第13回「ムッソリーニの三顧の礼」
Friday, September 2nd 2005
はんぶる・ドットこらむ 山崎浩太郎第13回
「ムッソリーニの三顧の礼」
東京から首都機能を移転せよ、という声がある。「政治中心」と「経済中心」を切り離し、かつとの江戸と大阪のように、あるいはアメリカのワシントンDCとニューヨークのように、役割を分担せよ、ということらしい。
こうした分割例は、イタリアにもある。ローマとミラノだ。計画された分担ではなく、地政的、歴史的条件によってこの2都市は、かたや首都、かたや「天下の台所」としての役割を、イタリアにおいて果たしてきた。
さて、文化というのは基本的に、お金の流通量が多いところに育つ。
音楽芸術も例外ではなく、ワシントンDCよりニューヨークがさかんなのと同様、ローマよりミラノの方がさかんである。ミラノ・スカラ座が、名実ともにイタリア最高の歌劇場でありつづけるのは、こうした経済的条件によるところが大きい。
これに不満を唱えたのが、1922年にイタリアの首相、翌年に統領(ドゥーチェ)となったムッソリーニである。かれにとってローマとは、その名を冠する古の大帝国の栄光を、いまによみがえらす最高の都でなければならなかった。であるから歌劇場とて、スカラ座かそれ以上の規模と水準を誇りうるものが、ローマになければならないのである。
この要望によって、《カヴァレリア・ルスティカーナ》や《トスカ》を初演したことで知られるコスタンツィ座を大改装して、国営の歌劇場組織が創設されることになった。
名称も新たに王室オペラ座となった新歌劇場は、28年2月28日、ボーイトの遺作《ネローネ》をもって開場した。当夜の指揮をしたジーノ・マリヌッツィが、その音楽監督をつとめていたが、じつはムッソリーニは、別の人物を音楽監督に迎えたいと思っていた。
トゥリオ・セラフィンである。かれこそ、ミラノに君臨してファシスト党のいうことを聞かないトスカニーニに対抗できる、唯一のイタリア人指揮者であった。
しかしセラフィンは24年から、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の指揮者をしており、26年と30年の両度行なわれたムッソリーニ直々の招聘にも、応じようとしなかった。
19世紀末以来、テノールのカルーゾー、マルティネッリ、ジーリなどを典型とするイタリア最良の男性音楽家たちの多くが、メトを活動の拠点にしていた。ドルの力が現代以上に絶大だったからである。
ムッソリーニにとっていまいましいこの事態は、しかし1929年の大恐慌によって、変わることになった。その後数年間つづいた大不況の中で、メトの出演料は段階的にカットされた。それに乗じてファシスト党は、好待遇を持ちかけてスターたちに、イタリアへの帰国をうながしたのである。
こうして30年代、再統一以来はじめてイタリアは、自国人の最高のアンサンブルを自国内の歌劇場にそろえることができた。そしてついにセラフィンも、ムッソリーニの3度目の要請に折れて(かれ自身は、出演料カットが原因ではなく、祖国と絶縁したくなかったからだといっている)、34年からローマ王室オペラ座の指揮者となることになった。
劉備元徳が諸葛孔明を迎えた三国志の故事そのまま、「三顧の礼」で迎えられたセラフィン。かれが就任5年後に録音したのが、このレクイエムである。独唱のうち、スティニャーニ、ジーリ、ピンツァの3人については、いまだこの録音をしのぐものはない。
これは、ムッソリーニ最高の遺産のひとつ、といえるのかも知れない。かれの「終わりの始まり」となるドイツのポーランド侵攻が開始されるのは、録音から数週間後である。
* Point ratios listed below are the case
for Bronze / Gold / Platinum Stage.
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Requiem: Serafin / Rome Opera House.o
Verdi (1813-1901)
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Release Date:30/November/2001
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