Jane Birkin
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Jane Birkin (ジェーン・バーキン ) プロフィール

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1946年12月14日、Jane Birkinジェーン・バーキンは、女優ジュディ・キャンベルと、英国海軍大佐のデヴィッド・バーキとの間に生まれた。彼女がこの芸能界に足を踏み入れたのは17歳の時。ジョン・バリーに見い出され、1965年のミュージカル・コメディ『Passion Flower Hotel』の出演契約を結んだ時だ。2人はその後間もなく結婚し、67年には娘のケイトが誕生した。

 20歳の時、カンヌ映画祭で好評を博したアントニオーニ監督のスキャンダラスな映画『欲望』(原題『Blow Up』)で、一躍脚光を浴びたジェーン。その頃フランスでは、ピエール・グランブラ監督が映画『スローガン』を制作しており、彼はセルジュ・ゲンズブールの相手役となるイギリス人女性を探している所だった。

このアーティスト、 つまりゲンズブールは、1960年代のティーンエイジ・ポップ・ムーヴメント一派に属し、その頃既に名が知られていたのだが、彼はちょうどブリジット・バルドーとの破局の後で、心に傷を負っていた。ジェーンはその映画のスクリーン・テストに参加。

 ブロークンなフランス語を話す彼女は、その共演者(ゲンズブール)のことは何も知らず、傷心の彼が八つ当たりする矢面に立たされてしまった。ゲンズブールは今までになくぶっきらぼうで、怯えている若きジェーンに辛く当たり、カメラの前で泣かせてしまったこともあった。神話化されている2人の恋物語は、1969年のパリでこんな風にして始まったのだ。そして、離れることが出来なくなったジェーンとセルジュは、“ポスト68年”の自由論者の風が吹いている“アングラ”なそこここのバーで伝説となる。そして2人は、声と体とで扇情的に表現した、けだるい“ジュテーム・モワ・ノン・プリュ”をレコーディング。ジェーンは、陳腐になりかねないエロティシズムに彼女らしい無邪気さを加え、巷の話題をさらった。

異端なそのシングルは、1969年発表のアルバム『ジェーン・バーキン/セルジュ・ゲンズブール』に収録。そのアルバムでジェーンは4曲を独りで歌い、残りの曲はセルジュとデュエットしている。その中には、時代を超えた名曲“69はエロの年”も含まれている。検閲騒ぎを巻き起こしたこの作品は、発売一ヶ月で100万枚を超える売り上げを記録。ジェーンとセルジュのカップルは、あらゆる雑誌の見出しを飾り、メディアの大きな注目を浴びて、それを楽しんだ。1971年には2人の間に愛娘シャルロットが誕生し、ジェーンは2年間活動を休止した。

 彼女が活動を再開したのは、1973年の初ソロ・アルバム『ディ・ドゥ・ダ』。そしてジャック・ルーフィオ監督の『仮面・死の処方箋』(75年)で、映画女優としての実力も証明した。彼女のパフォーマンスは時に“エロティックでキッチュな”甘々のセンチメンタルとして評価が低められることもあったが、細身のジェーンは、妖精のように軽やかなイギリス人女性のイメージを、自ら進んで演じていた。それこそが彼女に課されたイメージであり、彼女はそのイメージで、そういった商業ベースの作品の成功に貢献したのである。

 1975年、お騒がせなこの恋人達(ジェーン&セルジュ)は、映画『ジュテーム・モワ・ノン・プリュ』で再び作品を共に制作(注:ゲンスブールが監督と音楽を担当)。この映画では、“ピグマリオン”(=セルジュ)がホモセクシャルのテーマを探求していて、彼に芸術的霊感を与える両性具有的な詩神(=ジェーン)の性の曖昧さが、作品のハイライトとなっている。清教徒の多いフランスでは、人々はこの映画に激怒。評論家達は酷評し、またジェーンはこの映画に出演したことで映画界から干され、レコーディング・スタジオへと戻って行った。

1975年にはアルバム『ロリータ・ゴー・ホーム』を発表。この作品でジェーンは、フィリップ・ラブロの歌詞をゲンズブールの曲に合わせて歌っている。1978年にはアルバム『想い出のロックン・ローラー』をリリースし、人々を惹き付けた。セルジュの苦悶に満ちた歌詞を歌う、少し意地悪そうで、半分かん高く半分囁くようなジェーンの声、そして綿のようにフワフワした感触に、世間は魅了されたのである。そしてゲンズブールと別れてから2年を経た1983年、ジェーンは映画監督ジャック・ドワイヨンと付き合うようになる。彼は『La Fille  Prodigue』(81年)、『ラ・ピラート』(84年)の監督で、彼女を演技派女優への道に進ませた人物だ。

別れの苦しみから立ち直れずにいたセルジュは、『バビロンの妖精』の曲を彼女のために書くことによって、控えめな形で自分の心情を彼女に告白した。曲を書いたセルジュの内なる不安と動揺とを、深く感動的に表現したジェーン。彼女が歌う“虹の彼方”や“シックなランジェリー”、あるいは“ノーマ・ジーン・ベイカー”の調べの裏には、別れ別れになった恋人達の結末が滲んでいる。

活気に満ちていた80年代、ジェーンの人生も幸せの絶頂にあった。三女ルーが1982年に誕生し、アルバムはゴールド・ディスクを獲得。ジャック・リヴェットやレジス・ヴァルニエらのような監督達とも、彼女の芸術家としての感受性の波長は一致した。アルバム『ロスト・ソング』を1987年にリリースした後、ジェーンは“セルジュに衝撃を与えるため”、バタクラン劇場(パリ)のステージに立つことを承諾した。20曲からなるそのリサイタルの、鋭い感性と詩情に溢れた雰囲気に支えられたミニマリストなパフォーマンス。その中には、胸を打つレオ・フェレのカヴァー曲“時の流れに”も含まれており、それは大きなヒットとなった。ジェーン・バーキンは40歳の誕生日を前にして、終わりのない青春に別れを告げ、独り立ちしたアーティストとして完全に満たされていたのである。

 1990年、ゲンズブールは新しいアルバム『いつわりの愛』を彼女に捧げる。それが彼の最後の作品となった。彼は1991年3月2日に死去。その数日後、ジェーンの父デヴィッドも亡くなった。ジェーンは悲しみにうちひしがれていたが、ずっと以前から予定されていたツアーをキャンセルすることは出来なかった。彼女がカジノ・ド・パリのステージに立った時、会場は瞑想的な空気で満たされ、彼女の感情は手で触れることが出来そうなほど、剥き出しになっていた。そして彼女が出した声明は、誰しもの心に刻み込まれたのである。「私は歌をやめるつもりなの。他の人とレコーディングすることなんて、想像もできないのよ」。

 家族と友人達に支えられながら、ジェーンは1992年7月に、フランコフォリ・ド・ラ・ロシェルでそのツアーを終了した。その日の最後に、舞台の床にマイクを置いた彼女。それは彼女流の、セルジュへのお別れの表現であった。歌をやめると決心したことによって負担から解放されたジェーンは、人目に立たない作家活動に戻り、また自分にとって大切なものに身を捧げることにした。つまり、家族と人道主義的な活動である。彼女は特にアムネスティ・インターナショナルの代表として、歌を作り続けた。エイズとの闘いを描いた短編映画を制作したり、サラエボの内戦で闘う軍隊の慰問にも訪れた。

 “セルジュを歌い続ける”ことを切望していた彼女のファン達の願いは、1996年の『追憶のランデヴー』のリリースによって叶えられることになる。このアルバムでは、ゴラン・ブレゴヴィッチ、セネガル人のパーカッショニストであるドゥドゥ・ンジャエ・ローズらを始めとする様々なアーティスト達が、若き日のゲンズブールのレパートリーから15曲を新たに編曲。作品全体にはノスタルジックな雰囲気があるが、オリジナルの発表から30年を経て、レ・ネグレス・ヴェルトによって刷新された“ぬかるみ”とその元気のいいリズムに、世間は熱狂的なまでに夢中になった。

 1998年にジェーンは『A La Legere』をレコーディング。“完全なる背信”と彼女が描写するこの新しい冒険では、12曲のオリジナル・ソングを12人の作曲家達に依頼して書いてもらった。ゲンズブールが歌詞と曲のどちらにも全く関わっていないのはそれが初めてだったが、創作された曲のそれぞれにインスピレーションを与えたのは彼である。曲の提供者には、次の人達が含まれていた:シャンフォール、スーション、ヴールズィ、フランソワーズ・ハーディ、MC・ソラー、ラヴォワン、ダオ、そしてザジ。ザジがジェーンに提供したのは“そんなもの”、激しい感情に満ちたその歌詞はこんな具合である。『私はもうあなたについて一言も言うつもりはないわ/そのほうがいいの/これから先は、他のもの達が私に語らせるから』。これらの歌詞は最初聴いた時は聞き取れないが、それはジェーンの心に強く焼き付き、結果このアルバムは“彼女が望み得る限り最も慎み深い”作品となった。彼女は歌い手として敢えて危険を冒し、声の調子を強め、そして澄み切った明瞭な声で、彼女自身がそうであるように、より軽快に明るく歌うという挑戦を行なっている。

 2002年にジェーンは、“エリザ”や、彼女自身の一番のお気に入りの曲である“シックなランジェリー”、あるいは“いつわりの愛”の魅力を色褪せさせないように、自分なりのやり方で守ることにした。オリエンタルな旗のもと、“アルジェリア的であり、かつアンダルシア的であり、同時にまたジプシー的でもある”空の下で、彼女はセルジュの曲を歌った。彼女は、できるだけ幅広い若年層の聴き手にセルジュのことを知ってもらうというアイディアに、ワクワクしていたのだ。『アラベスク』と題されたこのコンサートで彼女は、アルジェリア人のヴァイオリニスト、Djamel Benyellesと一緒に仕事をしたいという以前からの願いを実現した。彼の演奏によってゲンズブールの曲は、アラブ風のアレンジに揺らめく。その彼の横で、ジェーンは裸足のまま、血のように赤いロング・ドレスを身にまとい、Aziz Boularouq(パーカッション)、Fred Maggi(ピアノ)、Amel Riahi el Mansouri(リュート)らに囲まれながら、“天国の鍵束”を歌った。

1997年にニヨンで開催されたスイス・フェスティバルで生み出された『アラベスク』は、熱狂的なオーディエンス達にとって歓迎すべき変化であり、ジェーンはスタンディング・オベーションで迎えられた。彼女が「ライヴがこうであったなら」と長年夢見ていたのは、正にそういったフェスティバルの雰囲気だったのだが、それはほんの数年前までは考えられなかったようなことであった。2003年にジェーンは、フランス、ロンドン、スペイン、イタリア、ニュー・ヨーク、そしてアジアで『アラベスク』を披露し、アルバム/DVD『アラベスク』をリリース。ここ日本でもEMI移籍第1弾となるライヴ・アルバム『アラベスク』のリリース後、2003年5月に来日公演を大成功に収めた。

2004年には待望のオリジナル、EMI移籍後初デュエット・アルバムRendez Vous(邦題:ランデ・ヴー)が発売。 大御所Alain Souchonアラン・スーション、70'sを代表するSSWAlain Bashungアラン・バシュングFrancois Hardyフランソワーズ・アルディ、南仏の裏路地フォークManu Chaoマヌー・チャオ、バーキンやゲンズブールの楽曲を歌った傑作『Poses』(*現在廃盤)で御存知Alain Chamfortアラン・シャンフォールらが参加しているほか 言わずと知れたRoxy Musicロキシー・ミュージックの中心人物Bryan Ferryブライアン・フェリーが、そしてブラジルが生んだ今世紀最初で最後の天才Caetano Velosoカエターノ・ヴェローゾとの夢の共演が実現。さらに新作Sleeping With Ghostsで更なる音楽性を魅せつけたPlaceboプラシーボやフランスで脚光を浴びる新進気鋭のMickey 3Dミッキー・トロデや、MiossecミオセックPortisheadポーティスヘッドのヴォーカリストだったBeth Gibbonsベス・ギボンズ...らが参加しているのも、さすがジェーンといったところ。

そして2005年、この2005年はセルジュ没後15周年ということで、セルジュのトリビュート『Monsieur Gainsbourg』に参加、Franz Ferdinandと共演を果たし、そして自らのオリジナル・アルバム『Fiction』が仏盤で3月(日本盤5月発売予定)リリースとなります。

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