コンセルトヘボウのエリアフ・インバル マーラー第10番 クック版全曲演奏会
インバルのファンなので、コンセルトヘボウでのマーラーの10番については動画サイトを通じて既にその演奏に接していた。マーラーの生誕150年、没後100年記念の全曲演奏会、その大トリが件の10番である。2009年から2011年にかけて番号順に9人の指揮者によって演奏され、現役首席指揮者のヤンソンスのみ2番、3番、8番の独唱と合唱付き交響曲を3曲指揮、ヨーロッパでも非常に注目されたツィクルスである。元首席のハイティンクも9番を指揮、6番のマゼール、7番のブーレーズもマーラー演奏のビッグ・ネームである。因みに、2011年6月30日、この10番演奏時のインバルの肩書は、東京都響プリンシパルの他、チェコフィル首席、ベネツィアのフェニーチェ歌劇場音楽監督、フランクフルトのHR交響楽団名誉指揮者である。
インバルは現役最高のマーラー指揮者、故に、このツィクルスの指揮者陣に名を連ねても何ら不思議ではない。しかし、インバルはコンセルトヘボウの常連指揮者ではなく、同じクラスのベルリンフィル、ウィーンフィルの常連でさえない。ネット上の記事によると、インバルは、2002年8月のプロムスで、コンセルトヘボウとマーラーの3番を演奏、また2011年11月にはバイエルン放送響を指揮、いずれも急病でキャンセルしたシャイーの代役とのこと。6月のこの10番も、元首席のシャイーの代役扱いと見做して相違あるまい。
本シリーズHMVのセールスポイントに「特にインバルの第10番は驚異的な美しさ」と謳われている。どなたかのレビューにも、インバルの10番はこのシリーズの「白眉」で、この1枚だけでも購入の価値アリとあったが、1番から順番に聴いてみて、まったくその通りだと思った。同じホール、同じオーケストラ、同じ録音環境での比較ゆえに異論の余地はない。
映像を見れば一目瞭然だが、インバルとオーケストラが、最高のマーラー演奏という目標に向かって、渾身のエネルギーを傾注して突き進む姿は、それだけでも感動ものだった。実際、他の10曲の演奏との比較で、インバル指揮の10番のみ、全く別次元のサウンドが奏でられており、コンセルトヘボウの常連で耳の肥えた聴き手なら、なぜインバルが首席指揮者にならなかったのか、訝しく思ったのではあるまいか。バーンスタインとベルリンフィルのマーラー9番は、一期一会的な名演として音楽史に残るが、このインバルとの演奏も、後にそのように評されるのかもしれない。少なくとも、奏者と聴衆の胸には深く刻まれたことだろう。インバルが首席指揮者として、コンセルトヘボウを自分のオーケストラとして鍛え上げたら、一体どのような演奏が可能なのだろうか?と想像が掻き立てられた。
1楽章のアダージョの他は未完成、一部のマーラーファンでさえ、クック版での全曲演奏には首を傾げたくなるオーケストレーション。マーラー自身の筆が最も希薄なはずの補筆完成版スコアによる10番の全曲演奏が、シリーズ随一の、最も濃密で感動的なマーラーになるとは!しかも代役扱いのインバルの手で!
随所での木管・金管のソロはどれも極めて魅力的だったが、全曲を通じて弦楽器、とりわけバイオリンの音が水際立ち、絹の質感と称えられた90年前後のあのフランクフルトHR交響楽団の演奏が甦ったようだった。すべての奏者が正しい音程に細心の注意を払いつつ指揮者の要求に応えた結果だろう。コンセルトヘボウで、コンセルトヘボウオーケストラが、インバル・サウンドを奏でた記念碑的演奏会だった。
1936年イェルサレム生まれのインバルは、イスラエルでの青年時代、陸軍とユースの合同オーケストラを率いてオランダを訪問、パリ音楽院留学時には、ヒルフェルスムで、フランコ・フェラーラの指揮セミナーの受講生だった。そして1963年のカンテッリ指揮者コンクール優勝後は、メジャーレーベルのフィリップスに在籍して、ドビュッシーの海と前奏曲をコンセルトヘボウオーケストラと録音していた。インバルによれば、長いリハーサルの後、迂闊にも休憩を入れてしまい、ディレクターに叱られたのだとか。このオーケストラの金管楽器は、くたくたに疲れた時に最高の音を出すのだから。
75歳、老境にさしかかったインバルが、思い出のオランダで、全身全霊を傾けて紡ぎ出した究極のマーラー。フランクフルトのHR交響楽団との録音で、初めて10番のフィナーレを聴いたとき、赤い夕焼けに染まる黄昏の景色が浮かんで来たが、この演奏でもまったく同じ光景が目に浮かんだ。マーラーのツィクルスでは9番、大地の歌、10番をひとつの纏まりとして聴くことが出来る。10番のアダージョは、精神的には、9番アダージョや大地の歌の告別と同一の世界をなすものだが、2楽章のスケルツォ以降、曲想は一変し、ショスタコーヴィチが旧ソ連の体制下で強いられたような副業としてのメロドラマ、BGM的映画音楽と化し、それは終楽章のアダージョで最も顕著となる。しかも、赤い夕陽の景色は、マーラー自身の人生の黄昏であると同時に、クラシック音楽の黄昏、そしてさらに、この演奏においては、インバルの指揮者人生の黄昏とも重なり合うものである。そのような意味においても、この10番の映像は、将来、彼の業績を回顧するための貴重な資料となり得るものだろう。HR響の他、イタリアのトリノRAI響、フランス国立放送フィル、N響等、各国の公共放送のオーケストラとの演奏を数多く行ってきたインバルゆえに、相当数の放送用映像が残されたと推察されるが、今回の企画のような形で、彼のマーラー指揮者としての到達点が記録されたことを、ファンのひとりとして心から嬉しく思う次第でもある。
マーラーに限らず、初稿譜のブルックナーであれ、ベートーヴェンであれ、インバルの指揮者としての姿勢は、徹頭徹尾、楽譜の最適なリアライゼーションにある。最も楽譜を読み解く能力に長け、最も優れた耳でオーケストラを調律し、音符一つひとつに固有なテンポを与えて、実際の音としての音楽を創造する。こうして紡ぎ出される音楽は、生き生きとして瑞々しい歌に満ち溢れ、老いてなお、その音楽は若々しい。
皮肉なことに、イスラエルでインバルを見出し、外国での勉強をアドバイスし、奨学金の手配までして、プロの指揮者へと後押ししたバーンスタインは、究極の興行家・エンターテイナーであり、翻訳家・インタープリターに徹したインバルとは対極の人であった。バーンスタインは、ウィーンフィルとのマーラー5番、9番の演奏・収録に合わせたインタビューで「マーラーを聴いていると自分の音楽のように感じるので手を加える」と公言していた。つまり、バーンスタインのマーラーは、ジャズピアノの即興アレンジのように、精確には、バーンスタイン編曲のマーラーなのだ!
コンセルトヘボウとの本シリーズで、最も聴衆受けしたのは、ガッティ指揮の5番だったと思われるが、バーンスタイン張りの編曲著しい演奏で、楽譜にはない恣意的な休止符が何か所も挿入され、自然な音楽の流れが随所で寸断された醜悪な演奏だった。インバル以外では、9番のハイティンクの演奏が秀逸だった。オーケストラを完全に制御して鳴らしている様子がはっきりと見てとれた。どれほど歴史のある優れたオーケストラであろうが、指揮者に十分制御されないままのオーケストラは、原石状態のダイヤモンドと大差ない。それはコンセルトヘボウといえども決して例外ではない。このツィクルスは、そのことを見事に実証するものである。現役首席のヤンソンスについては、3番は素晴らしかったが、2番は弛緩の連続で、2番を十分理解出来ずに演奏している感が否めなかった。この企画がインバル&コンセルトヘボウオーケストラによるマーラーツィクルスであったならどんなに素晴らしかっただろうか!本シリーズ、全11ディスクを視聴・鑑賞した率直な感想である。