプトやらトルコやら各地の観光地で聞いたことがある。彼の地の人々は日本語学校に通ってカーペット売り込みのための外国語力に磨きをかけているのだ。最初は日本語とすら気づかない。が、いったん気づくや、よくもこれだけきちんと習得したものだと感心する。
 このCDでは、独唱者はすべて西洋人が歌っている。彼らとオーケストラや合唱のリズム感を比べてみるがいい。強弱の付け方が違うこともわかるだろう。その強弱によって音楽がはるかにあたたかみを増し、生き生きした表情を得る。1枚目のトラック2、2重唱を聴けば誰の耳にも明らかなはずだ。そして、彼らが登場しない部分は、きれいといえばきれいだが、往々にして無機的、機械的な感じがするのだ。この丁寧な演奏に対し、一定の評価を与えるのはやぶさかではないにせよ。
 こんなに文句を言っておいて、なぜこのコラムで紹介するのか。それは部分部分では、非常に魅力的な音楽が楽しめるから。たとえば澄んだ声のソプラノたちの饗宴。あるいは1枚目トラック8。ここでは好ましい伴奏に支えられソプラノとテノールが心地よくさえずる。
 ところどころ(たとえばトラック9)で合唱が示す妙に官能的なねっとりと濡れたような美しさ。こういう類の繊細で、澄んでいて、それでいて色彩豊かなハーモニーを30年前の音楽家は知らなかったのだ。演奏法や音律の研究の成果である。
 クレドの軽快ではあるが浅薄ではない演奏は掛け値なしにすばらしい。合唱の各声部のあでやかな絡み合いといったら、精巧な工芸品のようだ。絶妙のバランス感。総じて、器楽部分よりも声楽部分が魅力的である。
 エコロジーとダイエットと健康志向の時代のバッハ。軽さと透明が愛される時代のバッハ。薄味のさらさらしたバッハ。肉を食らうより菜食主義のバッハ。信念や信仰よりは感覚的快楽のためのバッハ。その手の演奏としては最高クラスであることは間違いない。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 


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