
メキシコ近代作曲家マヌエル・ポンセの魅力に迫るシリーズ第1弾
ポンセ:マヤ風スケルツィーノ、葬送行進曲、他
ロドルフォ・リッテル(ピアノ)
【概要】
◆メキシコ近代音楽の作曲家マヌエル・ポンセのピアノ独奏曲を網羅するプロジェクトの第1弾。メキシコのロマン主義から国民楽派、そして印象主義的・近代的な作風へと至るポンセの多面的な音楽語法を、年代やスタイルを越えて編纂したアルバムです。
【収録作品】
◆全18トラックで構成。初期のサロン風作品から、メキシコ先住民の旋律を取り入れたナショナリズム溢れる作品まで多岐にわたります。
【演奏者】
◆演奏はメキシコ国立音楽院の教授でメキシコ音楽の権威として知られるドイツ系メキシコ人のロドルフォ・リッテル。ヤマハ・アーティストでもあるリッテルは、メキシコの知られざるロマン派作品発掘紹介に精力的に取り組んでおり、リッター自身が学者でもあるため、未出版作品の楽譜校訂や解釈においても主導的な役割を果たしながらレコーディングに取り組んでもいます。
【録音】
◆2021年9月4日、メキシコシティ、芸術宮殿(パラシオ・デ・ベジャス・アルテス)大ホールで収録。マリア・カラスやクレメンス・クラウスも登場した歴史のあるホールです。
【製品仕様】
◆装丁はデジパック仕様で、差し込みブックレット (英語・16ページ)には、メキシコの音楽学者ロヘリオ・アルバレス・メネセスと演奏者のロドルフォ・リッテルによる解説などが掲載。EU製で、ディスクはメジャー・レーベルでもおなじみの独オプティマル・メディアが製造。
関連レーベル
Piano Classics ・
Brilliant Classics ・
Neue Meister ・
Berlin Classics
作曲者情報
幼少期と音楽的才能の開花
1882年12月8日、ポンセはメキシコのザカテカス州フレスニヨという小さな鉱山の町で、12人兄弟の末っ子として生を受けました 。父フェリペ・デ・ヘスス・ポンセ・レオンは、1867年のレジスタンス活動に関与した経歴を持つ会計士であり、政治的な混乱を避けるためにフレスニヨに一時的に身を隠していました 。しかし、生後わずか数週間で家族は本来の拠点であるアグアスカリエンテスへと戻り、ポンセはこの地で少年時代を過ごすこととなります 。
ポンセの家庭は音楽に満ちており、特に姉のホセフィーナ(愛称ペピータ)は、ポンセにとって最初のピアノ教師であり、大きな影響を与えた人物でした 。わずか4歳の時、姉のピアノのレッスンを傍らで聞いていたポンセは、レッスンが終わるやいなや楽器に向かい、耳にしたばかりの曲を見事に再現して見せたと伝えられています 。この類稀な神童ぶりに驚いた両親は、すぐさま彼に正式なピアノと音楽理論の教育を受けさせました 。
5歳の時、はしかに罹患し静養中であったポンセは、最初の作曲となるピアノ曲『はしかの行進曲(La Marcha del Sarampión)』、あるいは『はしかのダンス(La danza del sarampión)』を書き上げ、創作への情熱を早くも示しています 。
修業時代とヨーロッパへの旅
10歳で地元サン・ディエゴ教会の児童合唱団に入団したポンセは、そこで兄アントニオが司祭を務めていたこともあり、宗教音楽の豊かな伝統に触れました 。この経験が、後の彼の歌曲に見られる美しい叙情性と旋律的な歌わせ方の基礎となったことは間違いありません 。13歳で教会の副オルガニスト、15歳で首席オルガニストに任命されるなど、アグアスカリエンテスにおける若き音楽家としての地位を確固たるものにしていきました 。
1901年、さらなる研鑽を求めてメキシコシティへ向かったポンセは、国立音楽院(Conservatorio Nacional de Música)に入学しました 。しかし、すでにピアニストおよび作曲家として一定の評価を得ていたポンセにとって、音楽院の硬直したカリキュラムや基礎からやり直しを命じる指導方針は受け入れがたいものであり、わずか2年後の1903年には退学して帰郷することを選びます 。
しかし、彼の情熱は国内に留まることはありませんでした。1904年、ピアノを売却して資金を作り、兄アントニオの支援も得て、彼はついにヨーロッパへと旅立ちます 。イタリアのボローニャにあるマルティーニ音楽院(Liceo Musicale)に入学したポンセは、エンリコ・ボッシ(Enrico Bossi)やチェーザレ・ダル・オリオ(Cesare Dall'Olio)に師事し、対位法、フーガ、管弦楽法といった高度な作曲技法を学びました 。その後、ドイツのベルリンへと渡り、シュテルン音楽院でフランツ・リストの直弟子であるマルティン・クラウザ(Martin Krause)に師事し、ピアニズムの極致に触れることとなります 。
ドイツ滞在中、現地の友人たちから「なぜヨーロッパの模倣ばかりするのか、君自身のルーツであるメキシコの民俗音楽を取り入れるべきだ」と奨励されたことが、彼の音楽的転換の決定的なきっかけとなりました 。
メキシコ国民主義音楽の確立
1908年に帰国したポンセは、メキシコシティの国立音楽院の教授に就任し、ピアノと音楽史を教え始めます 。この時期のポンセは、メキシコ独自の音楽的アイデンティティを確立することに使命感を感じており、積極的に民謡の収集や研究を行いました 。
1912年7月7日、アルベウ劇場で開催された自作演奏会は、メキシコ音楽史における歴史的な転換点と見なされています 。この演奏会で、彼は自身のピアノ協奏曲やピアノ三重奏曲、そしてメキシコ民謡を洗練された手法で編曲した作品を披露しました 。それまでヨーロッパの音楽こそが至高であると信じていた保守的な聴衆や批評家の中には困惑する者もいましたが、この公演は「メキシコ国民主義音楽の誕生」として熱狂的に迎え入れられました 。
同年、彼の最も有名な作品である歌曲『エストレリータ(小さな星)』が書かれました 。この曲はあまりにも美しく、親しみやすかったため、多くの人が既存の民謡であると誤解しましたが、実際にはポンセがメキシコ人の魂を込めて作り上げたオリジナルの傑作です 。
パリでの深化とポール・デュカスの影響
1925年、すでに40代を過ぎていたポンセは、自らの作曲技法にさらなる現代的な洗練を加えるため、再びヨーロッパへの旅に出ます。彼はパリに移住し、エコール・ノルマルでフランスの巨匠ポール・デュカス(Paul Dukas)に師事しました 。
パリでの8年間(1925-1933)は、ポンセにとって第二の黄金期でした 。彼はデュカスの指導の下で、ドビュッシーやラヴェルの印象主義的な和声感覚、そしてストラヴィンスキーのような現代的なリズムや形式美を吸収しました 。この時期に書かれたギター曲やピアノ曲は、従来のロマン主義的な枠組みを超え、より緻密で色彩豊かな響きを湛えるようになります 。
また、このパリ滞在中に親交を深めたのが、スペインの天才ギタリスト、アンドレス・セゴビアです 。セゴビアは、ギターのために芸術的なレパートリーを必要としており、ポンセに次々と作曲を依頼しました 。二人の協力関係は、クラシック・ギターの歴史において最も幸福なパートナーシップの一つとされ、今日演奏される主要なギターレパートリーの多くがこの時期に誕生しました 。
後期の傑作と晩年の栄誉
1933年にメキシコへ帰国したポンセは、以前にも増して精力的な活動を展開しました 。彼は国立音楽院の院長を務め、またメキシコ国立自治大学(UNAM)で民俗音楽の講座を担当するなど、教育者としても重鎮となりました 。
晩年のポンセは、これまでに培ったメキシコの民俗精神と、パリで磨き上げた高度なヨーロッパの技法を完璧に融合させた大規模な作品に挑みました 。1941年にウルグアイのモンテビデオでセゴビアによって初演された『南の協奏曲(Concierto del Sur)』は、その代表作です 。さらに、1943年には名ヴァイオリニスト、ヘンリク・シェリング(Henryk Szeryng)のために書かれた『ヴァイオリン協奏曲』を発表しました 。このヴァイオリン協奏曲の第2楽章には、かつての名曲『エストレリータ』の断片が引用されており、彼自身の生涯の集大成としての象徴的な意味を帯びています 。
1947年、メキシコ政府は彼の偉大な功績を讃え、芸術家として初めての「国家科学芸術賞」を授与。長年の献身的な努力が、国家的な栄誉として報われた瞬間でした。
【年表】
1882年(1歳)12月8日、マヌエル・マリア・ポンセ・クエヤル、ザカテカス州フレスニヨで誕生。12人兄弟の末子。父フェリペ、母マリア 。
1883年(2歳)生後数週間で家族とともにアグアスカリエンテスへ移住 。
1886年(5歳)ピアノの神童としての才能。姉ホセフィーナの演奏を聴き、独学で再現。正式なピアノ教育が開始 。
1887年(6歳)はしかに罹患し、最初のピアノ曲『はしかのダンス(La danza del sarampión)』を作曲 。
1891年(10歳)音楽の才能をさらに伸ばし、周囲を驚かせる。地元で音楽的教育を継続 。
1892年(11歳)サン・ディエゴ教会の児童合唱団に入団。兄アントニオの影響。最初の歌曲2曲を執筆 。
1895年(14歳)サン・ディエゴ教会の副オルガニストに任命。安定した収入を得る 。
1897年(16歳)サン・ディエゴ教会の首席オルガニストに昇進。アグアスカリエンテスでの音楽活動を本格化 。
1900年(19歳)メキシコシティへ移住。ヴィセンテ・マニャスにピアノを、エドゥアルド・ガブリエッリに和声を師事 。
1901年(20歳)国立音楽院に入学。基礎課程からの開始を命じられるなど硬直した制度に失望し、独学と外部での学習を重視 。
1903年(22歳)国立音楽院を去り、アグアスカリエンテスに帰郷。地元の音楽学校で教育活動 。
1904年(23歳)渡欧。イタリアのボローニャでエンリコ・ボッシ等に師事。対位法や管弦楽法を学ぶ 。
1905年(24歳)ボローニャでの学習を継続。ダル・オリオの死後、ドイツのベルリンへ移動。シュテルン音楽院入学 。
1906年(25歳)ベルリンにてマルティン・クラウザに師事。ピアノ技巧を極める。友人たちの勧めでメキシコ民謡に目覚める。12月にメキシコ帰国 。
1908年(27歳)メキシコシティに戻り、国立音楽院のピアノ科教授に就任。リカルド・カストロの後任 。
1909年(28歳)ピアノ、音楽史を教授。ピアノ曲『メキシコ風スケルツィーノ』作曲 。
1910年(29歳)メキシコ独立100周年記念のコンクールで審査員。国民主義的思想が強まる。『ロマンティックな協奏曲』作曲 。
1912年(31歳)7月7日、記念碑的な自作演奏会を開催。ピアノ協奏曲初演。名曲『エストレリータ』が誕生 。
1913年(32歳)講演「メキシコの音楽と歌」を実施。国民主義学派の理論的支柱となる 。ピアノ曲『ガボッタ』 。
1914年(33歳)『エストレリータ』を含む歌曲集出版。ピアノ曲『メキシコのバラード』初演 。
1915年(34歳)メキシコ革命の戦火を避け、キューバのハバナへ亡命。2年間滞在。現地の音楽を研究 。
1916年(35歳)ニューヨークでの自作演奏会。不当な酷評を受け、対米感情が悪化。ピアノロールへの録音開始 。
1917年(36歳)メキシコへ帰国。9月3日、フランス人歌手クレメンティーナ(クレマ)・マウレルと結婚 。
1918年(37歳)雑誌『メキシコ音楽雑誌』創刊。音楽評論家・音楽学者としての活動を本格化 。
1923年(42歳)ギタリスト、アンドレス・セゴビアのメキシコ初リサイタルを聴く。深い交流が開始。ギター曲『ソナタ・メキシカーナ』 。
1925年(44歳)42歳にして再度の渡欧。パリのエコール・ノルマルでポール・デュカスに師事。現代技法を追求 。
1926年(45歳)デュカスの指導の下、様式を刷新。セゴビアの依頼でギター曲を量産。『主題、変奏と終曲』 。
1927年(46歳)ギターのための『ソナタ第3番』。ヤッシャ・ハイフェッツが『エストレリータ』を編曲し世界的にヒット 。
1928年(47歳)セゴビアの要望によりバロック風過去作の偽称曲(パスティーシュ)執筆。『ソナタ・クラシカ』 。
1929年(48歳)ギターのための『フォリアの主題による変奏曲とフーガ』。ヴァイス風『組曲イ短調』。ピアノ曲『左手のための前奏曲とフーガ』 。
1930年(49歳)ギターのための『ソナタ・ロマンティカ(シューベルトへのオマージュ)』作曲 。
1932年(51歳)ギターのための『マズルカ』、『南のソナチネ』完成。パリ滞在の集大成 。
1933年(52歳)メキシコへ帰国。国立大学(UNAM)や国立音楽院で指導的立場に復帰。現代的様式を導入 。
1934年(53歳)メキシコ交響楽団顧問。国立音楽院院長(または督学官)に任命される 。
1935年(54歳)ギターとチェンバロのための作品を執筆。セゴビアの結婚を祝う 。
1940年(59歳)交響詩『祝祭(Ferial)』完成。民俗楽器の音色を管弦楽で再現。メキシコ芸術の深化 。
1941年(60歳)ウルグアイのモンテビデオにてギター協奏曲『南の協奏曲』をセゴビアが初演。ポンセ自身が指揮 。
1943年(62歳)ヘンリク・シェリングに捧げた『ヴァイオリン協奏曲』完成。チャベス指揮、シェリング独奏で初演。国立音楽院院長 。
1945年(64歳)国立音楽学校(Escuela Nacional de Música)校長に任命。教育の最終的な改革に着手 。
1947年(66歳)メキシコ政府より「国家科学芸術賞」を受賞。作曲家として初の快挙 。
1948年(67歳)4月24日、尿毒症のためメキシコシティにて永眠。著名人の回転木馬に埋葬。最後の作品はカベソンの主題による変奏曲 。
演奏者情報

ロドルフォ・リッテル(ピアノ)
【生地】
◆1977年、メキシコシティで誕生したドイツ系メキシコ人。
【賞歴】
◆第4回アンヘリカ・モラレス=ヤマハ全国ピアノコンクール、第1回リスト=パルナッソス国際ピアノコンクールで金メダル、そして特別賞も受賞。第1回パルナッソス国際ピアノコンクール(2003)で第1位。
【仕事】
◆ソロと室内楽の両方で活動し、フランス、ドイツ、デンマーク、スペイン、アメリカ、オーストリア、イタリア、イスラエル、カナダ、キューバ、エクアドルなどで演奏。ピアノ協奏曲レパートリーは40曲以上。また、ヤマハ・アーティストでもあります。
◆教育者としては、パナメリカーナ大学国立音楽院教授のほか、ローザンヌ高等音楽院、ジュネーヴ高等音楽院、ブロワ音楽院、グロ・ド・ヴォー音楽院などで客員教授として教えています。
【録音】
◆CDは、Brilliant Classics、Toccata Classics、Sterling、Conacultaなどから発売。
トラックリスト (収録作品と演奏者)
CD [60'24]
マヌエル・ポンセ(1882-1948)
1. メキシコ狂詩曲 第1番 [7'05]
2. ヘンデルの主題による前奏曲とフーガ [5'40]
3. メキシコの主題による変奏曲 [3'10]
4. ガヴォットとミュゼット [3'39]
5. 連結された前奏曲集 [6'36]
6. ドビュッシー風スケルツィーノ [3'04]
7. メキシコ風スケルツィーノ [1'57]
8. マヤ風スケルツィーノ [0'53]
9. マヤの歌 [1'00]
10. 左手のための前奏曲とフーガ [4'25]
11. ガヴォット [3'49]
12. 悲しみの神秘 [0'54]
13. それでもなお(左手のためのダンス) [3'24]
14. ゆっくりとしたワルツ「情熱的に」 [3'21]
15. 葬送行進曲 [1'03]
16. 悲しみの瞬間 [1'53]
17. メキシコの子守歌(ラ・ランチリタ) [2'41]
18. 伝説 [5'12]
ロドルフォ・リッター(ピアノ)
録音:2021年9月4日
場所:メキシコシティ、芸術宮殿(パラシオ・デ・ベジャス・アルテス)大ホール
Track list
PCL10367
MANUEL M. PONCE 1882-1948
PIANO MUSIC · VOLUME 1
Rapsodia Mexicana No.1 7'05
2 Preludio y fuga sobre
un tema de Handel 5'40
3 Tema Mexicano variado 3'10
4 Gavota y museta 3'39
5 Preludios encadenados 6'36
6 Scherzino a Debussy 3'04
7 Scherzino Mexicano 1'57
8 Scherzino Maya 0'53
9 Canto Maya 1'00
10 Preludio y fuga para
la mano izquierda sola 4'25
11 Gavota 3'49
12 Misterio doloroso 0'54
13 Malgré tout (Danza para
la mano izquierda) 3'24
14 Vals lento
"Apasionadamente" 3'21
15 Marcha fúnebre 1'03
16 Momento doloroso 1'53
17 Arrulladora Mexicana
(La Rancherita) 2'41
18 Leyenda 5'12
Rodolfo Ritter piano
Recording: 4 September 2021 in the Sala Principal del Palacio de Bellas Artes, Mexico City