ベートーヴェンの31番の三枚のCD。
イリーナ・メジューエワの演奏したベートーヴェンのソナタ31番のCDが手元に三枚ある。
@1998年 DENONによるセッション
A2009年 ベートーヴェンのソナタ全曲プロジェクトの一枚
B2017年 京都ライブ
@とAのあいだに2004年 若林工房のセッション録音があるのだが私は聴いていない。他にもあるかもしれない。
@はDENONからリリースされた、メジューエワの4枚目のCD。収録曲はバッハ パルティータ2番、ベートーヴェン 31番、シューマン 幻想曲。
ドイツ音楽のど真ん中を貫く選曲である。
この時、メジューエワは22歳。若すぎる?
いや、実はメジューエワは17or 18歳の時にオランダのレーベルで似たような選曲でCDを作っている。
「IRHNA IN A」とタイトルされた中身は、シューベルト ソナタ14番、バッハ イギリス組曲2番、ブラームス パガニーニ変奏曲。全てイ短調で、これも重量級である。
メジューエワは始めからピアノの王道を見据えていたのだ。
このオランダの一枚とは偶然の出会いだった。
新宿高島屋のHMV(今もあるのかなあ?)でジャケ買した。と言っても、その後DENONから出たCDの、いかにも美少女風の写真を使ったもの(私は好きですが)ではなく、何処にでもいそうな、日本人にもみえてしまう、ちょっと野暮ったいほどの素朴な、そして少しぽっちゃりした(ホントです)少女が、ピアノにむかつている、そのうつむき加減の悲しみをたたえたような瞳に魅了されてしまったのでした。
ちなみに、このCDの輸入販売元による日本語表記は、イリーナ・メゾォエヴァでした。
@の演奏をひとことで言ってしまうと、真面目な大胆不敵です。
この曲は、その書かれた背景をどうしても思ってしまうのだが、そんなことはどうでもよくなって、おおらかに聴いてしまう、私にとってはそんな演奏です。
2004年録音の若林工房の収録曲は、31番の他はシューマンの幻想曲で、@と同じ。
という事は、@の演奏が、のちに気に入らなくなったのだろうか。
Aは2007年から2009年まで二枚づつでリリースされていた最後のアルバムのそのまた最後に収録されていた。
この辺にメジューエワのこだわりがありそう。よほど、お好きなのでは?
この曲はとても難しい曲だと思う。
「嘆きの歌」とフーガが交互に二回づつ歌われる。
嘆きの歌を第三楽章、第四楽章をフーガで締めくくれば、落ち着きがいいはず。
全然別の楽想をごちゃ混ぜにしてしまったベートーヴェンの真意を思わないといけない。
単に、新しい構成のチャレンジとか、演奏効果とかで済ませるような話ではない。と思う。
30番のソナタはマクシミリアーネ・ブレンターノに献呈された。「これはありふれた献呈ではありません」と、わざわざ手紙を添えている。このソナタが、あなたに深く関わっているという事を知らせているのだ。
ベートーヴェンが、親しみを込めてマクセと呼んだこの女性は、「不滅の恋人」とほぼ認定されている、アントーニア・ブレンターノの娘である。(このあたりの事情は青木やよいさんの素晴らしい研究によっています。)
30番と関係が深く、さらに心情的な31番は当然、アントーニアに献呈されるべき作品であると思われるのだが、いわば、不倫の関係だったのではばかれたのだろう。
さりとて、他の人に献呈するのは、愛がゆるさない。
で、献呈者なしの作品になった。
もちろん、アントーニアには充分わかっていたはず。
そうであるとして、第三楽章を見てみると、現実の嘆きを芸術によって乗り越えようとする決意が聞こえてくる。それは、繰り返し繰り返し決意しなければならないことだった。
ちょうど、「ハイリゲンシュタットの遺書」と同じことが、ここに再現されている。
遺書のあと、ベートーヴェンは交響曲3番を生み出し、人類史上最高と言っていいような創作活動に入っていく。
最後の三つのソナタのあと、何が生まれてくるのか、私たちは知っている。これはそういう音楽なのだ。
さて、リヒテル、ギレレス、ヴェデルニコフ、内田光子など優れた演奏を聴いてきた。メジューエワの演奏をこの中に入れてもいいと思う。
けれど、リヒテルでさえ、その先にまだ表現されていない何かがあると思わざるを得ない、何かこころ残りがある。
Bはメジューエワの日本コンサートデビュー20周年記念とうたっているコンサートのライブ録音。
私は、メジューエワの日本コンサートデビューを聴きに行きました。
上野の文化会館小ホールだったと思う。
初めてステージに出てきたメジューエワを見て、正直に言うけど、天使ではないか、と思った。
たたき出された音を聴いて、二度目の驚き!
強い、激しい。
こんな音は、天使には似合わない。
それから20年ですか。
想像ですが、メジューエワの音楽生活にとってなんと素晴らしい年月だったろう。
この人は本当に真摯に音楽と向き合っている。演奏を聴いて感じます。
そのことはともかく、このCDは、最後のソナタ三曲がそろって入っている。
コンサートで、そう演奏されたという事が嬉しい。
というのは、Aの全集では、32番が仲間外れで、一緒の盤になかったことが、ちょっとかなしかったのだ。
こういう事って、結構私にはたいせつ。
たかが一枚のCDであっても、そこにちゃんとした統一感が欲しい。
ちなみにAの盤には、30、31番の他に28番が入っている。28番も美しい曲で、ドロテア・エルトマンという女性に献呈されている。ここにもこころあたたまるエピソードがあるけれど、それはまたアントーニアとは別の物語だ。
@ABと聴いてきて、メジューエワのこの曲に向き合う姿勢、演奏の基本に変化は無いと思う。比較的ゆったりとしたテンポでたっぷり歌い、響きは重く深い。
先にあげた、ロシア系のピアニストの流れのなかにある。
ひと昔前権威的に評価されていた、バックハウス、シュナーベル、あるいはグルダもこの曲に関してはテンポを急ぎ過ぎるように私にはおもえる。特に二回目のフーガのテンポ設定が難しく、ここを速くし過ぎると軽薄な音楽になってしまう。ゆっくり過ぎると曲が終われない。
気になる演奏が、グレン・グールドのもの。メジューエワが最初に録音した@の時の彼女の年齢とほぼ同じ頃、23歳の演奏。フーガの部分がベートーヴェンの芸術への決意表明ではないかと思いついた、そのきっかけの演奏だ。
グールドのこの部分は、やはりバッハ的なのだ。
ベートーヴェンは子供の頃、師ネーフェ(素晴らしい人生の師でもある)にバッハの平均率を徹底的に習っている。
晩年、もう一度バッハを研究した成果のひとつがこの第三楽章で、ベートーヴェンの「前奏曲とフーガ」であるとも言える。
とは言え、グールドではベートーヴェンの人生が見えてこない。
メジューエワの演奏のおよそ10年ごとの3つの演奏は基本的な変化はない。
しかし、少しづつ何かが違う。セッションとライブの違い。演奏会場の違いもあるだろうが、それより大切な何か。今それを言葉で説明する余裕も能力も私にはないが、そのわずかな違いこそが人生を生きている証かもしれない。そういう演奏家であると、メジューエワを信じることができる。
あと10年先の、この曲の演奏を聴いてみたい。
私は生きているだろうか?
追記。イリーナさんに謝りたいことがあります。
バティアシヴェリの「CITY LIGHTS」のレビューの中で、イリーナさんの出身をウクライナと書いてしまいました。イリーナさんのファンであることを自認している者として、考えられないミスです。本当にすみません。
この文章がイリーナさんに届く可能性はほぼないのでしょうが、もう一つ過去の後悔を書き留めます。
1997年か、98年のことです。イリーナさんの師であるトロップさんが渋谷のHMV(今もあるのでしょか?)でミニコンサート、サイン会を持った時のこと、イリーナさんもトロップさんに付き添うようにいらっしゃいました。
私もその場にいました。
サイン会が始まった時、イリーナさんもテーブルの前に座っておられたので、私は急いでトロップさんのチャイコフスキーの四季のCDを買って、イリーナさんの前に立ちました。イリーナさんは、それは私のものじゃないというふうにけげんな顔をされましたが、サインはしてくださいました。実はイリーナさんの発売されているCDはすでに全て持ってしまっていたのです。
重なってもいいから、イリーナさんのCDをあの時買うべきでした。不快な思いをされたとしたら、ごめんなさい。