CD

Monteux / Bpo: Stravinsky: Petrouchka, R.strauss: Till, Saint-saens, Beethoven

User Review :5.0
(2)

Item Details

Genre
:
Catalogue Number
:
KKC6086
Number of Discs
:
2
Format
:
CD

Product Description


モントゥーがベルリン・フィルを振った戦後唯一の記録
コンマス、シュヴァルベの貴重なサン=サーンス。超絶技巧と高貴な音色で圧巻!


英テスタメント・レーベルのCDは、解説書に力が入っていることでも定評があり、ヒストリカル・クラシック音楽の持つ歴史の面白さを際立たせることにもなっているので、日本語訳が付された国内盤の価値には大きなものがあります。

シリーズ概要
★歴史的録音の復刻で有名なイギリスの名門レーベル、テスタメント。1990年にスチュアート・ブラウン氏により設立され、正規音源にもとづく、高品質の音質でファンから絶大な支持を集めてきました。ここ数年日本への窓口が途絶えていましたが、このほど国内販売権をキングインターナショナルが獲得。400に近いタイトルのなかから、歴史的名盤はもとより最近話題の新盤までえりすぐって、全20タイトル、国内仕様にして発売します。
★日本語解説=オリジナル・ライナーノーツの和訳+ 曲目解説+ 歌詞対訳(声楽曲のみ)

このアルバムについて
★ピエール・モントゥー[1875-1964]はその偉大なキャリアの中で、ベルリン・フィルを指揮したのはたった2回でした。1933年と1960年の2度の共演の、後者の貴重な記録です。
★ヴァイオリン協奏曲では、パリでかの有名なジョルジョ・エネスコに師事、モントゥーの指揮法のクラスにも参加したことのあるミシェル・シュヴァルベがソロを務めています。シュヴァルベは1957年にカラヤンの招きでコンサートマスターに就任した、大変に厳しい教師としても名高いヴァイオリン奏者で、ここでは圧巻の技巧と演奏を披露。
「名人サラサーテに献呈された最も高度な技術を要する作品を驚くほどの輝きと華麗さで表現した」(ハインツ・ヨアヒム、ディー・ヴェルト紙)
「驚くべき精密さと、深くみずみずしいG線の音色、細部まで微妙な表現で、非常に価値あるものとした」(ウェルナー・オールマン、タゲスピーゲル紙)
★1911年にモントゥーが世界初演した『ペトルーシュカ』。当時誰よりもストラヴィンスキーを知り尽くしていたのはモントゥーだったと思わされる迫真の演奏。パワフルで、機能性も満点のベルリン・フィルを相手に色彩感にあふれた初演版で演奏しております。
「新鮮で熱意に満ちていた時代をここに再現してみせた」(ハインツ・ヨアヒム、ディー・ヴェルト紙)
「彼の音楽からほとばしる生命の磁力に抗える人はいない。・・ベルリン・フィルも最上の緊張感と配慮をもって演奏にあたった。・・心躍るような喜びを紡ぎだす傑作の音が満ちていた」(デル・ターグ紙)

【収録情報】
Disc1
1. ベートーヴェン:『レオノーレ』序曲第3番 Op.72a
2. R.シュトラウス:交響詩『ティル・オイレンシュビーゲルの愉快な悪戯』 Op.28

Disc2
3. サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番ロ短調 Op.61
4. ストラヴィンスキー:バレエ音楽『ペトルーシュカ』(1911年版)

ミシェル・シュヴァルベ(ヴァイオリン:3)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ピエール・モントゥー(指揮)

録音(放送日):1960年10月6,7日
録音場所:ベルリン音楽院
録音方式:モノラル(ライヴ)

輸入盤・日本語帯・解説付


【年表】

1875年(0歳)
●4月4日、パリ9区に誕生。フルネームはピエール・バンジャマン・モントゥー。母クレマンス・ブリザック[1842-1927]はマルセイユ音楽院出身のピアノ教師でした。

1881年(6歳)
●ヴァイオリンのレッスンを開始。パドルー管弦楽団のヴァイオリン奏者で従兄のフェリックス・ブロッホから教えを受けます。

1883年(8歳)
●聖ユージェーヌ教会の聖歌隊でボーイ・ソプラノを担当。
●指揮者ジュール・ダンベに教えを受け、パリ音楽院入学に向けて準備。

1884年(9歳)
●パリ音楽院に入学。ヴァイオリン予備科でジュール・ガルサンに5年間師事、和声とソルフェージュをアルベール・ラヴィニャックに5年間師事、その後、ヴァイオリン上級科でジャン・ピエール・モーランとアンリ・ベルトリエに、室内楽をバンジャマン・ゴダールに、対位法とフーガをシャルル・ルヌヴーに学んでいます。

1886年(11歳)
●指揮者になることを決意。

1887年(12歳)
●初めての指揮。パリで開かれるチャリティー舞踏会のための作品公募にポルカを作曲して応募、作品が認められ、さらに指揮する機会も与えられました。

1889年(14歳)
●ロートレックやマネの絵でも知られるフランスのミュージック・ホール「フォリー・ベルジェール」の楽団で演奏(1891年まで)。モントゥーは後年、ガーシュウィンからそのリズム感を称えられた際、「フォリーでの2年間がずいぶん役に立っています。そこではいろいろなダンスやアクロバットが演じられ、それらの伴奏にはリズムが最も大切で、極度の正確さが求められましたから。それは若音楽家にとって良い訓練でした。」と語っています。
●パリ音楽院でヴァイオリン上級科に移り、ジャン・ピエール・モーランに師事。

1890年(15歳)
●パリ音楽院生などによる室内オーケストラを率いてフランス国内ツアー。12歳の友人、アルフレッド・コルトーも同行。
●パリ音楽院でヴァイオリンの勉強を続ける一方で、ヴィオラを独学で勉強。弦楽四重奏にのめりこみます。
●パリ音楽院で室内楽をバンジャマン・ゴダールに師事。

1892年(17歳)
●友人のリュシアン・カペーの誘いにより、ヴィオラ奏者としてジェローソ四重奏団に参加(1911年まで)。各地でコンサートをおこない、ウィーンではブラームスの前で本人の作品を演奏、「フランス人は私の音楽を適切に演奏します。ドイツ人はあまりにも重く演奏します。私の音楽を理解するためにはフランス人が必要です。」と評され、生涯続くモントゥーのブラームスへの偏愛のきっかけとなりました。

1893年(18歳)
●コンセール・コロンヌ管弦楽団の首席ヴィオラ奏者として、エドゥアール・コロンヌやアルトゥール・ニキシュ、フェリックス・ワインガルトナー、フェリックス・モットル、そしてハンス・リヒターといった指揮者たちのもとで演奏、さまざまなスタイルの作品に通じるようになります。特にベルリオーズと交流があり、『ファウストの劫罰』を200回以上も指揮したというコロンヌや、モントゥーの演奏を気に入りバイロイトに誘ったハンス・リヒター、チャイコフスキーで見事な演奏を聴かせたニキシュの影響は大きかったようで、後年のモントゥーのベルリオーズやワーグナー、チャイコフスキーへの偏愛にも繋がっていると考えられます。
●パリ音楽院の学生で、モントゥーとベートーベンのヴァイオリン・ソナタ全曲リサイタルなどもおこなっていた同年齢のピアニスト、ヴィクトリア・バリエール[1875-1945]と結婚。
 モントゥー家は熱心なユダヤ教徒ではなかったものの、父ギュスターヴ[1834-1924]の先祖はスペインから南仏に移り住んで来たユダヤ教教徒で中にはラビもおり、一方のバリエール家はローマ・カトリックということで、2人とも家族の反対を押し切っての結婚でした。

1894年(19歳)
●パリ音楽院ヴァイオリン上級科の教授、ジャン・ピエール・モーランが死去、後任のアンリ・ベルトリエに引き続き師事。
●パリ音楽院で対位法とフーガをシャルル・ルヌヴーに師事。

1895年(20歳)
●サン=サーンス本人との共演で、七重奏曲、『動物の謝肉祭』を演奏。
●サン=サーンスのオラトリオ『リラと竪琴』初演のさい、リハーサルでオルガン担当者の演奏ミスが多発、指揮のサン=サーンスがオルガンを弾くことになり、モントゥーが代わりに指揮を引き受けて初見で無事に初演。

1896年(21歳)
●パリ音楽院を卒業。ジャック・ティボーら4人と共にヴァイオリンのプルミエ・プリを獲得。4人中、モントゥーは3位、ティボーは4位でした。
●徴兵により第132歩兵連隊に配属。通常3年間の役務を、一流校卒業生優遇規定により、10か月間に短縮。連隊の大佐にヴァイオリンのレッスンをおこなったり、将校たちのパーティーで演奏するなど、音楽活動もおこなえました。

1899年(24歳)
●長男ジャン=ポール・モントゥー[1899-1954]誕生。

1900年(25歳)
●滅多に取り上げられることのなかったベルリオーズの『イタリアのハロルド』でヴィオラ独奏を担当。指揮はフェリックス・モットル、オーケストラはコンセール・コロンヌ管弦楽団。

1902年(27歳)
●オペラ・コミーク座のヴィオラ奏者となり、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』初演に参加。指揮はアンドレ・メサジェ。
●夏シーズンに開催されるノルマンディー海岸の避暑地ディエップのカジノのオペラとオーケストラで、ヴァイオリン奏者と指揮者を兼務。オーケストラはフランス国内で募集をかけて優秀な奏者を集めたもので、聴衆は主にパリとロンドンから訪れていました。そのため演目も豪華で、モントゥーは『ファウスト』『アイーダ』『ボエーム』『カルメン』『マノン』『ノートルダムの軽業師』『椿姫』『カヴァレリア・ルスティカーナ』『道化師』『リゴレット』『トスカ』『タイス』『サムソンとデリラ』『ミレイユ』『フィリーヌ』などを指揮しています(1907年まで在任)。
 モントゥーは、もともとはヴァイオリン奏者・ヴィオラ奏者として活動しており、指揮者としての能力は、このヴァカンス・シーズンのカジノで、臨時編成オーケストラを相手にコンサートやオペラで場数を踏んで身につけています。
 11歳若いポール・パレー[1886-1979]と同じく、カジノが生んだ指揮者ということになりますが、どちらも優れたオーケストラ・ビルダーで、過度な感情移入をおこなわない点も共通しており、しかも二人とも健康で長生きし、亡くなる直前まで現役だった点も同じです。
 臨時編成オーケストラの演奏を短時間でまとめあげるには、効率の良いリハーサルと、意思伝達手段としての的確な指揮技術が必要とされます。リハーサル効率化の大前提になるのは、まず楽員との共通テキストである楽譜を何よりも尊重するというもので、私的な感情移入や楽譜改変をおこなわないことで、演奏困難個所などの問題点をあぶり出すのも容易になり、課題克服のための手段を講じることも十分に可能となります。
 また、指揮者側の記憶力が優秀であれば、「解釈」がその都度違ったものになるといった楽員が迷惑する話も無くなるため、同一時間での成果達成の度合いも大幅に上がってきます。
 驚異的な記憶力の持ち主といわれたモントゥーは、この点でかなり有利ですし、また、常日頃から楽譜順守の重要さについても語っていたことから、リハーサルの効率化については非常に高いレヴェルが確保されていたことがうかがえます。
 また、意思の伝達手段になるバトン・テクニックについても、かのトスカニーニを驚かせたといいますし、変拍子の多いストラヴィンスキー作品の指揮でも作曲者を感心させたということなので、十分に高度なものであったことがうかがえます。何しろ指揮の学校までつくってしまったほどですし。
 こうしたモントゥーの基本方針は、作品本来の姿を徹底的に追求して仕上げることにもつながるため、フランス物でもドイツ物でもロシア物でも、常に高水準な演奏が実現されているのが特徴ともなっていきました。その姿勢はアメリカでもイギリスでも一貫していたので、楽譜への忠実度が求められる近代や現代の作品での信頼度は特に高くなり、豊富な実績へと結びついていきます。



1903年(28歳)
●初のレコーディングはヴィオラ奏者としての演奏で、曲目はマイヤーベーア『ユグノー教徒』からの「シロテンよりもなお白く」の編曲でした。シリンダー録音。

1906年(31歳)
●コンセール・コロンヌ管弦楽団を指揮してプロ指揮者デビュー。

1907年(32歳)
●コンセール・コロンヌ管弦楽団を指揮してシリンダー録音。

1909年(34歳)
●妻ヴィクトリアのコンサート・ツアーでの不在が多かったことなどから夫婦仲が悪化し離婚。

1910年(35歳)
●元教え子で15歳年下のジェルメーヌ・ベネディクトゥス[1890-1967]と結婚。

1911年(36歳)
●ディアギレフの運営するロシア・バレエ団の首席指揮者に就任。チェレプニンの指揮で初演が予定されていた『ペトルーシュカ』で、モントゥーが下稽古をつけていた際、当時29歳のストラヴィンスキーがたいへん気に入り、ディアギレフに要請して初演指揮者をモントゥーに変更、さらに、ディアギレフの依頼で、ディアギレフの作曲の師でもあるリムスキー=コルサコフの『シェエラザード』を指揮したところ、ディアギレフ自身も感激、これにより、『ペトルーシュカ』、『シェエラザード』に、『ばらの精』の指揮をまかされることとなります。そして秋からのヨーロッパ・ツアーに際して、ディアギレフはモントゥーを首席指揮者に任命します。
●コロンヌ管弦楽団を退団。委員会ともめたすえ17年分の年金基金を没収されます。
●避暑地ディエップで「コンセール・ベルリオーズ」を設立し、一流楽員を集めてコンサートを開催。のちに「コンセール・モントゥー」に改称。

1912年(37歳)
●夏、ディアギレフから連絡があり、ストラヴィンスキーが途方もない曲を書いたので聴きに来てほしいということで、ストラヴィンスキー自身によるピアノでの汗だくの試演に立ち会います。当初、作品の強烈さに途方に暮れたモントゥーでしたが、ストラヴィンスキーと共にピアノに向かってスコアを研究、その後ひと冬かけて勉強して作品の内容を消化します。

1913年(38歳)
●3月から5月まで2か月かけて『春の祭典』のオーケストラ・リハーサル。ストラヴィンスキー立ち合いのもと、まず弦・木管・金管の各セクションごとに練習、途中、ストラヴィンスキーの細かなリクエストにも応えながら全体の合奏に持っていく方向で、計17回に及ぶリハーサルで最後にバレエを舞台に上げて仕上げ、本番に臨みます。
●5月、『春の祭典』初演。舞台上の奇抜な演出のバレエ上演をめぐって客席で騒ぎが起き、やがて各所で小競り合いとなり、暴力行為に及ぶ者もあらわれたため憲兵隊まで出動する騒ぎに。パリでは計5回上演され毎回同じような騒ぎとなりましたが、続いてロンドンで数回おこなわれたバレエ上演では特に騒ぎは起きませんでした。

1914年(39歳)
●避暑地ディエップでのモントゥーによる演奏会企画「コンセール・モントゥー」で、バレエ無しのオーケストラ・コンサートにより『春の祭典』をとりあげ成功。
●ストラヴィンスキーのオペラ『うぐいすの歌』をガルニエ宮で初演。
●第一次世界大戦開戦により徴兵され、第35歩兵連隊に配属。ヴェルダン、ソワソン、アルゴンヌに配され、不潔な塹壕でネズミやノミに悩まされながらも、ときにはトロンボーンやクラリネット、ドラムなどから成る小さなアンサンブルを仲間と編成して楽しみ、なんとか乗り切ります。

1916年(41歳)
●ディアギレフが5か月に及ぶ北米ツアーに指揮者として同行させるため、モントゥーの前線任務の解除をフランスの戦時局に要請し、モントゥーは2年2か月に及ぶ任務から解放されます。前線から輸送トラックの待ち合わせ場所までは50キロ近くもありましたが、モントゥーは重い兵装に加えてヴァイオリン・ケースと楽譜の束を抱えながら徒歩で移動することとなりました。
●9月、ディアギレフのロシア・バレエ団は、ボルドーの港から古い客船に乗って出航。前年5月にイギリスの豪華客船ルシタニア号が、ドイツのUボートに撃沈され約1200人の民間人が殺されていたので、船旅は灯りを抑えた暗く不安なものとなりましたが、8日後には無事ニューヨークに到着。
●投資家で音楽や芸術の後援者でもあったオットー・カーン[1867-1934]が出迎え。カーンはメトロポリタン歌劇場とニューヨーク・シティ交響楽団の有力な支援者でもありました。
●ロシア・バレエ団北米ツアー最初の演目は、フランスの交戦国であるドイツの作曲家、R.シュトラウスによる『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』だったため、直前まで対ドイツの軍務につき、膨大な死者を出したヴェルダンの激戦も経験していたモントゥーは指揮を拒否。ちなみにアメリカがドイツに宣戦布告して第1次世界大戦に参戦するのは翌1917年の4月のことで、当時は英仏だけでなくドイツとも盛んに貿易をおこなって大きな利益をあげていました。

1917年(42歳)
●2月、ロシア・バレエ団北米ツアー終了。
●オットー・カーンの紹介でメトロポリタン歌劇場の支配人、ジュリオ・ガッティ=カサッツァ[1869-1949]と会い、メトでフランス・オペラ(とロシア・オペラ)の指揮をするよう求められます。モントゥーはフランスの戦時局で働いている友人のアルフレッド・コルトーに電報を打って状況を説明、アメリカ滞在の可否について打診、最終的に「除隊」扱いとなって軍務を終了、アメリカに継続的に滞在できることになります。
●投資家オットー・カーンの紹介でニューヨーク・シティ交響楽団(1923年にニューヨーク・フィルに吸収)を指揮。批評家は、モントゥーを「バレエ指揮者」と決めつけて、それを理由に彼のオーケストラ演奏会を酷評。
●秋、メトロポリタン歌劇場のフランス・オペラ部門の指揮者に就任。翌シーズンにかけて『カルメン』『ファウスト』『サムソンとデリラ』『タイス』『マルーフ』『金鶏』などを指揮。歌手陣もカルーソー、マルティネッリ、ファーラー、ガドツキら有名どころが揃っていました。


●有力音楽雑誌の批評家が、モントゥーを「交響曲とバレエの指揮者」と決めつけてそれを理由に彼のオペラ上演を攻撃。オットー・カーンが、その有力音楽雑誌に500ドルの広告を出すと批評家による攻撃はすぐに収束。
●メトでは、金をくれれば公演でのブーイングをしないようにするというグループの関係者まで登場。モントゥーはこの申し出を拒否します。
●メト支配人ガッティ=カサッツァが、夫人のソプラノ歌手フランシス・アルダ[1883-1952]のためにフランス・オペラの『マルーフ』のアメリカ初演を企図。しかしアルダが自分の歌う王女役に目立つアリアが無いことに不満を漏らして騒ぎを起こし、上演が危ぶまれたため、モントゥーは作曲者のラボーに交渉、『マルーフ』の中からアリアに使えそうな旋律素材などを提案した結果、アンリ・ラボー[1873-1949]はアリアの追加作曲に応じ、12月19日、米国初演に漕ぎつけます。

1918年(43歳)
●ボストン交響楽団のドイツ人音楽監督カール・ムック[1859-1940]が『星条旗』の演奏を拒否したことが原因で当局から睨まれ、さらにラジオを持っていたことでスパイとして逮捕されてしまったほか、同じくドイツ人の楽員18人もドイツ人ということでボストン交響楽団を解雇されてしまいます。第1次世界大戦が終わった後も、アメリカ楽壇はそうした反ドイツ主義を拡大、それまでクラシック楽壇で長く続いた「親ドイツ」から、「親フランス」へと一気に転じて行きます。
●モントゥーのもとを次期音楽監督を探していたボストン交響楽団のマネージャーが訪れますが、モントゥーにはメトロポリタン歌劇場の契約期間がまだ長く残っていました。そこでモントゥーは、前年に関わっていたフランスの作曲家のアンリ・ラボーを推薦、話はすぐにまとまり、ラボーは音楽監督としてボストン交響楽団と契約。
●ラボーはパリ・オペラ座の指揮者の契約が11月まであったため、秋のシーズン開幕から11月まではモントゥーが指揮を担当することが決定。
●モントゥーは大量解雇でひどい状態になっていたボストン交響楽団を再建すべく努力しますが、スペイン風邪収束の後、さらに毒性を増していたインフルエンザの大流行により、ボストンでは劇場や教育機関、公的機関などが、9月25日に無期限閉鎖を余儀なくされてしまいます。ちなみにこのインフルエンザでのボストンの死者は4,794人に達し、ピッツバーグ、フィラデルフィアと共に全米で最も被害の大きかった都市となっています。



1919年(44歳)
●ボストン交響楽団の音楽監督に就任。前年11月にボストン入りした音楽監督のアンリ・ラボーは、フォーレがパリ音楽院院長を引退することが決まると、夏にはフランスに戻って次期パリ音楽院院長の地位を獲得すべく準備する道を選択したため、ごくわずかな期間の滞在となりました。ちなみにラボーはのちにナチに協力しますが、うまく立ち回ったため、罪に問われることはありませんでした。
●ボストン交響楽団の楽員たちが、オフシーズンの夏季に収入が大幅に減ることなどから「音楽家連盟」への加盟をめぐって二分、楽団内の人間関係は険悪なものとなります。
●コンサートマスターで音楽家連盟加盟者のフレデリック・フラドキン[1892-1963]とモントゥーの対立が深刻になり、コンサート会場でもフラドキンがモントゥーに対して無礼な行為に及ぶなどしたため、経営陣によりフラドキンは解雇、すると翌日にはユニオン加盟者などの楽員36人が演奏拒否、うち32人は楽団側からの呼びかけにも応じず、ニューヨークのナショナル交響楽団(のちにニューヨーク・フィルに吸収)やデトロイト交響楽団に移るなど深刻な労使問題を抱えることとなります。なお4人の復帰者の中にはのちのボストン・ポップス指揮者アーサー・フィードラー[1894-1979]もいました。その後20年以上の時を経た1942年12月、ボストン交響楽団は音楽家連盟に加盟します。
●チャドウィック[1854-1931]の『死の天使』を初演。

1920年(45歳)
●楽員大幅欠員状態のため55人の中規模編成で『新世界』『ローエングリン』前奏曲などによるツアーを実施。
●パリに出かけてコンサートマスターを募集。ポーランド生まれでヨアヒムとアウアーに師事、北欧で活動していたリチャード・バージン[1892-1981]を採用。バージンはその後41年間に渡ってボストン交響楽団のコンサートマスターとして活躍します。
●のちにフルート奏者、指揮者となる息子、クロード[1920-2013]が誕生。

1921年(46歳)
●コンセール・コロンヌ管弦楽団に客演。
●チャドウィックの『主題、変奏曲とフーガ』『メルポメネ』を初演したほか、R.シュトラウスの町人貴族や、ファリャの『三角帽子』などの同時代音楽も積極的にとりあげます。

1922年(47歳)
●伝統的作品のほか、シマノフスキの交響曲第2番、オネゲル『勝利のオラース』、ストラヴィンスキー『プルチネッラ』などの同時代作品も指揮。

1923年(48歳)
●ブリスの『カラー・シンフォニー』、グーセンスのスケルツォ、トゥリーナの幻想舞曲、ケクランの3つのコラールなど米国初演。

1924年(49歳)
●ボストン交響楽団のニューヨーク公演で『春の祭典』をニューヨーク初演。客席にいた15歳のエリオット・カーター[1908-2012]に衝撃を与えます。
●ボストン・ピープルズ・ユニオン・コーラスの一員としてボストン交響楽団と共演した際に知り合った19歳年下のドリス・ホジキンス[1894-1984]と交際。ボストンの議員がこのことについて問題視。
●ボストン交響楽団経営陣は、議員から問題提起されたこの件に対応するためか、長くとも5年で音楽監督を交代させるというルールをつくり、それを理由にモントゥーの後任選びを開始。
●ボストン交響楽団経営陣は、関係者からパリの「コンセール・クーセヴィツキー」の評判を聞き、エージェントを派遣してクーセヴィツキー[1874-1951]に音楽監督への就任を要請、快諾したクーセヴィツキーは、ほどなく妻のナターリアと共にアメリカに渡ります。
●ボストン交響楽団事務局により、次期音楽監督クーセヴィツキーの宣伝広告が早々に開始され、モントゥーにとっては不本意な状況が続くことになります。
●ボストン交響楽団音楽監督を退任し、ドリス・ホジキンスおよび彼女の2人の連れ子、ナンシー[1917-2013]とドナルドと共にベルギーのワーテルローに移り住みます。ナンシーはのちにダンサーとなって継父モントゥーと共演。なお、2人目の妻ジェルメーヌと実の娘のデニース、4歳の実の息子のクロードとは別居状態が継続、ジェルメーヌは1928年に離婚に応じ、モントゥーはすぐにドリスと3度目の結婚をしています。
●パリでロシア・バレエ団を指揮。演目はストラヴィンスキーの『結婚』と一連のロシア物。
●メンゲルベルクの代役としてコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮。ブラームスの4番ほかのプログラムで、これが成功すると、今度は『春の祭典』が依頼されます。オランダ初演にあたるこの演奏会は12回に及ぶリハーサルを経ておこなわれ、大きな成功をもたらしました。
●ウィレム・メンゲルベルク[1871-1951]は、自身が一か月研究しても指揮できなかった『春の祭典』を、鮮やかに仕上げてしまったモントゥーの力量に感嘆、コンセルトヘボウ管弦楽団の共同指揮者になるよう提案し、その第1指揮者に任命(1934年まで)します(第2指揮者はメンゲルベルク)。この変則的な役職は、メンゲルベルクが1922年からニューヨーク・フィルの音楽監督を兼務して多忙だったことによるとも思われますが、モントゥーとメンゲルベルクは対照的な芸風ながらお互いを尊重、指揮者としての立場もあくまで平等という形での運営でした。
 ボストン響の欠員問題を解決して演奏水準を大幅に引き上げながらも、私生活の問題によって経営陣からなかば追い出された形のモントゥーにとって、ヨーロッパ有数のオーケストラとの契約は大きな喜びとなりました。
 アムステルダムでの10年間は非常に充実したもので、コンセルトヘボウ管弦楽団と毎年50〜60公演を演奏したほか、1931年には若きベイヌム[1901-1959]を次席指揮者に推薦して育成、さらに同地で『ペレアスとメリザンド』『ホフマン物語』『カルメン』『オーリードのイフィジェニー』『ファルスタッフ』などのオペラも上演。しかも『ファルスタッフ』については、主催者が当初トスカニーニを招いたものの、トスカニーニが、モントゥーこそが『ファルスタッフ』にとって最高の指揮者であると称えて指揮の依頼を辞退したというエピソードまでありました。
●父ギュスターヴ死去。

1927年(52歳)
●母クレマンス死去。

1928年(53歳)
●フィラデルフィア管弦楽団に客演。『春の祭典』で賛否両論を巻き起こすものの、翌年4月まで滞在します。
●ジェルメーヌとの離婚が成立したため、同棲4年目のドリス・ホジキンスと結婚。

1929年(54歳)
●コルトーから、前年に設立されたパリ交響楽団の指揮を手紙で依頼されますが、コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮や他のオーケストラへの客演で忙しかったモントゥーは依頼を断ります。しかし、コルトーは諦めず、オランダまでやってきて説得、モントゥーも折れて、指揮を承諾、4月に最初の演奏会をおこなっています。
 パリ交響楽団は、音楽愛好家の資産家や投資家から成るグループの援助によって設立された民間資本によるオーケストラで、600人のオーディションを経てパリ音楽院出身の若手音楽家を中心に80名で結成。最初の演奏会は1928年10月29日にシャンゼリゼ劇場でルイ・フレスティエ[1892-1976]の指揮により実施。以後、エルネスト・アンセルメ[1883-1969]とアルフレッド・コルトー[1877-1962]を含めた3人体制で演奏会がおこなわれますが、なかなか成功を収めることができず、モントゥーに指揮を要請する運びとなったというものです。
 資金は、シンガー・ミシン創立者の娘で、ポリニャック公爵夫人の孫エドモン・ド・ポリニャックの妻でもあったウィナレッタ・シンガー[1865-1943]や、銀行家のメナール兄弟、ココ・シャネル[1883-1971]らによって集められていました。
●パリ交響楽団の指揮が年間4〜5か月になるということから、モントゥーは、期間中はパリ郊外の住居に移り住むことにしました。その古い屋敷は、プールとバラ園、果樹園、菜園付きの大きなもので、モントゥーはここでパリの音楽家たちを大勢招き、凝った食事でもてなして称賛されていました。
●音楽監督に就任したモントゥーは、『春の祭典』で成功を収めたほか、プロコフィエフの交響曲第3番の初演でも話題となります。
●5月にパリ交響楽団とサル・プレイエルで『春の祭典』をHMVにレコーディング。同時期にストラヴィンスキー本人がコンセール・ワルター・ストララム管弦楽団を指揮してシャンゼリゼ劇場で『春の祭典』を仏Columbiaにレコーディングしており、仕上がりの違いなどもあってストラヴィンスキーは立腹、しばらくのあいだ両者の関係は冷え込みます。



1930年(55歳)
●「世界大恐慌」がパリ交響楽団の運営資金体制を直撃。金本位制のアメリカとフランスでの失策が引き起こしたともいわれる「世界大恐慌」には、1930年時点でのアメリカの金準備の世界シェア約38%、フランスの約20%という、2国だけで世界の6割近いシェアのもたらした国際的な資金の極端な移動が背景にありました。といっても、その5年前の1925年時点ではアメリカの金準備シェアは約44%で、5年間で6%減少していたことになり、フランスは1925年には約8%だったので、実に2.5倍に膨らんだことになります。
 これによりパリ交響楽団の資金援助の中枢でもあった2つの銀行が倒産し、ほかの投資家や資産家たちも援助不能状態に陥ります。ココ・シャネルはしばらく援助を続けましたが、それも年内には終わってしまいました。
 途方に暮れたモントゥーは、楽団の組織形態を「協会」方式に移行し、演奏会を自己資金で開催し、利益を基金に積み上げ、年度末に楽員に分配する形をとることにします。
 しかし補助金なしのオーケストラ演奏会の運営は実際には非常に難しく、諸経費相殺後の利益は微々たるものになってしまったため、モントゥーの報酬も、その多くを基金に供出せざるをえない状態が続きます。

1931年(56歳)
●サンフランシスコ交響楽団を初めて指揮。1911年に結成されたサンフランシスコ交響楽団は、1926年に一度破産しており、その後、石油会社や公的資金の援助も受けながら運営を続けていましたが、折からの大恐慌の影響により財政はさらに悪化、1934年と1935年のシーズンはまるごとキャンセルという状況にまで追い込まれてしまいます。



1932年(57歳)
●パリ交響楽団とヨーロッパ・ツアーを行い、オランダとドイツで成功を収めます。第1次世界大戦以来、フランスのオーケストラはドイツを訪れていなかったこともあってか、ハンブルク、ケルン、ベルリンでの公演はどれも喝采を受けましたが、特にベルリンでの聴衆の熱狂には凄いものがあり、終演後、ステージに大勢が駆け寄り、感きわまって叫ぶ者や、泣きながらハンカチを振るものまで、ホールの中は17分に渡って興奮の坩堝と化していたといいます。モントゥー自身もこのときの演奏が素晴らしかったと述懐、1930年6月にセッション録音したパリ交響楽団との演奏を生涯好んで聴いていたのも、そうした特別な思い出があるからなのかもしれません。
●指揮の学校「エコール・モントゥー」をパリで設立。これはパリ交響楽団の楽員たちに演奏の場を提供することにも繋がり、彼らの窮状を救うための策ともなりました。

1934年(59歳)
●オットー・クレンペラー[1885-1973]の招きでロサンジェルス・フィルに客演。滞在期間は5週間に及び、演奏会は成功を収めます。
●サンフランシスコ交響楽団の立て直しについて打診され、悩んだ末に承諾。この話は、モントゥーと面識のあったレオノーラ・ウッド・アームスビー[1874-1962]によってもたらされたもので、彼女に対してサンフランシスコ在住の著名なヴァイオリニスト、ミッシャ・エルマン[1891-1967]がモントゥーを強く推していたことが背景にありました。


●「エコール・モントゥー」で、シャルル・ブリュック[1911-1995]を教えます。ブリュックはサンフランシスコでモントゥーの弟子として活動。

1936年(61歳)
●サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任。当時のサンフランシスコ交響楽団は深刻な財政難が続いており、楽員の多くは、賃金の良いハリウッドのスタジオでも仕事をしていたために人数の確保が難しい状況にありました。また、音楽家連盟が、地域の加盟音楽家を保護するために、他の地域からの音楽家の移籍についてはきびしく制限していたために、外部からの人員確保は6人ほどに留まるという状況で、モントゥーによるオーケストラの立て直しは困難を強いられることになります。
●サンフランシスコ交響楽団のシーズンオフを利用し、南仏レ・ボー=ド=プロヴァンスで、「エコール・モントゥー」を開催して指揮を教え、パリ交響楽団の楽員たちにも演奏の場を提供します。

1937年(62歳)
●南仏レ・ボー=ド=プロヴァンス滞在中に、NBC交響楽団の代理人が訪ねてきてモントゥーにNBC交響楽団の指揮を依頼。NBC交響楽団はトスカニーニのために新たにつくられたオーケストラで、すでに他の指揮者によって3週間練習をしていましたがうまくいかず、トスカニーニ本人の希望で、モントゥーにオーケストラの創設演奏会の準備と指揮を任せたいという話でした。ちなみにNBCはRCA(Radio Corporation of America)傘下の組織。
●NBC交響楽団の創設コンサートを指揮。


●RCAへのレコーディングを開始。

1942年(67歳)
●アメリカの市民権を取得。

1943年(68歳)
●「ピエール・モントゥー・スクール」を開校。

1945年(70歳)
●最初の妻ヴィクトリア死去。

1949年(74歳)
●8月、セルゲイ・クーセヴィツキー[1874-1951]がボストン交響楽団音楽監督を辞任。
●モントゥー、久々にボストンを訪問。新音楽監督のミュンシュ、クーセヴィツキーと会います(下の画像)。モントゥーはかつてボストンの議員から私生活を問題視されたことが原因で、クーセヴィツキーに交代させられていましたが、クーセヴィツキーの在任期間が25年間という異例の長さだったこともあり、その間、モントゥーはボストン交響楽団を指揮することができませんでした。後任のミュンシュに招かれてボストン交響楽団の指揮台に復帰するのは1951年の2月で、同年秋のヨーロッパ・ツアーにも同行、以後、最晩年まで、オーケストラとの親密な関係は継続することになります。



1950年(75歳)
●10〜11月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。

1951年(76歳)
●2月、音楽監督ミュンシュの招きでボストン交響楽団に客演。
●6月、クーセヴィツキー死去。

1952年(77歳)
●サンフランシスコ交響楽団音楽監督を退任。フリーランスとなって客演活動に力を入れます。


●ボストン交響楽団のヨーロッパ・ツアーに同行。
●12月、RCA Victorに初のステレオ録音。ボストン交響楽団のメンバーとの演奏。

1953年(78歳)
●11月、NBC交響楽団に客演。
●12月、メトロポリタン歌劇場に客演。グノー『ファウスト』を指揮。

1954年(79歳)
●1月、メトロポリタン歌劇場に客演。ドビュッシー『ペレアスとメリザンド』を指揮。
●2月、ボストン交響楽団に客演。
●12月、メトロポリタン歌劇場に客演。マスネ『マノン』を指揮。

1955年(80歳)
●2月、メトロポリタン歌劇場に客演。グノー『ファウスト』を指揮。
●4月、メトロポリタン歌劇場に客演。グルック『オルフェオとエウリディーチェ』を指揮。
●4〜6月、パリ・オペラ・コミーク座でマスネ『マノン』をEMIにセッション録音。
●11月、ニューヨーク・フィルに客演。
●12月、メトロポリタン歌劇場に客演。オッフェンバック『ホフマン物語』を指揮。

1956年(81歳)
●2月、メトロポリタン歌劇場に客演。グノー『ファウスト』を指揮。
●メトロポリタン歌劇場にヴェルディ『椿姫』の指揮についてモントゥーから打診するものの、断られたため関係を断絶。
●6月、ローマ歌劇場で『椿姫』をRCA Victorにセッション録音。
●7月、ボストン交響楽団に客演。

1957年(82歳)
●6月、ローマ歌劇場で『オルフェオとエウリディーチェ』をRCA Victorにセッション録音。メトでのレパートリーでもありました。

1958年(83歳)
●1月、ボストン交響楽団に客演。
●6月、ロンドン交響楽団に客演。
●「モントゥー・スクール」で、デイヴィッド・ジンマン[1936- ]を教えます(1962年まで)。

1959年(84歳)
●2〜3月、ニューヨーク・フィルに客演。
●10月、ロンドン交響楽団に客演。

1960年(85歳)
●4月、ウィーン・フィルに客演。
●5月、ロンドン交響楽団に客演。
●7〜8月、ボストン交響楽団に客演。
●10月、ハンブルクで北ドイツ放送交響楽団とセッション録音。



1961年(86歳)
●ロンドン交響楽団の首席指揮者に就任。契約期間は25年ということで話題になります。●デイヴィッド・ジンマンが助手になります(1964年まで)。


1962年(87歳)
●コンセルトヘボウ管弦楽団の「ベートーヴェン=ブラームス音楽祭」で指揮。
●ウィーンでコンセルトヘボウ管弦楽団と幻想交響曲を演奏して大成功。
●ロンドン交響楽団とベートーヴェンの交響曲第9番とベルリオーズの『ロメオとジュリエット』を演奏し、セッション録音も実施。
●ローマ聖チェチーリア・アカデミー会員に選出。


1963年(88歳)
●4月、ロンドン交響楽団とともに来日して大阪国際フェスティバルで演奏。弟子のネヴィル・マリナー[1924-2016]も帯同。
●5月、ロンドン交響楽団とウィーンで公演。
●5月、ロンドン交響楽団と『春の祭典』初演50周年記念演奏会開催。ストラヴィンスキーも登場。
●英国の王立フィルハーモニー協会から表彰。エードリアン・ボールト[1889-1983]からゴールド・メダルを授与される際、指揮台から降りる際に転倒して気絶。
●11月、ロンドン交響楽団とセッション録音。
●12月、ボストン交響楽団に客演。

1964年(89歳)
●2月、ハンブルクで北ドイツ放送交響楽団とセッション録音。
●2月、ロンドン交響楽団とラヴェル作品をセッション録音したのち、ウェールズなどに演奏旅行。
●3月、イスラエル・フィルに客演。
●3月、ローマ聖チェチーリア管弦楽団に客演。2回目の演奏会の後半、『亡き王女のためのパヴァーヌ』を指揮している最中に指揮台から客席の床まで転落してしまいますが、応急措置ののち復帰、『亡き王女のためのパヴァーヌ』と『海』を無事に指揮してコンサートを終えると聴衆も大喝采、翌日の新聞でもその毅然とした勇気が称えられていました。
●4月、ミラノ・イタリア放送交響楽団に客演。ワーグナー『さまよえるオランダ人』序曲、ブラームス:二重協奏曲、ベルリオーズ『幻想交響曲』というプログラムで、結果的にこれが生涯最後のコンサート本番となりました。
●演奏会の翌日、ミラノのホテルの浴室で仰向けに転倒して頭部を強打。気を失いますが応急処置により回復。その翌々日、ロンドンに向かうためホテルのフロントで手続きをしている際に再び意識を失い、応急処置で回復。
●ロンドンに到着するものの、大事をとってその夜のロンドン交響楽団の演奏会はキャンセル。しかし4日後にはロンドン交響楽団とのリハーサルに臨み、『新世界より』などでいつもの手腕を発揮、楽員を喜ばせていました。
●その夜、発電所の重大な事故により、ロンドンは大停電に見舞われ、リハーサルを終えた89歳のモントゥーは、ホテルの6階の部屋まで階段で登ることを余儀なくされます。
●ホテルの部屋になんとか到着したモントゥーは、疲労のせいか再び仰向けに転倒し、今度はテーブルの角に頭をぶつけて気を失います。1時間ほどして意識を回復したモントゥーは、朝1番の飛行機でアメリカに帰るという妻ドリスの提案をおとなしく受け入れ、4月24日、メイン州ハンコックの自宅に到着。
●5月から6月にかけて、モントゥーは軽い発作を3度起こしたものの、音楽などについてはよく喋っていました。
●6月最後の週に、脳血栓の重い症状に襲われ、叫び声をあげたのち気絶、数日間の眠りの後、一瞬意識を回復して再び意識を失い、7月1日の朝4時半に亡くなります。




【商品説明:年表シリーズ】
指揮
アルヘンタ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クラウス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
ターリヒ
チェリビダッケ
ドラティ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
メルツェンドルファー
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
タマルキナ
タリアフェロ
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ハスキル
ユージナ
ランドフスカ

弦楽器
カサド
グリラー弦楽四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ
伝説のフランス弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
●テスタメント国内盤

Track List   

Disc   1

  • 01. 「レオノーレ」序曲第3番 Op.72a
  • 02. 交響詩「ティル・オイレンシュビーゲルの愉快ないたずら」Op.28

Disc   2

  • 01. ヴァイオリン協奏曲第3番 ロ短調 Op.61
  • 02. ペトルーシュカ (1911年版)

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モントゥー/BPOの至芸を堪能できる名盤。19...

投稿日:2019/10/17 (木)

モントゥー/BPOの至芸を堪能できる名盤。1960年当時の重厚なBPOがモントゥーの瑞々しいタクトの元で溌剌とした演奏を繰り広げる。端正な造形ながら豪快かつ洒脱なレオノーレやティルも良いが、何と言ってもシュヴァルベがソロを務めるサン=サーンスが目玉。古巣スイス・ロマンド管との放送録音や先日発売されたイッセルシュテットとのライヴも良いが、こちらはモントゥー/BPOという超強力な伴奏、おまけにライヴで魅力絶大!細身で端正なイメージの強いシュヴァルベだが、他の方が書かれているようにここでは意外な程に奔放で熱っぽく弾き込んでおり前述の2盤とは明らかにテンションが違う。特に第3楽章は元々情熱的な音楽だがライヴということもあって相当白熱しており圧巻!ペトルーシュカも最高で、私は長年ボストン盤を愛聴してきたがこのBPO盤はオケの反応が桁違いの素晴らしさでモントゥーの自在な棒にも機敏に反応しており(ボストンとパリは反応しきれず所々崩壊)、弱音部の繊細さはもちろん強奏の凄絶なまでの迫力も両盤を遥かに凌駕。音質も1960年monoライヴながら鮮明で生々しく優秀、ファン必聴の傑作アルバム!

スノードロップ さん | 広島県 | 不明

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モントゥ・ファンなら必聴のcd。60年といえ...

投稿日:2018/06/12 (火)

モントゥ・ファンなら必聴のcd。60年といえばこのオケがカラヤンと最初のベートーヴェン全集を吹き込むより2年前だが、もうフルトヴェングラーの暗い音はしない。それはモントゥの明確・シンプル志向のせいかもしれないが、カラヤンでも残っている低音がベースになった重い音ではない。曲目が多彩なので指揮者の個性が面目躍如だ。どれも素晴らしい。若い頃に指揮法を彼に教わったというカラヤンのコンマス、シュヴァルベのソロは、ソリスト風でないという予想を裏切ってかなり奔放だが、リーフレットにある彼の回想では、もう年取っていたマエストロが正確にやれ、というのが気に入らなかったとあって面白いが、惚けていたら正確にとかいわないのではないか?他の曲も正確で誇張がないのに、素晴らしい、モントゥ流が聞ける。モス録音だが音は充分。

mari夫 さん | 東京都 | 不明

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