マリリン・モンロー
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マリリン・モンロー プロフィール

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没後35年以上経った今でも、世の男の「セックス・シンボル」として永遠に名を残しているマリリン・モンローです。あの愛くるしい声と瞳に不釣合いにも思えるセクシーな唇と豊満な体、このアンバランスさが「セックス・シンボル」の証なのでしょう。彼女の生い立ちから死に至るまで、少し触れてみます。

ノーマ・ジーン・モーテンセン(マリリン・モンロー)は1926年にアメリカ・ロサンゼルスに生まれ、母親が精神病院に入院していた為孤児院などに転々とたらい回しにされる…と、つらい幼年期を過ごします。

1942年になり、ノーマ・ジーンはモデルとして活動を開始します。まだ16歳という若さでジム・ドゥアティと結婚しています。が、長続きはせず4年後には離婚してしまいます。そしてその数年後に、20世紀フォックスと契約し女優として売りだしますが、今ひとつ当たらず、やむなく解雇、そしてヌード写真や単なるモデルになってしまいます。そこで原石を拾ったのが、ジョニー・ハイドという超ヤリ手の大物です。そしてまた再契約し、ここから開花し始めます。

1953年、芸名をマリリン・モンローとして活躍し出した彼女の出世作がこの年に発表された『ナイアガラ』です。モンロー・ウォークが大ブームを呼び、プレイボーイ誌の表紙にもなっています。そして同年に『紳士は金髪がお好き』も爆発的に大ヒットします。この頃のイメージが定着しているせいか、「セックス・シンボル」として今も語られています。本当はただ可愛いだけの女性のような気がしますが…。

そしてその翌年、ニューヨーク・ヤンキースの名選手として名を馳せていたジョー・ディマジオと結婚します。余談ですが、このジョー・ディマジオは今年84歳の生涯を終え、帰らぬ人となってしまいました。またマリリンを一生涯愛し続けた…などとも言われています。新婚旅行としてここ日本に、2週間ほど来日もしてくれました。しかしこの甘い生活も僅か1年足らずに留まります。ビリー・ワイルダー監督の『七年目の浮気』で有名なシーン…、あの真っ白なドレスが風でピューッと…てな映像はマリリンを知らない若い世代でも知っている映像でしょう。このシーンでディマジオが大激怒し離婚にまで至ります。ここでもディマジオの愛の大きさがうかがえます。この映画自体はこんなセクシーなイメージとはまるでかけ離れた可愛いストーリーだったのですが…。

1956年、『荒馬と女』、『セールスマンの死』、『クルーシブル』などの戯曲で有名な作家のアーサー・ミラーと結婚します。今度は順調か…と思いきや翌年には子宮外妊娠で流産…と、プライベートは波瀾つづきです。が、この翌年の1960年のこれまたビリー・ワイルダー監督の名画『お熱いのがお好き』でゴールデン・グローブ賞を受賞。何と言ってもこの映画でのマリリンのキュートさったらナイ!です。トニー・カーティス、ジャック・レモン、と、脇をこの2人が支えていたせいもあってか素晴らしい映画です。何よりもお気に入りな映画です。ここでトニー・カーティスへの想いを歌うシーンなども最高でした。ここで歌われたのが「愛されたいの」です。こうして女優業は順調に進みました。

この頃から大統領ジョンF.ケネディとの交際が始まります。恐らくこれが火種となってアーサー・ミラーと離婚してしまいます。マリリンはケネディと付き合いだしてから、酒、睡眠薬に溺れていきます。そしてとうとう精神病院に入院してしまいます。

1962年8月、自宅で全裸で死亡していたのを発見されます。享年わずか36歳でした。死因は睡眠薬の大量服用による中毒死とされています。自殺の線が濃いと当時されていましたが、自殺/他殺のどちらかは本当には解明されていません。ヤンキース名選手の元夫であったジョー・ディマジオが駆けつけ、引き取り人がいないマリリンの遺体を引き取り葬儀も行われました。大統領の誕生日パーティーで「ハッピー・バースデー・ミスター・プレジデント」を歌っていた、その3ヶ月後に亡くなっています。

波乱万丈な人生を歩んだマリリン・モンローの死から36年経った今でも、「セックス・シンボル」として語られています。彼女の純粋無垢で、いつも誰かに愛されていたい、という可愛らしさは、世の女性陣も、あやかりたいものです。

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