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Leonard Bernstein Collection (4CD)

Bernstein, Leonard (1918-1990)

Item Details

Genre
:
Catalogue Number
:
SC514
Number of Discs
:
4
Label
:
Format
:
CD
Other
:
Import

Product Description


レナード・バーンスタイン・コレクション(4CD)

1956年から1962年にかけてバーンスタインが米COLUMBIA(SONY)にレコーディングしたアルバムを4枚選んだボックスが英SCRIBENDUMから登場。
 内容はニューヨーク・フィル時代の代表的傑作とも言われる『新世界より』『展覧会の絵』「ラヴェル作品集」と、弾き振りの「モーツァルトのピアノ協奏曲」の4枚。
 なぜこの4枚が選ばれたのかは不明ですが、バーンスタインの両親が2人とも、ウクライナでの迫害を逃れて、マンハッタンのエリス島に船でやってきたユダヤ移民であるという事実に鑑みると、『新世界』や『展覧会の絵』(ビドロ)が選ばれているのは、バーンスタインについて改めて考えるのにふさわしい選択とも言えます。
 また、ラヴェルのアルバムは、再録音が多かったバーンスタインの、最初の考えを知るという意味でも役に立ちます。なにごとも思い切りよく率直に示すのがバーンスタインの原点なのかもしれません。
 そして、デビュー当初はピアニストだったというバーンスタインの音楽を理解するうえで欠かせないのが、ピアニストとしての録音。ここでは弾き振りスタイルのモーツァルトのピアノ協奏曲第17番と第15番を収録しています。


【新世界より】
ニューヨーク・フィル時代のバーンスタインならではの快演。速い部分での推進力に富む颯爽としたテンポとダイナミックな表現、遅い部分での深い叙情とが織り成すコントラストが強烈で、激しく躍動する新世界をイメージすることができる一方で、抒情的な旋律に込められた情感の深さからは、美しく広大な自然の情景に魅せられた作曲者の心情を窺うこともできるという稀有な演奏。両親とも移民で、しかも父親はアメリカン・ドリームの体現者でもあったバーンスタインにとって、特別な作品かもしれません。


【展覧会の絵&スペイン奇想曲】
『展覧会の絵』はバーンスタインが再録音をおこなわなかった作品。全体に描写性の高い表現力豊かな演奏ですが、中では「ビドロ」がなかなかの聴きもの。ビドロ=牛車という解釈はリムスキー=コルサコフの勘違いの可能性が高いとも言われ、実際、ガルトマンの遺した絵には、牛車を描いたものは無いということですが、代わりにロシア帝国の圧政に苦しむポーランドの人々を題材にした絵は何枚か存在し、中にはギロチンが描きこまれたものもあり、ムソルグスキーのインスピレーション元も「牛車」ではなく「人々の苦しみ」と考えると独特の曲調も納得できます。ちなみにバーンスタインの両親はポーランドと同じくロシア帝国の圧政に苦しんでいた隣のウクライナの出身でした。
 組み合わせの『スペイン奇想曲』は、スペインの旋律をそのまま素材として使った本物のエキゾチックな雰囲気が聴きものの作品。第2曲「変奏曲」での濃厚なバーンスタイン節が印象的。この『スペイン奇想曲』も再録音をおこなわなかった作品です。


【モーツァルト:ピアノ協奏曲】
音楽家としてのキャリアをピアニストとして開始したバーンスタインのピアノは、指揮者の余技というレヴェルではない魅力を持っています。モーツァルトのように弾き振りが可能な作品では、そうしたピアニストとしての高度な実力と指揮者としての合奏統率力が相乗効果を発揮して聴きごたえも十分。ここでも旋律美を前面に出した伝統的なスタイルのモーツァルトを濃厚に響かせています。録音は1956年5月におこなわれているため、モノラルですが音の質感などは十分なクオリティに達しています。


【ラヴェル】
バーンスタインはフランス物をけっこう好んでおり、ラヴェル作品もいくつか録音していますが、ここでは『ボレロ』『ラ・ヴァルス』『スペイン狂詩曲』の最初の録音を収録。後年の録音に較べて、思い切りの良い表現が特徴的で、『ラ・ヴァルス』などかなりのチカラ技も見せて作品に本来備わっているグロ志向も垣間見せて実に面白い仕上がり。『ボレロ』では当時のニューヨーク・フィルの味のあるサウンドを堪能できるほか、『スペイン狂詩曲』ではバーンスタインお得意の濃密な抒情からエネルギッシュな爆発まで、ノリの良い表現と高いコントラストで面白く聴かせてくれます。


【バーンスタインの両親】
父サミュエルと母ジェニーは、2人とも20世紀初頭にロシア帝国時代のウクライナ北西部からアメリカに移り住んだユダヤ移民。当時のロシア帝国では、政府により反ユダヤ法が制定されてユダヤ人への迫害(ポグロム)が常態化していたため、1881年から1910年までの30年間に、約200万人がアメリカへ移民しています。
 父親サミュエルことシュムエル・ヨセフ・ベルンシテイン[1892-1968]は、16歳のときに単身ウクライナからアメリカに渡り、下働きをしながら英語を学び、叔父の経営する理髪店で働いた際に、理美容用品卸「フランケル&スミス」に就職、やがて実力が認められて重要な仕事を任されるようになり、1917年、25歳のときに結婚しています。
 結婚相手のジェニーこと、チャルナ・レスニック[1898-1992]は、8歳の時に敬虔なユダヤ教徒で音楽好きの家族と共にウクライナからアメリカに移住。ジェニーは頭の良い子ですぐに英語も覚え、家族のために12歳から紡績工場で働いていました。
 18歳でサミュエルと出会ったジェニーは、翌年10月28日に結婚、301日後に長男レナードを出産しています。当時のバーンスタイン家はすでに経済的に安定していましたが、5年後の1923年には父サミュエルが独立して理美容用品卸の会社「サミュエル・バーンスタイン・ヘアー・カンパニー」を立ち上げ、ニュー・イングランド地域で人気のあったパーマネント・ウェーヴ・マシーンを独占的に販売する権利を得て事業に成功し財を成しています。
 父サミュエルの実家は代々ラビの家系で、サミュエル自身もラビになるための教育を受けたことがあり、タルムードの研究にも熱心なユダヤ教徒、母ジェニーの実家も熱心なユダヤ教徒であったことから、バースタインも子供のころからユダヤ教やヘブライ語を勉強、若くして交響曲第1番『エレミア』、交響曲は第3番『カディッシュ』といった作品を発表して注目を集めています。また、フェリシア・モンテアレグレと結婚した際、フェリシアはカトリックからユダヤ教に改宗しています。


【年表:前史〜1950年代】

1881年
●3月13日、ロシア皇帝アレクサンドル2世[1818-1881]が、ポーランド人とユダヤ人のグループにサンクトペテルブルクで爆殺されたことなどが原因で、ロシア帝国南西部、ウクライナとポーランドを中心にポグロムが発生。

1882年
●5月、ロシア皇帝アレクサンドル3世[1845-1894]は、各種の反ユダヤ法を制定。これにより、ロシア帝国内のポグロムが本格化・長期化し、キエフ、オデッサなどウクライナを中心に、1884年までに200回以上の大小さまざまなポグロムが発生。

1892年
●1月5日、バーンスタインの父、サミュエルことシュムエル・ヨセフ・ベルンシテイン[1892-1968]、ロシア帝国領ウクライナ北西部のドゥブノに誕生。ベルンシテイン家は代々ラビの家系でした。なお、当時のウクライナではウクライナ語は禁じられており、ロシア語が使われていました。

1898年
●3月21日、バーンスタインの母ジェニーこと、チャルナ・レスニック[1898-1992]が、ロシア帝国領ウクライナ北西部のヴォルィーニ州に誕生。敬虔なユダヤ教徒で音楽好きの家庭でした。

1903年
●1884年以来、鎮静化していたポグロムが爆発的な規模で再開。1906年までの3年間で数多くのユダヤ人が、ウクライナの一般市民らによって暴行・殺害され、その死傷者数は数千人規模と言われています。

1905年
◆1月、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」発生。ロシア第1革命へ発展。


1906年
●ジェニー8歳、家族と共にウクライナからアメリカに移住。


1908年
●サミュエル16歳、ラビになるための教育を受けていましたが、革命や鎮圧で混乱するロシア帝国を去り、新世界アメリカに移住する道を選択。両親からは反対されますが、国境を何とか越えてドイツ領のダンツィヒに到着。すでにアメリカで理髪店を経営していた母方の叔父のハリー(ハーシェル)・レヴィから送金してもらってリヴァプールにたどり着くと、アメリカ行きの船に乗りこみます。移民手続きをおこなうエリス島(上の画像)で、名前をShmuel YosefからSamuel Josephに変更(姓は同じ)。
●サミュエル、ニューヨーク、ブルックリンの鮮魚卸「フルトン・フィッシュ・マーケット」で下働きとして雇用され、夜間は英語を学んで4年間過ごします。

1910年
●ジェニー12歳、頭の良い活発な子供でしたが、家族のために紡績工場で働き始めます。

1912年
●サミュエル20歳、ニューヨークの郵便局の試験を受けたものの、スペルミスにより不合格。
●サミュエル、コネチカット州ハートフォードで理髪店を開く叔父のハリーの経営する理髪店の下働きとして雇ってもらいます。
●サミュエル、ハリーの理髪店と取引のあったボストンの理美容用品卸「フランケル&スミス」に就職。ボストンに転居。ロシア帝国の反ユダヤ法制定以前のボストンのユダヤ人の数は4,000〜5,000人でしたが、この頃には人口の12%にあたる約80,000人にまで増えていました。

1916年
●サミュエル24歳、ルームメイトから彼の遠戚に当たる18歳のジェニー・レスニックを紹介してもらいます。サミュエルは美しいジェニーに一目惚れでしたが、ジェニーはサミュエルのロシア訛りや、チープな眼鏡などが気に入らなかったため、サミュエルは数か月間ボストンからローレンスに通い詰め、贈り物とユーモラスな話でやがてジェニーの心を掴みます。

1917年
◆4月、アメリカ、ドイツに宣戦布告。
◆5月、1917年の選抜徴兵法、ウィルソン大統領(民主党)が署名して成立。第1次世界大戦参戦後の徴兵登録要求対象年齢は18〜45歳。2,400万人が徴兵登録し、280万人が徴兵。サミュエルは喘息のため徴兵されませんでした。
●サミュエル25歳、「フランケル&スミス」のサブマネージャーに昇進。
●10月28日、サミュエルとジェニー結婚。式はジェニーが家族と共に住んでいたマサチューセッツ州ローレンスでおこないます。新婚旅行はボストンのエセックス・ホテルでした。
●サミュエルとジェニー夫妻は、ボストンに隣接するマタパンのユダヤ人労働者地区のアパートに転居。サミュエルは仕事の成功のために努力し、タルムードの研究にも熱中、ジェニーは、ダンス、パーティー、映画雑誌、恋愛小説に熱中という夫婦でした。やがてお腹が大きくなると、ジェニーはローレンスの実家に戻って出産に備えます。
◆12月、アメリカ、オーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告。

1918年(0歳)
●8月25日早朝、バーンスタイン、母の実家であるマサチューセッツ州ローレンスで誕生。新婚旅行から301日後のことでした。名前は当初、母方の祖母であるパール・レスニック[1874-1935]の意向により「ルイス」(パールの父の名前)として登録されますが、ジェニーとサミュエルはその名前を使わず「レナード(または愛称のレニー)」と呼んで生活、1935年に祖母が亡くなると「レナード」に改名していました。
◆11月、ドイツ、オーストリア、休戦協定に調印。実質的終戦。

1920年(2歳)
●バーンスタイン家はボストン郊外のオールストンに転居。

1923年(5歳)
●父サミュエル、独立して理美容用品卸の会社「サミュエル・バーンスタイン・ヘアー・カンパニー」を立ち上げ、ニュー・イングランド地域で人気のあったパーマネント・ウェーヴ・マシーンを独占的に販売する権利を得て事業に成功し財を成しています。
●10月23日、妹のアン・シャーリー・バーンスタイン[1923-1998]誕生。

1924年(6歳)
●バーンスタイン、ギャリソン・グラマー学校入学。

1928年(10歳)
●バーンスタイン、屋根裏部屋でピアノを発見。叔母クララが離婚して転居する際に父に預けたものでした。バーンスタインはピアノに夢中になります。

1929年(11歳)
●バーンスタイン、ボストン・ラテン語学校に転校。

1931年(13歳)
●バーンスタイン、ニューイングランド音楽院でスーザン・ウイリアムズにピアノを学びます(1935年まで)。

1932年(14歳)
●バーンスタイン、ピアノ教師ハインリヒ・ゲブハルト[1878-1963]と助手のヘレン・コーツ[1899-1989]に師事。ヘレン・コーツはのちにバーンスタインの秘書になります。
●1月31日、弟のバートン・バーンスタイン[1932-2017]誕生。

1933年(15歳)
●バーンスタイン、ボストン音楽コンクールのピアノ部門で第2位。

1934年(16歳)
●バーンスタイン、ボストン・パブリック・スクール交響楽団演奏会でグリーグのピアノ協奏曲を弾いて演奏会デビュー。

1935年(17歳)
●バーンスタイン、ボストン・ラテン語学校を卒業。
●8月25日、祖母パール・レスニック死去。ほどなく彼女が届け出ていたバーンスタインの名前「ルイス」を「レナード」に改名。
●バーンスタイン、ハーバード大学音楽学部に入学。和声をエドワード・バレンタイン、管弦楽法をエドワード・バーリンガム・ヒル、対位法をアーサー・ディルマン・メリット、ウォルター・ピストン等に師事。

1937年(19歳)
●バーンスタイン、マサチューセッツ州ケンブリッジのサンダース劇場で、マサチューセッツ州立交響楽団とラヴェルのピアノ協奏曲を演奏。
●バーンスタイン、友人のパーティーでミトロプーロスと交流。指揮に関心を持つようになります。

1938年(20歳)
●6月12日、バーンスタイン、自作のピアノ曲により、作曲家兼ピアニストとしてデビュー。


1939年(21歳)
●4月21日、バーンスタイン、ハーバード大学内で自作の劇付随音楽『鳥』を指揮。
●バーンスタイン、ハーバード大学を卒業。
●バーンスタイン、ミトロプーロスの紹介で、フィラデルフィアのカーティス音楽院に入学。指揮をフリッツ・ライナーに、ピアノをイザベル・ヴェンゲロワ、作曲をランドル・トンプソン等に師事。


1940年(22歳)
●バーンスタイン、フリッツ・ライナーの薦めでセルゲイ・クーセヴィツキーが創設したタングルウッド音楽センターの指揮講座を受講。クーセヴィツキーの指揮テクニックや、表現の秘訣などについて教わります。
●バーンスタイン、バークシャー・ミュージック・センター・オーケストラを指揮して、リムスキー=コルサコフ『シェエラザード』の第2曲と第4曲を指揮。初のフル編成オーケストラの指揮体験でした。
◆9月、1940年の選抜訓練徴兵法、ルーズヴェルト大統領(民主党)が署名して成立。18〜65歳の全男性に徴兵登録を要求、18〜45歳の全男性に徴兵登録を義務付け。兵役期間は18か月。第二次世界大戦では1,011万人が徴兵。

1941年(23歳)
●バーンスタイン、カーティス音楽院を卒業。
●バーンスタイン、クーセヴィツキーの助手として契約。
●バーンスタイン、タングルウッド音楽祭コンクールで優勝。
●多くのユダヤ人音楽家と同じく平和主義者だったバーンスタインは、戦地に行かずに済む方法を探り、師のクーセヴィツキーに対し、「USO(The United Service Organizations、アメリカ軍への慰問などをおこなう民間非営利組織)」に入った場合のことなどを手紙で質問、クーセヴィツキーが有力者に依頼して関係者に問い合わせてもらったところ、「USO」に入れば戦地行きの可能性は低いものの、確実とは言い切れないといった内容の返信でした。
 しかしほどなく、バーンスタインを診察した医師が、「慢性の喘息」により「兵役不適格」という診断を下したため、バーンスタインは兵役を免除されることとなります。
 ちなみに同じくクーセヴィツキーの弟子で、1943年に「USO」の顧問となったフレデリック・フェネルは、終戦まで徴兵されることはありませんでした。

◆12月、アメリカ、第2次世界大戦に参戦。

1942年(24歳)
●バーンスタイン、交響曲第1番『エレミア』、クラリネット・ソナタ作曲。

1943年(25歳)
●8月、バーンスタイン、クーセヴィツキーに薦められてロジンスキーと会って気に入られ、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の副指揮者として採用。
●11月14日、バーンスタイン、カーネギー・ホールでのニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の演奏会で大成功。これは風邪をこじらせて指揮不能になったブルーノ・ワルターの代役を急遽まかされたもので、本番前にワルターからアドヴァイスを受けて『ドン・キホーテ』などを指揮、ラジオ中継も入り、翌日には新聞でも大きく取り上げられたことで、バーンスタインの知名度は一気に上がることになりました。


1944年(26歳)
●1月28日、バーンスタイン、ピッツバーグ交響楽団を指揮して自作の交響曲第1番『エレミア』を初演。当時のピッツバーグ交響楽団の音楽監督は恩師ライナーでした。

1945年(27歳)
●バーンスタイン、ニューヨーク・シティ交響楽団音楽監督就任(1947年まで)。恩師クーセヴィツキーの推挙によるものでした。
●バーンスタイン、アメリカ国内の主要オーケストラに客演。

1946年(28歳)
●クラウディオ・アラウの主宰するパーティーで、5年後に結婚することとなる女優、フェリシア・モンテアレグレと出会いますが、フェリシアは翌年から俳優のリチャード・ハートと同棲を始めています。
●5月、バーンスタイン、プラハで開催された「アメリカ音楽フェスティヴァル」で、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。ヨーロッパ・デビュー。
●7月、バーンスタイン、フィルハーモニア管弦楽団に客演。イギリス・デビュー。

1947年(29歳)
●バーンスタイン、パレスチナ管弦楽団(現イスラエル・フィル)に客演し、自作の交響曲第1番『エレミア』を指揮。桂冠指揮者に任命され、亡くなるまでその地位にありました。

1948年(30歳)
◆5月14日、イスラエル建国。ほどなくパレスチナ管弦楽団はイスラエル・フィルに改名。
◆5月15日、イスラエル独立戦争勃発(1949年3月10日まで)。
●バーンスタイン、イスラエル独立戦争のさなか、イスラエル・フィルに客演。解放されたばかりの砂漠の都市、ベエルシェバでおこなわれた野外コンサート「砂漠のラプソディ・イン・ブルー」などを指揮。
●バーンスタイン、ローマで聖チェチーリア音楽院管弦楽団を指揮。


1949年(31歳)
●4月、バーンスタイン作曲交響曲第2番『不安の時代』が、クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団により世界初演、ピアノはバーンスタインが担当。
●12月、バーンスタイン、ボストン交響楽団を指揮してメシアン『トゥーランガリーラ交響曲』を世界初演。
●12月、前年に国連が定めた人権デーに、バーンスタインがカーネギー・ホールでボストン交響楽団を指揮して以下の曲を演奏。

・コープランド:『荘厳な式典のための序文』(朗読付)
・ショスタコーヴィチ:『連合国行進曲』
・パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番第1楽章(メニューイン独奏)
・ラヴェル:ピアノ協奏曲(弾き振り)
・ベートーヴェン:交響曲第9番『合唱』第4楽章声楽部分

アメリカ、ソ連、イタリア、フランス、ドイツの曲を演奏し、イギリスのローレンス・オリヴィエがコープランド作品ほかで朗読を披露することによって、第2次世界大戦の参戦主要国を繋ぐという企画でした(日本などアジアは除外)。
 ショスタコーヴィチの『連合国行進曲』は、スターリンの「5か年計画」を礼賛するための映画『呼応計画』の音楽中の工場労働の喜びの歌を、歌詞を変えて合唱曲に編曲した作品。曲名に「United Nations」が使われており、英語では「連合国(United Nations)」と「国連(United Nations)」が同じ名前となるため紛らわしいですが、最初に編曲されたのが戦時中の1943年ということを踏まえると「連合国」となります。しかしバーンスタインがこのコンサートで指揮したヴァージョンは、ホロコースト関係者でもあるボストン響のオランダ人チェリストが再編曲したものなので、もしかしたら「国連」の意味に使われているのかもしれませんが、どちらにしても、国連がまだ戦勝「連合国」のための団体のようなものだった時期なので、『連合国行進曲』で差支えないとも思われますし、そもそも英語では、敢えて両方とも同じ「United Nations」にしているので、日本語の直訳「連合国」、意訳「国際連合」という使い分けの方が不自然という見方ができなくもありません。


1951年(33歳)
●1月、人気俳優のリチャード・ハート[1915-1951]、心不全のため35歳で死去。ハートは2回結婚(子供3人)し、2回同棲(子供1人)。フェリシア・モンテアレグレは、ハートの最後の3年間の同棲相手でしたが子供はありませんでした。フェリシアはこの8か月後にバーンスタインと結婚。
●バーンスタイン、バークシャー音楽センター指揮科主任教授に就任(1955年まで)。
●バーンスタイン、ブランダイス大学指揮科主任教授就任(1956年まで)。この大学は、マサチューセッツ州ウォルサム市にある私立大学で、1948年にユダヤ教徒の出資によって設立。ユダヤ系高等教育機関ですが、宗教教育を目的にはしていません。現在のユダヤ人学生数の比率は約56%。
●バーンスタイン、イスラエル・フィルのアメリカ・ツアーにクーセヴィツキーと共に同行。
●6月、バーンスタイン、タングルウッド管弦楽団指揮者就任。
●6月、クーセヴィツキー死去。バーンスタインはタングルウッドの管弦楽講習と指揮講習部門を引き継ぎます。


●9月、バーンスタイン、チリの女優・ピアニストのフェリシア・コーン・モンテアレグレ[1922-1978]と結婚。フェリシアはカトリックからユダヤ教に改宗(アメリカ人の父の先祖はユダヤ系ドイツ人、コスタリカ人の母の先祖はスペイン人)。


1952年(34歳)
●6月、バーンスタインのオペラ『タヒチ島の事件』初演。のちに『クワイエット・プレイス』に改作。

1953年(35歳)
●1月、バーンスタイン作曲のミュージカル『ワンダフル・タウン』初演。
●6月、バーンスタイン、ニューヨーク・スタジアム交響楽団(実体はニューヨーク・フィル)を指揮して『英雄』、『新世界より』、『悲愴』など5つの交響曲をレコーディング。
●12月、バーンスタイン、マリア・カラスの強い要望でミラノ・スカラ座でのケルビーニ『メデア』を指揮、スカラ座に登場した初のアメリカ人指揮者となります。きっかけはバーンスタイン指揮のラジオ放送をカラスが聴いて魅了されたこととされており、指揮したことのないオペラのオファーに出演を渋るバーンスタインを、カラス自身が説得したといわれています。


1954年(36歳)
●バーンスタイン出演によるテレビ・ドキュメンタリー・シリーズ「オムニバス(OMNIBUS)」がスタート(1958年まで)。

1955年(37歳)
●11月、バーンスタイン、スカラ座でマリア・カラス主演の『夢遊病の女』を指揮。

1956年(38歳)
●4月、バーンスタイン、CBSテレビと契約。
●10月、バーンスタイン、ニューヨーク・フィルの首席指揮者に就任。ミトロプーロスとの2人体制でした。
●12月1日、バーンスタインのオペラ『キャンディード』初演。
●12月31日、バーンスタイン、ニューヨーク・フィルと『メサイア』をレコーディング。CBSレコードとの長期にわたる録音契約。この契約は「録音曲目の決定をほぼバーンスタインに一任する」という破格のものでした。

1957年(39歳)
●9月、バーンスタイン、ミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』初演。大成功を収めます。
●11月、バーンスタイン、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。ミトロプーロスは退任。


1958年(40歳)
●1月18日、バーンスタイン、第1回「ヤング・ピープルズ・コンサート」開催。ニューヨーク・フィルとCBSの共同製作による同番組は、1972年までの間に計53本が制作。
●11月、バーンスタイン、ニューヨーク・フィル音楽監督に就任(1969年まで)。

1959年(41歳)
●バーンスタイン、音楽マネジメント会社「アンバーソン」を設立。
●8月、バーンスタイン、ニューヨーク・フィルを率いてヨーロッパ、ソ連ツアー。モスクワではショスタコーヴィチの交響曲第5番を作曲者臨席のもとで演奏、大成功を収めます。



【収録情報】

CD 1
●ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調 Op.95『新世界より』
第1楽章 Adagio; Allegro molto
第2楽章 Largo
第3楽章 Scherzo: molto vivace
第4楽章 Allegro con fuoco

ニューヨーク・フィルハーモニック
レナード・バーンスタイン(指揮)

録音時期:1962年4月16日
録音場所:ニューヨーク、マンハッタン・センター
録音方式:ステレオ(セッション)

CD 2
●ムソルグスキー(ラヴェル編):組曲『展覧会の絵』
「プロムナード」
「グノーム」
「プロムナード」
「古い城」
「プロムナード」
「テュイルリー」
「ブィドロ」
「プロムナード」
「卵の殻をつけたひよこのバレエ」
「ザムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」
「リモージュ。市場」
「カタコンブ」
「死者たちとともに死せる言葉で」
「にわとりの上に立つバーバ・ヤーガの小屋」
「キエフの大門」

ニューヨーク・フィルハーモニック
レナード・バーンスタイン(指揮)

録音時期:1958年10月14日
録音場所:ニューヨーク、セント・ジョージ・ホテル
録音方式:ステレオ(セッション)

●リムスキー=コルサコフ:『スペイン奇想曲』
Alborada
Variazioni
Alborada
Scena e canto gitano
Fandango asturiano

ニューヨーク・フィルハーモニック
レナード・バーンスタイン(指揮)

録音時期:1959年5月2日
録音場所:ニューヨーク、カーネギー・ホール
録音方式:ステレオ(セッション)

CD 3
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番ト長調 K.453
第1楽章 Allegro
第2楽章 Andante
第3楽章 Allegretto
Recording: 7th May 1956 (Mono)

●モーツァルト:ピアノ協奏曲第15番変ロ長調 K.450
第1楽章 Allegro
第2楽章 Andante
第3楽章 Allegro

レナード・バーンスタイン(ピアノ、指揮)
コロンビア交響楽団

録音時期:1956年5月4,7日
録音場所:ニューヨーク、コロンビア30番街スタジオ
録音方式:モノラル(セッション)

CD 4
●ラヴェル:ボレロ
●ラヴェル:ラ・ヴァルス
●ラヴェル:スペイン狂詩曲
「夜への前奏曲」
「マラゲーニャ」
「ハバネラ」
「祭り」

ニューヨーク・フィルハーモニック
レナード・バーンスタイン(指揮)

録音時期:1958年1月6,27日
録音場所:ニューヨーク、コロンビア30番街スタジオ
録音方式:ステレオ(セッション)



【商品説明:年表シリーズ】
指揮
ルロイ・アンダーソン
アレクサンドル・ガウク
セルゲイ・クーセヴィツキー
クレメンス・クラウス
パウル・クレツキ
オットー・クレンペラー
ニコライ・ゴロワノフ
ヴォルフガング・サヴァリッシュ
カール・シューリヒト
アンタル・ドラティ
ポール・パレー
フレデリック・フェネル
ピエール・モントゥー
フェルディナント・ライトナー
エーリヒ・ラインスドルフ

鍵盤楽器
ラルフ・カークパトリック
イェルク・デムス
タチアーナ・ニコラーエワ
マリア・ユージナ
ワンダ・ランドフスカ

弦楽器
ガスパール・カサド
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
ルッジェーロ・リッチ

作曲家
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ

Customer Reviews

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