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Iveta Apkalna : Arvo Part & Peteris Vasks

Item Details

Genre
:
Catalogue Number
:
0304475BC
Number of Discs
:
1
Format
:
CD
Other
:
Import

Product Description


北欧最大級のパイプオルガンによるバルトの2巨匠の音

アルヴォ・ペルトとペテリス・ヴァスクスの作品
イヴェタ・アプカルナ(オルガン)


【概要】
◆新たに建造されたオルガンが、世界的なオルガン奏者、イヴェタ・アプカルナと出会います。
◆北欧で最も優れたコンサート楽器の一つであるヴェンツピルス・コンサートホール「ラトヴィア」のオルガンを用いた初のオルガン・ソロ録音です。

【収録作品】
◆ペルト:「鏡の中の鏡」のオルガン編や、ティンティナブリ様式の極致である「アヌム・ペル・アンヌム」など。
◆ヴァスクス: 広大なラトビアの自然と神への祈りが交錯する「ヴィアトーレ(旅人)」と「テ・デウム」。

【演奏者】
◆ラトビア出身のイヴェタ・アプカルナは、伝統的なオルガン奏者の枠を超え、現代音楽の解釈において圧倒的な存在感を示しています。彼女の演奏は、ペルトの静寂の中の緊張感と、ヴァスクスの劇的な爆発力を見事に表現しています。

【録音】
◆2025年7月にラトヴィア、ヴェンツピルス・コンサート ホール「ラトヴィア」で収録。北欧最大級のパイプオルガンを使用しています。


 関連レーベル

Berlin ClassicsNeue MeisterBrilliant ClassicsPiano Classics


 作品情報
 トラックリスト

CD [65'24]

ヴァスクス(1946- )
◆テ・デウム
1991年に作曲。1991年はラトヴィアが独立した年。本来はキリスト教の賛歌である「Te Deum」の形式を借りながら、ヴァスクスはこれをラトヴィア国家の誕生、そして自由への凱旋を祝うための音楽として作曲。世界初演は1991年10月12日にニューヨークで、イングリダ・グトベルガによって実施。
ショット社により1993年8月10日に出版され、以後は各地で演奏されています。

1. [13'06]
荘厳な音が長く鳴り響き、続いて、静寂の中でラトヴィア民謡を思わせる素朴な旋律が奏でられ、鳥のさえずりを模したメシアン風の装飾も散りばめられます 。最後には圧倒的な賛歌へと発展し、希望の中に曲を閉じます 。

ペルト(1935- )
◆パリ・インテルヴァッロ
1976年に作曲 。当初は特定の楽器を指定しない「4声部のための音楽」として書かれていました。ペルトの義父の逝去に際して書かれたもので、。スコアの冒頭には、新約聖書の「ローマ人への手紙」第14章8節の言葉、「私たちは、生きるにしても、主のために生き、死ぬにしても、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」という一節が引用されており、死という不可避な運命を静かに受け入れる信仰告白が込められています 。
  その後、1980年に現在最も一般的に演奏されるオルガン版が制作され、以降、リコーダー四重奏、ピアノ連弾(2008)、チェロ・アンサンブル(2010)など、作曲家自身によって多岐にわたる編曲がおこなわれました 。

2. [07'31]
曲名の「パリ・インテルヴァッロ(等間隔で)」が示す通り、この作品の核心は2つの平行する旋律声部が常に一定の音程間隔を保ちながら進行する点にあります 。これは、生と死、あるいは人間と神が、どのような状況にあっても一定の距離を保ちながら並走しているというメタファーを想起させます。

ペルト(1935- )
◆鏡の中の鏡
1978年に作曲。ソ連の著名なヴァイオリニスト、ヴラジーミル・スピヴァコフからの委嘱作で、ペルトの作品の中で最も広く親しまれているものの一つ。
  世界初演は1978年12月、モスクワ音楽院大ホールで、委嘱者であるスピヴァコフ(ヴァイオリン)とボリス・ベフテレフ(ピアノ)によって実施。
  ユニヴァーサル・エディションより出版され、スピヴァコフに献呈されています 。

3. [08'33]
旋律は中心音「A」から始まり、各フレーズごとに一音ずつ音域を広げては、再び「A」へと戻ってきます 。この中心音への回帰を、ペルトは「離れていた我が家へ帰ること」にたとえています。タイトルの「鏡の中の鏡」は、合わせ鏡が生み出す無限の反射のように、上昇する旋律線が下降する鏡像フレーズによって補完され、永遠に続くかのような構造を指しています 。

ペルト(1935- )
◆アンヌム・ペル・アンヌム
1980年、西ドイツ南西部 ラインラント=プファルツ州にあるシュパイアー大聖堂の創建950周年を記念して、バーデン=バーデン南西ドイツ放送より委嘱され作曲。ペルトのオルガン作品の中でも特に大規模な構成を持ち、建築的かつ儀式的な性格が強い作品です。
  世界初演は1980年10月12日、シュパイアー大聖堂で首席オルガニストのレオ・クレマーによって実施。   ユニヴァーサル・エディションより出版され、シュパイアー大聖堂の守護者である聖母マリア、創建者のコンラート2世、音楽の守護聖人聖チェチーリア、そして初演者のレオ・クレマーの4者に献呈されています 。

4. [08'38]
の頭文字(K, G, C, S, A)を各楽章の題名に冠しています 。
序奏は巨大な和音から始まり、オルガンの送風機を止めることで空気が抜け、音が徐々に消え入るという劇的な効果が用いられます。続いて、カトリックのミサ通常文にちなむ5つの変奏がおこなわれ、コーダでは静寂から始まり、徐々にストップを追加して巨大な響きへと増幅させ手終わります。

ペルト(1935- )
◆トリヴィウム
1976年に作曲。中世の教育体系「自由七科」のうち、言葉に関連する三つの学問(文法、論理、修辞)を指す「三学(トリヴィウム)」をタイトルとしています。これら3つの道が究極的に一つの「真理」へと通じるという概念を音楽化したものです。
  世界初演は1976年10月27日、タリンのエストニア・コンサートホールでロルフ・ウースヴァリにより実施。

5. [08'39]
3つのセクションは全て同じ旋律を用いていますが、音量、レジストレーション、不協和音の扱いの違いによって性格が分けられています。第2セクションは中央に位置し、より複雑な響きを持ちますが、テンポは最初から最後まで一切変わりません。リズム的には、長い持続音と等間隔のパルスが組み合わされています。

ヴァスクス(1946- )
◆ヴィアトーレ(旅人)
アルヴォ・ペルトに献呈され、副題も「アルヴォ・ペルトへのオマージュ」となっており、ヴァスクスが長年尊敬してきたペルトへの感謝の気持ちが込められています。弦楽合奏版が2001年に作曲され、同年にオルガン版も制作。人間の生涯を宇宙的な視点から捉えた、瞑想的かつ感動的な作品です。
弦楽版は、2001年以降、カタリーナ・アンドレアソン指揮スウェーデン室内管弦楽団などによって国際的に演奏されました 。オルガン版については、フィンランドのトゥオマス・ピルホネンによる録音や、リガ大聖堂でのデクスニスによる演奏が決定的な評価を得ています。

6. [18'37]
この世に誕生し、成長し、愛を知り、成熟を経て世界を去っていく人間の物語を描いています。曲は2つの主要な要素で構成されています。一つは「旅人のテーマ」で、これは生命のエネルギーと共に絶えず成長し、変化し、展開していきます 。もう一つは「永遠のテーマ」で、これは背景で常にピアニッシモで奏でられ、星空のように不変の静寂を保ちます 。オルガン版では、この「永遠」の響きを、オルガンの微かなストップやフルート管によって表現し、神秘的な無限空間を現出させています 。

イヴェタ・アプカルナ(オルガン)

録音:2025年7月
場所:ラトヴィア、ヴェンツピルス・コンサート ホール「ラトヴィア」


 演奏者情報

イヴェタ・アプカルナ(オルガン)
【生地】
◆1976年11月30日、ラトヴィアのレーゼクネで誕生。父方の祖父と曾祖父は教職の傍らオルガニストを務めていた家系。5歳でピアノのレッスンを始め、8歳で音楽家になることを決意。1993年のヨハネ・パウロ2世ラトヴィア訪問時は、アグロナス大聖堂の公式オルガニストに選ばれています。

【学業】
◆ラトヴィア音楽アカデミーでピアノとオルガンを学び、1999年に卒業。
◆2000年までロンドンのギルドホール音楽演劇学校でピアノを専攻。
◆2003年までシュトゥットガルト国立音楽大学でオルガンを学んでいます。オルガン科教授のルトガー・ローマン[1954- ]は、シュトゥットガルト、エバーハルト大聖堂のオルガニストでもありました。

【賞歴】
◆オルガン・コンクールで数々の賞を受賞

【仕事】
◆ヨーロッパと北米の有名な教会や大聖堂でコンサートを行うほか、主要なオルガン・フェスティヴァルにも参加、2016年には新たに建設されたハンブルクのエルプフィルハーモニーの首席オルガニストに就任。2017年1月の開場公演で演奏しています。

【録音】
◆CDは、Berlin Classics、Querstand、BR-Klassik、ECM、Claves、IFO、Orfeo、RCO Live、Ondine、Oehms、Acousenceなどから発売。



 作曲者情報

アルヴォ・ペルト(作曲)

エストニアの地と幼少期(1935-1953)
◆1935年9月11日、エストニアのパイデで、父アウグストと母リンダ・アネッテの間に一人息子として誕生。彼が2歳の時に両親は離別し、1938年には再婚した母と共にラクヴェレという小さな町へ転居。
◆ラクヴェレの家庭には、母の再婚相手である義父が持ち込んだピアノがありましたが、この楽器は中音域の鍵盤が故障していました。少年時代のペルトは、この壊れたピアノで鳴らすことができる高音域と低音域の極端な対比を楽しみ、その響きの実験に没頭しました。この「限定された条件の中で音を探求する」という経験が、後に彼が提唱する「音の最小単位への凝縮」という思想の萌芽となった可能性があります。
◆1945年、9歳の時にラクヴェレ音楽学校でイル・マルティンの下で本格的なピアノ学習を開始したペルトは、十代の頃には既に作曲も試みるようになります。
◆ラクヴェレ第1中等学校に入学後は、吹奏楽団でオーボエやフルート、ダンスオーケストラでピアノや打楽器も演奏。

教育、兵役、初期キャリア(1954-1963)
◆1954年、ペルトはより高度な教育を求めて首都タリンへと向かいます。タリン音楽学校ではハッリ・オッツァ、次いで高名な作曲家ヴェリヨ・トルミスに師事しましたが、その学業はソ連軍への兵役義務によって中断されました。◆1954年から1956年にかけての軍役期間中、彼は軍楽隊でオーボエ、打楽器、ピアノを演奏しましたが、この時期に健康上の理由で早期除隊を余儀なくされています。
◆除隊後の1957年、タリン州立音楽院(現在のエストニア音楽演劇アカデミー)に入学した彼は、エストニア音楽界の重鎮ヘイノ・エッレルのクラスで学びます。エッレルの指導スタイルや仕事に対する倫理観、そして高潔な人格は、若きペルトに深い感銘を与えました。この時期のペルトは極めて多産であり、学生でありながら既にプロフェッショナルな作曲家としてのキャリアを歩み始めていました。
◆1958年から1967年にかけて、彼はエストニア放送の音響技師として勤務していました。この職務は、彼に音の微細なニュアンスや録音技術に関する深い洞察を与えただけでなく、演奏家たちがどのように音を作り上げるかという心理的なプロセスを学ぶ貴重な機会となりました。この時期、彼は50本以上の映画や演劇、人形劇の音楽を手がけ、その報酬によって経済的な基盤を確立していきました。

【初期キャリアにおける主な仕事と役職】
◇1954–1956年:ソ連軍軍楽隊員(オーボエ、打楽器、ピアノ)
◇1956–1959年:タリン宮殿劇団(ピアノ伴奏者、子供向け楽曲の作曲)
◇1958–1967年:エストニア放送職員(音響技師、録音監督)
◇1961–1968年:エストニア国立人形劇場(人形劇7作品の音楽制作)
◇1961–現在:エストニア作曲家同盟会員(1961年加入)

ソビエト・アヴァンギャルドとしての台頭と葛藤(1964年-1968年)
◆1960年代、ペルトは「ソビエト・アヴァンギャルド」の旗手の一人として、急速にその名を轟かせました。当時のソ連では、ショスタコーヴィチやプロコフィエフのような社会主義リアリズムに沿った作風が公式に奨励されていましたが、若きペルトは西側諸国から秘密裏に流入する十二音技法(ドデカフォニー)やセリエリズムといった前衛的な手法に強く惹かれていました。
◆1960年に発表された「ネクロログ(死者略伝)」は、エストニアにおける最初の十二音技法を用いた管弦楽曲として歴史に刻まれました。しかし、この先駆的な試みはソ連当局から「西側の退廃的な影響」であるとして激しい糾弾を受けることになります。皮肉なことに、この批判がかえって彼の名を西側諸国に知らしめる結果となりました。◆1963年には、ヴェリヨ・トルミスらと共にワルシャワの秋現代音楽祭に出席し、ルイジ・ノーノなどの前衛作曲家と親交を結び、自らの音楽的言語を研ぎ澄ませていきました。
◆しかし、前衛的な実験を繰り返す中で、ペルトは次第に複雑化する音楽構造に虚無感を感じるようになります。その葛藤が頂点に達したのが、1968年に発表された「クレド」です。この作品は、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」第1巻第1番のプレリュードを美しく引用しながら、それを十二音技法の不協和音で破壊し侵食するという作品で、当局は即座にこの曲の演奏を禁止しています。

8年の沈黙と内省―ティンティナブリ様式の誕生(1969年-1976年)
◆「クレド」の後、ペルトは自らの音楽的言語を完全に失ったと感じ、1968年から1976年までの約8年間、作曲活動をほぼ全面的に停止しました。この期間は「沈黙の時代」と呼ばれますが、実際には後の飛躍のための、極めて濃密な充電期間でした。
◆彼は自らを隠者のように書斎に閉じ込め、単旋律のグレゴリオ聖歌、ノートルダム楽派、そしてルネサンス期のポリフォニー音楽を徹底的に研究しました。彼は「2つ、あるいは3つの音を繋げるという芸術の背後に、宇宙的な神秘が隠されている」と悟り、音楽の「原子」とも言える最小単位にまで遡る旅を続けたのです。
◆1972年、ロシア正教会に入信。宗教との関わりは、彼の音楽に「永遠」という時間軸をもたらしました。そして1976年、彼は一つの小さなピアノ曲「アリーナのために」を携えて、沈黙から帰還します。ここで初めて、彼は自らの新しい音楽言語を「ティンティナブリ(Tintinnabuli、ラテン語で「小さな鈴」の意)」と名付けました。

【ティンティナブリ様式の構造的原理】
ティンティナブリ様式は、極めて厳格かつ数学的なロジックに基づいています。この様式において、楽曲は常に2つの「声部」の対話として構成されます。

1.M声部(Melodic Voice):特定の中心音の周りを、音階に沿ってステップ状に(隣り合う音へ)動く主旋律の声部。
2.T声部(Tintinnabuli Voice):常に主和音(トライアド)の構成音のみを演奏する声部。この声部は、M声部の動きに対して厳密なアルゴリズムに従って配置されます。

ペルトにとって、M声部は人間の不完全な歩みや罪、苦悩を象徴し、T声部は神の永遠の許しや救い、静謐を象徴しています。これら2つが融合することで、音楽は一つの不可分な全体(1+1=1)となり、聴衆に深い瞑想的な体験をもたらすのです。

祖国を離れて―亡命、ウィーン、ベルリンでの生活(1980年-2009年)
◆1970年代後半、ティンティナブリ様式によって生まれた「タブラ・ラサ」や「フラトレス」といった作品は、エストニア国内のみならず、西側諸国でも大きな注目を集め始めました。しかし、彼の音楽の宗教的な性格はソ連当局にとって依然として不快なものであり、家族への圧力も強まっていきました。
◆1980年1月、ペルトは妻ノーラと二人の息子と共に、ソ連を離れることを決意します。建前上はユダヤ系であるノーラの出自を利用したイスラエルへの移住でしたが、実際にはウィーンを経てドイツへ向かう亡命でした。ブレスト駅の国境検問所での緊迫した荷物検査の際、彼は録音テープを没収されそうになりましたが、検問官に「カントゥス」を聴かせることで奇跡的に通過できたという逸話が残っています。
◆ウィーンでの短い滞在を経て、1981年にはDAAD(ドイツ学術交流会)の奨学金を得て西ベルリンに移住しました。以後、約30年間にわたりベルリンを拠点に活動することになります。
◆この時期に重要な役割を果たしたのが、ECMレコードの創設者マンフレート・アイヒャーとの出会いです。アイヒャーはペルトの音楽に深い精神的共鳴を感じ、1984年にアルバム「タブラ・ラサ」をリリースしました。これが世界的な大ヒットとなり、ペルトは「現代で最も演奏される作曲家」としての地位を確立しました。

【賞歴】
◆1962年、全ソ連若手作曲家コンクール第1位(「私たちの庭」に対して)。
◆2008年、レオニー・ソニング音楽賞
◆2011年、フランス・レジオン・ドヌール勲章フランスシュヴァリエ(騎士)
◆2014年、高松宮殿下記念世界文化賞(賞金1,500万円)
◆2017年、ラッツィンガー賞(バチカン神学・宗教芸術への貢献)
◆2020年、BBVA財団フロンティア・オブ・ナレッジ賞(スペイン音楽・現代音楽部門)
◆2023年、ポラー音楽賞。(賞金100万クローナ/約1,400万円)

【年表】

1935年(0歳)
◆9月11日、エストニアのパイデで誕生。父アウグスト、母リンダの唯一の子。

1936年(1歳)
◆エストニア独立共和国の平穏な時期。

1937年(2歳)
◆両親が別離。母リンダと共に生活を始める。

1938年(3歳)
◆母と共にラクヴェレへ移住。母が再婚。義父は看板描き。

1939年(4歳)
◆故障した中音域を持つ古いピアノに親しみ始める。独ソ不可侵条約締結。

1940年(5歳)
◆ソ連によるエストニアの第一次占領。

1941年(6歳)
◆ドイツ軍によるエストニア占領開始。

1942年(7歳)
◆音楽教育の手ほどきを受け始める。

1943年(8歳)
◆ラクヴェレでの戦時下の生活。

1944年(9歳)
◆ソ連によるエストニア再占領。エストニア・ソビエト社会主義共和国の成立。

1945年(10歳)
◆ラクヴェレ音楽学校入学。イル・マルティンにピアノを師事(〜1953年)。

1946年(11歳)
◆初めての作曲の試み(現存せず)。

1947年(12歳)
◆ソ連の検閲体制下での音楽学習。

1948年(13歳)
◆ジダーノフ批判。形式主義への攻撃が始まるが、地方都市では比較的平穏。

1949年(14歳)
◆エストニア人のシベリア強制連行(3月)。社会的不安の中での音楽修行。

1950年(15歳)
◆ラクヴェレ第1中等学校入学。吹奏楽団でオーボエを担当。

1951年(16歳)
◆ダンスオーケストラでピアノと打楽器を演奏。

1952年(17歳)
◆ラクヴェレ音楽学校でピアノ伴奏者としての仕事を始める。

1953年(18歳)
◆3月、スターリン死去。社会にわずかな「雪解け」の兆し。

1954年(19歳)
◆タリン音楽学校に入学、ハッリ・オッツァに師事。数週間後、ソ連軍に徴兵。

1955年(20歳)
◆ソ連軍楽隊員としてオーボエ、打楽器、ピアノを演奏。

1956年(21歳)
◆健康上の理由で除隊。ヴェリヨ・トルミスのクラスで復学。

1957年(22歳)
◆タリン州立音楽院入学。ヘイノ・エッレルに師事(〜1963年)。

1958年(23歳)
◆エストニア放送で音響技師として勤務開始(〜1967年)。
◆作品:「パルティータ」。

1959年(24歳)
◆作品:「ピアノ・ソナチネ第1番」、「子供のためのカンタータ「私たちの庭」」。

1960年(25歳)
◆作品:十二音技法を用いた管弦楽曲「ネクロログ」。当局の批判を浴びる。

1961年(26歳)
◆エストニア作曲家同盟に加入。人形劇音楽の制作を開始。

1962年(27歳)
◆モスクワ若手作曲家コンクール第1位。当局からの評価と批判が交錯。

1963年(28歳)
◆音楽院卒業。
◆作品:「交響曲第1番「ポリフォニック」」、「無窮動」。

1964年(29歳)
◆ワルシャワの秋現代音楽祭出席。
◆作品:「B-A-C-Hによるコラージュ」。

1965年(30歳)
◆「無窮動」がワルシャワで再演、絶賛される。

1966年(31歳)
◆健康問題で長期入院。
◆作品:「交響曲第2番」、チェロ協奏曲「賛と否」。

1967年(32歳)
◆エストニア放送を退職、フリーランスに。
◆作品:「アリーナの癒しにもとづく変奏曲」。

1968年(33歳)
◆「クレド」初演。熱狂と禁止。最初の妻ヒルデとの別離、沈黙の期間へ突入。

1969年(34歳)
◆タリンのレコード店でグレゴリオ聖歌に出会う。古楽の徹底研究を開始。

1970年(35歳)
◆アニメーションやドキュメンタリー映画の音楽制作で生計を立てる。

1971年(36歳)
◆ノーラと再婚。
◆作品:「交響曲第3番」。古楽研究の成果が見え始める。

1972年(37歳)
◆ロシア正教に入信。

1973年(38歳)
◆映画「ウクアル」音楽制作。後に名曲「ウクアル・ワルツ」として知られる。

1974年(39歳)
◆内省の深化。作曲の試行錯誤が続く。

1975年(40歳)
◆極限の単純さを追求する日々。

1976年(41歳)
◆ティンティナブリ様式の確立。
◆作品:「アリーナのために」、「パリ・インテルヴァロ」。

1977年(42歳)
◆驚異的な作曲の年。
◆作品:「タブラ・ラサ」、「フラトレス」、「カントゥス」。次男マイケル誕生。

1978年(43歳)
◆作品:「鏡の中の鏡」、「スンマ」。

1979年(44歳)
◆ソ連当局との対立が激化。亡命を検討し始める。

1980年(45歳)
◆1月、ソ連を離れる。ウィーンへ。
◆作品:「デ・プロフンディス」。

1981年(46歳)
◆DAAD奨学金を得て西ベルリンに移住。

1982年(47歳)
◆バイエルン放送の委嘱により「ヨハネ受難曲(Passio)」を完成。

1983年(48歳)
◆マンフレート・アイヒャー(ECM)との共同作業開始。

1984年(49歳)
◆アルバム「TabulaRasa」(ECM)発売。世界的センセーション。
◆作品:「テ・デウム」。

1985年(50歳)
◆作品:「スターバト・マーテル」。ウィーンでの初演。

1986年(51歳)
◆「ヨハネ受難曲」の英国初演。

1987年(52歳)
◆アルバム「Arbos」(ECM)発売。

1988年(53歳)
◆エジソン賞受賞。
◆作品:「フェスティーナ・レンテ」。

1989年(54歳)
◆作品:「マニフィカト」、「ミゼレーレ」。

1990年(55歳)
◆作品:「ベルリン・ミサ」、「至福」。

1991年(56歳)
◆エストニア独立回復。母国との絆を再構築。
◆作品:「シルーアンの歌」。

1992年(57歳)
◆亡命以来初めてエストニアを訪問。

1993年(58歳)
◆アルバム「TeDeum」発売。国際的な評価がさらに高まる。

1994年(59歳)
◆作品:「連祷(Litany)」。

1995年(60歳)
◆ラクヴェレ名誉市民。

1996年(61歳)
◆作品:「我はまことの葡萄の樹」。アメリカ芸術文学アカデミー名誉会員。

1997年(62歳)
◆作品:無伴奏合唱の大作「痛悔のカノン」。

1998年(63歳)
◆作品:「水を求める鹿のように」。エストニア国章勲章第2級。

1999年(64歳)
◆作品:「聖歌(Cantiquedesdegrés)」。

2000年(65歳)

◆作品:「東洋と西洋(Orient&Occident)」。ヘルデ賞(独)受賞。

2001年(66歳)
◆作品:「ヌンク・ディミティス(今こそ主よ、僕を去らせたまわん)」。

2002年(67歳)

◆作品:「ラメンターテ」。ロンドンでの初演。

2003年(68歳)

◆作品:「イン・プリンチピオ」。クラシックBRIT賞受賞。

2004年(69歳)
◆作品:「主よ、平和を与えたまえ(DapacemDomine)」。

2005年(70歳)
◆ミュージカル・アメリカ「コンポーザー・オブ・ザ・イヤー」。

2006年(71歳)
◆アンナ・ポリトコフスカヤへの哀悼を捧げる宣言。

2007年(72歳)
◆「Dapacem」でグラミー賞受賞。

2008年(73歳)
◆作品:「交響曲第4番「ロサンゼルス」」。レオニー・ソニング音楽賞。

2009年(74歳)
◆アーカイブのエストニア移送開始。エストニア生涯功労賞。

2010年(75歳)
◆エストニアへ完全帰国。アルヴォ・ペルト・センター設立。
◆作品:「アダムの嘆き」。

2011年(76歳)
◆ローマ教皇庁文化評議会委員に任命。

2012年(77歳)
◆エストニア音楽評議会作曲賞。

2013年(78歳)
◆最も演奏される存命の作曲家に選出(3年連続)。

2014年(79歳)
◆日本より「世界文化賞」受賞。アルバム「Adam'sLament」でグラミー賞。

2015年(80歳)
◆映画祭「ペルト&フィルム」開始。
◆作品:「小さな連祷」。

2016年(81歳)
◆オックスフォード大学名誉博士号。

2017年(82歳)
◆バチカンのラッツィンガー賞受賞。

2018年(83歳)
◆10月、アルヴォ・ペルト・センター新社屋開館。

2019年(84歳)
◆ドイツ音楽著作者賞。

2020年(85歳)
◆フロンティア・オブ・ナレッジ賞受賞。パンデミック下の静謐な活動。

2021年(86歳)
◆ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字星章。

2022年(87歳)
◆ルクセンブルク、エストニアの外務省から勲章。

2023年(88歳)
◆ポラー音楽賞受賞(スウェーデン)。
◆作品:「Passio」サックス版。

2024年(89歳)
◆RPSゴールドメダル授与。モナコ、英国からの高い評価。

2025年(90歳)
◆90歳記念祝典。世界各地(エストニア、ニューヨーク、ロンドン、パリ等)で大規模公演。

2026年(91歳)
◆記念イヤーの継続。パリ・フィルハーモニー等での演奏会が予定。



ペテリス・ヴァスクス(作曲)
【生地と家族】
◆1946年4月16日、ラトヴィア・ソビエト社会主義共和国西部の小さな町アイスプーテで誕生。
◆父アルヴィーツ・ヴァスクス(1912-1987)は、ラトヴィア西部のプリエクレおよびアイスプーテの教区で活動したバプテスト派の牧師。第二次世界大戦末期、ソ連の再占領を恐れた多くのラトヴィア人が西側へと逃げ出す中、「困難な時代こそ民衆と共に留まるべき」としてラトヴィア国内に残る道を選んでいます。父は教会内に小規模な楽団を組織。母リュドミラ(歯科医)も聖歌隊のソロ歌手であり、一家全員が楽器を演奏する音楽に溢れた家庭でした。

【教育】
◆幼少期:教会と家庭での指導。
◆1953-1959年:アイスプーテ音楽学校。ピアノ、ヴァイオリン、作曲。
◆1959-1964年:リガのエミリス・ダルジンシュ音楽学校。コントラバス。
◆1964-1970年:ヴィリニュスのリトアニア国立音楽院。コントラバス(ヴィタウタス・セレカ)。
◆1973-1978年:リガのヤーゼプス・ヴィートルス・ラトヴィア音楽アカデミー。作曲(ヴァレンティーンス・ウトキンス)

【仕事】
◆1963-1966年:ラトヴィア国立歌劇場管弦楽団。コントラバス奏者。
◆1966-1969年:リトアニア国立交響楽団。コントラバス奏者。
◆1969-1970年:ラトヴィア・フィルハーモニー室内管弦楽団。コントラバス奏者。
◆1971-1974年:ラトヴィア放送交響楽団(現ラトヴィア国立交響楽団)。コントラバス奏者。
◆1978-1989年:サラツグリーヴァ、ズヴェイニエクツィエムス、イェルガヴァの音楽学校。教師。
◆1989-2019年:リガのエミリス・ダルジンシュ音楽学校。作曲。教師。

【賞歴】
◆1993年:ラトヴィア音楽大賞。
◆1997年:ラトヴィア音楽大賞。
◆1996年:ヘルダー賞。アルフレート・テプファー財団。賞金15,000ユーロ。
◆1996年:バルト議会賞。バルト3国の文化発展への貢献。賞金5,000ユーロ。
◆2000年:ラトヴィア音楽大賞。
◆2020年:ラトヴィア音楽大賞。
◆2011年:終身奨学金。ラトヴィア国家文化資本財団による月額支給決定。
◆2019年:ラトヴィア大統領名誉功労証。国家への献身的貢献に対する表彰。
◆2021年:文化優秀賞。ラトヴィア文化省。弦楽四重奏曲第6番等に対し授与。

【年表】

1946年(0歳)
◆4月16日、ラトヴィア・ソビエト社会主義共和国のアイスプーテで誕生。父アルヴィーツは全ソ連福音主義バプテスト同盟の牧師。

1953年(7歳)
◆地元のアイスプーテ音楽学校に通い始める(-1959年)。

1954年(8歳)
◆ピアノとヴァイオリンの教習を開始。最初の作曲の試み。

1959年(13歳)
◆リガのエミリス・ダルジンシュ音楽学校に入学(-1964年)。コントラバスを専攻。

1961年(15歳)
◆オーケストラ奏者としてのキャリアを開始。

1963年(17歳)
◆ラトヴィア国立歌劇場管弦楽団のコントラバス奏者となる(-1966年)。

1964年(18歳)
◆リトアニア国立音楽院(ヴィリニュス)に入学(-1970年)。ヴィタウタス・セレカに師事。

1966年(20歳)
◆リトアニア国立交響楽団の奏者となる(-1969年)。

1967年(21歳)
◆合唱曲「Golgātaskrusts(ゴルゴタの十字架)」を作曲。

1969年(23歳)
◆ラトヴィア・フィルハーモニー室内管弦楽団。コントラバス奏者(-1970年)。

1970年(24歳)
◆リトアニア国立音楽院を卒業。
◆ソ連軍に招集され兵役に従事(-1971年)。

1971年(25歳)
◆ヴィヤ・ベケレと結婚。長男マティース誕生。
◆ラトヴィア放送交響楽団の奏者となる。

1972年(26歳)
◆長女ローラ誕生。

1973年(27歳)
◆ラトヴィア音楽アカデミーにて作曲を学び始める(師:V.ウトキンス)。

1974年(28歳)
◆作品:「チェロとピアノのためのパルティータ」、「2台のピアノのための音楽」。

1975年(29歳)
◆作品:合唱曲「Mātesaule(母なる太陽)」、木管五重奏と打楽器のための「ChamberMusic」。

1977年(31歳)
◆次女マダラ誕生。「弦楽四重奏曲第1番」、「渡り行く鳥たちのための音楽」。

1978年(32歳)
◆ラトヴィア音楽アカデミーを卒業。
◆サラツグリーヴァ音楽学校等で教師を務める。
◆作品:「チェロのための本」。

1979年(33歳)
◆三女グンデガ誕生。
◆作品:「Cantabileperarchi」、「打楽器協奏曲」。

1980年(34歳)
◆作品:ピアノ曲「Baltāainava(白い風景)」、合唱曲「Skumjāmāte(悲しみの母)」。

1981年(35歳)
◆作品:ピアノ曲「Rudensmūzika(秋の音楽)」、合唱曲「Zīlesziņa(シジュウカラの便り)」。

1982年(36歳)
◆次男パウリス誕生。主要
◆作品:弦楽合奏とピアノのための「Vēstījums(メッセージ)」。

1983年(37歳)
◆弦楽合奏のための「Musicadolorosa」を作曲。

1984年(38歳)
◆作品:「弦楽四重奏曲第2番」、オルガン協奏曲「Cantusadpacem」。

1985年(39歳)
◆作品:ピアノ三重奏曲「エピソードとカント・ペルペトゥオ」、「小さな夏の音楽」。

1986年(40歳)
◆作品:管弦楽曲「Lauda」、無伴奏コントラバス・ソナタ。

1987年(41歳)
◆父アルヴィーツ、死去。75歳。

1988年(42歳)
◆イェルガヴァ音楽学校にて教師を務める。
◆作品:「Musicaseria」、「夕べの音楽」。

1989年(43歳)
◆ダルジンシュ音楽学校の作曲科教師に就任。初めての西欧(ドイツ等)訪問。
◆作品:イングリッシュホルン協奏曲。

1990年(44歳)
◆5月4日、ラトヴィアが独立を宣言。
1991年(45歳)
◆9月6日、ソ連がラトヴィアの独立を承認。
◆作品:「交響曲第1番「声」」、「Paternoster(天にまします父)」。

1993年(47歳)
◆合唱曲「Litene」により、第1回ラトヴィア音楽大賞を受賞。

1994年(48歳)
◆ラトヴィア科学アカデミーの名誉会員となる。
◆作品:「チェロ協奏曲第1番」。

1996年(50歳)
◆ヘルダー賞(ドイツ)、バルト議会賞を受賞。
◆ストックホルム・ニューミュージック音楽祭主賓。

1997年(51歳)
◆「バイオリン協奏曲「遠い光」」をギドン・クレーメルが初演。ラトヴィア音楽大賞を受賞。

1998年(52歳)
◆作品:「交響曲第2番」。

1999年(53歳)
◆作品:「弦楽四重奏曲第4番」(クロノス・クァルテットのために)。

2000年(54歳)
◆「交響曲第2番」により3度目のラトヴィア音楽大賞を受賞。
◆作品:合唱曲「Missa」。

2001年(55歳)
◆王立スウェーデン音楽アカデミー会員に選出。
◆作品:「ピアノ四重奏曲」、「Viatore」。

2002年(56歳)
◆ラトヴィア文化アカデミーの名誉元老となる。
◆作品:「Musicaappassionata」、「Plainscapes」。

2003年(57歳)
◆コントラバス独奏曲「BassTrip」。

2004年(58歳)

◆作品:「弦楽四重奏曲第5番」。カンヌ・クラシカル・アワード受賞。

2005年(59歳)
◆作品:「交響曲第3番」初演(フィンランド)。エストニア白星勲章を受章。

2006年(60歳)
◆管弦楽曲「Sala(島)」、バイオリンと弦楽のための「LonelyAngel」。

2008年(62歳)
◆作品:「フルート協奏曲」、合唱曲「Piedzimšana(誕生)」。

2009年(63歳)
◆管弦楽曲「Credo」、バイオリンと弦楽のための「VoxAmoris」。

2011年(65歳)
◆ペーテリス・ヴァスクス基金を設立。ピアノ三重奏版「Plainscapes」。

2012年(66歳)
◆「チェロ協奏曲第2番「Klātbūtne(存在)」」をソル・ガベッタが初演。

2013年(67歳)
◆合唱曲「TheFruitofSilence(沈黙の果実)」、「CastilloInterior」。

2014年(68歳)
◆弦楽合奏と合唱のための「TheFruitofSilence」初演。

2015年(69歳)
◆作品:「ビオラ協奏曲」、「Musicaserena」。

2016年(70歳)
◆ラトヴィア国家功労賞を受賞。
◆バルト議会賞(2回目)を受賞。

2018年(72歳)
◆アルブレヒト・マイヤーのために「オーボエ協奏曲」を作曲。

2019年(73歳)
◆ダルジンシュ音楽学校を退職。
◆ラトヴィア大統領より名誉外交官・功労証を授与される。

2020年(74歳)
◆「弦楽四重奏曲第6番」および「バイオリン協奏曲第2番「夕べの光」」。4度目のラトヴィア音楽大賞。

2021年(75歳)
◆ラトヴィア文化優秀賞を受賞。
◆75歳記念コンサート開催。

2022年(76歳)
◆カトリックの祈りに基づく合唱曲「ActusCaritatis」。

2024年(78歳)
◆6月に室内楽作品「Adagio」をメジョトネ城にて初演。

2026年(80歳)
◆4月に80歳を迎え、。各地で記念フェスティヴァルや新作初演が予定。



 トラックリスト

CD [65'24]

ヴァスクス(1946- )
◆テ・デウム
1. [13'06]

ペルト(1935- )
◆パリ・インテルヴァッロ
2. [07'31]

ペルト(1935- )
◆鏡の中の鏡
3. [08'33]

ペルト(1935- )
◆アンヌム・ペル・アンヌム
4. [08'38]

ペルト(1935- )
◆トリヴィウム
5. [08'39]

ヴァスクス(1946- )
◆ヴィアトーレ
6. [18'37]
イヴェタ・アプカルナ(オルガン)

録音:2025年7月
場所:ラトヴィア、ヴェンツピルス・コンサート ホール「ラトヴィア」

 Track list

Peteris Vasks
1. Te Deum 13'06

Arvo Pärt
2. Pari intervallo 07'31

Arvo Pärt
3. Spiegel im Spiegel 08'33

Arvo Pärt
4. Annum per annum 08'38

Arvo Pärt
5. Trivium 08'39

Peteris Vasks
6. Viatore 18'37

Iveta Apkalna

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