サミュエル・ベケット

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見ちがい言いちがい

サミュエル・ベケット

基本情報

ジャンル
ISBN/カタログNo
ISBN 13 : 9784879952578
ISBN 10 : 4879952575
フォーマット
出版社
発行年月
1991年11月
日本
共著・訳者・掲載人物など
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追加情報
:
20cm,120p

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読書メーターレビュー

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  • たーぼー さん

    何を見ちがい何を言いちがうのか?この世界ではあらゆる存在が崩壊している。黒だけ。白だけ。高いも低いもない。ここに死にそうな老女がいる。やがて終わる命だ。しかし彼女は生きる。また姿を見せる。理由は不明。途切れ途切れの言葉が意思の深層を、いわば無意志的記憶を揺り動かされ、それは曖昧さを駆使する魔法ではなく、確とした語法として突きつけられる。不安と戸惑いも禁じえないが、なにも特別な世界じゃないし、けして眼を覆いたくなる世界でもない。そもそも女を『眼で見る』行為自体が意味があるようで無意味なことなのかもしれない。

  • zirou1984 さん

    後期ベケットの作品に共通する途切れとぎれの言葉たち。途切れそうな老女の生。それを見つめる眼差し。それは見ちがい?違う。それとも言いちがい?そうではない。言葉の間と沈黙は別物だ。だけど今にも霧散してしまいそうで。意味のさいはて。から引き返して。きたような。境目を曖昧にするような。それは途切れとぎれに。言葉が内側から染み込んでいく感覚。理解の向こう側から。今にも終わってしまいそうな。でもそれも間違いで。否定を否定することで続いていく散文。言い違えることで可能性を保ち続ける作品を語ること。語り続けること。

  • roughfractus02 さん

    伝えることは、見る人が見ない人に伝えること、そして、見ない人が見ない人に伝えることでできている(E・バンヴェニスト)。では、見ることと伝えることが一致しない場合何が起こっているのか? 死に向かう老婆がいる。語り手はじっと老婆を見ている、「死ぬほど」「省略なしに」。が、老婆を見る視点は徹底するほど不安定で、見ることは伝えることに届かない。それでも何かが読者に伝わるのは、見ない人が見ない人に伝える力を言葉自身が作動し続けるからだろう。この力は老婆を幻のように浮かび上がらせるのだが、老婆の生死はもうわからない。

  • 刻青 さん

    わすれられたときひとは死ぬという じゃあ 思い出されるかぎり生きているというの これでも生きているといえるの 思い出されるわたしはいつもわたしの破片 もっと酷い 思い出すひとの瞳の色 心の裂け目に添えられてわたしはあなたの心のかたち そこでも生きていけるの わたしのかたちはわたししかないのに あなたのかたちになったわたし もっと酷い そこにいるのは ほんとうにわたしなの わたしはほんとうにそう見えるの思ったの どうしてわたしの見るものがわかるの わからない わかるのは 誰かがわたしを思い出していることだけ

  • 田畑 さん

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サミュエル・ベケット

1906‐1989。アイルランド出身の小説家・劇作家。1927年、ダブリン・トリニティ・カレッジを首席で卒業。28年、パリ高等師範学校に英語教師として赴任し、ジェイムズ・ジョイスと知り合う。30年、トリニティ・カレッジの講師職を得てアイルランドに戻るも翌年末に職を離れ、その後パリに舞い戻る。33年末

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