CD Import

Songs : Eleni Lydia Stamellou(S)Alexandra Listova(P)

Weill, Kurt (1900-1950)

Item Details

Genre
:
Catalogue Number
:
BRL97704
Number of Discs
:
1
Format
:
CD
Other
:
Import

Product Description


クルト・ワイルの名旋律を美声クラシカル歌唱で堪能できるアルバム

クルト・ワイル:ソング集
スタメルー(ソプラノ)、リストヴァ(ピアノ)

 概要

◆クルト・ワイルの波乱万丈な後半生を、彼が移り住んだベルリン、パリ、アメリカという3つの都市の足跡に沿って辿る年代記的な作品集。ソプラノのエレニ・スタメルーは、昔のやさぐれた場末的なワイル像とはまったく異なるピュアなクラシカル歌唱で、ワイルの魅力に別な角度から迫っています。ワイルはもともとフンパーディンクとブゾーニの門下で、歌劇場の人間でもあったので、クラシカルなアプローチも理にかなっていますし、実際、このアルバムではワイルのメロディー・メーカーぶりがよく伝わるリート的な美しさが際立ってもいます。
【収録作品】
◆1920年代のベルリン時代から、ナチスを逃れたパリ時代、そして新天地アメリカでのブロードウェイ時代まで、ワイルの多様な作品を収録。
◆ベルリン時代:ベルトルト・ブレヒトとの協力関係から生まれた「三文オペラ」や「マハゴニー市の興亡」からの曲。鋭い社会風刺とジャズの語法が融合した独自のスタイル。「アラバマ・ソング」「性的依存のバラード」など。
◆パリ時代:フランス語によるシャンソン。哀愁漂う旋律と、亡命者の孤独を投影した作品群。「ユーカリ」「あんたなんか愛してない」など。
◆アメリカ時代:ミュージカル黄金期を支えた洗練されたメロディ。英語詞による華やかな、あるいは内省的な楽曲。「セプテンバー・ソング」「スピーク・ロウ」など。

【演奏者】
◆エレニ・リディア・スタメルー(ソプラノ):アテネ出身で、歌手のアリキ・カヤログルーの娘。主な活動分野はルネサンス音楽と現代音楽、オペラで、ロシアのペルム・オペラ・バレエ劇場のソリストとして、テオドール・クルレンツィスの指揮のもと、「コジ・ファン・トゥッテ」のデスピーナ、「フィガロの結婚」のバルバリーナ、「カルメン」のフラスキータなど、数々の役で出演。
◆アレクサンドラ・リストヴァ(ピアノ):2016年にサンクトペテルブルク国立音楽院を卒業し、モスクワ現代音楽アンサンブルのワークショップにも参加。以後、musicAeternaオーケストラに在籍しながら、数々の現代系のコンサートやフェスティヴァルで活動。
【録音】
◆2024年3月から6月にかけてサンクトペテルブルクのペテルブルク・レコーディング・スタジオで収録。1959年に設立されたレコーディング・スタジオで、1964年から1989年までの25年間はメロディア社が所有していました。

【製品仕様】
◆ケースは10mm厚のポリスチレン製(ジュエルケース)。付属ブックレット (英語・12ページ)には、Gramophone誌やStrad誌でもおなじみのピーター・クァントリルによる解説などが掲載。EU製で、ディスクはメジャー・レーベルでもおなじみの独オプティマル・メディアが製造。

 Brilliant Classics & 関連レーベル

Brilliant ClassicsPiano ClassicsBerlin ClassicsNeue Meister


 演奏者情報


エレニ・リディア・スタメルー (ソプラノ)
【生地】
◆ギリシャ、アテネ生まれ。

【学業】
◆アテネ音楽院(アテネ):ピアノをL. エロディアドゥ、A. ヴァティキオティに師事。声楽をF. ヴツィノスに師事。
◆フライブルク音楽大学(ドイツ):M. ゴリツキに師事。
◆ウィーン国立音楽大学(オーストリア):エラスムス奨学生として留学。
◆G.B. マルティーニ音楽院(イタリア、ボローニャ):オナシス財団の奨学生としてオペラを専攻(大学院課程)。
◆サン・ピエトロ・ア・マイエッラ音楽院(イタリア、ナポリ):バロック音楽を専攻。
◆ステラ・アドラー・スタジオ(アメリカ、ニューヨーク):演劇を専攻。
◆ペルミ芸術アカデミー(ロシア):演劇を専攻。
◆マスタークラス:エッダ・モーザー、テレサ・ベルガンサ、クリスタ・ルートヴィヒ、他。

【賞歴】
◆フェルッチョ・タリアヴィーニ国際声楽コンクール(オーストリア):第2位受賞。審査委員長はジョーン・サザーランド。

【仕事】
◆ギリシャ国内の主要ホール(アテネ・コンサートホール等)での公演、および国際的なフェスティヴァルへの出演のほか、ドイツ、スペイン、アメリカ、ロシア、キューバでもリサイタルを行っています。
◆テオドール・クルレンツィス率いるアンサンブル「musicAeterna」のメンバー。ロシアのペルミ国立オペラ・バレエ劇場のソロ・ソプラノ歌手。
◆「コジ・ファン・トゥッテ」のデスピーナ、「フィガロの結婚」のバルバリーナ、「カルメン」のフラスキータ、ディドとエネアス』の第一の魔女と第二の女、ワイルの『ハッピー・エンド』のリリアン・ホリデイ、『月に憑かれたピエロ』のピエロ、ワイルの『三文オペラ』のジェニー、ベリオの『コーロ』、オネゲルの『火刑台上のジャンヌ・ダルク』のソプラノ・ソロなど数々の役で出演。

【録音】
◆CDは、Brilliant Classicsなどから発売。




アレクサンドラ・リストヴァ (ピアノ)
【生地】
◆ロシア生まれ。

【学業】
◆サンクトペテルブルク国立音楽院(ロシア):ピアノ専攻。2016年に卒業。
◆モスクワ現代音楽アンサンブル(MCME)ワークショップ:2021年。現代音楽の演奏法に関するインターンシップを修了。

【仕事】
◆2018年よりアンサンブル「musicAeterna」に参加。オーケストラに在籍しながら、数々の現代系のコンサートやフェスティヴァルで活動。
◆2021年よりサンクトペテルブルクの若手現代音楽アンサンブルである「JUST Ensemble」の一員として演奏し、モスクワ現代音楽アンサンブルのワークショップにも参加。
◆古典から、特殊奏法(ピアノ内部の弦を操作するなど)を伴う最先端の現代音楽までをカバー。

【録音】
◆CDは、Brilliant Classicsなどから発売。


 トラックリスト (収録作品と演奏者)

CD [59'21]
◆歌劇「マハゴニー市の興亡」より(1927)
1. アラバマ・ソング [3'28]

◆夜勤の相棒(1942)
2. [2'46]

◆「三文オペラ」より(1928)
3. 性的依存のバラード [2'32]

◆あんたなんか愛してない(1933)
4. [4'22]

◆劇音楽「マリー・ギャラント」より(1934)
5. アキテーヌの王様 [2'34]

◆劇音楽「マリー・ギャラント」より(1934)
6. 天の列車 [7'16]

◆ミュージカル「ニッカーボッカー・ホリデイ」より (1938)
7. セプテンバー・ソング [3'44]

◆劇音楽「ジョニー・ジョンソン」より(1936)
8. ジョニーズ・ソング [4'14]

◆ミュージカル「星空に消えて」(1949)
9. ステイ・ウェル [3'51]

◆ミュージカル「ヴィーナスの接吻」より(1943)
10. スピーク・ロウ [2'38]

◆兵士の妻は何をもらったもの(1942)
11. [3'47]

◆ナナの歌(1939)
12. [4'08]

◆ソロモン・ソング(1929)
13. [4'29]

◆ポツダムの樫の木の下で(1928)
14. [2'29]

◆劇音楽「マリー・ギャラント」より(器楽曲:1934 / 歌曲化:1946)
15. タンゴ・ハバネラ「ユーカリ」 [6'46]
エレニ・リディア・スタメルー(ソプラノ)
アレクサンドラ・リストヴァ(ピアノ)

録音:2024年3-6月
場所:ロシア、サンクトペテルブルク、ペテルブルク・レコーディング・スタジオ

 Track list

KURT WEILL 1900-1950
Songs

1. Alabama Song (1927) 3'28
2. Buddy on the Nightshift (1942) 2'46
3. Die Ballade von der sexuellen Hörigkeit (1966) 2'32
4. Je ne t'aime pas (1933) 4'22
5. Le roi d'Aquitaine (1934) 2'34
6. Le train du ciel (1934) 7'16
7. September song (1938) 3'44
8. Johnny's Song ('To love you and to lose you') (1936) 4'14
9. Stay Well (1949) 3'51
10. Speak low (1943) 2'38
11. Und was bekam des Soldaten Weib? (1942) 3'47
12. Nanna's lied (1939) 4'08
13. Salomon-Song (1929) 4'29
14. Zu Potsdam unter den Eichen (1928) 2'29
15. Youkali (1946) 6'46

Eleni Lydia Stamellou soprano
Alexandra Listova piano

Recording: March-June 2024, Petersburg Recording Studio, St Petersburg, Russia



 作曲者情報


 概要

クルト・ワイル(クルト・ユリアン・ヴァイル)(作曲家、指揮者、ピアノ奏者)
【生地】
◆ドイツ帝国 アンハルト公国 デッサウでユダヤ教徒(改革派)の家庭に1900年3月2日誕生。
◆家族:父アルベルト・ヴァイル(ユダヤ教会のカントル、作曲家)、母エマ(旧姓:アッカーマン)。4人兄弟の3男。1926年に女優ロッテ・レーニャと結婚(1933年離婚、1937年再婚)。
◆国籍:1900-1935年がドイツ、1935-1943年がナチによる剥奪で無国籍、1943-1950年がアメリカ。
【学業】
◆デッサウ劇場のアルベルト・ビング(フンパーディンクの弟子)に、ピアノ、作曲、理論を師事。1912年(12歳)より。
◆ベルリン音楽院(現ベルリン芸術大学):1918年(18歳)入学。エンゲルベルト・フンパーディンク(作曲)、フリードリヒ・コッホ(対位法)、ルドルフ・クラッセルト(指揮)に師事。
◆プロイセン芸術アカデミー(現ベルリン芸術大学):1921-1923年(21-23歳):の作曲マスタークラス。ブゾーニとヤルナッハに師事。

【仕事】
◆デッサウ・フリードリヒ劇場:1919年7月(19歳)、コレペティートアとして契約。10月に音楽監督に就任したクナッパーツブッシュに攻められ12月に退職。
◆リューデンシャイト市立劇場:1920年(20歳)、指揮者として契約。住居付き月給制の雇用。
◆ベルリンで作曲活動開始:1921年(21歳)、本格的に活動開始。
◆オペラ「主役(プロタゴニスト)」:1924年(24歳)、劇作家ゲオルク・カイザーと協力。最初の成功作。
◆ベルトルト・ブレヒトとの共同作業:1927年(27歳)に開始。
◆1933年(33歳):ナチス政権誕生に伴いフランスへ亡命。パリに居住。
◆1935年(35歳):ドイツ国籍を剥奪。ロンドンを経てアメリカ合衆国へ移住。ニューヨークに居住。
◆1935-1950年(35-50歳):ブロードウェイを中心に活動。パラマウント映画や劇作家ギルド等との契約。高額な印税収入による経済的成功。
◆1943年(43歳):アメリカ合衆国市民権を取得。

【没地】
◆1950年4月3日:ニューヨークのフラワー病院で死去。死因は心筋梗塞。


 生地・幼少期

◆1900年3月2日、ドイツ帝国アンハルト公国の首都デッサウで、ユダヤ系の家庭に誕生。デッサウはベルリンの南西約110q、ライプツィヒの北約50qに位置するプロテスタントの町ですが、ユダヤ人も多く住み、メンデルスゾーンの祖父モーゼスの故郷でもあります。
◆父アルベルト・ヴァイルはデッサウのシナゴーグでカントール(詠唱者)を務める音楽家であり、母エマもまた文化的な素養を備えた人物でした。四人兄弟の三男として生まれたクルトは、幼少期から厳格なユダヤ教の伝統と、豊かな音楽的環境の中で成長。
◆当時のデッサウは「北のバイロイト」と称されるほど劇場の活動が盛んであり、ヴァイルは幼い頃からワーグナーのオペラや古典的な演劇に親しむ機会を得ました。
 学業

◆1912年、12歳でピアノのレッスンを開始。
◆1913年、13歳で最初の現存作品である「私の住処―ユダヤの婚礼の歌」を作曲。
◆1915年、デッサウ公立劇場の指揮者アルベルト・ビング(Albert Bing)に師事し、ピアノ、作曲、理論、指揮の基礎を徹底的に叩き込まれました。
◆1918年、デッサウの高等実科学校を卒業。
◆1918年、ベルリン音楽院に入学し、エンゲルベルト・フンパーディンクに作曲を師事。
◆1919年、戦後のインフレで実家に経済的な余裕がなくなったため、ベルリン音楽大学を退学して実家に帰還。
◆1921年、ベルリンのプロイセン芸術アカデミーでブゾーニのマスタークラスに入り、1923年までフェルッチョ・ブゾーニとフィリップ・ヤルナッハに師事。
 劇場仕事

◆1919年7月、故郷のデッサウ・フリードリヒ劇場と契約。コレペティートア。
◆1919年10月、デッサウ・フリードリヒ劇場の音楽監督にハンス・クナッパーツブッシュが就任。クナッパーツブッシュは、前任地のライプツィヒ歌劇場で音楽総監督オットー・ローゼによりリハーサルを制限されていたため、デッサウでは心機一転、きちんとしたリハーサルをおこなって公演を仕上げることを目指します。
◆しかし、頼みの綱でもあるコレペティートアが、ベルリン音楽院から故郷デッサウに戻って間もないクルト・ワイル19歳ということで、まだ頼りなく、実際にミスもして、クナッパーツブッシュを怒らせてしまいます。怒った時の口汚い下品さと抑制の効かなさには定評のあるクナッパーツブッシュですが、すでに31歳かそこらでその境地に達していたのか、クルト・ワイル少年は耐えきれずに11月末に退職。
◆1919年12月、無職となったワイルがベルリンのエージェントに連絡をとったところ、リューデンシャイトの小劇場がカペルマイスターを探していることを知ってすぐに契約。リューデンシャイトはケルンの北東約50qに位置するカトリックの山の町。
◆1919年12月、ただちにリューデンシャイトで働き始め、到着後間もなく「マルタ」を上演。客席数500の小劇場ということで、オーケストラの楽員も25人しかおらず、19歳のワイルはスコアの情報をなるべく漏らさぬように小編成に書き換える作業もおこなうなど大活躍。その頭の回転の速さのおかげで、レパートリーはオペレッタからワーグナーまで拡大。しばらくは市長の家の家具付きの部屋が与えられるなど厚遇され、報酬も月額400マルクに上昇。
◆しかし公演の成功と共にスケジュールも過密になり、週に数回の指揮が常態化、ひどいときは、日曜の昼に「こうもり」、夜に「カヴァレリア・ルスティカーナ」、月曜の昼に「ジプシー男爵」、夜に新作オペレッタの初演といった具合で、これでスコアの部分編曲、歌手のコーチ、リハーサル、指揮をこなすことは、ワイルの劇場的な能力を急激に高めはしたものの、ストレスも最大化されることになります。
◆1920年5月、激務に耐えかねたワイルは、スッペの「10人の乙女と男不在」(下の画像。前列中央左がワイル)を最後に辞任。わずか半年間という短い期間で小劇場のノウハウと魅力を熟知したワイルは、後年、「リューデンシャイトで私は、劇場こそが自分の領域であることにようやく気がつきました。」と語っています。

 ブゾーニ門下での研鑽

◆1921年、ベルリンのプロイセン芸術アカデミーに開設されたフェルッチョ・ブゾーニのマスタークラスに参加し、1923年まで継続。ブゾーニは「若き古典性」を提唱し、後期ロマン派的な過剰さを排した明晰な形式美を追求していました。この出会いが、ワイルの音楽的アイデンティティを確立させる決定的な要因ともなり、交響曲第1番や弦楽四重奏曲第1番など、器楽の分野で優れた成果を上げたことで、ブゾーニはワイルを高く評価し、クラスの中で彼を特別な存在として扱いました。また、ブゾーニの弟子のフィリップ・ヤルナハからは対位法を学んでもいます。
◆この時期、ヴァイルはハンス・アイスラーやシュテファン・ヴォルペらと共に、左派的な芸術家集団「11月グループ」に参加します。これにより、彼の芸術観は前衛的であると同時に、社会との関わりを重視する方向へと明確にシフトしていきました。

 ロッテ・レーニャとの出会い

◆1924年、ワイルのキャリアに重要な転機が訪れます。表現主義の左翼的劇作家ゲオルク・カイザーとの出会いです。カイザー宅で、若いオーストリア人女優ロッテ・レーニャと出会ったことは、ワイルの人生に大きな影響を及ぼすことになり、カイザーの台本も、2年後の初のオペラ成功作を生み出すことにも繋がります。
◆1926年1月、ロッテ・レーニャと結婚。
◆1926年3月、カイザーの台本による一幕物のオペラ「主役(プロタゴニスト)」が、フリッツ・ブッシュ指揮ザクセン州立歌劇場により初演され、ワイルは「ドイツで最も期待される若手オペラ作曲家」と評価されます。


 ブレヒトとの黄金時代と衝突

◆1927年、ワイルは左翼的劇作家ベルトルト・ブレヒトとの共同作業を開始。以後、現代音楽劇の傑作を次々と生み出すこととなりましたが、それは時に激しい衝突を伴うものでもありました。最初の成果は、同年にバーデン=バーデン音楽祭で上演された「マハゴニー・ソングシュピール」(2年後に「マハゴニー市の興亡」に発展)でした。これはブレヒトの詩集「家庭用説教集」に基づいたもので、ジャズやポピュラー音楽の語法を取り入れた新しい歌曲形式を世に示しました。
◆1928年8月31日、ベルリンのシッフバウアーダム劇場で「三文オペラ」が初演されます。ジョン・ゲイの「乞食オペラ」を翻案したこの作品は、痛烈な社会批判と、キャッチーなワイルの音楽が融合して大きな成功を収め、女優ロッテ・レーニャが演じたジェニー役の退廃的な歌唱は、ワイマール共和政文化の象徴ともなりました。当時のベルリンでは、左派勢力の勢いが強く、「三文オペラ」も2年間で400回上演されるほどの大ヒットとなり、ドイツで国民社会主義政権が誕生するまでの5年間にヨーロッパ全土で1万回(!)を超える上演数を記録しています。
◆世界大恐慌の影響がドイツでも深刻になった1930年、大規模なオペラ「マハゴニー市の興亡」がライプツィヒで初演されます。金銭が支配する架空の都市を描いたこの作品は、右派団体による組織的な妨害を受け、上演が中止に追い込まれるなどの騒乱を引き起こしました。これは、国民社会主義政権台頭の予兆ともなる出来事でした。
◆ブレヒトとの関係も悪化の一途をたどり、ブレヒトは音楽を言葉に従属させることを求め、ワイルは音楽自体の自律性と情緒的な力を主張しました。2人は罵声を浴びせ合うほどに対立し、1930年の「イエスマン(ヤザガー)」を最後に、緊密な協力関係は解消されています。

 パリ

◆1933年3月21日、ゲシュタポに追われていることを知ったワイルはパリに逃亡。これによりワイルのドイツ国内の銀行口座は凍結されます。パリではオテル・ジャコビで数日過ごしたのち、パトロンの貴族の邸宅や所有家屋に滞在。なお、レーニャとの夫婦関係は1932年には崩壊しており、離婚手続きはレーニャがベルリンで9月におこなっています。
◆1933年、ブレヒトと一時的に再会し、ジョージ・バランシンのバレエ団のために「七つの大罪」を制作。
◆1934年、劇音楽「マリー・ギャラント」作曲。器楽ナンバーのタンゴ・ハバネラ「ユーカリ」は戦後に歌詞が付けられて有名になります。
 ロンドン

◆1934年5月、ワイルはロンドンへ渡り、パトロンのエドワード・ジェームズ邸に滞在。
◆1935年、ロンドンでオペレッタ「牛の売買」を上演。批評家からは評価が高かったものの興行収入は伸び悩み2週間で打ち切り。

 アメリカ

◆1935年9月10日、ワイルはロッテ・レーニャと共にニューヨークに到着。
◆ミュージカル「ニッカーボッカー・ホリデイ」初演。ヒット曲「セプテンバー・ソング」誕生。
◆1941年、ミュージカル「闇の女(レディ・イン・ザ・ダーク)」によりブロードウェイで成功。精神分析をテーマにした画期的な作品。
◆1941年、ニューシティに「ブルック・ハウス」を購入。敷地面積約6万平米。
◆1943年8月27日、アメリカ市民権を取得。
◆ミュージカル「ヴィーナスの接吻」初演。大ヒット。
◆1947年、アメリカン・オペラ「街の風景(ストリート・シーン)」は、エルマー・ライスの戯曲に基づき、ニューヨークの裏通りの悲劇を描いた傑作。
◆1949年、ミュージカル・ドラマ「星空に消えて(ロスト・イン・ザ・スターズ)」では、南アフリカのアパルトヘイト問題を扱っています。
◆1950年、ワイルはマックスウェル・アンダーソンと共に、マーク・トウェインの「ハックルベリー・フィン」に基づく新作の準備中に心臓発作に見舞われ、4月3日に50歳で死去しています。

 年表

ドイツ(1900年–1933年)

1900年(0歳)
◆3月2日、ドイツ、アンハルト公国デッサウのユダヤ教徒の家庭に誕生。
◆父はカントール。

1912年(12歳)
◆ピアノ・レッスンと作曲を開始。

1913年(13歳)
◆「Mi Addir: Jewish Wedding Song」を作曲。

1915年(15歳)
◆デッサウ劇場の指揮者アルベルト・ビングに師事。ピアノ、理論、指揮、作曲。

1918年(18歳)
◆ベルリン高等音楽学校に入学。エンゲルベルト・フンパーディンクに師事。

1919年(19歳)
◆学業を一時中断。
◆デッサウ劇場。コレペティートル。
◆リューデンシャイト劇場。指揮者。

1920年(20歳)
◆合唱幻想曲「シュラミト」、歌曲「静かな街」、チェロ・ソナタ。

1921年(21歳)
◆フェルッチョ・ブゾーニのマスタークラスに入学。
◆フィリップ・ヤルナハに対位法を師事。
◆「交響曲第1番」。

1922年(22歳)
◆パントマイム「魔術の夜」初演。11月グループに参加。
◆器楽曲「ディヴェルティメント」、「シンフォニア・サクラ」。

1923年(23歳)
◆「弦楽四重奏曲第1番」、「フラウエンタンツ」、「レコルダーレ」。
◆マスタークラス修了。

1924年(24歳)
◆劇作家ゲオルク・カイザー、女優ロッテ・レーニャと交流。
◆音楽評論家としても活動。
1925年(25歳)
◆「ヴァイオリンと吹奏楽のための協奏曲」初演(パリ)。
◆歌曲集「時祷書」。

1926年(26歳)
◆1月、ウィーン生まれのカトリック教徒、ロッテ・レーニャ(本名:カロリーネ・ウィルヘルミーネ・シャルロッテ・ブラマウアー)と結婚。ロッテはユダヤ教への回収を拒んだため、宗教色の無い民事婚となり、ワイルの実家とは疎遠になります。
◆3月、オペラ「主役(プロタゴニスト)」初演(ドレスデン)。大成功。

1927年(27歳)
◆「ロイヤル・パレス」初演。
◆ベルトルト・ブレヒトとの初共作「マハゴニー・ソングシュピール」初演。

1928年(28歳)
◆「ベルリン・レクイエム」、「ツァーリ、写真を撮る」。
◆8月31日、「三文オペラ」初演。世界的なブームに。

1929年(29歳)
◆「ハッピー・エンド」、「リンドバーグの飛行」
◆「三文オペラ」映画化権訴訟。

1930年(30歳)
◆オペラ「マハゴニー市の興亡」初演(ライプツィヒ)。ナチスによる妨害暴動発生。
◆ヒトラーがアウクスブルクでの演説で反ナチ文化人を非難。小説家のトーマス・マン、科学者のアルベルト・アインシュタイン、そしてワイルの名も挙げられていました。ワイルはそのとき偶然アウクスブルクに滞在しており、群衆の様子を観察しています。
◆教育オペラ「イエスマン」。

1932年(32歳)
◆オペラ「保証」初演(ベルリン)。
◆社会情勢の悪化により上演制限開始。

1933年(33歳)
◆2月、「銀の湖」初演。上演禁止処分決定。
◆3月、ミュンヘンに滞在し、選挙の結果を待っていましたが、結果はドイツ国民の絶大な支持を得たナチ党の圧勝でした。
◆3月、ゲシュタポがワイルを探しているという情報を得てパリに逃亡。
◆9月、ロッテ・レーニャと離婚。


フランス(1933年–1935年)

1933年(33歳)
◆パリにてバレエ・カントタータ「七つの大罪」初演。
◆ブレヒトとの事実上の決別。

1934年(34歳)
◆「交響曲第2番」初演(アムステルダム)。
◆演劇音楽「マリー・ギャラント」初演(パリ)。

1935年(35歳)
◆ロンドンで「牛の売買」初演。


アメリカ(1935–1950)
1935年(続き)
◆9月、ロンドン経由でロッテ・レーニャと共にアメリカ合衆国へ移住。ニューヨークに到着。
◆ドイツ政府により国籍剥奪。財産没収。
1936年(36歳)
◆反戦演劇「ジョニー・ジョンソン」。アメリカでの本格的な活動開始。

1937年(37歳)
◆聖書劇「永遠の道」初演。
◆8月27日、ロッテ・レーニャと再婚。
◆8月27日、無国籍難民ワイルのアメリカ市民権申請プロセス開始。

1938年(38歳)
◆ミュージカル「ニッカーボッカー・ホリデイ」初演。「セプテンバー・ソング」誕生。

1939年(39歳)
◆ニューヨーク万国博覧会のための「鉄道のパレード」。
◆歌曲「ナンナの歌」。

1940年(40歳)
◆ラジオ・カンタータ「マグナ・カルタのバラード」。

1941年(41歳)
◆ミュージカル「闇の女(レディ・イン・ザ・ダーク)」初演。歴史的なロングランを記録し、ブロードウェイでの地位を確立。
◆ニューヨーク市近郊、ニューヨーク州ロックランド郡ニューシティに「ブルック・ハウス」を購入。敷地面積約6万平米。

1942年(42歳)
◆2月14日、 ◆ランチ・アワー・フォーリーズ等の戦時協力。「三つのホイットマンの歌」。

1943年(43歳)
◆8月27日、アメリカ合衆国市民権を取得。ニューヨークで帰化宣誓。
◆ミュージカル「ヴィーナスの接吻」初演。大ヒット。

1944年(44歳)
◆ハリウッドで映画音楽に従事。映画「どこへ行くの?」。
◆5月5日、ロッテ・レーニャがアメリカ市民権取得。
1945年(45歳)
◆喜歌劇「フィレンツェの火遊び」初演(アイラ・ガーシュウィン共作)。

1946年(46歳)
◆ユダヤ典礼音楽「キドゥシュ」。パーク・アベニュー・シナゴーグにて初演。

1947年(47歳)
◆アメリカン・オペラ「街の風景(ストリート・シーン)」初演。
◆第1回トニー賞作曲賞受賞。

1948年(48歳)
◆ミュージカル「ラヴ・ライフ」。フォーク・オペラ「谷間の下で」。

1949年(49歳)
◆ミュージカル・ドラマ「星空に消えて」初演。最後の完成作。

1950年(50歳)
◆4月3日、ニューヨークにて死去。心不全。
◆墓地はニューシティのハバーストロー・セメタリー。
◆12月30日、父アルベルトがイスラエルのナハリヤで死去。母エマは同地で1955年に死去。

Customer Reviews

Comprehensive Evaluation

☆
☆
☆
☆
☆

0.0

★
★
★
★
★
 
0
★
★
★
★
☆
 
0
★
★
★
☆
☆
 
0
★
★
☆
☆
☆
 
0
★
☆
☆
☆
☆
 
0

Recommend Items