[USED:Cond.A] Symphony No.2 : Lorin Maazel / Yomiuri Nippon Symphony Orchestra (1987 Tokyo Stereo)(2CD)
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banban | 東京都 | 不明 | 27/October/2024
マゼールの尋常ではない解釈が随所で炸裂した演奏であり、ウィーン・フィルやフィルハーモニア管弦楽団とのマーラー「交響曲全集」とは別人のようなデモーニッシュな表現が繰り出される。バイエルン放送交響楽団とのマーラー・ツィクルスのライヴがブートレックでリリースされたことがあるが、まさにこの読響との演奏はそれを思い起こさせる。欧米の著名なオーケストラの楽員が何かのインタビューで話していたが、録音を前提としたコンサートとそうでないコンサートではマゼールの指揮が全く変わってしまうそうだ。要するに、放送や音盤として世に出されるコンサートでは規範的な演奏を目指すが、そうでないコンサートでは思い切った解釈を遠慮なく聴かせるのがマゼールのやり方なのだろう。これと同じようなことをエーリヒ・ラインスドルフも話しており、ラインスドルフもレコーディングとコンサートでは全く違う解釈を聴かせていた。おそらく、この読響とのコンサートは放送用や音盤化のために録音されたものではなく、記録用として読響やホールが残したものだろう。そのためマゼールの超個性的な演奏が奇跡的に残されたのだ。世界中のホールやオーケストラにはこうしたマゼールのライヴの記録が数多く残されているはずだ。優等生的で没個性的な演奏が蔓延る現在、こうした演奏を聴かせてくれる指揮者は減る一方だ。これからもマゼールの超個性的なライヴが発掘されることを切望する!0 people agree with this review
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slave | 東京都 | 不明 | 15/July/2024
歴史的な意義づけや評価というものは度外視して、この演奏を聴いた感想を申し述べます。当時、私は既に社会人でしたから、当時のマーラーの演奏状況というものは理解しているつもりですので、「黎明期に健闘した演奏」というのは、正しくないと思うからです。私がここで注目するのは、一見マゼールの演奏がアクの強い、自己主張の目立つものに見えるとすれば、それはオーケストラの音楽性がマゼールのマーラーと合致していないからだ、ということです。実は、マゼールの演奏には、ときどき、やけに自己主張の強い、恣意的に見える演奏があるかと思うと、まったくそうではない自然な演奏に見える演奏があることが不思議でした。しかし、この演奏を聴いていて、なるほど限られたリハーサル時間では、指揮者が指示をしたところ、十分に意を伝えきれなかったところがあり、楽団が曲を自分なりに理解をして、指示の希薄な部分を補って行かないと、このようなツギハギのような感じの演奏に、マゼールの場合は、なってしまうのだな、ということがよく分かりました。マゼールの解釈は、ニューヨークの演奏は聴いておりませんが、ウィーン、フィルハーモニアの演奏では、この演奏と一貫しています。それにも関わらず、この演奏だけが、なにやらマゼールの意図が悪目立ちしております。それは、つまりは、楽団のマーラーとマゼールのマーラーに密度の差があったということと思います。こうしたことを考えるきっかけとして、私には、この演奏は大変に勉強になりました。1 people agree with this review
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ゴーシュ | 埼玉県 | 不明 | 26/February/2020
まず始めにこの演奏会の記録が残っていて良かったと心から思う。 実はこの演奏会には合唱団員として参加し、学生最後の合唱での大舞台でした。今でもマエストロとのリハーサルや本番等、当時を振り返る事が良くある。私にとっても人生のいい思い出となっている。オケ合わせのリハーサルに行った日、オケのメンバーの方に面識のある方がいたのでマエストロについての感想を伺ったところ、「全然違うよ!」と興奮気味に返事が帰っきました。思わず「何が違うのですか?」と聞き返しそうになったが、その場に立ち会った自分が 、それを聞き返していいのかと思い、その「全然違う」の意味することを察した。 それだけ読響の団員達にとっても刺激満載のリハーサル、本番だったと想像出来た。 さて、私の当日の記憶は、マゼールという指揮者はリハーサルと本番ではかなりテンポが変わる方という印象を持ちました。2日間公演で特に最終日の本番ではリハーサル以上に、マエストロとオケが一体化して観客を時間経過と共にマーラーの世界に巻き込んで行き、ホール中がマゼールワールドに陶酔しきって、そして指揮者の感情に左右されたアゴーギク(テンポのゆらぎ)が変化していく様が舞台の上からも感じ取れる程でした。 そして5楽章での冒頭の爆音から合唱の出番までの高揚感と静寂の繰り返しの後、着座のまま合唱がAufersteh’n, ja aufersteh’n,(よみがえる,,,,)と最弱音で歌い出し、2人のソリストの掛け合いのあとクライマックスへと進んでいく,,,,終演後の「ブラボー」と喝采,,,,その様な場をマゼール&読響と共に共有できた事は生涯忘れることが出来ない思い出となっている。レビューとしてふさわしい書き込みかわからないが、演奏に関わった者としてコメントさせて頂きました。8 people agree with this review
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フォアグラ | 愛知県 | 不明 | 04/July/2019
日本音楽界にとっても記念碑的なコンサート記録だと思う。なるほど当時の読響は上手くない。管楽器のミスは数知れず弦は響きに高級感がない。読響が特に下手なわけではなく、これが東京のオケの水準だったのだが、やはり第1楽章を聴いていて残念な気持ちが強かった。楽団も大物マゼールを迎え極度の緊張もあったろう。だが、短い休憩を挟んで第2楽章から音楽は豊かに流れ出す。マゼールはオケの能力を考慮してか、思わぬ声部を引き出す、ということは今回せず、テンポのデフォルメで音楽を引き立たせようとしているが、それは第3楽章あたりから打つ手打つ手が決まるという感じになってくる。そして終楽章。ミスもあるもののオケはマゼールの指揮に憑かれたような集中度の高い演奏を繰り広げる。合唱が入ってきてからの高揚は凄まじいとしか言いようがない。これほどの燃焼度のコンサートがこれまでどれだけあっただろう。ブラボーの絶叫は興覚めだが、気持ちはわかる。私もマゼールの来日公演は数多く聴いたが、これは別格であり、こんな凄みのある人だと初めて知った。販売目的で収録されたものではないので、音は鮮明だが潤いに欠ける。だが、この記録が残ってよかった。7 people agree with this review
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まめ | 東京都 | 不明 | 12/May/2019
1990年芸劇オープニングでのシノポリとフィルハーモニアによるマーラー交響曲のツィクルスがわが国におけるマーラー需要の始まり(ベートーヴェンなどのように広い意味で一般化する)とするならば、さしずめこの演奏会はその5年前、足がかりとでもいうべき演奏会。 当時は最晩年のカラヤン、バーンスタインが2大巨匠として君臨していたロマン主義の残滓が色濃く残る時代感の中、全編を通じ、ライブならではの熱さと緩急自在のロマンティックな解釈。マゼールはこの読響はじめ、ピッツバーグ、ウィーンフィル、フランス国立管、ミュンヘンフィル、ニューヨークフィルなど数多くの実演を聴いてきたが、いたってオーソドックスな解釈の冷静なもの、この実演のようにアゴーギグ利かせたなんだかやたら温度の高い演奏会と同一人物とは思えないようなものであったが、比較的日本での演奏会はやりたい放題やっていた印象。 そんな彼によるこの復活は、文化会館の乾いた録音で生音感満載でちょっとした弦楽器のずれなどが目立ってしったり管のピッチが気になるところは大いにあるものの(今の読響がこの30年でどんだけ上手くなっているか、ある意味わかりやすい)、熱感と生きた音のする一聴の価値あるライブ録音。 惜しむべきは、5楽章で音が入りきらずスケールが実際より、かなり小さくきこえてしまうこと。往年の伊原さんのまさにアルトといえる低めの色気ある声も白眉。コーラスは弱音部こそ静寂な美しさがあるがフォルテッシモに至ると地声が目立ってしまったり響きが浅くなったり不安定。そういう点ではまだまだマーラー需要創世記、オケもコーラスも欧米の楽団のクオリティに届いていない時代という点では現代とは隔世の感。 そんな点も考慮しつつ聴いてみるとなんだか30年後の我が国のオーケストラ文化に夢を感じることができるような音源。6 people agree with this review
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