Dragon Ashは、当時17歳(!)だった降谷建志と、中高の同級生だった桜井誠、そして数々のバンドを渡り歩き経験豊かな馬場の3人で結成。当初からデビューが決定しており、その点は難なくクリア。学生の頃から曲を書き溜めていた降谷が中心になって楽曲をバンドの形付けしていき、1997年2月、ミニ・アルバムThe Day Dragged Onでデビューした。立て続けに4月には2ndミニ・アルバムPublic Gardenをリリース。メンバーはフルアルバムを早く出したかったらしく、ようやく11月にMustang!をリリースしている。この頃のバンドは、降谷のグランジ系やブルーハーツ好きとが影響したパンク/ハードコアが中心。3ピースというバンド形態もあって、パンク一派と尾もわれがちでした。当時はインディーズでのパンク/スカコアが盛り上がりだした時期で、メジャーのバンドよりもこっちのほうが正直言っておもしろかったし、期待感があった。海外ではRage Against The MachineやProdigyが圧倒的に人気があった頃です。
1997年当時の同世代バンドには、TriceratopsがBounceレーベルから鳴り物入りでデビュー、Pre SchoolがインディーズでPop Cult Do Doを出して注目を浴びていたし、メジャーではGrapevineやSupercar、Pete Bestと次々現れていました。日本のロックシーンの新しい波がやってきた!とメディアも盛り上がり始めた時期。イベントも多数開催され、まだ知名度がかなり低かった頃のDragon Ashがフェスのしかも午前中に、不機嫌そうに轟音を鳴らしていたのような時代。その頃は、ボーカルがかっこいい位の認知度だったと思います。たしかにまだ高校生バンドの域だった彼らは、雑誌のインタビューにも「金が欲しいから音楽をやってる」「イライラした気持ちを音楽にしただけ」と、やけにぶっきらぼうで不機嫌そうだった。(こういう雰囲気はデビュー時のThee Michelle Gun Elephantと似ている気がする。)
1999年7月、彼等を渇望するニーズが増え続ける中、3rdアルバムViva La Revolutionをリリースすることになる。もうこれは社会現象と言っても言い過ぎではないほどの騒ぎだった。同年3月には宇多田ヒカルのあのモンスター・アルバムFirst Loveが出たばかりで、チャート1位をずーっと独占中、それに対抗するかのように盛り上がっていました。大ヒットした3タイトルのマキシが収録されていたこともあり、当然のごとくチャートは1位を獲得。しかし、収録曲はパンク/ハードコアよりと、ヒップホップよりにくっきり分かれ、どっちつかずのバンド状態を表現している。それを今のDragon Ashだと、違和感なく繋げるあたりが彼らの非凡さだろう。当時20歳になったばかりの降谷と桜井は、今の多くの音楽リスナーがそうであるように、ロックもヒップホップもテクノも何でも聴くというのが当たり前で、自ずと自分達が作る音楽もそうなるのがよくわかるアルバムである。このアルバムで正式にメンバーになったBotsの存在も大きい。そして彼等は喧騒の中、充電期間に入る。
そして、2000年11月にニューマキシLily's e.pをリリースする。Amploudと静かな日々の階段をの正反対のサウンドをぶち込めたこのマキシで、ニューアルバムへの期待は膨らむ一方。そしてライヴツアーを挟みながらレコーディングされた4thアルバムLily Of Da Valley。確実にTMCでのライヴツアーの成果ともいえる、ハードなヘビーチューン、突風の如きフロウ、爆音ギターが鳴り響く、21世紀日本のロックシーン史上重要アルバムであることは間違いない。