サティはアラブ音楽だった?
Thursday, January 10th 2019
連載 許光俊の言いたい放題 第265回
ドビュッシーの前奏曲集と言えば・・・もちろんすぐに思い起こされる「名盤」は、ミケランジェリだ。
だけど、実は私にはあの演奏はしっくりこないのである。もちろんたいした演奏なのだけれど、ぬくもりがないというか、ドビュッシーはあんな冷たい音楽を書いたのだろうかと思ってしまうのだ。だって、現実のドビュッシーはいろいろトラブルを起こすほどの女好きだったし、「ペレアスとメリザンド」のような妖しいオペラも書いたし、すべてが明快、くっきり、固定的な、機械的な美に打ち込む人とは思えないのだ。
だから、ファジル・サイの録音を聴き始めて、実に嬉しくなったのだ。そうそう、こういう感じ。エロティックで陶酔的な感じ。やっぱり世紀末に片足を突っ込んでいたドビュッシーとは、こうじゃないのと思った。
ファジル・サイは、世界中で売れすぎたせいか、一時仕事が荒れたという印象を受けていたけれど、このドビュッシーは大丈夫だ。
第1曲めの「デルフィの舞姫たち」からして、実に柔らかく、やさしい。古代の乙女たちのゆるやかな踊り。彼女たちの愁いを秘めたまなざしまで見えるようだ。
第4曲の「音と香り・・・」は、和音のぶつかりあいを強調して、思いのほかドラマティック。
続く「アナカプリ」の諧謔。
一転、「雪の上の足跡」はしんしんと静かで神秘的で余韻がある。
「亜麻色の髪の乙女」、すばらしくセンチメンタル。普通、センチメンタルは否定的な言葉だけど、あえて肯定的にこう言いたい。ついでに、ノスタルジックで、メランコリック。以前、「ピアノで女を口説けるのはグルダしかいないかも」と書いたことがあるが、たぶん、このピアニストも口説ける。
そして、「沈める寺院」(ほんとはこれ、寺院ではなくて、カテドラルと呼びたいね)は、不思議に甘い弾きだし。どうして? それが、徐々に音があふれ出して、ムソルグスキーの「キエフの大門」みたいになっていく。
間違いなく言えることは、このピアニストも年齢を重ね、明らかに成熟を見せるようになったこと。こんなにじっくり、どっしりした落ち着きは、かつてはなかった。
ピアノという楽器の響きを満喫させながら、語り口も巧み。ひとつひとつの曲が慈しみ深く弾かれているから、聴いているほうもそういう気持ちになる。そして、12曲があっという間に終わる。
このドビュッシーのあとに、サティが入っているのもいい。このサティもしっとりしている。たとえばラベック姉妹の演奏など、もうちょっとドライでそっけなく弾く。それがサティの新しさを強調するのだが、サイは全然違う。
さらには、なんとこの演奏はアラブ音楽のようにも聞こえるのだ。もしやサイの原点はサティだった?とまで怪しんでしまうようなくらい、中東風に響く。これは驚き以外の何物でもない。有名な「6つのグノシェンヌ」第1曲がこれほどまでにエキゾチックに聞こえる経験は初めてだ。砂漠に吹く風。砂に埋もれていく町。そんなイメージが喚起される。
これもまた有名な「3つのジムノペディ」第1曲は、溶けて消え去る甘美。幻のように儚い。
サティは、掟破りの、現代芸術の先駆けみたいに捉えられることが多かった。それはそれでよい。が、このサイの録音は、まったく別の、ロマンティックで情緒的な、19世紀音楽的な仕立てだ。それがとてもおもしろいし、魅力的だ。
録音も上等。

それと全然違う方向のドビュッシー演奏を、たとえばイザベル・ファウストらの晩年作品集あたりで楽しめる。
ファウストは、信じられないほど微妙繊細に弾いたかと思うと、案外普通だったり、不思議な人だ。再生はけっこう難しいと思う。このヴァイオリン・ソナタは、甘さゼロの辛口。あるいは一瞬だけの甘味。いわゆる美音を売り物にはしていなくて、ヴァイオリンが擦って音を出す楽器だとわからせる。音は即物的にそこにあり、どんな情感も喚起しない。ピアノを弾いているのはメルニコフで、これもまた甘くない。なので、もっと新しい時代の作品のように聞こえる。
ドビュッシーは案外老け込むのが早い人で、晩年は創作力がだいぶ落ちてしまったというけれど、「フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ」は、いい曲だ。楽器の取り合わせ、音色の取り合わせがしゃれているし、フルートを吹いているフランス放送フィルの首席、モニエがすばらしい。
ケラスによるチェロ・ソナタも、沈痛な美しさ。実は私は、世評にもかかわらず、このチェロ奏者にまったく好感を抱けなかった。その詳細は省くが、私には彼の弱点としか見えない部分が、このドビュッシーでは表に出てこない。考え考え少しずつ進んでいく感じ、ひとりごとのような感じが、軽薄でなくていい。
舟歌とは言いながら、葬送行進曲のような「英雄の子守歌」。不安げな和声進行。彼がこういう曲を書いたとき、もう第一次世界大戦が始まっていた。まさに、ひとつの時代が完全に終わるちょうどそのころだった。彼の年齢と時代が重なった。
いいアルバムだ。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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