Lynyrd Skynyrd

Lynyrd Skynyrd (レナード・スキナード ) プロフィール

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米南部人気質といったものを象徴するかのような、豪放で、ときに叙情的な佇まいを見せるサザン・ロックと呼ばれるスタイル。70年代初期、オールマン・ブラザーズ・バンドの成功によってクローズ・アップされることになった、そうしたスタイルは、今聴いてもあの時代の雰囲気を濃厚に伝えてくれる。本稿の主役、レイナード・スキナードは、オールマン・ブラザーズより本格的なデビューがやや遅いものの、彼らとサザン・ロックの二大巨頭を張れる個性を持ったバンドとしてよく知られている。オールマンのツイン・ギターを上回る(!?)トリプル・ギター。フリーなどにも通じるブリティッシュ・ハード・ロックからの影響も感じさせる個性など…彼らならではのサウンドの魅力は今もファンの間で人気がある。

1965年頃、フロリダ州ジャクソンヴィルのハイスクールに通っていたロニー・ヴァン・ザント、アレン・コリンズ、ボブ・バーンズの三人が組んだスクール・バンドがレイナード・スキナードに発展した。バンド名は有名な逸話だが、彼ら三人に「髪を切れ!」と怒鳴っていた体育教師レオナード・スキナー氏の名前からとられたというもの。

ジャクソヴィル周辺を拠点に南部のクラブでライヴ活動を展開していった彼らは、まもなく活動の中心をジョージア州アトランタに移した。またこの頃には前述の三人のほか、ゲイリー・ロッシントン、レオン・ウィルクソンが加わり、メンバーも固定した。当時のアトランタでは数々のクラブで盛んにロックが演奏されていたというが、レイナード・スキナードも「Funocchio's」という小さなクラブにレギュラーを持ち、毎晩4ステージをこなしていたという。そして、そんな彼らを見て興味を持ち、デビューに導いたのが、当時ニュー・ロックの申し子といわれたアーティスト/プロデューサーのアル・クーパーだった。

アル・クーパーは自身の作品赤心の歌(Naked Songs)(名盤!)をアトランタの「スタジオ・ワン」で、アトランタ・リズム・セクションとレコーディングしており、そうしたことをきっかけに南部のミュージック・シーンに興味を持ったのだった。レイナード・スキナードを気に入ったアル・クーパーは、そのときに丁度、彼が設立を構想中だったレーベル、「サウンズ・オブ・サウス」のアーティストとして彼らを迎えることにした。

デビュー・アルバムはアトランタにあるアル・クーパーのスタジオで行なわれた。またその際にアルが連れてきた元ストロベリー・アラーム・クロックの元メンバーでギタリストのエド・キングも、このセッションに参加。結局、エドはそのままバンドに正式参加することになり、レイナード・スキナードの三人目のギタリストとして加入した。7人組となった彼らは1973年、ファースト・アルバム レイナード・スキナード(Pronounced Leh-Nerd Skin-Nerd) でデビュー。シングル・ヒットはなかったものの、アルバム自体は全米最高位27位まで上がる健闘を見せた。またデビュー作発表後、レイナードザ・フーの北米ツアーの前座を務め、各地で大きな喝采を浴びるパフォーマンスを披露し、その名を広めていった。

再びアル・クーパーのプロデュースにより制作されたセカンド・アルバム セカンド・ヘルピング(Second Helping)は翌1974年に発表された。全米8位を記録し彼ら最大のヒットとなった“スウィート・ホーム・アラバマ”が収録された本作は、アルバム自体でも最高位12位を記録し、彼らの出世作となった。因みに“スウィート〜”はニール・ヤングの“サザン・マン”への南部野郎(!?)からのアンサー・ソングといわれており、またレコード会社を皮肉った“ワーキン・フォー・MCA”が収録されているなど、本作は彼らの痛快な魅力が全面的に出た仕上がりとなっている。またセカンド発表と同年の1974年暮れにはファースト・アルバムから、人気の高かった“フリー・バード”がシングル・カットされ、翌1975年に全米19位となるヒットを記録するなどといったことも、彼らの人気を更に押し上げる要因となった。この頃にはレイナード・スキナードオールマン・ブラザーズ・バンドに続くサザン・ロック・バンドの本格派として高い評価を受けるようになっていた。

グループに転機が訪れたのは1975年のことだった。ドラマーのロバート・バーンズの脱退。代わりにアーティマス・パイルが加入しサード・アルバム ロックの魂(Nuthin’ Fancy) を発表。これも今まで同様にアル・クーパーのプロデュースで制作され、また映画「ロンゲスト・ヤード」挿入歌の“サタデー・ナイト・スペシャル”がヒットし、アルバム自体も彼らにとって初のトップ10入りアルバムとなり…とメンバー交代を乗り越え順風満帆に見えた彼らだったが、同年にアル・クーパーがアトランタを去り、またトリプル・ギターの一角エド・キングも突如グループを脱退、という出来事が起こっている。結局グループは6人組として活動を続けていくことになった。

新しいプロデューサーにトム・ダウドを迎え制作された通算4作目のアルバム 不屈の魂(Gimme Back My Bullets)を1976年に発表。またライヴ・パフォーマンスに定評のあった彼らが初めてライヴ盤をリリースしたのもこの時期だった。同年に2枚組ライヴ作 レイナード・スキナード・ライヴ(One More From The Road) を発表。同作は全米9位となるヒットを記録した傑作ライヴ・アルバムで、またこの中から“フリー・バード”がシングル・カットされこちらもヒットしたりした。

1977年に通算6作目となるアルバム ストリート・サヴァイヴァーズ(Street Survivers) を発表。しかし、このアルバムのリリース日から三日後に、あまりにも悲劇的な事故が起きてしまったのだった。

1977年10月20日、前夜にサウス・キャロライナ州グリーンヴィルでのライヴを終えたレイナード・スキナードは、自家用機にメンバーとクルーあわせて総勢26名を乗せて、次の公演地、ルイジアナ州バトンルージュへ向かう途中だったが、その飛行機は途中のミシシッピ州ギルズバーグの森林に墜落してしまったのだ。

乗員26名中、20名が奇跡的に生還。しかしヴォーカリストのロニー・ヴァン・ザント、ギタリストのスティーヴ・ゲインズ、、スティーヴの妹でバック・コーラスを担当していたキャシー・ゲインズ含む6人は帰らぬ人となった。

ロニー・ヴァン・ザントを失ったバンドは、その後活動を展開するすべを持たず、結局解散に至った。ゲイリー・ロッシントンとアレン・コリンズはその後、80年にロッシントン・コリンズ・バンドを結成し、アルバムを二作発表した。

忌まわしい事故から10年が経った1987年。未発表音源を集めたアルバム 伝説(Legend) が突如リリースされた頃から、レイナード・スキナード再編の動きが出てきた。ヴォーカルにロニーの弟search/artist.asp?artistcode=000000000014197&keyword=johnny+van+zant&category=ARTISTS、ギターにランドル・ホールを加えたレイナードは全米でリユニオン・ツアーを敢行。ファンの圧倒的な支持を受けたこの再結成ツアーの模様は、翌1988年に サザン・バイ・ザ・グレイス・オブ・ゴッド(Southern By The Grace Of God ? live) としてレコード化もされた。

90年代に入ると、その再編レイナードは新生レイナード・スキナードとして活動を本格化させていった。ドラマーのカスター・ラドウィックを加え、8人組編成のバンドとなったレイナード・スキナードは、アトランティック・レーベルと契約。1991年に復活後初のスタジオ録音アルバムとなる レイナード・スキナード1991(1991) を発表。また更に1993年には ザ・ラスト・レベル(Last Rebel) 、この後メンバー・チェンジを経て、1994年にはアコースティック・セットで録音された エンデインジャード・スピーシーズ(Endangered Spacies) などを発表している。その後のアルバムを列挙すると、1996年にサントラ盤 フリー・バード:ザ・ムーヴィー(Freebird :The Movie) 、1997年のスタジオ録音盤 トゥウェンティ(Twenty) 、1997年のツアーの模様を収録した ライヴ(Lyve) (発表は1998年)、1999年発表スタジオ盤 エッジ・オブ・フォーエヴァー(Edge Of Forever) となる。

ライヴで圧倒的な凄さを見せつけるレイナード・スキナードの豪快なサウンド、そして豊かな情感溢れるプレイは、サザン・ロックの魅力を語る際に決して外すことのできない個性としてこれからも語り継がれていくだろう。

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