Jefferson Airplane
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Jefferson Airplane (ジェファーソン・エアプレイン) プロフィール

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グレイトフル・デッドクイックシルヴァー・メッセンジャー・サービスらとともに、60年代後半のシスコ・ロックを代表するロック・バンド、ジェファーソン・エアプレイン。60年代後半のヒッピー・ムーヴメントの聖地であったサンフランシスコの自由でリベラルな土地柄を反映したアート・ロックを聴かせた彼らは、まさに時代を象徴する存在だった。特に彼らの大ヒット曲”サムバディ・トゥ・ラヴ”や”ホワイト・ラビット”は、発表当時の全米チャートという中で、古典的なポップスの流れとは異質な質感を持って響いたのではないだろうか。ボブ・ディランのロックへの転向〜フォーク・ロックからサイケデリックへの流れ、といった動きの中で彼らの不思議にポップな魅力をも備えたそれらのヒット曲は、ロサンゼルスのドアーズの一連のヒットとともにシーンに新風を吹き込んだに違いない。

ジェファーソン・エアプレインは、フォーク・ソングを歌っていたオハイオ州出身のマーティン・バリンが、ビートルズに代表されるエレクトリック・バンドに刺激を受け、バンド結成を思い立ったことが原点となっている。バリンが歌っていたフォーク・クラブ「ザ・ドリンキング・ゴード」で、彼とサンフランシスコ生まれのポール・カントナーが出会い、意気投合した彼らはグループのアイデアを固め始めたという。カントナーの知り合いでジャニス・ジョプリンと組んでいたこともあるヨーマ・コウネンをギターに迎えたバンドは、ヨーマの推薦でベーシストにジャック・キャサディを加入させる。またドラムはオーディション廻りをしていたギタリスト、アレックス“スキップ”スペンスに無理矢理スティックを握らせることで決着した。さらに女性ヴォーカリストのシグネ・トリー・アンダーソンを加えたバンドは6人組となり、この時点で結成時のメンバーが揃った。この後時代性とリンクした音楽を聴かせていく彼らだが、奇しくも彼らが結成したこの1965年という年はアメリカが北ヴェトナムを空爆した年だった。

フォーク・ロックやR&B、ブルースなどを独自の感覚で取り入れたジェファーソン・エアプレインのステージは早くも地元サンフランシスコで好評を博した。そしてRCAレコードと契約(大手と初めて契約を結んだ初のサンフランシスコ出身バンドとなった)。契約金は2万5千ドル。当時としては破格の額だ。1956年12月にオーティス・レディングに捧げた曲として知られるファースト・シングル“イッツ・ノー・シークレット”をレコーディング。1966年8月にはデビュー・アルバム ジェファーソン・エアプレイン・テイクス・オフ(Jefferson Airplane Takes Off) を発表。ここでは殆どの楽曲でバリンがリード・ヴォーカルを取り、あのテナー・ヴォイスを聴かせている。

まずまずの立ち上がりを見せたエアプレインの離陸だったが、1966年には早くもアレックス“スキップ”スペンスが脱退(後にモビー・グレイプにギタリストとして加入)。またシグネ・アンダーソンが出産で休養と、グループの転機が早くも訪れている。スペンスの代わりに、ジャズ系の本格派ドラマー、スペンサー・ドライデンが加入。シグネの代わりにはその後のエアプレインの顔を担う女性シンガー、グレイス・スリックが加入した(スリックは夫ジュリーやその弟ダービーらとグレイト・ソサエティというバンドをやっていた)。結果的にこの交替劇は「吉」と出た。これ以降1970年頃まで続く黄金時代のメンバーが揃ったのだ。

メンバー交代を経たバンドは1967年にセカンド・アルバム シュールリアリスティック・ピロー(Surrealistic Pillow) を発表。シングル“サムバディ・トゥ・ラヴ(あなただけを)”と“ホワイト・ラビット”の二曲が全米トップ10に入るヒットとなり、サンフランシスコ発のサイケデリックなサウンドをメインストリーム・シーンに印象付けた。彼ら含めヒッピー文化、カウンター・カルチャーと密接に関わったサンフランシスコに拠点を置くバンドは、シスコ・ロック勢と呼ばれるが、グレイトフル・デッドクイックシルヴァー・メッセンジャー・サービスなどが属するその界隈には一種独特で、またヒッピー思想に裏付けられた親密なコミュニティが存在したと言われている。

前作で大出世を果たしたエアプレインは1967年後半に多忙な中、早くもサード・アルバム アフター・ベイジング・アット・バクスターズ(After Bathing At Baxter's) を発表、また翌1968年には通算4作目 クラウン・オブ・クリエイション(Crown Of Creation) を発表する。特に後者に感じられるその政治色が濃かったり、思索的だったりするような歌は当時の社会情勢の反映したかのようにシリアスな佇まいを持っていた。

1969年にエアプレインは前年同様二枚のアルバムを発表。一枚はライヴに定評のあった彼らの初ライヴ・アルバム フィルモアのジェファーソン・エアプレイン(Bless Its Pointed Little Head) 、もう一枚は彼らが人気と創造性の頂点を極めたとも評される名作 ヴォランティアーズ(Volunteers) 。後者は特に政治色の濃い内容で、彼らの姿勢を明確に示したともいえる一作。ただ彼ら自身が後に語った言葉などをみると、「革命」や「暴動」といったキーワードが踊る楽曲は、意外に身近なところからモチーフが取られていたり、理想郷を夢見るようなヒッピー的思想への比較的シンプルなオマージュだったりするようだ。ともあれ、サウンド自体もこの辺りでは強靭な部厚いものとなり(ゲスト陣の活躍もあった)、エアプレインはしなやかで強力なロック・サウンドを持つ稀有な個性を確立した。

60年代末のヒッピー文化の終焉を告げるような悲劇が1969年12月6日に起こったことは有名である。俗に「オルタモントの悲劇」と呼ばれるその事件は、その日開催されたローリング・ストーンズのフリー・コンサートで、警備を務めたヘルス・エンジェルスの構成員が、演奏中に観客に暴力をふるったというものだ。そんなヘルス・エンジェルスを見咎めたバリンは逆に殴り倒され、暴動はさらに広がった。そしてその夜遅くに出演したストーンズの演奏中に白人のガールフレンドを連れていた黒人青年がヘルス・エンジェルスの手で刺殺されるという最悪の惨事まで招いてしまったのだった。コンサートに深く関わったジェファーソン・エアプレインにとってもこの日の出来事は悪夢だったに違いない。その後バリンはシングル“ハヴ・ユー・シーン・ザ・ソーサーズ”を最後にグループを脱退した。また同時期にスペンサー・ドライデンも脱退。彼は新しいバンド、ニュー・ライダーズ・オブ・パープル・セイジに活動の場を移した。さらにはスリックが交通事故で重症を追ってしまうという不幸も。その後スリックカントナーとの間に子供をもうけるというおめでたい話もなくはなかったが、それにしてもバンドの活動自体は殆ど暗澹たる状態へと陥ったのだった。そんな中、ヨーマ・コウネン、ジャック・キャサディはホット・ツナでの活動を増やしていき、1970年6月にデビュー作の ホット・ツナ を発表している。

そんなバンドの建て直しに一役買ったのが、敏腕マネージャーのビル・トンプソンだった。彼の尽力もあり、エアプレインは自主レーベル「グラント」を設立。1971年にこの新しいレーベルからの第一弾となる バーク(Bark) を発表した。ここでバリンとスペンサー・ドライデンが抜けた穴は、黒人ヴァイオリニスト、パパ・ジョン・クリーチと、ドラマーのジョーイ・コヴィントンが埋めた。エアプレインのメンバーらは1968年頃から共同生活を始めるようになっていたが、しかしこの時点でグループの絆は辛うじて音のみで繋がっているといった状態だったようだ。それを裏付けるかのようにレコーディング中に滞在したチェルシー・ホテルでのメンバーそれぞれの勝手な行動を綴った“チェルシーの第三周”をヨーマ・コウネンは歌っていた。

ポール・カントナーグレイス・スリックは、エアプレインとは別にジェファーソン・スターシップ名義で作品を制作。またヨーマ・コウネンとジャック・キャサディのホット・ツナも活動をさらに強化していった。これらにしてもエアプレイン周辺の活動には違いなかったが、実際にエアプレイン本体は一年以上の活動停止を余儀なくされた。その休止後、ラスト・アルバムとなる ロング・ジョン・シルヴァー(Long John Silver) を1972年に発表。ここではグループを抜けたジョーイ・コヴィントンに代わり、元タートルズのジョン・バーベイターがドラムスを担当した(一曲のみホット・ツナでも活躍していたサミー・ピアッツァが担当)。

アルバム発表後、元クイックシルヴァー〜のデイヴィッド・フライバーグを迎えツアー活動に入ったエアプレインは、しかしその9月のウィンターランド公演後にヨーマ・コウネンとジャック・キャサディの脱退という事態を迎え、結局空中分解してしまった。

解散後、バンドの生命はジェファーソン・スターシップや、よりポップな音楽スタイルを持つスターシップへと引き継がれた。またジェファーソン・エアプレイン名義としては、アルバム未収曲を集めた アーリー・フライト(Early Flight) を始めとする各種コンピレーションなどがリリースされたりもしていたが、やはり彼らの人気を復活させるきっかけとなったのは、オリヴァー・ストーン監督、1986年公開の映画 プラトーン で“ホワイト・ラビット”が挿入歌として使われたということだった。この話題も手伝ってかジェファーソン・エアプレインは1989年にオリジナル・メンバーで突如再結成。結果的には一時的な復活となったが、再結成作 ジェファーソン・エアプレイン(Jefferson Airplane) を同年に発表している。

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