ハイスクールに通うデヴィッドは英語以外の科目は全て落とす問題児だったが、父親の影響でチャールス・ミンガスやジョン・コルトレーンなどのジャズに興味を持ち、サックスを演奏したり歌を歌ったりといったことをクラスの仲間に披露するようになった。15歳になると自身を音楽で表現したいと思うようになり、初めてのバンドを結成。同時にビート文学の代表的作品、ジャック・ケルアックの「路上」やファーリンゲッティの作品を読みふけるようになったデヴィッドは、自分の通う、良家の子弟が通う格式ばったハイ・スクールに見切りをつけ、ドロップ・アウト。広告関係の仕事に就くが、これには魅力がないと気付いたデヴィッドは半年であっさりとこの会社も退職してしまった。その後1963年にデヴィッドはあるミュージシャン達4人と偶然知り合いになる。彼らはすぐに意気投合し、バンドを結成。デイヴィー・ジョーンズ・ウィズ・ザ・キング・ビーズという名前だった。あるエージェント・マネージャーとコネクションを持った彼らは、1964年6月、デッカのボカリオン・ポップ・レーベルからシングル“ライザ・ジェーン”を発表。プロ・デビューを果たしたが、このシングルがまったく売れず、終いにはTV出演のため髪を切らされそうになるなどゴタゴタが続き、結局9ヶ月後にバンドは解散。デヴィッドは新たにザ・マニッシュ・ボーイズというバンドを結成、パーロフォンから1965年3月にシングル“アイ・ピティ・フール”をリリース。しかしこれも大して話題となることはなく、またもバンドは解散。この後もデイヴィー・ジョーンズ&ザ・ローアー・サードでシングルをリリースするも同様の結果となり解散、そして次に結成したデヴィッド・ジョーンズ&ザ・バズ時代に、デヴィッドはソロ活動をしていくことを決意する。きっかけはロイヤル・アルバート・ホールで観たボブ・ディランのライヴ。これに触発されたデヴィッドは、ソロ活動に際してまず名前を心機一転改めた。当時人気絶頂だったザ・モンキーズのデイヴィー・ジョーンズと同姓同名であったため、アーティスト名をデヴィッド・ボウイと改名。1966年4月、ソロ・アーティスト、ボウイとしての初シングル“ドゥ・エニシング・ユー・セイ”を、8月に続くシングル“アイ・ディグ・エヴリシング”をパイ・レーベルからリリース。これは以前に比べれば関係者の評判も上々だったが、やはりセールスがついてこない。パイとの契約も一年で切れ、デラム・レコードへ移籍。3枚のシングルと初アルバム、デヴィッド・ボウイ・デビュー・アルバム(Love You Till Tuesday)を発表するが、ほとんどプロモーションの行われなかったこの作品群も大きな評価を集めることはなかった。