U2
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U2 (ユーツー) プロフィール

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U2は1976年夏にアイルランドで結成された。きっかけはダブリンにあるマウント・テンプル・スクールに通っていたラリー(ラリー・ミューレン、ds. / 1961年10月31日生)が学校の掲示板に出したメンバー募集だった。その募集をきっかけに、ボノ・ヴォックス(本名:ポール・ヘウソン、vo. / 1960年5月10日生)、エッジ(本名:デイヴ・エヴァンス、g. / 1961年8月8日生)、アダム(アダム・クレイトン、1960年3月13日生)、それにエッジの兄弟・ディックの5人が集まり、彼らはバンドを始める(二度目のギグでディックは抜け、自身のバンド、ヴァージン・プルーンズを結成。のちのU2となるバンドは4人組で活動していく)。

初ギグ前はフィードバックと名乗っていたバンドは、ハイプと名乗るようになり、学校でのライヴを手始めにダブリンやカークといったアイルランド国内でライヴ活動を行っていくが、お客の集まらないクラブなど小さな会場でしか演奏できないことに不満を持ち、ライヴ活動をとりあえず休止。バンドは作曲とリハーサルに専念することにした。そのうちにバンドは1978年3月に行われたハーブ・ラガー・タレント・コンテストという催しに目をつけ、これに参加。この3月18日からU2と名乗るようになっている。このコンテストで見事優勝したバンドは、優勝賞金とアイルランドCBSのオーディションの権利を獲得。その後結局アイルランドCBS・レコードと契約をした彼らは、1979年9月に3曲入りEP"U2:3"でアイルランド国内のデビューを果たした。これがアイルランド・チャートで一位を獲得する快挙となり、勢いづいたU2はすぐさまロンドンへ乗り込みクラブ・サーキットを廻るツアーを敢行。しかしこの結果は散々なものに終わった。

失意のバンドはしかし、1980年1月に発表されたアイルランドの音楽誌上の読者投票で5部門においてトップを独占したことにも励まされ、前向きに活動を展開していく。2月からの国内ツアーも大成功のうちに締めくくった。またセカンド・EP“アナザー・デイ”もヒット。再度イギリスへの進出を目論む。4月にはイギリスのアイランド・レコードと契約を交わし、5月に“11オクロック・ティック・タック“でイギリスにおけるレコード・デビューを遂に果たした。同年夏にシングル“ア・デイ・ウィズ・アウト・ミー”をリリースし、全英ツアーを行ったU2は、1stアルバム ボーイ(Boy)を発表(余談だが欧盤ジャケットの少年はヴァージン・プルーンズのメンバーの弟のポートレイトだ)。このデビュー・アルバムは全英最高位は52位に止まったが、チャートに2ヶ月間にわたってランクされた。またアルバム発表後の全英、ヨーロッパ、アメリカ東海岸ツアーでU2は次第に評価を上げていき、1981年2月発表の英NME誌のリーダース・ポールではブライテスト・ホープ6位と、アイルランドの新人バンドとしては当時かなりの注目度を浴びた。

1981年の前半をツアーに費やしたU2は、シングル“ファイアー”、“グローリア”をリリース。ここで初めて曲を全英チャートにランク・インさせた。1981年10月に2ndアルバム“アイリッシュ・オクトーバー(October)”を発表。この作品は全英11位を記録。またセールスは約25万枚というかなりのもので、ここで一挙に人気に火がついた形となった。アルバム発表時から行われたツアーは1月まで続き、彼らの人気を決定的なものにしたし、また翌1982年夏のヨーロッパ各地で行われたロック・フェスティヴァルではヘッドライナーを務めるまでの人気となっっていったのだった。

1983年1月にシングル“ニュー・イヤーズ・デイ”を発表。初の全英トップ10にくいこんだこのシングルの勢いを持続したまま、3月に3rdアルバム “闘(War)”を発表。全英初登場ナンバーワンとなったこのアルバムで、U2は全英チャート制覇を成し遂げたのだった(全米では12位)。一方でアメリカやカナダでもツアーを行った彼らの人気は、世界中に広がっていった。11月にはライヴ・アルバムブラッド・レッド・スカイ〜四騎(Under A Blood Red Sky)を発表。またこの頃初の来日公演も行っている。翌1984年10月には4thアルバム焔(ほのお)(Unforgettable Fire)を発表。またも全英初登場1位、全米12位という好結果だったが、コアなファンの中には、初期U2にあった「ストレートな良さ」を、プロデューサーのブライアン・イーノダニエル・ラノワがサウンド的に中和させてしまった、という声もあった。また同年には11月にボブ・ゲルドフの呼び掛けで始まったアフリカ難民飢餓救済プロジェクト、バンド・エイドのチャリティー・シングル“ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?”のレコーディングに、ボノ、アダムが参加している。

その後約1年半の間U2はツアーに専念した。また1985年5月ライヴ音源含む5曲入りミニ・アルバム ワイド・アウェイク・イン・アメリカを発表。この間ボーノは課外活動にも忙しかった。南アフリカの人種隔離政策、アパルトヘイトに反対するアーティスト達が集ってレコーディングしたアルバム“サン・シティ” に参加、そしてクラナドと共演(シングル”イン・ア・ライフタイム”)。自らのレーベル、マザーを設立し(ここからはシニード・オコーナーの居たイン・トゥア・ヌアというバンドやホットハウス・フラワーズなどが世界デビューした)、プロデューサーとしても活動。一方でエッジも映画 Captive のサウンドトラックを手掛けたりした(ここでシニード・オコーナーと共演している)。

約2年半ぶりという長いリリース間隔のあいたU2は、ここでマスターピースとなる作品を発表した。1987年1月、ヨシュア・トゥリー 発表。ここからは“ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー” 、 “終わりなき旅”という2曲の全米ナンバーワン・ヒットが生まれ、アルバム自体も全英はもちろん、全米でも第一位を獲得。全世界で1500万枚という驚異的なセールスを挙げたU2はここで世界を掌中におさめた。1987年に行われたツアーの模様は、1988年秋にドキュメント映画 魂の叫び として公開され、そのサウンドトラックでもあるライヴ・トラックと新曲からなるアルバム 魂の叫び(Rattle & Hum)をほぼ同時期に発表。ここからは“ディザイアー” 、 “エンジェル・オブ・ハーレム”などのシングル・ヒットが生まれており、アルバムは全英、全米ともに一位を獲得した。バンドはこの頃、チャリティ・ライヴ「ライヴ・フォー・アイルランド」に出演、またクリスマス・エイド や ウディ・ガスリーのトリビュート盤 フォークウェイズ:ア・ヴィジョン・シェアドや、コール・ポーターのトリビュート盤でエイズ・チャリティ盤でもある レッド・ホット&ブルー などのアルバムに参加。メンバー単体ではボノが元ザ・バンドロビー・ロバートソン1stソロや故ロイ・オービソンミステリー・ガールに参加、ラリーとアダムはダニエル・ラノワの アカディ に参加している。

翌1989年後半にワールド・ツアーを開始したU2は、12月に来日した。そしてその後、90年代のU2は劇的な変化を見せていく。前作から3年のブランクを経て、1991年10月、アルバム アクトン・ベイビー 発表。前後してシングル“フライ”や“ミステリアス・ウェイズ”、“ワン”といったヒットを放つ。グラマラスなコスチュームや打ち込みを多用したサウンド・プロダクション(今聴くとそれほどには感じないが)といった要素。それは古くからのリスナーを驚かせるには充分なインパクトを持っていた。また一方でヴィム・ヴェンダース監督の映画 夢の涯てまでも に表題曲となるトラックを提供。この辺りからテクノロジーに対する興味とU2の姿勢がシンクロしてくるが、その極めつけともいえるものが、この後1992年から始まる ZOO-TV・ツアー だ。湾岸戦争で映し出される、まるでTVゲームのような報道映像など現代的なイメージにヒントを得て考えついたといわれるこのツアーは、架空の放送局をつくりTVのプロパガンダやテクノロジーを否定するというコンセプトを持っていた。

ピース・トゥゲザーへの参加、再びヴィム・ヴェンダース監督映画 時の翼にのって への曲提供などを経て、1993年7月にU2としてのオリジナル・アルバム ズーロッパ を発表。そしてこのアルバムのイメージは続くズーロッパ・ツアーへと受け継がれていき、1994年暮れには日本公演も行われた。またこの頃のU2はツアーとともに、またも精力的に課外活動に明け暮れた。共演ものではボノがフランク・シナトラデュエッツ、エッジがロン・ウッドスライド・オン・ディスのにそれぞれ参加。またバンドとしてはグリーンピース主催「オルタナティヴ・エナジー」への参加、リアリティ・バイツショートカッツプレタポルテ、 バットマン・フォーエヴァーにU2として曲提供/参加。またボノ個人としては映画 父の祈り の主題歌でヴァージン・プルーンズのメンバーだったギャヴィン・フライデイと共演、またレナード・コーエン曲集タワー・オブ・ソング マーヴィン・ゲイ・トリビュートクインシー・ジョーンズQ‘s・ジューク・ジョイントなどに参加した。またブライアン・イーノのシリーズ作品にU2が関わるという形でもともと制作が進められていた作品は パッセンジャーズ名義の サウンドトラックス1 というタイトルで1995年10月にリリースされた。その後1996年になると、ニュー・アルバム制作の話が伝わってきたが、その制作期間中にボノはティナ・ターナーの どこまでも果てしなき野生の夢に(Wildest Dreams)に、ラリーとアダムの二人は映画 ミッション・インポッシブルのサウンドトラック にそれぞれ参加している。

そして1997年2月、U2の久々の新作となる ポップが発表された。ネリー・フーパー、フラッド、ハウイー・Bといった音響クリエイターを迎えて制作された同作は、シングル“ディスコティーク”に代表されるアッパーなエレクトロ・ミュージックの手法を見せつつ、全体的にもデジタルなリズムのループを中心とした作風だった。その後、アルバムに伴うポップ・マート・ツアーを開始。また1997年9月23日にはボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボで、92年のボスニア内戦勃発以来初の大規模なコンサートを敢行。これは95年の内戦終結直後にこの街を訪れたボノの約束が実現されたものだった。翌1998年には初期U2の10年間の楽曲を集めた初のベスト盤 ベスト・オブ・1980〜1990をリリース。同ベスト盤に収録され、シングル・ミックスされたスウィーテスト・シングのヒットなどもあり、これは好セールスをあげた。またこの頃からボノが債務超過国の債務帳消しを掲げるジュビリー2000なるプロジェクトに参加。また2000年前半にはボノが原案のヴィム・ヴェンダース監督作品 ミリオン・ダラー・ホテル 公開、サントラへの参加という出来事があった。

2000年10月に前作から3年ぶりとなるオリジナル・アルバム オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド を発表。これはブライアン・イーノダニエル・ラノワ、スティーヴ・リリーホワイトといった彼らと馴染み深いプロデューサー/ミキサーを再び起用して制作された作品で、U2らしいと表現されるストレートなエモーションと、過去十年で培われた奥の深い音像処理とのマッチングが巧く折り合った作品となった。先行シングル ビューティフル・デイから、70年代のローリング・ストーンズを彷彿とさせるスタック・イン・ア・モーメント〜、ハイパーな近年のU2を思わせるエレヴェイション、踏みしめるかのように歌われるウォーク・オン…とヨシュア・トゥリーラトル&ハム期のアーシーな味わいを踏まえつつ、よりサウンド全体のムードに主眼が置かれた現代的な音作りがなされている。

2002年には90年から2000年を総括するベスト盤第2弾、ベスト・オブ1990 〜2000を発表。新曲“エレクトリカル・ストーム”も収録され、当然ヒットを記録した。

そして2004年オリジナル・アルバム『How To Dismantle An Atomic Bomb』 を遂に完成させた。このアルバムのリリースが決定するまでには南フランスでジャケット撮影をしている際何者かによってアルバムの音源を収録したCDが盗難されるというショッキングなニュースもあったもののリリースが決定した。

決して器用なバンドではないU2が激しい競争を強いられるポップ・ミュージック界で、この20年間をサヴァイヴしてきたことの意味はあまりにも大きい。その理想主義的な側面や正直過ぎる発言から揶揄されることの多い彼らだが、2000年以降のU2は狂ったように見える現代やその世界に住む自分達を戯画化して表現するようなことはしなかった。彼らがここでポジティヴィティや音楽による救いという観点をストレートに表現してきたことが意味を持つようになるのは、いつものようにまた少し後のことになるかもしれない。

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