Dean Martin

Dean Martin (ディーン・マーティン) プロフィール

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 テレビに映画、さらにはミュージシャンとしても大成功を収めたアメリカの国民的スター、ディーン・マーティン。その粋なスタイルと洒落っ気のあるユーモア・センス、そして甘く優しい歌声に世の女性は虜となりました。そんなディーン・マーティンの生い立ちから触れてみたいと思います。

ディーン・マーティン 本名:Dino Paul Crocetti 1917年6月17日 イタリア人系オハイオ州スチューベンビルに生まれ。イタリアからアメリカへ移民した両親は理髪店を営み、ディーンも5歳までイタリア語しか話せなかったが、学校へ通い英語をマスターする。彼は最終的には16歳のころ学校を退学し、製鉄所で働きはじめるが、その製鉄所もすぐ辞め、もぐりの酒場で働くようになる。その酒場で、ミドルウェスト地帯のナイトクラブを牛耳る経営者と知り合う。そこで彼は自らの名前をディーン・マーティンと命名し、鼻に整形手術を施し、ナイトクラブの歌手として、またモデルとして芸能活動をはじめる。

素晴らしいルックスと愛らしいキャラクターの新鋭エンターティナーとして活躍を続けるものの、なかなか大成を収められない時期が続くが、1946年の第1弾シングル’Which Way Did My Heart Go?’を発表。この時期に貧しいながらもパフォーマーとして活動していたジェリー・ルイスと出会い2人でコンビを結成。数多くの番組にひっぱりダコとなり1940年代後半にはドル箱スターとして一世を風靡した。そして1949年には映画デビューも果たす。

1951年の映画”At War With The Army”で、ディーンとルイスは初めてスターとしての扱いを受け、この映画のあとも続々と出演の以来がくるようになる。以後も1952年の”Jumping Jacks”、1953年の”Scared Stiff”、55年の”ArtistsAnd”56年の”Hollywood Or Bust”などで大ヒットを成し遂げた。

この後、ディーンとルイスはそれぞれソロ活動の道へ進むようになる。ジェリー・ルイスはスーパースター界で解散後も大活躍し、一方のディーンはソロ後は困難な状況になるであろうと、傍観者の多くは感じていたが、そのソロ後、リリースしたシングル”That's Amor”が空前のスマッシュ・ヒットとなり、マーティンは歌手として芸能界で輝くことになる。1958年にはテレビ・ドラマにも俳優として出演、その同年にはNBCで”ディーン・マーティン・ショー”のホスト役を務める。俳優として、エンターティナーとしも成功したディーン・マーティンは、それでも歌うことを続け、’ヴォラーレ’などヒット曲を連発させた。

その後、ピークは過ぎたものの、その毒づいたトークと洒落たユーモアで芸能界に君臨。映画”Some Came Running”では、フランク・シナトラと共演したのをきっかけに、サミー・デイヴィス・ジュニアやピーター・ローフォウド、シャーリー・マクレーンらと並ぶ活躍を見せる。そしてこのメンバーらで”Rat Pack”を結成し音楽活動をする。

60年代に入ってからは、名匠ハワード・ホークス監督の”リオ・ブラボー”や”オーシャンと11人の仲間”、63年には”7人の愚連隊”などに出演。その翌年の1964年、ビリー・ワイルダー監督の”ねえ!キスしてよ”に主演、そしてシングル”誰かが誰かを愛してる”のスマッシュ・ヒットにより人気が再熱。そしてNBCで1965年から放映した”ディーン・マーティン・ショー”という、ミュージカル仕立てのバラエティ番組にホストとして毎回出演。1973年にタイトルを”ディーン・マーティン・コメディー・アワー”と変名して1974年まで放映。タイトルを変えてからは、ディーンはカントリー音楽へ力を注いでいた。

”ディーン・マーティン・ショー”の放映をしていた頃から体調を崩し、番組が終了後には活動を減らしてしまう。1987年、ディーンの息子であるディーン・ポールが飛行機事故に遭いなくなってしまい、さらに生きる気力を失ってしまう。がその翌年にはフランク・シナトラサミー・ディヴィス・ジュニア、そしてディーンの3人によるツアーを敢行し元気な姿をみせてくれた。そのツアーを最後に芸能活動を終える。1995年のクリスマスに亡くなる。享年78歳。

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