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Sym, 7, 9, Piano Concerto, 5, Egmont Overture: Mengelberg / Concertgebouw O De Groot(P)

Beethoven (1770-1827)

Item Details

Genre
:
Catalogue Number
:
WMS20230102
Number of Discs
:
2
Format
:
CD
Other
:
Import

Product Description


臨場感あるデジタル・リマスタリングで歴史的演奏が蘇る!

ベートーヴェン:交響曲第9番、第7番、皇帝、エグモント(2CD)
メンゲルベルク指揮コンセルトヘボウ管弦楽団、他


メンゲルベルク協会による新リマスター・シリーズ第2弾。ピアニストでもあるヨッヘム・ヘーネによるリマスターは非常に手の込んだものです。目立つノイズはひとつひとつ手作業で除去することで音源としての快適さを追求し、さらに最新の研究成果を反映したデジタル技術を駆使することで疑似ステレオ化をおこなっています。
  これはホールを知り尽くした演奏家ならではの発想です。半世紀に渡ってメンゲルベルクが指揮していたコンセルトヘボウ大ホールのサウンドは、実際にはとても豊かな間接音を特徴とするものであったことを聴き手に想起させるべく、ヨッヘム・ヘーネの運営するストゥーディオ・ファン・スフーペンは、リバーブ界のトップ企業でもあるアメリカのハイエンド・オーディオ・ブランド「ブリカスティ」の技術者と協力して新たなアルゴリズムを開発しています。

 トラックリスト (収録作品と演奏者)

ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン [1170-1827]

◆ 交響曲第7番イ長調 Op.92 37:49
1. I. ポコ・ソステヌート - ヴィヴァーチェ 11:55
2. II. アレグレット 09:15
3. III. プレスト 09:40
4. IV. アレグロ・コン・ブリオ 06:59

アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
ウィレム・メンゲルベルク(指揮)
録音:1940年4月25日

◆ ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 Op.73「皇帝」 38:12
5. I. アレグロ 20:19
6. II. アダージョ・ウン・ポコ・モッソ 07:59
7. III. ロンド:ヴィヴァーチェ 09:54

コル・デ・フローテ(ピアノ)
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
ウィレム・メンゲルベルク(指揮)
録音:1942年5月9日

CD 2
1. ◆ 「エグモント」序曲 Op.84 08:21

アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
ウィレム・メンゲルベルク(指揮)
録音:1943年4月29日

◆ 交響曲第9番ニ短調 Op.125「合唱」 68:00
2. I. アレグロ・マ・ノン・トロッポ 14:47
3. II. モルト・ヴィヴァーチェ 11:40
4. III. アダージョ・モルト・エ・カンタービレ 15:38
5. IV. フィナーレ:プレスト 25:55

トー・ファン・デル・スルイス(ソプラノ)
スーゼ・ルーヘル(アルト)
ルイ・ファン・トゥルダー(テノール)
ウィレム・ラヴェッリ(バス)
アムステルダム・トーンクンスト合唱団
オランダ王立オラトリオ協会合唱団
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
ウィレム・メンゲルベルク(指揮)
録音:1940年5月2日
 Track list

Ludwig van Beethoven (1770-1827)

CD 1
Symphony No. 7 in A major Op. 92 37:49
1. poco sostenuto - vivace 11:55
2. Allegretto 09:15
3. Presto 09:40
4. Allegro con brio 06:59

Concertgebouw Orchestra
Willem Mengelberg
Recording: 25 April 1940

Piano Concerto No. 5 in E flat major Op. 73  38:12
5. Allegro 20:19
6. Adagio un poco mosso 07:59
7. Rondo: vivace 09:54

Cor de Groot Piano
Concertgebouw Orchestra
Willem Mengelberg
Recording: 9 May 1942

CD 2
1. Overture to Egmont Op. 84 08:21

Concertgebouw Orchestra
Willem Mengelberg
Recording: April 29, 1943

Symphony No. 9 in d minor Op. 125 68:00
2. Allegro ma non troppo 14:47
3.. Molto vivace 11:40
4. Adagio molto e cantabile 15:38
5. Finale: Presto 25:55

To van der Sluys soprano
Suze Luger contralto
Louis van Tulder tenor
Willem Ravelli bass
Amsterdam Toonkunstkoor
Koninklijk Oratoriumkoor
Concertgebouw Orchestra Amsterdam
Willem Mengelberg
Recording: 2 May 1940


 メンゲルベルクの一族

ウィレム・メンゲルベルクの先祖は代々ドイツ人という家系。両親は1866年に大聖堂の街ケルンで結婚し、1869年にオランダの大聖堂の街ユトレヒトに移住。宗教関連の仕事で収入に恵まれたことと、乳幼児死亡率の高い時代ということもあって、2人の間には16人の子供が誕生。ウィレムは、オランダ移住から2年目に生まれた第4子でした。
  父方の先祖は、ケルン近郊で同じくライン川沿いの「リンツ・アム・ライン(ライン川のリンツの意)」に中世から暮らし、ウィレムの高祖父にあたるエドムント・ハイムンドゥス・メンゲルベルク[1746-1792]の代で、ケルンに転居。大聖堂の巨大な2本の塔がまだ無かった時代ですが、ケルンは神聖ローマ帝国最大の都市で、人口約4万人を擁する「自由帝国都市」でもありました。
  以下が、ウィレムの曾祖父、祖父、父となります。

曾祖父:エギディウス・メンゲルベルク[1770-1849]
肖像画家、石版画家、室内装飾家、美術教師。

祖父:ヨハン・エドムント・エギディウス・メンゲルベルク[1814-1884]
彫刻家。

父:フリードリヒ・ヴィルヘルム・メンゲルベルク[1837-1919]
親のヨハン・エドムントのほか、大聖堂の建築家であるフリードリヒ・ヴィルヘルム・シュミット[1825-1891]、彫刻家のクリストフ・シュテファン[1797-1864]らに師事。1857年、20歳で修業を終えるとケルンで独立。カトリックに改宗して宗教美術の彫刻家、建築家、画家、室内装飾家、家具製作者として活動を開始。4年後の1861年には弟のオットー[1841-1891]とともに宗教美術のアトリエを設立して成功、1865年には大聖堂の街アーヘンでもアトリエを開設してカトリックの仕事を拡大。
  そして1868年には、オランダのユトレヒト大聖堂の司教座を製作し、続いて同大聖堂の残りの家具の製作も依頼されたことから、1869年にはオランダに移住する道を選びます。背景にはドイツ系オランダ人の建築家アルフレート・テーペ[1840-1920]がケルン大聖堂の現場で1865年から1866年にかけて働いていたことが関係しているかもしれません。テーペと父フリードリヒ・ヴィルヘルムのオランダでの共同作業はかなり多かったということなので。
  ちなみにオランダは、1848年の憲法改正により、スペインからの独立以来、約200年間禁じられていたカトリックを合法化。5年後の1853年にはローマ教皇ピウス9世[1792-1878]により、4つの教区が導入され、巨大な大聖堂のあるユトレヒトは大司教区としてカトリック復興の重要な拠点となったほか、オランダ全土でカトリック教会の建設が盛んになり、その状態が数十年に渡って続くことになります。
  父フリードリヒ・ヴィルヘルムのアトリエの従業員数も、1876年に4人だったものが、1885年に21人、1890年に32人と成長していたということで、オランダ移住が正しかったことを証明しています。

 年表

187118721873187418751876187718781879188018811882188318841885188618871888188918901891189218931894189518961897189818991900190119021903190419051906190719081909191019111912191319141915191619171918191919201921192219231924192519261927192819291930193119321933193419351936193719381939194019411942194319441945194619471948194919501951

 1746年

●高祖父エドムント・ハイムンドゥス・メンゲルベルク[1746-1792]誕生。エドムントは、のちにリンツ・アム・ラインから、大聖堂の街ケルンに転居。
 1770年

●曾祖父エギディウス・メンゲルベルク[1770-1849]、ケルンで誕生。肖像画家、石版画家、室内装飾家、美術教師。
 1814年

●祖父ヨハン・エドムント・エギディウス・メンゲルベルク[1814-1884]、ケルンで誕生。彫刻家。
 1837年

●10月18日、父フリードリヒ・ヴィルヘルム・メンゲルベルク[1837-1919]、ケルンで誕生。


 1845年

●母ヴィルヘルミナ・アンナ・ヘレナ・シュラッテンホルツ[1845-1930]、ドイツのジーククライス州ヘンネフ近郊のシュログ・オールナーで誕生。


 1848年

◆オランダで憲法改正。欧州各国で革命機運の吹き荒れる中、オランダではスペインからの独立以来禁じられていたカトリックが認められることになります。
 1853年

◆ローマ教皇ピウス9世[1792-1878]により、オランダに4つの教区が導入され、巨大な大聖堂のあるユトレヒトは大司教区として、カトリック復興の重要な拠点となります。
 1857年

●父メンゲルベルク、20歳で修業を終え、ケルンで独立。プロテスタントからカトリックに改宗して宗教美術の彫刻家、建築家、画家としてカトリック系の仕事を得て活動を開始。
 1861年

●父メンゲルベルク、弟のオットー[1841-1891]とともに宗教美術のアトリエを設立して成功。
 1861年

●父メンゲルベルク、大聖堂の街アーヘンでもアトリエを開設してカトリックの仕事を拡大。
 1866年

●2月14日、父メンゲルベルクと母ヘレナ・シュラッテンホルツ[1845-1930]、ケルンで結婚。共にカトリックでした。
 1868年

●父メンゲルベルク、オランダのユトレヒト大聖堂の司教座を製作し、続いて同大聖堂の残りの家具の製作も受注。
 1869年

●父メンゲルベルク、オランダ、ユトレヒトに移住。


 1871年(0歳)

◆1月18日、ドイツ統一。占領地フランスのヴェルサイユ宮殿の鏡の間で戴冠式。10日後には、同じ場所で普仏戦争の休戦協定が署名。半世紀後、第1次大戦でドイツに勝利したフランス(連合国)は、ドイツにとって屈辱的なヴェルサイユ条約を同じく鏡の間で締結して報復。
●3月28日、ヨーゼフ・ウィレム・メンゲルベルク、オランダのユトレヒトで、16人兄弟の第4子として誕生。生家のファサードは、父の友人のゴシック建築家アルフレート・テーペがデザイン。
  なお、オランダ語読みでは「Mengelberg」は「メンゲルベルフ」ですが、ここでは日本で一般的な「メンゲルベルク」とするほか、文字数節約のため「WM」というイニシャルも用います。ちなみに生地のユトレヒトは日本独自の読み方で、オランダ語ではウトレフト、ドイツ語でウトレヒト、英語でユトレクトなどとなっていますが、これについても一般的な「ユトレヒト」表記としておきます。

 1872年(0〜1歳)


 1873年(1〜2歳)


 1874年(2〜3歳)


 1875年(3〜4歳)

●WM、ピアノを弾き始めます。指導は母親。

 1876年(4〜5歳)


 1877年(5〜6歳)

●WM、ユトレヒトのグラマースクールに入学。卒業後はメンゲルベルク家のほかの男子兄弟と同じくカトウェイク寄宿学校に入学し、その間、隣人でもあるリームスダイクらにユトレヒトのトーンクンスト音楽学校で学んでいます。

 1878年(6〜7歳)


 1879年(7〜8歳)

●WM、合唱曲を作曲。
●WM、ユトレヒト大聖堂の聖グレゴリウス・マグヌス合唱団に入団。パレストリーナの「教皇マルチェルスのミサ」などを歌います。時にはソプラノ・ソロを歌ったり、成長してからは、リハーサルで指揮したり、オルガン演奏を受け持つようになります。ユトレヒト大聖堂はプロテスタントの運営だったため、指揮者のC.F.ル・ブランの肩書も牧師でしたが、ル・ブランはレーゲンスブルクの音楽学校で教会音楽改革運動である「チェチリア運動」を学び実践していた人物で、モーツァルトやハイドンのミサのような演奏会向け音楽の教会での演奏を禁じ、聖歌やルネッサンスのポリフォニーを重視するという方針を確立。1883年に着任した後任のエッピング牧師も同じ方針だったため、WM少年は、聖歌やルネッサンスの音楽について精通することになります。



 1880年(8〜9歳)

◆12月、第1次ボーア戦争勃発。オランダ系農民たちがつくったトランスファール共和国(南アフリカ共和国)をイギリス政府が武力支配し、重税を課したことに反発した人々による反乱。

 1881年(9〜10歳)

◆3月、第1次ボーア戦争終結。トランスファール共和国の勝利。
●WM、ユトレヒト大聖堂で、オルガン演奏を教わり、日曜や祝日に演奏するようになります。17歳まで7年間継続。



 1882年(10〜11歳)

●コンセルトヘボウNV設立。

 1883年(11〜12歳)


 1884年(12〜13歳)

●WM、ブラームスの前でヘンデル変奏曲を弾き、「君は私の作品を理解しているのだから、このまま私の音楽を演奏し続けなさい。」と激励されます。ブラームスはメンゲルベルクの両親の友人エンゲルマン家に数日間滞在していました。



 1885年(13〜14歳)

●WM、合唱団のコンサートで指揮。

 1886年(14〜15歳)


 1887年(15〜16歳)


 1888年(16〜17歳)

●4月11日、アムステルダムに新しいコンサート会場「コンセルトヘボウ」がオープン。ホールの音響設計は、当時最高の響きといわれた第2代ゲヴァントハウス(1884年開場、1944年に爆撃で破壊)に倣ったもので、のちにボストン・シンフォニー・ホール(1900年開場)も同じくゲヴァントハウスの音響設計を参考にしています。


  こけら落としは、ワーグナー指揮者として知られたヘンリー・フィオッタ[1848-1933]が、臨時編成の120人の楽団と500人の合唱団によるワーグナー、ヘンデル、バッハ、ベートーヴェンというプログラムを演奏。


●6月、コンセルトヘボウNVの理事会は、新しいオーケストラ設立に向けて、初代指揮者の選考を開始。こけら落としを指揮して成功させたヘンリー・フィオッタにも声をかけますが、フィオッタは断っています。エクセルシオール合唱協会音楽監督のフィオッタは、オランダ・ワーグナー協会の設立者でもあり、バイロイト以外で上演禁止と強弁されていた「パルジファル」の上演を1905年におこなって物議を醸すなど熱烈なワグネリアンでもありました(WMとCOAは1902年に演奏会形式で上演)。
  理事会は次に、アムステルダムのパーク劇場でパーク管弦楽団の指揮者を務めていたウィレム・ケス[1856-1934]と交渉して承諾を得ています。ケスは年俸3,000ギルダーで4年間という条件で契約し、新しいオーケストラの編成に動き始めます。


●WM、カトウェイクの寄宿学校を卒業。
●9月、WM、ケルン音楽院に入学。住居のあるフーンスガッセはケルン大聖堂から数百メートルという立地で、そこに新品のグランドピアノが運び込まれていました。メンゲルベルクのケルン滞在は約4年間でしたが、その間、生活費など支出に関しては父親に報告書を提出して承認をもらうという厳格な金銭管理方針で一貫。近くの音楽教室の伴奏で得た収入も報告されるという徹底ぶりでした。
  ケルン音楽院では、1884年に前院長のフェルディナント・ヒラーが退任した際、後任としてブラームスの名が挙がっていますが、ブラームスは同世代の親しい友人を推薦し、新院長はそのフランツ・ヴュルナー[1832-1902]に決定。「コールユーブンゲン」の著者で、「マタイ受難曲」「エリヤ」「パウル」「天地創造」「四季」「ドイツ・レクイエム」など合唱大作指揮の権威でもあるヴュルナーは、若い時分にはベートーヴェンの弟子のシンドラーに師事したこともある人物。30代の頃にはバイエルン国王ルートヴィヒ2世の指示により、ミュンヘン宮廷歌劇場(バイエルン国立歌劇場)で「ラインの黄金」と「ワルキューレ」を初演したこともあったヴュルナーですが、ほどなくブラームス派となり、対立陣営のビューローやワインガルトナーから感情的に攻撃されるほど目立った人物でもあったようです。
  ケルン音楽院でメンゲルベルクの学んだ科目は以下の通りです。
  ピアノ:イジドア・ザイス[1840-1905]
  指揮、作曲:フランツ・ヴュルナー
  声楽:ベンノ・シュトルツェンベルク[1827-1906]
  理論:グスタフ・イェンゼン[1843-1895]
  音楽史:オットー・クラウヴェル[1851-1917]
  オルガン:フリードリヒ・ヴィルヘルム・フランケ[1862-1932]
●11月、アムステルダムに新しいオーケストラ「コンセルトヘボウ管弦楽団」(略称:COA)が誕生。最初の演奏会のプログラムは、ベートーヴェンの「献堂式」序曲、ブラームス「ハイドン変奏曲」、サン=サーンス「ファエトン」、スタンフォード交響曲第3番、ワーグナー「マイスタージンガー」前奏曲というもので、独仏英という構成は、ケスの国際的な傾向を示してもいます。なお、スタンフォードの交響曲第3番は、アイルランド民謡の活用とブラームス交響曲第4番第2楽章素材の使用が印象的な作品で、当時マーラーやビューローも取り上げて人気を博していました。
  ケスはコンセルトヘボウでの活動開始にあたって、演奏水準の向上と鑑賞環境の向上という2つの大きな目標を掲げ、目標達成のための禁止事項の告知をおこなっていきます。

【聴衆】
演奏中のおしゃべり、飲食、タバコ、うろつきなど禁止。1890年には、演奏中はホールのドアを閉めることを決定。遅刻者は休憩時間に着席するようになります。

【楽員】
リハーサル、本番での遅刻、おしゃべりに罰金。演奏が水準に満たなかった者は居残り練習。


 1889年(17〜18歳)

●7月、WM、試験で、ブラームスのヘンデル変奏曲を演奏。
●7月、WM、試験で、音楽院のオーケストラとの共演でリストのピアノ協奏曲第1番を演奏。



 1890年(18〜19歳)

●WM、ピアニスト・デビュー。
●WM、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団で指揮者デビュー。

 1891年(19〜20歳)

●2月3日、WM、リヒャルト・シュトラウス指揮するケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の演奏会で、「ドン・ファン」のグロッケンシュピールの代役で出演。リハーサルではうまくいったものの、本番では緊張のあまりタイミングを逸してしまい、後年も「ドン・ファン」を指揮するたびにそのことを思い出すほどのトラウマになってしまったのだとか。

 1892年(20〜21歳)

●コンセルトヘボウNV理事会、首席指揮者ウィレム・ケスの契約を延長更新。年俸3,000ギルダーから5,000ギルダーに引き上げ。
●7月、WM、自作の合唱曲を演奏試験で披露したほか、ラインベルガーのピアノ協奏曲、リストのピアノ協奏曲第1番、シューマン幻想曲など演奏。
●7月、WM、ケルン音楽院を卒業。
●8月、WM、ケルンの知人たちとスイス旅行。低地育ちだったので、山の美しい風景に衝撃を受けます。
●11月、WM、ルツェルン市の音楽総監督に任命。1年契約で年俸は4,000スイス・フラン。業務内容は、市立管弦楽団、及びいくつかの合唱団の指揮者、ピアニストとして演奏会を企画して開催することと、声楽訓練学校などの音楽学校で教育に携わり、オーケストラ、及びローマ・カトリック教会の教会音楽コンサートにも参加するという多彩なもの。複数の音楽団体を、「市立コンサート協会」としてまとめあげるという仕事もおこなっています。
  メンゲルベルクは、ピアノの名手でオルガンの演奏経験も豊富、ヴァイオリンとトランペット、ティンパニについても学生時代に演奏できるようになっていたというマルチ・プレーヤーでしたが、ルツェルンでは、楽員への意思の伝達がさらに具体的かつ容易になるように、オーケストラのすべての楽器の演奏法をひと通り習得すべく、楽員たちから直接、そのノウハウについて教えを受けていました。


●12月、WM、ルツェルン。ベートーヴェン:ハ長調ミサ。

 1893年(21〜22歳)

●3月、WM、ルツェルン。メンデルスゾーン「エリヤ」。
●11月、WM、ルツェルン市の音楽総監督契約を4年間延長という形で更新。
●12月、WM、ルツェルン市立管弦楽団の演奏会で、「皇帝」のソロを担当。指揮は教会オルガニストのブライテンバッハ。

 1894年(22〜23歳)

●6月、WM、ユトレヒト音楽祭に出演。ピアニストとして、リストのピアノ協奏曲第1番を演奏したほか、歌曲の伴奏もおこなっています。

 1895年(23〜24歳)

●3月、コンセルトヘボウNV理事会は、グラスゴーのスコティッシュ管弦楽団が首席指揮者としてウィレム・ケスに良い条件を提示してきたことと、理事会ではその条件と競合することはできないという判断を示し、ケスの後任を探すことを決定。
  当初、ドイツのフランツ・マンシュテット[1852-1932]と、ヘンリー・フィオッタが候補に挙がりますが、マンシュテットは1万ギルダーの報酬を求めてきたため候補から外され、フィオッタについては、コンセルトヘボウNVからの最初の申し出を断わっていたことを根に持つ理事も多かったことから外されています。
  ほかに第2指揮者やダルムシュタットで活動中のウィレム・デ・ハーンも候補に挙がりますがいずれも却下。
  そして理事のシレムが、ヨハン・ワーヘナールとWMについて、リームスダイクに相談を持ち掛けたところ、ワーヘナールは経験不足で不適格ということで、WMが有力候補となります。
  リームスダイクはWMに手紙を書いて、報酬が3,000ギルダーと、ルツェルンの約1万ギルダーよりもかなり低いことなどを伝えていますが、WMは母国での仕事に熱意を燃やして承諾、やがて、理事のファン・レースがルツェルンを訪れて、コンセルトヘボウNVが、連邦からも市からも補助金を得られていないため苦しい財務状況にあることなどマイナス面を伝えますが、WMの気持ちは変わらず、「(ルツェルンでの)シンプルで快適な生活」を「困難で大きな使命」と交換する決意を示しています。
  ファン・レースはほかの理事に掛け合い、改善案として年俸4,000ギルダーにその他の報酬を加えて年5,000ギルダーという条件を出し、WM側も、ツアーの旅費と宿泊費無料、及び休暇について条件を出して承諾しています。
●6月30日、WMの恩人リームスダイク、死去。52歳でした。
●7月、ルツェルン市議会で、WMが現地批評に不満を持っていることと、アムステルダムに向かう可能性について議論。オーケストラの増員など引き留め策を講じます。
●WM、ルツェルン市に辞表を提出して受理され、後任として、ケルン音楽院時代の友人ペーター・ファスベンダー[1869-1920]を推薦し、ルツェルン市はその案も受け入れています。
●10月24日、WM、ウィレム・ケスのお別れコンサートで、ピアニストとしてリストのピアノ協奏曲第1番をコンセルトヘボウ管と演奏。WMのコンセルトヘボウ・デビューはピアニストとしてでした。
●10月27日、WM、コンセルトヘボウ管で最初のコンサート。「運命」「真夏の夜の夢」ほか。ウィレム・ケスの後任として、以後、1945年までの50年間首席指揮者として在任。


●11月、WM、10月末にルツェルンに客演している際にひどい風邪に罹り「エリヤ」のリハーサル中に倒れて病院に運ばれます。コンセルトヘボウ管の指揮は2回キャンセルとなり代役が起用。

 1896年(24〜25歳)


 1897年(25〜26歳)

●WM、セシリア協会の指揮者に就任。ヘンリー・フィオッタの後任でした。以後、WM在任中は、セシリア協会が主催する演奏会のオーケストラは、コンセルトヘボウ管となります。
●WM、オランダの作曲家スヴェーリンクの記念碑を建てるための委員会をリシャルト・ホルらと設立。
●8月、WM、バイロイトで『ニーベルングの指環』と『パルジファル』を鑑賞。当時のバイロイトは資金繰りが苦しく、次の公演は2年後というような状況でした。
●8〜10月、WM、関節リウマチを患い休養。9月中旬にはルツェルンの介護施設に入院し、マッサージや温浴などで完全に回復。代役はコンマスのアンドレ・スポールのほか、R.シュトラウスら。

 1898年(26〜27歳)

●アムステルダムで、合唱団、オラトリオ協会設立。
●6月、WM、トーンクンスト合唱団理事会からの指揮者就任要請を受諾。トーンクンスト合唱団は1829年にアムステルダムで設立された合唱団。前任のユリウス・レントヘン[1855-1932]は、コンセルトヘボウ管弦楽団が新設されると発表された1888年、指揮者に立候補していたものの実績が無いため相手にされず、コンセルトヘボウNVの理事会はハンス・フォン・ビューローと交渉、断わられると地元で実績のある指揮者ウィレム・ケスを選んでいたという経緯もありました。
●7月、WM、COAと共に、第1回ノルウェー音楽祭に招かれます。
●9月、WM、トーンクンスト合唱団の指揮者として年俸1,000ギルダーで、2年間の契約を結びます。
●10月、WM、ハーグのコンサート協会「ディリヘンチア」の指揮者に就任。
●11月、ハンス・リヒター[1843-1916]がCOAに客演。WMとCOAは事前に入念に準備し、リヒターはリハーサルをあまりおこなう必要が無く、本番では「悲愴」第2楽章をほとんど指揮無しで演奏させてオケの優秀さを聴衆にアピール。報酬についても、自分はほとんど働く必要が無かったとして2公演分の半分にあたる475ギルダーを楽団に寄付しています。



 1899年(27〜28歳)

●WM、聖金曜日にマタイ受難曲を指揮。トーンクンスト合唱団とCOAによる演奏で、以後、毎年の恒例行事となります。
●10月、WM、「英雄の生涯」をオランダ初演。作品はメンゲルベルクとコンセルトヘボウ管に献呈されていました。これはWMとCOAがシュトラウス作品を数多く演奏し、シュトラウスの客演に対しても万全の準備をおこなっていたことへの返礼でもありました。
◆10月、第2次ボーア戦争勃発。イギリス政府はトランスファール共和国を占領するため、9月に57,000人の軍隊を派遣。しかしボーア人(オランダ系農民)たちは抵抗し、戦争が勃発。最初のうちはボーア人が有利でしたが、1900年からは累計数十万人規模で増派されたイギリス軍が数で圧倒するようになり、1902年5月に戦争は終結。
  その間、イギリス軍は家畜や農産物などの食料を略奪したうえで、3万以上の農場、40以上の村を焼き払い、109の強制収容所を急造して約12万人のボーア人と、同じく約12万人の先住民を強制収容。結果、約6千人のボーア人成人女性と約2万2千人のボーア人の子供のほか、約2万人の先住民を、餓死・病死させています。英王室はこの焦土作戦を指揮した総司令官キッチナーを称えて戦争終結の半年後に子爵位を授与。キッチナーはその後、第1次大戦時の募兵ポスターにも登場し、多くのイギリス人を戦地に送ることに貢献。



 1900年(28〜29歳)

●2月、WM、ハーグのディリヘンチア劇場の演奏会で、終演後、ウィルヘルミナ女王とその母エマからロイヤル・ボックスに招かれます。
●3月、WM、モーツァルトのレクイエムとバッハのカンタータ第80番『われらが神は堅き砦』をトーンクンスト合唱団と演奏。
●7月、WM、マティルダ・エリーザベト・アウフスタ・マリア・ウーベ[1875-1943]と結婚。愛称はティリー。ティリーはトーンクンスト合唱団のメンバーでした。新婚旅行は約2カ月間。スイスとドイツをまわり、恩師ヴュルナーと会ったりもしていました。


●WM、コンセルトヘボウNV理事会に対して、契約延長に応じる考えと、報酬を1万ギルダーに引き上げること、休暇を増やすことを提案。受け入れられます。
●WM、トーンクンスト合唱団の指揮者契約を延長更新。年俸1,500ギルダーに昇給。

 1901年(29〜30歳)

●3月、WM、ウィルヘルミナ王妃とメクレンブルク=シュヴェリーン公ヘンドリックが結婚後初めてアムステルダムを訪れたことを祝う演奏会に参加。WMはこのイベントのために、独唱者、合唱団、オーケストラのための「祝歌」を作曲。テキストはシャープマン博士が書いた愛の讃歌。
●5〜7月、WM、ボーア戦争の俘虜の為に、各方面に資金援助を求め、弦楽器と楽譜を集めてボーア戦争俘虜委員会に送っています。2年半に及ぶボーア戦争中、ボーア人兵士約2万4千人が俘虜としてセイロン島やセント・ヘレナ島など海外に移送・収容されていました。



 1902年(30〜31歳)

◆5月、第2次ボーア戦争終結。
●12月20〜21日、WM、『パルジファル』を演奏会形式で上演。まだワーグナーの著作権が有効で、バイロイト以外での上演は禁止と強弁されていた時期だったため、財政難のバイロイトを背負って立つコジマ・ワーグナーからの演奏中止要請は執拗なものでした。マスコミや弁護士、貴族から作曲家のフンパーディンク、指揮者のモットルまで動員した反対運動には激烈なものがありましたが、肝心のショット社が楽譜を用意してきたため、トーンクンスト協会は上演を決行。圧力による歌手の交代などはあったものの、上演は2回とも無事に終了しています。1年後にはメトロポリタン歌劇場でヘルツの指揮により『パルジファル』が舞台上演されていますが、その時もコジマの中止要請は徹底したものでした。なお、1914年にはワーグナー作品の著作権が失効し、ドイツでは『パルジファル』ブームが訪れています。



 1903年(31〜32歳)

●2月、COA管理部門の監督、ウィレム・フッチェンライター[1863-1950]が辞表提出するものの理事会が慰留。フッチェンライターは、COA第3ホルン奏者出身の権力志向の人物で、WMとは対立関係にありました。
●6月、WM、COAとロンドンで「シュトラウス・フェスティヴァル」を開催。シュトラウス本人も指揮に立ちますが、その準備はいつも通りメンゲルベルクがおこなっていました。
●ムゼウム管弦楽団の首席指揮者、グスタフ・コーゲル[1849-1921]が辞任。コーゲルは1891年に就任していましたが、1901年にユダヤ系リベラル紙「フランクフルター・ツァイトゥング」の批評家となったヘルマン・ゲールマン[1861-1916]から攻撃されるようになり、耐えきれずに辞任しています。
  なお、コーゲルは1908年にはCOAと年間15回の指揮で契約し、2シーズン30回指揮しています。


●12月、WM、モーツァルトのレクイエムに続いて、バッハのカンタータ第50番『いまや、われらの神と救いと力と』と、ワーグナーの『使徒の愛餐』を演奏。
  ワーグナーが29歳の終わりから30歳の初めにかけて作曲した『使徒の愛餐』では、アムステルダム・トーンクンスト合唱団の男声団員のほかに、ユトレヒト・トーンクンスト合唱団の男声団員、アムステルダムの男声合唱団員が合同で400人の男声合唱団を編成。この曲は最後の3分の1にのみオケが入り、それまでの3分の2はアカペラで、大編成合唱の場合、合わせるのも困難ということで、なんとWMはオーケストラ・パートを作曲して演奏。賛否両論となっています。



 1904年(32〜33歳)

●2月、WM、ニューヨークから来訪したエージェントと接触。
●2月、COA管理部門の監督フッチェンライターが辞任。後任は元海軍士官のH.デ・ボーイ。デ・ボーイは管理者として有能で、理事会との関係の透明性を確保し、前任者の問題点も把握して報告、不透明だった音楽監督との関係もクリアなものにしています。
●ハーグ・レジデンティ管弦楽団が設立。楽員には1902年頃から本格化したCOA内の対立によって退団した音楽家が数多く居ました。この頃にはCOA内紛争も終息しています。

 1905年(33〜34歳)

●2月、COA理事会、WMに対し、契約更新による延長期間を1年間と提案。WMも同意。
●6月、WM、マーラーとウィーンに滞在中、ベルリンのエージェントと接触し、ボストン響での仕事(7か月間で30,000ギルダー)など検討。マーラーはのちに、もしボストン響を指揮するなら50,000ギルダー以上を要求するよう助言。一方、シュトラウスは、「アメリカのライプツィヒ」での仕事をあまり薦めませんでした。シュトラウスの言葉は、ボストン・シンフォニー・ホールがゲヴァントハウスの音響設計を参考にしていることから発せられたものと思荒れます。
●6〜10月、COA理事会、WMと契約内容について協議を重ね、更新による延長期間を10年間に決定。
●10月、WM、ニューヨークに向け、シェルブールから豪華客船で出航。


●11月、WM、ニューヨーク・フィル・デビュー。『英雄の生涯』で大成功を収めます。報酬は2公演で約3,100ギルダー。
●アムステルダムで、合唱団、クリスチャン・オラトリオ協会設立。
●WM、ブリュッセルで指揮。

 1906年(34〜35歳)

●WM、トーンクンスト合唱団の指揮者としての年俸が2,000ギルダーに引き上げられます。
●WM、ウィーン音楽院での教職オファーを受けます。仕事には音楽院のコンサートの指揮も含まれ、ウィーン・フィルの指揮にも繋がる可能性もあるという話でしたが、WMはこの話を無視していたようです。
●ムゼウム管弦楽団の首席指揮者、ジークムント・フォン・ハウゼッガー[1872-1948]が辞任。ハウゼッガーは1903年に首席指揮者に就任していましたが、一貫してフランクフルター・ツァイトゥング紙の批評家ヘルマン・ゲールマンから批評攻撃をおこなわれており、耐えきれずに辞任しています。



 1907年(35〜36歳)

●2月、WM、ムゼウム管弦楽団を初めて指揮。聴衆の熱狂で迎えられます。
●3〜4月、WM、フィラデルフィア管弦楽団マネージャーから首席指揮者就任要請の手紙が届き、会談もしますが、WMは知人の指揮者を紹介。
●4月、WM、COAとブリュッセル、アントワープ公演。
●4月、WM、パリのラムルー管に客演。
●WM、ムゼウム管弦楽団の首席指揮者に就任。1920年まで13年間に渡ってCOAと兼任。年俸は33,600ギルダー。主会場はフランクフルト・アム・マイン(マイン川のフランクフルトの意)市のザールバウの大ホール(1,800席)。


  ムゼウム管弦楽団の実体は、18世紀の終わりに設立されたフランクフルト歌劇場のオーケストラ。フランクフルト歌劇場は当初は1,000席でしたが、市の人口増に伴い、1880年に2,010席の豪華絢爛な歌劇場を新たに建設、フランクフルト市が運営しています。


  いっぽう、コンサート運営の方は、フランクフルト市民が1808年に創設した「フランクフルト・ムゼウム協会(音楽、美術、文学などの振興のための組織)」がおこなっています。
  ムゼウム管弦楽団とフランクフルト歌劇場管弦楽団が同じ団体ということで、コンサート指揮者と歌劇場の楽長という立場の違う2人がオーケストラを共有することとなり、時には楽員の争奪をめぐる争いが起きたりもします(たとえばケルン歌劇場音楽総監督のクレンペラーとギュルツェニヒ管弦楽団首席指揮者のアーベントロートが楽員問題で揉めた際には、市長のアデナウアー[のちの首相]が事態を収拾する大ごとに発展)。
  WM着任時の歌劇場の第1楽長は、ルートヴィヒ・ロッテンベルク[1864-1932]で、すでに就任15年目、WMよりも7歳年長というベテラン指揮者でした。
  ロッテンベルクは、前任者のフェリックス・オットー・デッソフ[1835-1892]の急死によって、フランクフルト市の劇場評議員会が選んだ人物で、選考理由は、ブラームスとビューローの推薦というものでした。


  実はデッソフ存命中から、小規模なワイマール宮廷劇場の第2楽長だったリヒャルト・シュトラウスが、知人のフンパーディンクに対して、フランクフルト歌劇場の第2楽長になれる見込みはないか問い合わせており、フンパーディンクも、フランクフルト歌劇場評議員で、ユダヤ系リベラル紙「フランクフルター・ツァイトゥング」創始者のレオポルト・ゾンネマン[1831-1909]に働きかけると約束してはいたものの、デッソフの死が急だったため対応できず、強力な推薦を得たロッテンベルクが選ばれています。


  ロッテンベルクはユダヤ系でしたが、フランツ・アーディケス市長[1846-1915、1891-1912市長在任]の娘テオドーレ[1875-1945]と結婚し、1892年から1926年までの34年間に渡ってフランクフルト歌劇場第1楽長として活動。彼らの娘ゲルトルート[1900-1967]は、1915年から1923年までムゼウム管弦楽団コンサートマスターを務めたパウル・ヒンデミット[1895-1963]と1924年に結婚しています。


  ちなみにテオドーレの3歳年少の妹ゲルトルート[1878-1960]の夫で、またいとこのアルフレート・フーゲンベルク[1865–1951]は熱烈な民族主義者で、プロイセン官僚、兵器会社クルップの重役などを経て、1919年にドイツ国家人民党(DNVP)の国会議員となり、終戦まで26年に渡って在職、1933年にはヒトラー内閣で大臣を務めてもいましたが、戦後の非ナチ化裁判では無罪とされています。
●11月、WM、パリのコロンヌ管に客演。
●12月、WM、パリのラムルー管に客演。
●12月、WM、ミュンヘンのカイム管弦楽団(現ミュンヘン・フィル)に客演。
●マーラー、ハーグ・レジデンティ管弦楽団からの出演依頼を拒否。WMの要請によるものでした。

 1908年(36〜37歳)

●WM、マタイ受難曲の演奏会から得られる純利益の3分の1をWMが受け取ることをトーンクンスト合唱団の理事会と契約。
●4月、WM、COA、トーンクンスト合唱団とブリュッセル、パリ公演。
●5月、WM、ローマ、ボローニャで指揮。
●COA理事会、海外での活動が増えたWMの穴を埋めるため、ドイツの指揮者、グスタフ・コーゲル[1849-1921]と年間15回の指揮で契約。1回250ギルダーの契約でした。1910年3月まで2シーズン30回指揮。


●9月、COA理事会、第2指揮者として、コルネリス・ドッパー[1870-1939]と契約。年俸は1,200ギルダー。


●9月、WM、フランクフルトの合唱団「ツェツィーリア協会」の指揮者として3年契約を結びます。ムゼウム管弦楽団と数多く大規模声楽作品を演奏している合唱団です。
●9月、WM、ブルックナー9番を初めて指揮。アダージョのテンポがレーヴェやシャルクに較べて速かったと好評。
●WM、ハンブルクで指揮。
●WM、サンクトペテルブルクで指揮。

 1909年(37〜38歳)

●WM、マタイ受難曲の演奏会から得られた純利益の3分の1、約615ギルダーを受領。
●4〜5月、WM、ローマ、ミラノで指揮。
●9月、COA理事会、エファート・コルネリス[1884-1931]と契約。


●12月、WM、ロシア帝国で指揮。モスクワで8回、サンクトペテルブルクで1回のコンサートで、1回あたり3,250ギルダーという高額な出演料に加え、一等車の旅費と宿泊費も先方持ちという異例の好条件。

 1910年(38〜39歳)

●2月、COA理事会は、WMへの海外からのオファーの多さと高い報酬の呈示に驚き、急遽、年俸を2倍の2万ギルダーに引き上げ、指揮回数をアムステルダムで30回以上、ハーグで10回以上という条件を付けてWMに打診。
●3月、WMはCOA理事会に条件を承諾することを連絡。
●WM、マタイ受難曲の演奏会から得られた純利益の3分の1、約323ギルダーを受領。
●4〜6月、WM、ブリュッセル、ナポリ、トリノで指揮。トスカニーニと交流。
●夏、WM、スイスでの山岳ハイキング中に訪れた標高約1,700メートルのところにあるツオルトが気に入り土地を購入。翌年には自分で設計図も施工図も完成させて建設に着手。じっくり時間をかけて、別荘「チャーザ・メンゲルベルク」に取り組んでいます(チャーザはロマンシュ語で家の意)。完成後は、フリッツ・クライスラー、リヒャルト・シュトラウス、フレデリック・スタインウェイらのほか、元ハーグ市長で親ドイツ派外務大臣のヘルマン・ファン・カルネベーク[1872-1942]、ウィルヘルミナ女王の夫ヘンドリックなど、たくさんのゲストが訪問。WMはここでみずから家事をおこない、無限のユーモアでゲストをもてなし、近隣の山々の登山にも挑戦するなど、パワフルな面を見せる一方、若い頃からの持病リウマチが悪化した際には、近くの温泉保養地「ファル・ジーネストラ」で療養していました。下の画像は完成後の姿です。


●11月、WM、ニューヨーク・フィル(以下、NYP)から、マーラーの後任として考えているという手紙を受け取ります。

 1911年(39〜40歳)

●2月、WM、『パルジファル』を演奏会形式で上演。
●3月、WM、NYPからの年俸62,500ギルダーという申し出を断り、1回1,250ギルダーで、計19回の公演を指揮するという対案を提示。しかしこれは単価が高過ぎるということでNYPはメンゲルベルクを断念、ジョセフ・ストランスキー[1872-1936]が選ばれます。他の候補としてオスカー・フリート、ブルーノ・ワルターの名も挙がっていたので、驚きの選択でした。
●4月、COA理事会、WMがオランダよりもフランクフルトやイタリアなど海外の仕事を優先しているために発生している問題について議論。WMがCOAから得ている報酬はすでに総額65,000ギルダーを超えているにも関わらず貢献度が下がっているという結論。
●4月14日、WM、フランクフルトでマタイ受難曲を指揮。総勢1,650名という巨大編成での演奏。
●4〜6月、WM、イタリア各地で客演。この客演により4月の女王臨席公演を欠席したことをCOA理事会は問題視。
●夏、WM、別荘「チャーザ・メンゲルベルク」の設計図と施工図を完成させて建設に着手。WMは建築や室内装飾などを父の工房で修業していました。この年は地下室と1階部分を施行。
●10月、ユダヤ系リベラル紙「フランクフルター・ツァイトゥング」で、パウル・ベッカーによるWMへの攻撃批評の掲載が開始。同紙は、創始者がフランクフルト歌劇場の評議員だったこともあってか同歌劇場には好意的で、同じ楽員を共有するムゼウム管弦楽団の演奏会に対しては徹底的な批評攻撃をおこなってきました。
  WMについては、当初はおとなしかったもののやがて毎回批判調になり、この10月に、前々首席指揮者コーゲル(1903年辞任)や、前首席指揮者ハウゼッガー(1906年辞任)のときと同じく辞任に追い込むべく、徹底した攻撃を開始。
  しかし今回はムゼウム協会、ツェツィーリア協会(合唱団)の両運営組織も泣き寝入りせず、同新聞社への無料チケット配布を停止し、ついで広告出稿も停止という手段を講じて対抗、新聞社側も同じユダヤ系リベラル紙などで連携して攻撃を激化させますが、チケット売上には影響が無いことが判明し、オケと合唱団の運営組織はそのままの状態を継続。WMが退任する1920年まで攻撃は9年間続きました。
  ちなみにこのあからさまな利害直結型批評攻撃は、WMが数多く指揮していたイギリスでも話題になり、「自社創始者も運営に絡んでいた歌劇場の楽長を引き立てるため」という分かりやすい背景を見透かされたのか、デイリー・テレグラフ紙では「このような愉快な事件が、音楽生活が退屈なロンドンで起きないのは悲しいことだ」と皮肉っています。
  なお、ベッカーはフランクフルトの前は、ベルリンのユダヤ系リベラル紙「ベルリナー・アルゲマイネ・ツァイトゥング」で5年間執筆しており、ベルリンの批評家たちにも顔が利きました。また、ベッカーはユダヤ系の為、1933年にフランスに行き、1934年に渡米、1937年にニューヨークで亡くなっています。


●11月、WM、ロンドン・フィルハーモニック協会管弦楽団を指揮。100回目のシーズンのオープニング・コンサートで、ソロはラフマニノフ。

 1912年(40〜41歳)

◆4月14〜15日、豪華客船タイタニック、氷山に衝突して3時間後に沈没。約1,500人死亡、約700人生還。
●5月24日、WM、ザ・タイタニック・バンド・メモリアル・コンサートに出演。タイタニックの音楽家8人は客を落ち着かせるために全員最後まで演奏を継続して亡くなっています。巨大なアルバート・ホールでおこなわれた追悼公演には、7つのオーケストラと、メンゲルベルク、エルガー、ビーチャム、ウッド、ほか計7人の指揮者が出演。


●6月、WM、ロンドン交響楽団に客演。
●夏、WM、別荘「チャーザ・メンゲルベルク」の1階部分を増築。
●9月、WM、ベルリン・フィルに客演。
●WM、1912-1913シーズンに、ロイヤル・フィルハーモニック協会管弦楽団(ロンドンからロイヤルに改名)を2回指揮。
 1913年(41〜42歳)

●WM、マタイ受難曲の演奏会から得られた純利益の3分の1、約1,073ギルダーを受領。
●5〜6月、WM、ロンドン交響楽団に客演。
●6月、WM、ベルリンでベートーヴェン・フェスティヴァルに出演。
●WM、1913-1914シーズンに、ロイヤル・フィルハーモニック協会管弦楽団を5回指揮。
 1914年(42〜43歳)

●5月、WM、ロンドン交響楽団に客演。
◆7月、第1次大戦勃発。WMは、居住可能となった別荘「チャーザ・メンゲルベルク」に家族と滞在中でした。


◆8月、オランダは中立を宣言するものの、僅か24時間で約20万人の追加兵力を確保するなど総動員体制に突入し、約367,000人の軍隊を編成。結局ドイツの侵攻は無かったものの兵力維持や新兵器調達、要塞建設のコストは莫大で、しかもドイツと英仏の板挟みとなることで、両陣営から脅されるなどして理不尽な判断を強いられることも多く、貿易も破綻寸前に追い込まれるなど苦しい展開が続くことになります。
◆8月、中立国ベルギーがドイツに侵攻され、約100万人のベルギー国民が中立国オランダに避難を開始。人口約650万人のオランダに、人口約740万人のベルギーから約100万人が避難したということで、オランダは一時大変な事態となりますが、約90万人は年内にベルギーに帰還し、オランダに引き続き滞在したベルギー人は約10万人。うち自活できない約2万人に対しては、オランダ政府が避難所を設置して受け入れ、終戦までの滞在を許可。ちなみにベルギーから国外への避難民総数は約150万人で、海を超えてイギリスに避難した人数も約25万という膨大なものでした。一方、中立国ベルギーを占領し、国民を労働力として使いたかったドイツ帝国政府は、以後、ベルギー人が国外避難できないよう、ベルギー国境に高電圧の金網フェンスを設置するなど無茶なことをしています。
  WM邸にも妻ティリーの親戚夫妻が長期滞在することとなります。


●10月、WM、自宅で転倒して負傷。感染症にも罹患し自宅で短期静養。噂を聞き付けたシェーンベルクやリヒャルト・シュトラウスなどの友人たちが健康状態を心配して問い合わせてきたほか、周辺国は戦時中ということで憶測も広まり、イギリスでは訃報まで流されてしまい、ファンや関係者からメンゲルベルク家に弔電が舞い込む事態に発展。

 1915年(43〜44歳)

●1月、WM、オランダ反戦評議会のマニフェストに署名。
●冬、WM、別荘「チャーザ・メンゲルベルク」の2階部分を増築。
◆5月、イギリスの豪華客船ルシタニア号がドイツ軍のUボートにより撃沈。イギリス海軍による「海上封鎖」に対抗するためドイツ海軍が策定した「無制限潜水艦作戦」の一環としておこなわれたもので、乗員・乗客1,959名のうち、61%にあたる1,198名が死去。アメリカ人乗客に関しては139名中128名、死亡率92%という状況でした。これは船内の下層からの脱出が困難なことが原因です。
  なお、この魚雷攻撃は、在米ドイツ大使館によって、両陣営相手の取引で空前の戦争景気に沸くアメリカの新聞紙上で大きく予告されていたほか、攻撃後にはミュンヘンで作戦成功を祝う記念メダルが発行され、さらにイギリスでは、そのコピー品が25万枚以上も販売されていました。
  こうした流れもあって、アメリカの対ドイツ世論は「親ドイツ」から「嫌ドイツ」へと一気に変化しますが、ドイツとの貿易や、投資・資産の回収、そして軍備の問題もあり、ウィルソン大統領はドイツ政府に抗議するにとどめ、敵国資産の没収宣言でもある「宣戦布告」までには約2年もの長い時間を要することになります。


●11〜12月、WM、シカゴ・オペラ協会(現リリック・オペラ)。「ニーベルングの指環」、「タンホイザー」、「ローエングリン」など。翌年1月まで。

 1916年(44〜45歳)

●1月、WM、前年から引き続きシカゴ・オペラ協会で指揮。
●別荘に、イバッハのピアノが届けられます。エリー・ナイの好意によるものでした。
●WM、テアトロ・コロン。「パルジファル」、「ワルキューレ」、「ばらの騎士」など。

 1917年(45〜46歳)

●3月、WM、ドイツ政府より「ドイツ赤十字記章」3等を授与されます。戦時中にも関わらず、フランクフルトで数多くのコンサートの指揮をおこなっていたことが評価されました。


●4〜5月、WM、アムステルダムとハーグ。「フィデリオ」、「フィガロの結婚」。
◆6月、アムステルダムでじゃがいも暴動発生。当初は女性たちの抗議行動でしたが、社会主義者が扇動して労働者も参加。結果、軍隊が出動し9人を殺害、114名を負傷させています。
◆アメリカ政府によるドイツへの宣戦布告後、アメリカ国内のドイツに関する扱いは凄まじいものとなっていき、政府によってドイツ系移民の財産5億ドルが略奪。戦後も市民による嫌がらせはしばらく続きます。
●12月30、31日、翌年1月1日、WM、ウィーン・フィル。マーラー第4番、「大地の歌」、「英雄の生涯」を指揮。アルマ・マーラーから感謝の品として「告別」手稿譜など贈呈。


マーラーの妹と結婚していたコンサートマスターのロゼーは、ウィーン・フィルはすでにワルターと1915年に演奏していたにも関わらず、「私たちは本当の大地の歌を聴いた」と語っています。


後年、マーラー指揮者として有名になる若きホーレンシュタイン[1898-1973]は、リハーサルすべてに参加し、「マーラーの音楽の本質を理解した」と絶賛。
  また、音楽学者リヒャルト・シュペヒト[1870-1932]は、執筆中のマーラー伝をWMに捧げると約束するなど大成功でした。
  もっとも、リハーサルでティンパニのシュネラーと揉めた際には、楽員全員が途中で帰ってしまうなど、厳しい練習が禍根を残すことにも繋がったようで、次の出演は17年後でした。

 1918年(46〜47歳)

●1月1日、WM、ウィーン・フィル。マーラー第4番、「英雄の生涯」。
◆アメリカ在住のドイツ系市民約50万人に対し、顔写真、指紋登録を義務化。2,000人以上のドイツ系市民が強制収容所に送られます。
◆オランダ議会で社会民主労働者党が22議席を獲得。20世紀初頭の3倍規模にまで躍進し、第1党のカトリック党に次ぐ存在に。カトリック党は、反革命党、キリスト教史党と連立政権を組み、与党比率50%をなんとか確保。
●10月、WM、フランクフルトのツェツィーリア合唱団とリハーサルをした翌日に、リハーサル室のあるビルが連合国軍の爆撃により破壊。1人が殺されています。
◆10月、スペインかぜの流行がオランダで本格化。スペインかぜはもともとアメリカで大流行した超強力インフルエンザで、米軍の欧州派遣、特に末期の「西部戦線」を通じてベルギーやフランスに勢力を急拡大し、パンデミックを引き起こしています。オランダでも7月に陸軍基地で100名を超える集団感染が確認され徐々に範囲を拡大、気温が低下する10月以降は致死率が大幅に上がり、1920年に収束するまでの死者の数は6万人(超過死亡推計)を超える悲惨なものとなっています(当時のオランダの人口は約670万人)。


◆11月、WM、スペインかぜに罹患。8月にはWMがルツェルン時代に世話になり、その後も親しく交流していたエミリー・ヘラーがスペインかぜで亡くなっていました。
◆11月、ドイツで「ドイツ革命」勃発。兵士と労働者による評議会組織「レーテ(ソヴィエト)」に扇動されたキール軍港での水兵の反乱に端を発し、ハンブルク、ブレーメン、ミュンヘンなど北から南までドイツ各地で反乱が拡大。臨時政府は議会第一党だったドイツ社会民主党と、そこから派生したドイツ独立社会民主党による「人民代表委員会」であり、初代首相はドイツ社会民主党党首のフリードリヒ・エーベルトでした。もっともエーベルトは実際には君主制支持者だったということですが、議会第一党のドイツ社会民主党党首ということで首相になっています。
◆11月10日、ドイツ皇帝、ヴィルヘルム2世[1859-1941]、オランダへ亡命。連合国側はオランダ政府に、戦争犯罪人としてヴィルヘルム2世の引き渡しを要求しますが、オランダ政府とウィルヘルミナ女王[1880-1962]は、避難者保護権を根拠として要求を拒否。ユトレヒト近郊のドールン村で23年間の余生を過ごさせています。ちなみにウィルヘルミナ女王の母エンマ[1858-1934]はドイツ貴族。ヴィルヘルム2世の祖母はイギリスのヴィクトリア女王[1819-1901]です。
◆11月11日、ドイツと連合国で休戦協定。
●12月1日、コンセルトヘボウの演奏会が抗議活動者たちの妨害で混乱。自分の作品を演奏しないことに怒った評論家兼作曲家のフェルムーレンの仲間による執拗な妨害行動の一環で、リウマチ治療で指揮できないWMの替わりを務める第2指揮者のコルネリスがこれに賛同。理事会とも対立し、理事会は2か月後にコルネリスの解雇を決定、1919年9月1日付で契約終了としています。

 1919年(47〜48歳)

◆2月、ドイツ帝国財務省設立。26の州税務署、約1,000の税務署、および約200の主要税関事務所が同時に業務を開始。エルツベルガー改革。
●2月6日、父ヴィルヘルム、ユトレヒトで死去。
●3月、WM、ムゼウム管弦楽団。マーラー3番。大成功。
●3月、サロモン・ボッテンハイム[1880-1957]、WMの秘書となります。ボッテンハイムはアムステルダム生まれのユダヤ系で、両親はコンセルトヘボウの株主で設立にも関わっていました。ボッテンハイムは法律と音楽を学び、音楽評論家として活躍、世界各国の音楽祭やコンサートに通って人脈も豊富で自ら興行もおこない、WMに、ラヴェルやストラヴィンスキーを紹介したのも彼でした。以後、WMは、ボッテンハイムの驚異的な記憶力や判断力、人脈に大いに助けられることとなり、やがて「サンクトゥス・ボッテンハイム」と呼んだりするようになります。


●4月、WM、ツェツィーリア合唱団。マタイ受難曲。演奏中に停電したものの冷静に対処。
●4月、WM、別荘の近くに礼拝堂を建設するための設計に着手。これは親しい隣人の農場主フリッグと約束したものでした。
◆オランダで選挙権が急拡大。女性に選挙権が与えられ、25歳以上の男女が対象となることで、有権者人口が2倍に拡大。
●夏、WM、別荘近くの温泉保養地「ファル・ジーネストラ」で療養。
●8月、ヘンドリク王子が、WMの別荘に滞在。


◆8月、ヴァイマル憲法公布。
◆9月、ドイツ帝国財政管理法および州税務署と税務署の地区分割に関する条例が施行。
◆11月、ハーグで音楽放送を実施。オランダ初の放送で、6年後には公共放送が開始。
●12月、WM、作曲家ピエルネの招きでパリで指揮することが決まった際、ピエルネがフランス外務省にビザを申請したところ、WMが戦時中、ドイツで活動していたことがパリで知られると、事件が発生する恐れがあり、その結果、オランダでフランスのことを誤解される可能性があることを懸念してビザ発給を拒否。ピエルネはフランスのほかの音楽家たちの協力も得て担当者を説得し、なんとかビザの発給に漕ぎつけています。



 1920年(48〜49歳)

●1月、WM、フランクフルトで64万マルクの不動産を僅か17,000ギルダーで購入。前年後半からのマルク減価により、外国人には非常に有利な為替レートになっていたことでの取得と考えられます。一方で、WMが投資していたドイツ国内での多額な投資資産は大幅にその価値が下落していたので、損失を少しでも補うための不動産投資だった可能性もあります。
◆3月、カップ一揆勃発。国防軍35万人を11万5千人に縮小し、義勇軍25万人を3月31日までに解散するというヴェルサイユ条約に従った政府決定に反発したリュトヴィッツ将軍が、義勇軍であるエアハルト海兵旅団をベルリンに向けて進軍させ、エーベルト大統領は軍に鎮圧するよう命じるものの軍は動かず、政府はシュトゥットガルトに緊急避難し、ベルリンの官庁街はエアハルト海兵旅団らによって占拠、ドイツ祖国党ヴォルフガング・カップらは、ヴァイマル共和政議会及びプロイセン州政府の解散と、新政府樹立を宣言します。しかし左派の扇動による大規模なゼネストが本格化して一揆はあえなく終了することとなります。なお、このとき海兵旅団を率いるエアハルトは、ベルリンでユダヤ人虐殺をおこなおうとしますが、カップによって制止。
◆3月、ルール赤軍蜂起。カップ一揆をつぶした大規模なゼネストに刺激され、ドイツの工業地帯ルール地方で、左派の労働者兵士5万人ほどで組織された「ルール赤軍」が蜂起、「ヴァイマル共和国軍」と戦闘状態になり、1か月ほどで鎮圧されています。ルール地方は3年後、フランス・ベルギー軍によって占領。
●4月、COA理事会、WMの年俸を20,000から30,000ギルダーに引き上げることを決定。
●4月、COA理事会、不在の多いWMの穴を埋めるために、カール・ムック[1859-1940]と年俸5,000ギルダーで契約。ムックは1906〜1908年と1912〜1918年の計8年間、ボストン交響楽団の音楽監督でしたが、アメリカがドイツに宣戦布告すると、ドイツ人ということで全財産を没収され、1年半ものあいだドイツ人収容所で強制労働(軽労働)。休戦協定による釈放後は、ムックはアメリカ在留許可を望むものの、却下されて1919年8月末に強制送還。直後の1919年10月にCOAデビューしていました。以下、シーズン(8月1日から翌年7月31日まで)ごとの出演回数です。

1919年:2回、1920年:38回、1921年:47回、1922年:50回、1923年:47回、1924年:15回、1925年:6回

ムックは反ユダヤ主義者でしたが、ユダヤ系楽員が多数いるCOAでは問題行動は起こしませんでした。しかし、1924年夏に10年ぶりにバイロイトに復帰した際には、ユダヤ系楽員を全員追放、ユダヤ系歌手も可能な限り排除したうえで、1930年まで毎回「パルジファル」を指揮していました。また、COAでは、1924年からはユダヤ系フランス人のピエール・モントゥーがメンゲルベルクと双頭の首席指揮者に任命されており、ボストン響のときも事実上の後任がモントゥーだったので、ムックにとっては不快だったかもしれません。なお、アメリカ政府に押収された財産のうち、現金だけは、長い裁判を経た9年後の1928年、37,669ドル(元は47,086ドル)が返還されています。


●4月、WMのCOA首席指揮者就任25周年を記念して、記念本がつくられ関係者に贈呈。音楽家はじめ各界著名人が絵や原稿を寄稿したもので、内容を減らした一般向けヴァージョンも出版。


●5月、COA、マーラー音楽祭開催。聴衆をボート・ツアーや蒸気船でのパーティーでもてなすなどアムステルダム市や王室も協力。アルマ・マーラーやシェーンベルク夫妻、アドルフ・ブッシュ、ナディア・ブーランジェ、カール・ニールセン、エードリアン・ボールト、アルフレート・ヘルツ、フレデリック・ラモンドなど豪華なゲストでも注目されました。


●5月、マーラー音楽祭にフランクフルトからやってきた4人のオーケストラ団員が、WMを、ムゼウム管弦楽団と歌劇場管弦楽団の名誉指揮者に任命するという宣言書を贈呈。
●5月、WM、ユトレヒト市議会議員より、WMの生家近くの通り「ブルフストラート」を「メンゲルベルクラーン(メンゲルベルフラーン)」と改名したことを伝えられます。
●5月、マーラー音楽祭に参加した9カ国(イギリス、イタリア、アメリカ、フランス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、オランダ)の代表が署名し、WMを国際的イベントを開催する委員会の臨時議長に任命。これはWMが戦時中、危険を冒してでも国際的な行動をおこなっていたことが称賛されたものでもあります。
●6月、WM、ムゼウム管弦楽団。お別れコンサートでマーラー「復活」を指揮。
●WM、フランクフルト・ムゼウム管弦楽団の首席指揮者を退任。前年後半からのマルク減価により、外国人への支払は、条件が非常に悪化していたことも要因と考えられます。
●7月、WM、ツオルトの別荘に到着すると、親しかった隣人の農場主が60歳で亡くなってしまったことを知り悲嘆に暮れます。WMは2人の約束だった礼拝堂の建設を急ぐことを決意。また、何年も前から農場主がWMに農場と建物を売却することを決めていたので、WMは13万uの農地と大きなロッジを購入。さらに別な農家から8,000uの農地も購入しています。
●8月、前年に続きヘンドリク王子が、WMの別荘に滞在。
●8月、WM、イギリスのエージェント、マイヤーから招聘。
●8月、WM、王室より「オラニエ・ナッサウ勲章」コマンダーを授与されます。


●9〜11月、WM、別荘滞在中に感染症で腕が動かせなくなります。
●12月、WM、ロッテルダムからレインダム号でニューヨークへ。



 1921年(49〜50歳)

●1月、WM、ストコフスキーと親しく交流。3月にはフィラデルフィア管に客演。


●1月、WM、ナショナル交響楽団の常任指揮者に就任。報酬はシーズンの半分ながら37,500ドルと非常に高額でした。3月までに33回指揮。
  このオーケストラは1918年に「ニュー・シンフォニー・オーケストラ」として創設され、初代指揮者エドガー・ヴァレーズが出資者を募って結成し、同時代作品の演奏に気を吐いたオーケストラでしたが、業績が振るわなかったことからヴァレーズはすぐに辞任していました。


後任として、メトロポリタン歌劇場のドイツ・オペラ主任指揮者であったアルトゥール・ボダンツキーが着任、1920年には「ナショナル交響楽団」と改名して活動していましたが、ボダンツキーがオペラと兼務の為、もう一人の指揮者が必要とされ、そこで声がかかったのが、COAと兼務となるWMでした。WMは10年前の1911年にニューヨーク・フィルから音楽監督就任を打診されるものの、COAとの兼務では指揮回数が多すぎるなどの問題で断っていた経緯があります。ボダンツキーはマーラーの助手を務めた経験があり、メンゲルベルクとも気が合ったようです。


●2月、ナショナル交響楽団がニューヨーク・フィルに吸収合併されることが決定。ナショナル響の大富豪役員、アドルフ・ルウィソーン[1849-1938]、クラレンス・マッキー[1874-1938]、オットー・カーン[1867-1934]らが、NYPの役員に就任。
  これにより、ナショナル響の最大の収益源でもあるコロッセオ風の円形劇場「ルウィソーン・スタジアム(約25,000人収容)」でのコンサートを、NYPに置き換えることが可能になりました。


●2月、WMの任期が5年間に延長。まだ着任1か月という状況での延長は不自然なのと、ナショナル響の最大の収益源であるスタジアム・コンサートをNYPに明け渡すことから、役員たちの吸収合併の目的は、最初から以下の2つだったことが考えられます。

  〇 ナショナル響を解散し、その資産(楽員&会場)を活かしてNYPの収益力を強化
  〇 WMをNYPの指揮者にして集客力を強化

これは、ボストン交響楽団と同じく、NYPも「戦争によるドイツ人楽員解雇」と「音楽家ユニオン加盟による外国人楽員の雇用困難」という楽員が大幅に減少する問題を避けて通れなかったことが背景にあると考えられ、そこで目をつけられたのが、戦後、エドガー・ヴァレーズの現代音楽的理想を実現するために新たに結成されながらも、経済的には問題を抱えていたナショナル響だったということになるのだと思います。
  WMについては、NYPはすでにマーラー存命中に交渉していたという経緯があるので、着任早々の5年間の延長契約も、既定路線だったと考えられます。
●3月、吸収合併の話が、リハーサル中のWMと楽員たちに伝えられます。歴史あるNYPとの吸収合併となると、ナショナル響の楽員はあまり残れないのではないか、ボダンツキーも解任されるのではないかという懸念が持ち上がります。しかし、WMの優れた交渉能力はここでも発揮され、キーパーソンのオットー・カーンとクラレンス・マッキーらの説得に成功。
  新しくなったNYPでは、ナショナル響の楽員が約70%、NYPの楽員が約30%という状態になり、さらに米国音楽家ユニオンが外国籍の楽員の所属を認めなくなったこともあって、ほどなく元のNYPの楽員はほぼいなくなってしまいます。
  また、WMが1910年に断ったために、マーラーの死後、後任として10年間音楽監督を務めることになったストランスキーは、ビジネス的には問題は少なかったものの、NYPに数々の悪評と技術的低迷をもたらしてしまったことで、音楽監督は続けるものの、実質的にはWMが主導権を握ることになります。ちなみにWMとボダンツキーは客演指揮者契約ですが、COA兼務で半シーズンしか出演しないWMの報酬は、アメリカでの最高レベルでした。
●3月、WM、フィラデルフィア管に客演。英雄の生涯ほかで大成功。
●3月、WM、ナショナル響とのラスト・コンサートは聴衆が大興奮、喝采は30分以上続き、それでも帰らない聴衆の為にWMは約1,200人と握手することになります。また、翌日のオランダへの帰還の際にも別れを惜しむ何百人もの人が港に訪れてWMはもみくちゃになり、ようやく船に乗ると今度は約200人のファンも船に乗り込んできて出航が30分遅れるという事態も招いています。
●4月、音楽学者シュペヒトが出版に向けて準備していた大著「R.シュトラウスとその作品」から、メンゲルベルクの名前を削除するようシュトラウスが要求。第1次大戦中、連合国(イギリス)の銀行に預けてあった全財産を没収されて怒り冷めやらぬシュトラウスは、メンゲルベルクが元連合国(アメリカ)で高額報酬を得ていることが気に入らなかったのでしょうか。もっとも、自分も半年後にはフィラデルフィア管に客演していますが。
●5〜6月、WM、スペイン、イタリア客演ツアー。尊敬するカザルスが指揮をおこなう公演を聴いて落胆したり、カゼッラやレスピーギと旧交を温めたりしたほか、ローマ教皇とも謁見。WMは体調悪化の為、ルツェルンで診察を受けたのち別荘へ。スペインかぜの後遺症は続きます。
●7月、WM、別荘に滞在し、近隣のファル・ジーネストラで療養。
●7〜8月、妻ティリーとルディは2人きりでイタリア旅行。不倫はまだ続いていました。ティリーは8月6日に別荘到着。

 1922年(50〜51歳)

●1月31日、WM、NYP。前半がボダンツキーのマイスタージンガー前奏曲とブラームス第1番、後半がWMの「アルルの女」組曲第1番、「ジークフリート牧歌」、「タンホイザー」序曲という演目で、メトロポリタン歌劇場で演奏。約4,200人の聴衆が熱狂。


●2月27日、カーネギーホールで、ニューヨーク・フィル、ニューヨーク響、フィラデルフィア管から選抜された200名のオーケストラが演奏。指揮は、ストランスキー、ボダンツキー、コーツ、WM、ストコフスキーの5名。WMはリストのレ・プレリュードで圧倒します。
●1〜4月、WM、NYP。このシーズンの報酬は45,000ドル、指揮回数は35回。
●7月、妻ティリーとルディ、フィレンツェに長期滞在。
●7月、WM、ツオルトの別荘で、完成した礼拝堂の装飾作業にかかります。
●8〜9月、妻ティリー入院。
●9〜10月、WM、COA。フランス音楽祭を開催。ラヴェル、ルーセル、ミヨー、ブーランジェなどもゲストで出席。フランス政府の資金協力も獲得。
●10月、WM、COA。ハンブルク、ベルリン・ツアー
●「コンサート・マネジメント・アーサー・ジャドソン社」のアーサ・ジャドソン[1881-1975]が、NYP執行委員会事務局長に就任。ジャドソンは、WMの公演での、多すぎる同時代作品や、多すぎる追加リハーサル、音楽家の勝手な増員など、利益に影響の出る案件に介入するようになります。ジャドソンはのちにコロンビア放送局(CBS)を設立し、「コロンビア・コンサート・コーポレーション(のちのコロンビア・アーティスツ)」の社長に就任。ロジンスキーやクレンペラーとは対立しましたが、オーマンディ、ミトロプーロス、ドラティなど多くのアーティストの知名度を高め、全米の3分の2ほどの公演を牛耳るまでになっています。



 1923年(51〜52歳)

●1〜4月、WM、NYP。指揮回数は38回。
◆ドイツのルール工業地帯をフランス・ベルギー軍が占領。
◆ドイツでハイパーインフレ。インフレの債務軽減効果(デフレには債務増大効果)により、ドイツ政府は莫大な国内債務を一気に解消することに成功。
●WM、ドイツに投資していた多額の資金を失います。現在価値で約5億円という大金でした。


●WM、フランス政府より「レジオン・ドヌール勲章」オフィシエを授与されます。フランスで数多くのコンサートの指揮をおこなっていたことが評価されました。


●NYP、新年度の指揮者体制を発表。音楽監督はウィレム・ファン・ホーフストラーテン[1884-1965]、首席指揮者はWM、副指揮者は1921年から変わらず作曲家のヘンリー・ハドリー[1871-1937]。
  ホーフストラーテンはエリー・ナイ[1882-1968]の夫。2万5千人収容のルウィソーン・スタジアム建設費を負担したアドルフ・ルウィソーンに支援されていたことで、スタジアム・コンサートを任され、前年からすでに60回以上指揮、大きく利益に貢献していました。


  なお、ストランスキーの契約更新はおこなわれませんでした(ニューヨーク州交響楽団と契約して1925年まで指揮)。

 1924年(52〜53歳)

●1〜4月、WM、NYP。指揮回数は44回。米国ツアーも実施。
●モントゥー、コンセルトヘボウ管弦楽団の共同首席指揮者に就任。1922年からニューヨーク・フィル音楽監督を兼務して多忙だったメンゲルベルクによる任命。モントゥーとメンゲルベルクは対照的な芸風ながらお互いを尊重、指揮者としての立場もあくまで平等という形での運営でした。ボストン響の欠員問題を解決して演奏水準を大幅に引き上げながらも、私生活の問題によって経営陣からなかば追い出された形のモントゥーにとって、ヨーロッパ有数のオーケストラとの契約は大きな喜びとなりました。アムステルダムでの10年間は非常に充実したもので、コンセルトヘボウ管弦楽団と毎年50〜60公演を演奏したほか、1931年には若きベイヌムを第2指揮者に推薦して育成、さらに同地で『ペレアスとメリザンド』『ホフマン物語』『カルメン』『オーリードのイフィジェニー』『ファルスタッフ』などのオペラも上演。しかも『ファルスタッフ』については、主催者が当初トスカニーニを招いたものの、トスカニーニが、モントゥーこそが『ファルスタッフ』にとって最高の指揮者であると称えて指揮の依頼を辞退したというエピソードまでありました。



 1925年(53〜54歳)

●2〜4月、WM、NYP。指揮回数は43回。米国ツアーも実施。
●4月11、14日、WM、NYP、ランドフスカ、マタイ受難曲が赤字に。
●10月〜翌年2月、WM、NYP。指揮回数は58回。米国ツアーも実施。
◆オランダで公共放送開始(ラジオ)。

 1926年(54〜55歳)

●10月〜翌年1月、WM、NYP。指揮回数は57回。米国ツアーも実施。
◆オランダのラジオ受信世帯数約24,000。

 1927年(55〜56歳)

●10月〜翌年1月、WM、NYP。指揮回数は59回。米国ツアーも実施。
●12月15日、WM、組曲「ハーリ・ヤーノシュ」米初演。

 1928年(56〜57歳)

◆夏、アムステルダム・オリンピック開催。カトリック系政党、プロテスタント系政党、反革命党や、マルクス主義者の猛反対により、社会民主党や自由主義者の賛成にも関わらず1925年5月の議会投票では政府からの補助金法案が否決。そのため民間の様々な資金で運営されますが、結果は黒字。女性選手が初めて正式に参加したほか、なぜかアメリカ選手団が将軍のマッカーサーに率いられるなど話題も多かった大会。


●10月〜翌年1月、WM、NYP。指揮回数は47回。米国ツアーも実施。

 1929年(57〜58歳)

●6月30日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団にデビュー。
◆9月3日、アメリカ、世界恐慌前触れ。しばらく「買い」が蓄積して上昇を続けていたダウ工業株平均が最高値381.17を記録。ほどなく利益確定目的の「売り」が集中したため1か月に渡って株価が下がり続け17%下落。そこで底値と判断した投資家の「買い」が再び蓄積、下落分の半分ほどまで株価が上昇したものの、そこで利益確定の「売り」が大きく入り、再び株価は下落。
◆9月26日、イングランド銀行が5.5%から6.5%に金利を引き上げ。利益確定後に投資先を探していたアメリカの投資資金がイギリスに大きく流れ込みます(FRBは6.0%)。
◆10月24日、ウォール街株価大暴落。シカゴ市場、バッファローの市場は閉鎖。やがて損失確定組は、善後策として投資や預貯金などの資金を回収、結果的に、銀行や企業の相次ぐ破綻へと繋がって行きます。
●11月〜翌年1月、WM、NYP。指揮回数は31回。米国ツアーも実施。

 1930年(58〜59歳)

●WM、ニューヨーク・フィル首席指揮者を退任。
●WM、ロンドン交響楽団首席指揮者に就任。翌年まで在任。
◆オランダのラジオ受信世帯数約429,000。
◆オランダの失業者数約10万人。

 1931年(59〜60歳)

●WM、ロンドン交響楽団首席指揮者を退任。
●2月、COA理事会が、第2指揮者にベイヌムを任命することを協議。世界大恐慌の影響で危機に瀕していたパリ交響楽団のことで多忙だった共同首席指揮者モントゥーもベイヌムを推薦。
●8月、COAの1931-1932シーズン開始。WM73回、モントゥー42回、ベイヌム21回など、全156公演。
◆オランダのラジオ受信世帯数約524,000。

 1932年(60〜61歳)

●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1932-1933シーズン開始。メンゲルベルク55回、ベイヌム34回、モントゥー31回、クライバー9回、ワルター5回、アーベントロート3回など、全158公演。
◆9月20日、「締切大堤防」完成。長さ32.5キロ、幅90メートルの海上堤防。これにより面積約1,800㎢(琵琶湖の約2.7倍)の淡水湖エイセル湖が誕生。1975年には南西部に長さ26キロのハウトリブ堤防が完成し、仕切られた部分は面積約700㎢のマルケル湖となります。


●12月、WMの健康状態が悪化。1934年春までの1年数か月に渡って体調不良に陥ることが多くなり、コンサートやリハーサルのキャンセルが増加。
●12月中旬、ベイヌム、急性虫垂炎で入院。12月に予定されていたコンセルトヘボウ管弦楽団とのコンサートは、ヘルマン・アーベントロートが代役を務め、また、その中のオッテルローの組曲第2番については急遽本人が指揮することになりました。
◆オランダのラジオ受信世帯数約560,000。
◆オランダの失業者数約30万人。

 1933年(61〜62歳)

●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1933-1934シーズン開始。ベイヌム52回、モントゥー24回、メンゲルベルク12回、ワルター12回、ブッシュ6回、クレメンス・クラウス4回、シューリヒト4回、クライバー4回、アーベントロート2回など、全145公演。
●10月中旬、「コンセルトヘボウNV」芸術監督、ルドルフ・メンゲルベルク[1892-1959]が胃の出血で入院。ベイヌムは、ルドルフ・メンゲルベルクの代理として、「コンセルトヘボウNV」の理事会から「暫定芸術監督」に任命され、11月の終わりまで毎週理事会に出席。
●12月、ルドルフ・メンゲルベルクが職場に復帰。ベイヌムは「「コンセルトヘボウNV」 暫定芸術監督」から解放。
◆オランダのラジオ受信世帯数約648,000。

 1934年(62〜63歳)

●3月、モントゥー、コンセルトヘボウ管弦楽団共同首席指揮者を辞任することを発表。8日に任期中の最後のコンサートを指揮。背景には、パリ交響楽団の指揮の多さと、パリで設立した指揮の学校「エコール・モントゥー」での仕事で忙しかったことに加え、アメリカでの仕事の増加が決定的な要因となりました。同年、クレンペラーの招きでロサンジェルス・フィルに5週間に渡って客演したモントゥーは、その後、サンフランシスコ交響楽団の立て直しについて打診され、悩んだ末に承諾。1936年から音楽監督に就任することを決めています。もっとも、その後もモントゥーとコンセルトヘボウ管弦楽団の関係は良好で、辞任後の客演回数は計97回に及んでいました。


●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1934-1935シーズン開始。メンゲルベルク58回、ワルター32回、ベイヌム25回など、全137公演。
◆オランダのラジオ受信世帯数約909,000。

 1935年(63〜64歳)

●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1935-1936シーズン開始。メンゲルベルク57回、ベイヌム28回、ワルター24回など、全128公演。
◆オランダのラジオ受信世帯数約947,000。
◆オランダの失業者数約50万人。失業率15.5%。

 1936年(64〜65歳)

◆3月、ドイツ、ロカルノ条約を破棄し、ラインラントに進駐。
◆6月、フランス人民戦線内閣成立。ユダヤ系のブルム首相による反ファシズム政権(1937年6月まで)。
◆7月17日、スペイン内戦勃発(1939年4月まで)。
◆7月31日、ベルリン・オリンピック開催。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1936-1937シーズン開始。メンゲルベルク61回、ベイヌム33回、ワルター25回など、全141公演。
◆オランダのラジオ受信世帯数約989,000。

 1937年(65〜66歳)

●2月、ベイヌム、自分の指揮実績に鑑み、首席指揮者に昇格してくれるよう「コンセルトヘボウNV」の理事会に要請。対応した議長、ヘンリー・ピエール・ハイネケン[1886-1971 ハイネケン醸造所2代目社長]は、首席指揮者や第2指揮者という名前にこだわる必要は無く「コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮者」で十分であるとして、まともに取り合いませんでした。当時のベイヌムはすでに国際的な知名度も得ていましたが、コンセルトヘボウ管弦楽団でのメンゲルベルク、ワルターとの報酬格差は相変わらず6倍もありました。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1937-1938シーズン開始。メンゲルベルク73回、ベイヌム36回、ワルター10回など、全144公演。
◆オランダのラジオ受信世帯数約1,072,000。

 1938年(66〜67歳)

●1月9日、コンセルトヘボウ管弦楽団理事会は緊急会議を開催、ベイヌムがハーグ・レジデンティ管弦楽団の首席指揮者に就任するのを阻止するために、コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者に昇格することを決定。
●1月10日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者に任命。急遽決定したことで、メンゲルベルク、ワルターに伝えられていなかったため、2人とも不満を表明していました。メンゲルベルクはもともと芸風が違いすぎることから、公演準備は別な人間の方が良いと考えていたので、特にその面での問題はありませんでしたが、それとは別件で、メンゲルベルクの指揮回数を減らして客演指揮者を増やすという決定には納得がいかなかったようです。ワルターの方は、理事会の決定が理解不能とし、自分の公演数を減らしたいようなことを言っていましたが、実際にはナチの勢力拡大もあって前年からすでに公演数を減らしていたので、単に自分に相談も無く若手を首席にしたことが面白くなかったというだけのことかもしれません。ちなみにピエール・モントゥーはベイヌムの昇格を祝福していました。
◆3月、ドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1938-1939シーズン開始。メンゲルベルク68回、ベイヌム35回、ワルター13回など、全145公演。
◆11月9日、「水晶の夜」事件発生。ドイツ各地でユダヤ人への一連の弾圧行為へと発展。
◆12月15日、オランダ政府、国境を閉鎖。難民受け入れを拒否。
◆オランダのラジオ受信世帯数約1,109,000。

 1939年(67〜68歳)

●8月、WM、COA、セーケイ。バルトーク:ヴァイオリン協第2番世界初演。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1939-1940シーズン開始。ベイヌム56回、メンゲルベルク35回、シューリヒト10回など、全141公演。
◆8月、ウィルヘルミナ女王は中立を宣言。28日にはオランダ政府が国家総動員法を制定し徴兵制も施行。オランダ政府はすでに10億ギルダーを超える予算で武器を発注していましたが、多くはドイツ企業への注文だったため、オランダ政府にはドイツと戦う意思が無かったことが窺えます。
◆9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。第2次世界大戦開戦。
◆9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。
◆9月17日、ソ連がポーランドに侵攻。
◆オランダのラジオ受信世帯数約1,438,000。

 1940年(68〜69歳)

◆4月9日、午前4時、ドイツ軍が不可侵条約を破ってデンマークに侵攻。国王は午前6時に降伏を決定。占領統治は3年後の1943年8月に開始されます。
◆5月10日、ドイツ軍がオランダに侵攻。13日、ウィルヘルミナ女王ファミリーと首相など多数の政府要職者はイギリスの軍艦でイギリスに逃亡、翌14日の夜には、ドイツ空軍によりロッテルダムが空爆され民間人の犠牲者が650人から900人出たため、全権委任されていたオランダ軍総司令官ウィンケルマンは降伏。ロンドンに逃げて安全な身となったウィルヘルミナ女王は、ユリアナ王女たちを、イギリスよりもさらに安全なカナダに避難させる一方、BBCのオランダ向けプロパガンダ放送(15分枠)に、5年間で34回、平均すると1年に約7回出演し、「占領・武装解除」されたオランダ国民に対して、ドイツ軍への「抵抗」を呼びかけます。もっとも、1943年からはオランダ国民のラジオ保有が禁じられてはいましたが。


◆5月、ドイツによるオランダ占領統治開始。オーストリア・ナチスの穏健派党員からオーストリア首相にまで出世していたザイス=インクヴァルト[1892-1946]が、国家弁務官に就任。ハーグ(オランダ語ではデン・ハーフ)にドイツ政府占領機関を設置、要職者はほぼ全員オーストリア人という構成。ちなみに当時、オーストリア・ナチスは、オーストリア人の10%が党員ということで、ドイツの入党率7%を大幅に上回っていました(もっとも、ドイツではナチ人気の過熱により1933年4月から1939年5月までの6年間、入党を制限していたという事情もあり、その後は850万人まで伸び、13%を超える入党率に達しています)。 オーストリア=ハンガリー帝国以来、多民族対応に慣れていたオーストリア人と、地元オランダのファシズム政党「オランダ国家社会主義運動(NSB)」の党員により、ハーグのオランダ人官僚たちの率いる全国の行政機構をそのまま生かす形で占領統治を実施。「オランダ国家社会主義運動(NSB)」の党員数は1940年のうちに31,430人から約5万人にまで急増しています。なお、「国家社会主義オランダ労働者党(NSNAP,オランダ・ナチス)」はドイツ当局から認められず、1941年12月、NSBを除く他の全政党と同じく解党処置となっていました。
◆ドイツ政府占領行政機関は、オランダ国民の抵抗を抑えるため、「ベルベットグローブ」と名付けられた懐柔方針を決定。
◆6月3日、オランダでの活動禁止措置が、ドイツ政府占領行政機関によって解除され、各地でコンサートなどのイベントが再開。
◆6月22日、フランス、ドイツと46日間戦ったのち休戦協定を締結。大枠で見るとフランス北部がドイツの占領統治、南部が「ヴィシー政権」による統治で、例外が長年の係争地であるエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)地方となります。同地方はドイツに割譲という形になったため、1938年に併合したオーストリアと同様、ドイツ政府による統治とし、他のドイツ・オーストリア地域と同じく「大管区」に組み込まれ、徴兵なども実施されることとなります(エルザス=ロートリンゲン地域からの徴兵数は約10万人)。
●7月、WMのインタビュー記事が、発行部数170万とも言われたナチ党の新聞「フェルキッシャー・ベオバハター」に掲載され、そのオランダ語翻訳が「デ・テレフラーフ」に載ったことで物議を醸すことになります。内容は、オランダ降伏時にドイツで療養中だったWMが、シャンパンでオランダの降伏を祝ったというようなかなり不自然なものでしたが、これが占領下のオランダに一気に広まり、WMの人気はガタ落ちとなってしまいます。ほどなくWMは、記事が虚偽であるとして、「デ・テレフラーフ」紙にインタビュー記事を掲載しますが、すでに悪評は広く行き渡っており、以前のような人気の回復は望めない状況でした。また、WMは、その後も、ドイツ政府高官の前で演奏したり、行政機関に協力するなどし、挙句にスイスに旅行してそのまま帰らないなど、イメージの悪化は避けられませんでした。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1940-1941シーズン開始。ベイヌム68回、メンゲルベルク34回など、全154公演。
◆9月、文部科学省事務次官プーリェが逮捕され、間もなく文部科学省も解散。新たに設立された広報芸術省は、文化や芸術の保護を謳う一方、プロパガンダも目的としていました。広報芸術省の音楽部門は、著名な音楽評論家であったヤン・ホーファーツが率いることとなります。
◆11月、オランダの公務員職からユダヤ人が解雇。
◆11月、ドイツ政府占領行政機関により、オランダ政府の「教育芸術科学省」に代わって、「教育科学文化保護省」と、「公共情報芸術局」が設立。「公共情報芸術局」は、ゲッベルスの「国民啓蒙・宣伝省」に近いイメージで、放送や出版、文化、芸術の運営・管理を所管。「オランダ国家社会主義運動(NSB)」の哲学者、トビー・フーデワーヘン(1895-1980 ゴーデワーゲンとも)が事務局長を務め、音楽部門の責任者は、オランダ・ブルックナー協会のホーフェルツが任されています。国家弁務官でオーストリア人のザイス=インクヴァルトは、オペラや演劇の組織的な運営を目指し、コンサート・オーケストラに対しても、オペラやバレエ公演への参加を要請、オランダの劇場での上演水準の向上を図っていました。
◆12月19日、ドイツ政府占領行政機関により、オランダ国民にラジオの登録と、ラジオ聴取許可証の申請が義務付けられます。

 1941年(69〜70歳)

◆2月、アムステルダムのユダヤ人居住区で、「オランダ国家社会主義運動(NSB)」の構成員たちが「水晶の夜」の真似ごとをしようとした際、1人の構成員がユダヤ人たちから暴行を受けて殺害。これを機に、ドイツ政府占領行政機関はオランダで初めてのユダヤ人強制連行に踏み切り、約400人を国外に移送しています。
◆2月、アムステルダムに、ユダヤ人の運営する「ユダヤ人評議会」が設置。ドイツ政府占領行政機関によるユダヤ人政策の一環でした。
●5月、ドイツ政府占領行政機関は、オランダの全オーケストラに対して、ユダヤ系楽員の解雇を要求。解雇されたユダヤ系の楽員は、新たにつくられたユダヤ人専門のオーケストラ「ファン・レール財団交響楽団(別名ユダヤ人交響楽団)」で演奏することが決定しており、楽団側が解雇に応じない場合は、楽団への補助金削減の可能性があることが示唆されます。各オーケストラへの補助金は、ドイツ占領下で大幅に増額されていたので、楽団運営理事会としても、条件をのむよりほかありませんでした。
●5月23日、WM、ザイス=インクヴァルト国家弁務官に直談判し、COAに16人のユダヤ人楽員をしばらく残してくれるよう交渉。しかしザイス=インクヴァルトはそれは無理だとし、13人は翌月まで延長、3人は11月いっぱいまで延長ということで話が付きます。戦後、ほとんどのユダヤ系楽員は戻ってきますが、しばらくはCOAにとって大変な状況が続きます。
◆6月22日、独ソ戦開戦。ドイツ、ルーマニア、スロヴァキア、ハンガリーがソ連に対して宣戦布告。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1941-1942シーズン開始。ベイヌム46回、メンゲルベルク23回、オッテルロー20回など、全145公演。
●10月29日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団理事会宛てに辞任を示唆した手紙を送付。すでにオペラやバレエへの協力は不可能な状況にあり、改善が認められない場合は辞任させてほしいという内容でした。理事会はドイツ政府占領行政機関と交渉し、コンサートに専念できるよう事態を収拾したため、ベイヌムは続投することになります。
●11月16日、ユダヤ人専門オーケストラが最初のコンサートを開催。楽員のうち13人はコンセルトヘボウ管弦楽団の元メンバーでした。

 1942年(70〜71歳)

●WM、オランダ文化評議会に所属。
◆7月、オランダのユダヤ人たちのドイツへの移送が開始。「労働奉仕」という名目で、対象者はユダヤ人の運営する「ユダヤ人評議会」が決定。1944年9月までの約2年間に、オランダ在住ユダヤ人約14万人の4分の3にあたる約10万7千人が国外に移送。移送を免れた約3万3千人は、ユダヤ人評議会の関係者や、亡命できた者、隠れ続けることができた者などで、これに収容所からオランダに戻った約5千2百人を加えると、オランダに残ったユダヤ人は約27%。同じくドイツに占領されていたベルギーの約60%、ノルウェーの約60%、フランスの約75%、デンマークの約98%と較べてかなり低い数字となっており、ドイツ政府占領行政機関とオランダの行政機構の協力体制が緊密であったことが窺えます。
●COAのユダヤ人楽員が解雇。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1942-1943シーズン開始。ベイヌム41回、メンゲルベルク25回、ヨッフム12回、オッテルロー9回など、全117公演。

 1943年(71〜72歳)

●WM、オランダ文化評議会に所属。
●妻ティリー、死去。

 1944年(72〜73歳)

●WM、オランダ文化評議会に所属。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1944-1945シーズン開始。ベイヌム28回、クツィエ6回の全34公演。メンゲルベルクはオランダに戻ってきませんでした。
◆9月5日、ロンドンに亡命中のウィルヘルミナ女王はオランダのレジスタンス活動を合法化する法令に署名。これによりレジスタンス活動家は軍人扱いとなり、各地に指揮官と指揮系統が置かれ、連合国軍への協力もおこなうことになり、オランダ国民の犠牲も増えて行きます。
◆9月17〜25日、連合国軍により「マーケット・ガーデン作戦」実施。約30,000人の空挺兵を降下させた史上最大の空挺作戦。連合国軍敗退とはなったものの、これによりオランダ各所の橋を確保し、のちの作戦に繋げることに成功。
◆10月、「スヘルデの戦い」。オランダ南西部とベルギー北部で、6万人の連合国軍と9万人のドイツ軍が戦闘しドイツ軍が敗北。イギリス軍による絨毯爆撃と艦砲射撃により堤防やオランダの多くの都市が破壊。連合国軍死傷者12,873名に対し、ドイツ軍死傷者10,000〜12,000名で、俘虜が41,043名。
◆10月、ユトレヒト中心部がイギリス空軍のタイフーン型戦闘爆撃機により空襲。鉄道や駅舎のほか、病院も爆撃します。


◆10月、連合国軍が堤防を破壊して大規模な洪水を発生させたため、17歳から50歳までのオランダ人男性が集められ、堤防工事にあたります。


◆冬、連合国軍が、オランダ西部地区への石炭、ガス、電気の供給ルートを遮断。この連合国軍の作戦は非常に残虐なもので、オランダ国民の半数にあたる約450万人に影響し、飢餓と寒さなどが原因で、南西部地区中心に約2万2千人のオランダ人が絶命。街路樹も切り倒されて暖房に使用されます。



 1945年(73〜74歳)

◆4月30日、ヒトラー自殺。ヒトラーはデーニッツ元帥を後継に指名していたため。同日、ドイツの臨時政府「フレンスブルク政府」が発足。デーニッツが大統領に就任して降伏のための準備を進めます。また、1月からデーニッツの指示で実施中の海軍によるドイツ国民と兵士の搬送作戦も5月中旬まで継続され約200万人を救出。
◆5月5日、オランダのドイツ軍が降伏。
●5月5日、「コンセルトヘボウNV」、ドイツ人楽員、および「オランダ国家社会主義運動(NSB)」のメンバーと協力者の楽員を即時解雇。第1ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス、フルート、クラリネット、ホルン2人、トランペットの8名で、1941年のユダヤ人奏者16人解雇に続く大きな打撃となり、ユダヤ人奏者は戻りつつあるものの、1945年夏の時点でも欠員16名という状況でした。
◆5月8日、ドイツ降伏。2週間後、デーニッツ逮捕により臨時政府「フレンスブルク政府」解散。
●6月中旬、オランダで、国民の占領時の行動を裁くための「中央名誉評議会」が設立。音楽、演劇、文学、建築、視覚芸術といったさまざまな部門では個別に評議会を開いて、関係者の調査・浄化を開始。「音楽名誉評議会」では、多くの音楽家が裁かれ、35人が処罰を受けていますが、多くは「中央名誉評議会」に上訴して減刑されており、たとえばウィレム・メンゲルベルクの禁止期間は、「無期限」から「6年間」に短縮、そのハトコで「コンセルトヘボウNV」(ホール組織)の総監督ルドルフ・メンゲルベルクは「無罪」になるなどしていました。
◆8月17日、オランダとオランダ領東インド諸島との間にインドネシア独立戦争が勃発。4年4か月後の1949年12月17日に終戦、同月、インドネシア連邦共和国成立。太平洋戦争は3年8か月だったので、それより8か月も長い戦争ということになり、インドネシアは通算8年間も戦争状態に置かれていたことになります。

 1946年(74〜75歳)


 1947年(75〜76歳)

◆7月、アメリカ国務長官ジョージ・マーシャルが、ヨーロッパ経済の復興のための援助計画「マーシャル・プラン」を発表。翌年から1951年6月まで運用され、金額は総額100億ドル以上。ただし使途は限定され、主にアメリカ企業の機械や食料の購入が対象となるということで、アメリカ企業の国際化を支援するための経済政策と見ることもできます。また、これに対抗する経済政策としてソ連が「モロトフ・プラン」を立ち上げ、冷戦状態が大幅に進行。チェコスロヴァキアの政変も招くなどしていました。
◆9月11日、オランダ政府、ドイツへの報復として、ブラック・チューリップ作戦開始(1948年まで)。オランダ在住の民間ドイツ人約2万5千人を対象として、財産を没収、マリエンボッシュほか複数の強制収容所への送致を始め、3,691人を国外追放した段階で、アメリカやイギリス政府のほか、オランダのキリスト教系政党の議員や、ユトレヒト大司教の反対などにより作戦は中止。しかし、ドイツ人追放計画そのものは1950年まで着実に継続。なお、ドイツ国籍の有無のみで判定されたため、ドイツから逃れてきていたユダヤ人も迫害対象となっていました。



 1948年(76〜77歳)

●WM、オラニエ・ナッサウ勲章コマンダーを無効とされます。
◆オランダのラジオ受信世帯数約2,563,000。

 1949年(77〜78歳)

◆9月、イギリス政府、ポンドを対ドルで約30%切り下げ。アメリカの原料輸入の大幅削減で生じた過度のポンド売りにより、外国為替市場が閉鎖に追い込まれたことが原因。これにより多くの国が自国通貨の切り下げに踏み切ります。
・約60%:アイスランド
・約53%:オーストリア
・約47%:アルゼンチン
・約36%:南アフリカ
・約30%:デンマーク、ノルウェー、アイルランド、オランダ、スウェーデン、フィンランド、イラク、エジプト、ヨルダン、ローデシア、インド、ビルマ、セイロン、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、
・約27%:香港
・約22%:フランス
・約21%:西ドイツ
・約20%:タイ
・約13%:ポルトガル、ルクセンブルク、ベルギー
・約9%:カナダ
・約8%:イタリア
・約7%:イスラエル
◆12月27日、インドネシア独立戦争終結。

 1950年(78〜79歳)


 1951年(79〜80歳)

●2月、「コンセルトヘボウNV」のホール組織運営と、コンセルトヘボウ管弦楽団の運営が分離。楽員の解雇問題にまで発展したケンペン事件がきっかけとなり、本来は別なものであるはずの、「コンセルトヘボウNV」によるホール組織の運営と、「コンセルトヘボウ管弦楽団理事会」の運営が見直されます。
●3月21日、WM、スイス、ツオルトのチャーザ・メンゲルベルクで死去。

 1952年

●WMの財産が競売にかけられます。16〜17世紀のオランダ絵画や、数々の宗教画など、70点以上の美術作品や、アンティーク食器、工芸品から、日本の木彫品まで多岐に渡るコレクションだったようです。

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