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- Schoenberg, Arnold (1874-1951)
- Arnold Schonberg Edition : Kirill Petrenko / Berliner Philharmoniker, Patricia Kopatchinskaja, etc. (3CD)(+BD)
CD
Arnold Schonberg Edition : Kirill Petrenko / Berliner Philharmoniker, Patricia Kopatchinskaja, etc. (3CD)(+BD)
Item Details
Catalogue Number
:
BPHR250511
Number of Discs
:
3
Format
:
CD
Other
:
+Blu-ray Disc
Product Description
ベルリン・フィルとキリル・ペトレンコによる待望の新譜が登場!
『アルノルト・シェーンベルク・エディション』
ベルリン・フィルとペトレンコが示す、情熱の肖像
【シェーンベルク・エディション】
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と首席指揮者キリル・ペトレンコによる待望の新譜『Arnold Schoenberg Edition』がリリースされます。3枚組CDとBlu-rayを収めたハードカバー仕様で、シェーンベルク生誕150周年を記念する特別企画として制作されました。
【創作全時代を網羅】
シェーンベルクの創作の全時代を網羅する作品が収録されています。ロマン派的な抒情性を湛えた『浄められた夜』作品4(1943年改訂の弦楽合奏版で演奏)から、十二音技法を用いた『管弦楽のための変奏曲』作品31まで、幅広いスタイルが並びます。さらに、パトリシア・コパチンスカヤをソリストに迎えた『ヴァイオリン協奏曲』作品36、そして稀少な未完オラトリオ『ヤコブの梯子』も収録され、シェーンベルクの音楽的探求の全貌が提示されています。
【ベルリン・フィルとの深い関係】
ベルリン・フィルとシェーンベルクの関係は、1919年1月に『浄められた夜』が初めてベルリン・フィルのプログラムに登場して以来、1923年には『グレの歌』のベルリン初演、1928年には『管弦楽のための変奏曲』の世界初演(指揮:フルトヴェングラー)など、重要な節目を共に歩んできました。現在に至るまで、彼の作品は定期的に演奏されており、両者の深い結びつきがうかがえます。
【誤解を払拭する再提示】
「難解」や「冷たい革新」といった先入観を超えて、シェーンベルクの音楽がいかに情熱と表現欲求に満ちているかを伝えること。それが本エディションの目的です。ベルリン・フィルのメディア代表であるフィリップ・ボーネンとオラフ・マニンガーは序文で、弟子アントン・ヴェーベルンの言葉「Schoenberg's sensibility is of searing ardour(灼熱の情熱)」を引用し、彼の音楽が本質的に「表現への切実な欲求」に根ざしていることを強調しています。
【芸術家としての姿勢とペトレンコの共鳴】
シェーンベルク自身は「芸術家は他人に美しいと思われるために創作するのではなく、自分にとって必要なものを創る」と語っています。この精神は、首席指揮者キリル・ペトレンコの音楽観とも深く共鳴しており、彼にとってもシェーンベルクは学生時代から特別な存在の作曲家であったといいます。
【演奏・映像・解説が多層的に楽しめる総合エディション】
Blu-rayには全作品のコンサート映像が収録されており、『ヤコブの梯子』のDolby Atmosスタジオ品質の音源も収められています。さらに、音楽学者ハーヴェイ・サックスとマルタン・カルテネッカーによる詳細な解説書が付属し、日本語全訳も完備。
デザイン面では、米国アーティストのピーター・ハリーによるハードカバー仕様が採用され、視覚的にも印象的な仕上がりとなっています。(輸入元情報)

【収録情報】
Disc1
シェーンベルク:
1. 浄められた夜 Op.4(弦楽合奏版)
2. 室内交響曲第1番 Op.9
Disc2
3. オラトリオ『ヤコブの梯子』
Disc3
4. 管弦楽のための変奏曲 Op.31
5. ヴァイオリン協奏曲 Op.36
【『ヤコブの梯子』のソリスト、コーラス】
ヴォルフガング・コッホ(バリトン/ガブリエル)
ダニエル・ベーレ(テノール/指名された者)
ヴォルフガング・アプリンガー=シュペルハッケ(テノール/扇動的な男)
ヨハネス・マルティン・クレンツレ(バリトン/奮闘する男)
ギュラ・オレント(バリトン/選ばれし者)
シュテファン・リューガマー(テノール/修道士)
ニコラ・ベラー・カルボーネ(ソプラノ/瀕死の男)
ジャスミン・デルフス(ソプラノ/魂・上方1)
リヴ・レッドパス(ソプラノ/魂・遠方1)
ベルリン放送合唱団
【ヴァイオリン協奏曲】
パトリシア・コパチンスカヤ(ヴァイオリン)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
キリル・ペトレンコ(指揮)
録音時期:2020年8月28日(1)、2024年1月25-27日(2,3)、2023年1月25-27日(4)、2019年3月7-9日(5)
録音場所:ベルリン、フィルハーモニー
録音方式:ステレオ(デジタル/ライヴ)
● Blu-ray
【映像】
CD収録曲全曲のコンサート映像(すべてHD映像)
画面:Full HD 1080 / 60i - 16:9
音声:PCM stereo / Dolby Atmos
Region:ABC (worldwide)
字幕:独、英、日
【音声】
オラトリオ『ヤコブの梯子』スタジオ・クオリティ音源
Pure Audio Dolby Atmos 24-bit / 48kHz
● 付属特典
・ダウンロード・コード
CD全曲のハイレゾ音源(24-bit / 96kHz)をダウンロードするためのURLとそのパスワードが封入されています。
・デジタル・コンサートホール
ベルリン・フィルの映像配信サービス「デジタル・コンサートホール」を7日間無料視聴できるチケット・コードが封入されています。(輸入元情報)

シェーンベルク情報

収録作品・作風の変遷
シェーンベルクの作曲生活は69年に及びますが、習作期を除くと、作風などから4つの時期に分類が可能。このセットに収録された作品は、それぞれの時期から選ばれています。
【ロマン主義】 1898〜1908(10年間/オーストリア、ドイツ)
◆浄められた夜 Op.4
1899年、人気詩人デーメルの作品に触発されて弦楽六重奏曲として作曲。弟子のエゴン・ウェレス(1885-1974)によれば9月の作曲で、シェーンベルク本人は3週間で作曲したと述べていることから、9月にほとんどの部分を作曲し、修正などを経て12月1日に自筆譜が完成したとする説が有力です。シェーンベルクは直前の夏の休暇をオーストリア南部のパイエルバッハにツェムリンスキーと彼の妹マティルデと共に滞在。1917年に弦楽合奏用に編曲し、1943年にその編曲を改訂。シェーンベルク随一の人気曲で多くの収入をもたらすことになったと考えられます。
◆室内交響曲第1番 Op.9
第2子の誕生を9月に控え、幸せだったシェーンベルクにより、1906年7月25日にバイエルン州の景勝地、ロタッハ=イーガンで完成。15人編成のアンサンブルのために作曲し、管楽器の表現力を徹底追及。1914年に管弦楽用にOp.9bとして編曲、1935年にその編曲を改訂。単一楽章の中に通常の交響曲的な要素を織り込んであり、シェーンベルク本人によれば、全体は5つの部分に分けられ、第1部はソナタ(呈示部)で、冒頭から練習番号38まで、第2部はスケルツォで練習番号38から60まで、第3部は展開部で練習番号60から77まで、第4部はアダージョで練習番号77から90まで、第5部は再現部とフィナーレで練習番号90から100までとなっています。

【表現主義】 1908〜1920(12年間/オーストリア、ドイツ)
◆ヤコブの梯⼦
1917年から1922年にかけてのインフレ期に兵役による中断など含めて断続的に作曲。その後、1944年になって少し改訂されるもののそれ以上は進められず、シェーンベルクの没後、未亡人の依頼により戦前の弟子ヴィンフリート・ツィリヒが補筆して第1部が完成。
オーケストラは3管編成でピアノやチェレスタまで含んでおり、クラスターを思わせる轟音から透明なサウンドまで幅広く表現。4群の別働アンサンブルという手法により、交響的間奏曲の最後では、ソプラノが左右に飛び交うなどとても面白い効果をあげています。
筋書きは、人々の魂が、大天使ガブリエリの導きによって神のもとへ昇っていくまでを描いたもので、神智学説と人智学説の奇妙な混交に加え、バルザックやストリンドベリの神秘思想も交えて、「魂の非物質化」に至る道を、祈りや苦闘を織り込んだ形で表しています。

【12音主義】 1920〜1933(13年間/オーストリア、ドイツ)
◆管弦楽のための変奏曲 Op.31
1925年のゲルトルートとの新婚旅行後、10月にヴァイマール共和政下のベルリンに移住し、翌1926年初頭にはプロイセン芸術アカデミーの教授として仕事を始めていたシェーンベルクは、同年5月2日に変奏曲の作曲に着手。しかし、第5変奏のスケッチが紛失したり、他のプロジェクトの作業があったりで中断。1928年にフルトヴェングラーから管弦楽曲の委嘱があり、その際にちょうど作曲中の変奏曲が4分の3ほど出来ていると回答し、同年8月21日に南仏リヴィエラの景勝地ロクブリュヌ=カプ=マルタンで自筆譜を完成。9月20日には浄書が仕上がり、12月2日のベルリン・フィル定期公演で初演されるものの、リハーサル不足もあって公演は失敗。全曲12音技法で書かれた最初の大編成作品で、導入部、主題、9つの変奏、終曲で構成。演奏至難曲。

【多様性】 1933〜1951(18年間/アメリカ)
◆ヴァイオリン協奏曲 Op.36
渡米後の作品。1934年に第1楽章が完成し、1935年に数ページをハイフェッツに送って意見を求め、1936年に第2楽章と第3楽章が完成。新古典主義的な作風で12音技法用いながらも慣れれば親しみやすく、ハイフェッツが初演依頼を辞退したほどのヴァイオリンの超絶技巧も作品の魅力となっています。

シェーンベルクのイメージについて
シェーンベルクの実像
気難しい皮肉屋で、作品は難解で、アメリカでの生活は不幸なものだったとされることの多いシェーンベルクですが、そうしたイメージの醸成には、以下の要素が絡んでいると思われます。
◆発言や手紙の内容
◆顔写真や自画像の表情
これらの要素に対して、さまざまな「解釈」がおこなわれた批評や伝記などの文章が数多く発表され、また、音楽愛好家たちもそれらの要素や紹介文に接することで、シェーンベルクに対して、「気難しい」、「皮肉屋」、「毒舌」、「冷遇」、「不幸」といったイメージが醸成されたと考えられます。

不機嫌そうと言われても
昔の肖像写真や肖像画は、目的や運用コストの問題もあって真面目な表情が一般的なので、シェーンベルクの一見すると不機嫌そうな表情も妥当なものです。

実は愉快で快活な人物
シェーンベルクの場合、スナップ写真やムーヴィー・フィルムでは笑顔が多く、活発な動きと早口でガーシュウィンや仲間たちの前でコメディアンのように演じたりゲラゲラ笑いあったりと、肖像写真や肖像画とは全く異なる姿を見せているのが印象的。半世紀近く音楽教育に関わり、名声も人望も得ていたシェーンベルクの実際の意思疎通能力の高さにはかなりのものがあったようです。

12音技法も音楽史のひとコマ
12音技法誕生から100年以上経ち、近年ではジャンルを超えた作曲技法のひとつとして、ゲーム「ドラゴンクエスト」の音楽や、映画「サブウェイパニック」などでも不安や緊張の表現に効果的に使用されたりしていますが、肝心のクラシック業界では、「難解」、「芸術」、「精神性」といった言葉が紹介時に多用されたこともあってか、かえって敬遠されてしまっているように見えるのは皮肉な話です。
気軽に鑑賞
音楽の印象は人それぞれなので、バロックや古典派、ロマン派作品の場合と同じく、シェーンベルク作品の場合でも、鑑賞者にとって退屈な部分もあれば面白い部分もあるでしょうし、もし気に入った部分があれば、そこが作品攻略の拠点にしやすいという点も同じです。
シェーンベルク自身、音楽がどのように出来ているかを考えるのではなく、表現そのものを聴いて欲しいといった意味のことを言っているので、かまえずに気楽に接するのが何より望ましいということでしょう。
情報不足による誤った通説
昔の音楽業界の文章は、情報入手が不便だったせいか、書き手の想像や気持ち、思い込みにより補うことで不正確になることも多かったため、それらをモトネタにした現在の文章やAI回答でもたまに誤ったままの情報が見受けられるようです。
【誤】58歳の時にキリスト教(カトリック)からユダヤ教に改宗。
【正】23歳の時にユダヤ教からキリスト教(プロテスタント)に改宗し、その後、58歳でユダヤ教に改宗。
【誤】16歳の時に父が急死、3週間後に実科学校を中退して銀行に就職。
【正】15歳の時に父が急死、1年2か月後に実科学校を中退して証券取引仲介零細銀行に就職。
【誤】43歳の時に兵役で喘息に罹患。
【正】幼少期から喘息。
【誤】アメリカでは貧乏だった。
【正】むしろ裕福だった。
【誤】59歳の時にアメリカ北東部沿岸気候が合わずに南西部沿岸に転居
【正】59歳の時にアメリカ北東部沿岸の「記録的大寒波」に衝撃を受けて南西部沿岸に転居(アメリカ北東部沿岸気候はウィーンやベルリンの気候と大差無し)。

わかりやすさには事実の多角的な検証も必要
シェーンベルクの音楽を鑑賞するにあたり、難解、精神性、芸術といった言葉に接することで必要以上に気負いこむよりも、実はシェーンベルクは頭の回転の速いディールの人で、数秘術にもこだわる柔軟な思考のアイデアマンでもあり、絵画もスポーツも好きだった社交的な人物だったと考えた方がいろいろと楽しめそうです(父サムエルも特殊な印刷を可能にする広告包装紙の技術を発明したアイデアマン)。
ここでは範囲を音楽に限定しないニュートラルで多角的かつ時系列な視点から、シェーンベルクについて簡単に検証できるような情報も記しておきます。
なお、オーストリア暮らしが長い人物なので、ドイツ語固有名詞のカナ表記は、オーストリアとバイエルン周辺に関連する場合は高地ドイツ語、他は標準ドイツ語としておきます。
例:ウィーン(標準ドイツ語ではヴィーン)、サルツブルク(ザルツブルク)、サムエル(ザムエル)、ウェーベルン(ヴェーベルン)、シークムント・ウェルナー(ジークムント・ヴェルナー)、シンドラー(ジンドラー)、等。
16歳から5年間働いたディールの職場
父の急死から1年2か月後に退学しその4か月後に就職
シェーンベルクの伝記では、父サムエルが1890年の大晦日に急死したため、その翌月にシェーンベルクが実科学校を退学して生活費を稼ぐための仕事を探し、5月に銀行員の見習いとして働き始めたと書かれています。
しかし、実際に父サムエルが亡くなったのは1889年の大晦日(葬儀が1890年1月2日)なので、シェーンベルクが退学するまでには1年以上の時間があったことになります。
つまり父が死んだことで慌てて退学して仕事を探したわけではなく、実科学校6年生の冬学期が終わる1891年1月22日まで在籍して社会生活に必要なことは学び終えていることをアピールできるようになってから退学し、その4か月後に母が探してきた証券取引仲介銀行業のウェルナー社で事務見習いとして働き始めたという流れになります。
シェーンベルクが父の死後すぐに働かなくて済んだのは、シェーンベルク家では母も働いていたことに加え、1881年にリング劇場に「ホフマン物語」を見に行って焼け死んだ伯父夫婦の娘2人を引き取っていたことで、ウィーン市から支給される養育費などがそれなりの金額だったこともあります。

ウェルナー社
ときに「歯に衣着せぬ」とか「毒舌」ともいわれたシェーンベルクの過度な発言は、主に交渉ごとや手紙で確認されるものですが、背景には、16歳から21歳までの多感でのびしろのある時期に、事務見習いとして入社し、5年間働いていた「ウェルナー社」の影響もありそうです。
シェーンベルクの最初の仕事について、よく「銀行勤め」とか「銀行員」などと書かれていますが、銀行は銀行でも一般的な貯蓄や融資の大銀行とは大きく異なる、主に証券類の取引仲介を目的とする零細銀行なので、お堅いとか生真面目といったイメージとはむしろ正反対の職場であることに注意が必要です。
世界初のブラック・フライデー
「ウェルナー社」が設立された1873年は、ウィーン証券取引所が世界初の「ブラック・フライデー」を引き起こした年で、5月9日の午前中だけでウィーンの120もの銀行が破綻(主に証券取引仲介零細銀行)。一方で、直前の数年間に投入された莫大な資金のおかげで急激に成長したウィーンの実体経済の底力を楽観視する見方もあり、下がりに下がった証券類の価値はむしろディールの勝機と見做す勢力も出現。

ブラック・フライデーを勝機と捉えた勢力
ウィーンのユダヤ人証券ディーラーであるウェルナーとヒルシュラーも、そうした焼け野原状態の投資環境を勝機と考えたようで、ブラックフライデーのちょうど半年後に「ウェルナー社」を登記。以後、証券類の取引仲介業を、反ユダヤ主義が激化する1897年まで24年間も継続し、激動の時代を生き抜いていたのは、短期破綻が当たり前だった当時の零細ブローカー銀行としては非常に優秀といえると思います。
ウェルナーの破産発言の真意
ちなみにシェーンベルクが退職した際の話は、1895年にウェルナーが「破産だ」と言ったことに関連付けられていますが、この場合の「破産」という言葉は、おそらく同年のウィーン市議会選挙で、キリスト教社会党が過半数議席を獲得したことを嘆く言葉と思われます。
キリスト教社会党は反ユダヤ主義的な政党なので、それまで実に30年以上に渡ってリベラル派が過半数議席を占めてきたウィーン市議会の運営が激変することは明らかだったため、ウェルナー社の顧客離れを見越しての発言だったのでしょう。
ウェルナー社の解散
1897年4月8日、熱烈な反ユダヤ主義者で、反資本主義、反自由主義、反マジャル(ハンガリー)主義を掲げてウィーン市民に人気を博したカール・ルエーガー(1844-1910]が市長に就任すると、いよいよ勝機無しと判断したのか、3か月後の7月2日にウェルナー社は解散しています。
シェーンベルクへの影響
こうした時代環境の中、2人の証券ディーラーの仕事に約5年間も身近に接していた多感なシェーンベルクが、「ディール」の影響を受けないとは考えにくく、会話や文章に誇張や仕掛けが含まれ、ときには冗談やウソ、ハッタリまで交え、傲慢に威嚇したり、過剰に賛美したり嘆いたり陶酔したりといった大袈裟で挑発的な様相を帯びてくるのもむしろ自然な成り行きでした。
その意味では、シェーンベルクの交渉や仕事関係の発言・手紙の言葉をなんでも「額面通り」に受け止めるのは判断ミスに繋がりかねないため、国家の体制や規模感、社会制度、各種政策、インフレや為替、軍事、気候、宗教、文化なども含めた歴史的関連事実の幅広い情報収集と時系列的な検証も求められるところです。
下の画像はウェルナー社に近いウィップリンガー通りの当時の様子です。

背景
シェーンベルクの父サムエルは自由主義かつ同化主義的なユダヤ人で、母パウリーネはカントル(ハッザーン)を輩出した正統派家系のユダヤ人。シェーンベルクはユダヤ教徒として生後8日めに割礼儀式を受け、その際にヘブライ語のミドル・ネームをアヴラハムと命名。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世時代のウィーンはユダヤ人が大活躍で、医師の60%以上、弁護士の58%以上、広告宣伝業の96%以上、銀行の75%以上のほか、リベラル系の新聞や雑誌はほぼすべてユダヤ系で、ウィーン大学も学生の3分の1以上がユダヤ人でした。人口比ではユダヤ人は1割くらいなのでかなりの躍進ぶりですが、一方で、サルツブルクなど、ウィーン以外の地域はカトリック支配が強力で反ユダヤ主義も根強く、また、1895年にウィーン市議会選挙で、反ユダヤ主義的な「キリスト教社会党」が過半数議席を獲得したことで、ウィーンのユダヤ人の立場は不安定なものとなっていきます。
ウィーン市長ルエーガー
1897年に市長となったルエーガーは、実際には1895年10月にウィーン市長に選出されていましたが、その強烈な反ユダヤ主義を恐れた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が承認を拒否。その後の選出に際しても皇帝は拒否で一貫していましたが、1897年4月8日、2年間で5度目の選出となった人気ぶりに高齢のローマ教皇レオ13世(1810-190)も黙っていられなくなり、個人的にフランツ・ヨーゼフにとりなして、なんとか承認させています。これによりルエーガー側も暴力的な反ユダヤ主義運動は認めないことにしますが、マスコミなどを使った反ユダヤ主義キャンペーンでユダヤ人を迫害することはOKとしてウィーンでの人気を維持し、1910年に亡くなった際には、数十万人のウィーン市民が葬列に参加するほどの異例の人気ぶりで(当時人口約203万人)、ヒトラーのヒーローにもなっていました(もう一人のヒーローは、「リンツ綱領」に「アーリア人条項」を追加したゲオルク・フォン・シェーネラー)。

キリスト教に改宗
1898年3月25日、シェーンベルクはウィーンのドロテアガッセにあるルター派教会で受洗し、ユダヤ教からキリスト教(ルター派プロテスタント)に改宗しています。洗礼名はアルノルト・フランツ・ワルター・シェーンベルク。
1895年の選挙で反ユダヤ主義のキリスト教社会党がウィーン市議会で過半数議席を獲得したことで30年以上続いたリベラル期が終わり、1897年には熱烈な反ユダヤ主義者のルエーガーが市長になってことで、シェーンベルクが指揮者として活動範囲を広げるためには必要なことでした。

「反ユダヤ同盟」がウィーンで設立
1919年7月、キリスト教社会党の右派議員、アントン・イェルツァベク(1867-1939)らによって設立。機関誌「鉄のほうき」などでの活動を通じて、急速にオーストリアの他の地域に拡大し、300以上の地方組織と、約1万人の会員を獲得。大規模なデモや挑発行為をユダヤ人居住区などでも実施。「東洋的」「非ドイツ的」「シオニスト的」「退廃的」といった言葉を用いて民族差別・人種差別を煽ります。

マットゼー事件
1921年7月、6月から家族と弟子たちと共に避暑に訪れていたサルツブルク近郊のマットゼー(マット湖)で、自治体当局の人間から、マットゼーがユダヤ人立ち入り禁止になったことを知らされ、滞在を続ける場合は、ユダヤ人ではないことを文書で証明するよう求められたため、シェーンベルクは憤慨して退去。サルツブルクの実弟ハインリヒの義父でサルツブルクク州副知事のオット邸に短期滞在したのち、50qほど東にある保養地トラウンキルヒェンに移り、そこで12音技法のアイデアを思い付いたとされています。ちなみに、1920年代初頭にはチロル州とオーストリア南部の7つの州にある70か所の避暑地が「ユダヤ人がいない」場所としてポスターや新聞などで広く宣伝されていました。また、1921年5月29日には、サルツブルクのドイツ帝国への併合に関する住民投票がおこなわれ、90%以上の賛成が得られていましたが、第1次大戦戦勝国の定めた戦後協定により法的には無効でした。

シリングスからの弾圧
1933年3月、プロイセン芸術アカデミー学長のマックス・フォン・シリングス(1868-1933)によるシェーンベルクへの弾圧が開始。これはシェーンベルクが終身契約だったため、4月にまず終身契約を停止し、やがて辞任に追い込むプロセスでした。R.シュトラウスの親友で、フルトヴェングラーやヘーガーの師でもあるシリングスは、有名な作曲家・指揮者で、ナチ信奉者、反ユダヤ主義者としても有名。シリングスは同時にシェーンベルクの同僚のフランツ・シュレーカーにも圧力をかけて辞めさせています。

ユダヤ教に復帰
1933年、アメリカ行きの決まったシェーンベルクはすぐにユダヤ教に改宗。パリのラビにより文書が作成され、シャガールらも証人となり署名。妻ゲルトルートと娘ヌーリアはカトリックのままで、以後もシェーンベルクのみユダヤ教で他の家族はカトリックという状況が続きます。
7月24日には、パリ16区にある改革派ユダヤ教のシナゴーグで、シェーンベルクは「フランス・イスラエル自由連合」に入会し、ユダヤ人コミュニティに復帰。

シェーンベルクは8歳からヴァイオリンを習い、独学で作曲もしていますが、最初に自分で作品番号を付けたのはそれから16年後のことで、アドラーの指導を経て、ツェムリンスキーのレッスンを終えた翌年のことでした。
ヴァイオリンのレッスンと作曲
1882年から従兄弟のルドルフ・ゴルトシュミート(1875-1944)と一緒にヴァイオリンのレッスンに通い始め、ほどなく自分と従兄弟のために、2つのヴァイオリンのための「同盟ワルツ」「陽光ポルカ」「無言歌」を作曲。下の画像、左端がシェーンベルクで右端がルドルフ。手前がシェーンベルクがのちに夢中になるマルヴィーナ。

アドラーからの指導
オスカー・アドラー(1875-1955)は、1891年頃から音楽理論や、各種楽器演奏、哲学、詩などを指導した親友。のちに医師、音楽家、占星術師として活躍。シェーンベルクが数秘術にはまるきっかけもアドラー。

ツェムリンスキーからの指導
アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871-1942)からは、1896年から1897年頃にかけて、対位法などのレッスンを受けています。

家族思いのシェーンベルク
シェーンベルクは76歳で亡くなるまで常に家族と共に生活していた人物でもありました。
シェーンベルク7歳、妹5歳の時には、リング劇場に「ホフマン物語」を見に行って焼け死んだ伯父夫婦の遺児である3歳の娘と1歳の娘の2人が加わって6人家族となり、その5か月後には弟が生まれてシェーンベルク家は7人の大所帯にまで成長。
当時7歳のシェーンベルクが、母を手伝って世話をしていたのは、0歳、1歳、3歳、5歳というまったく目が離せない時期の4人の子供たちで、それがシェーンベルクのコミュニケーション能力を高め、老齢になっても子供とうまく過ごせたことに繋がったのかもしれません。そしてそれが教育という仕事でも成功する能力を育んだ可能性もあります。
生家 1874〜1901(27年間/3〜7人家族/オーストリア)
◆1838-1889 父サムエル
◆1848-1921 母パウリーネ
◆1876-1954 妹オッティーリエ
◆1878-1942 従妹メラニー
◆1880-1942 従妹オルガ
◆1882-1941 弟ハインリヒ

マティルデとの家族 1901〜1923(22年間/2〜4人家族/ドイツ、オーストリア)
◆1877-1923 妻マティルデ
◆1902-1947 娘ゲルトルーデ
◆1906-1974 息子ゲオルク

ゲルトルートとの家族 1924〜1951(27年間/2〜5人家族/オーストリア、ドイツ、アメリカ)
◆1898-1967 妻ゲルトルート
◆1932- 娘ヌーリア
◆1937-2012 息子ロナルド
◆1941- 息子ローレンス

シェーンベルクの困窮生活とは
シェーンベルクについてはよく生活が貧しかった、困窮していたとされますが、その要因として、クラシック音楽業界では、「失意」「貧困」「忘れ去られ」などというマイナス・イメージな言葉が好まれていたことに加え、主にカトリック圏で使用されていた「貧困証明書」に対する誤認識があると考えられます。
マイナス・イメージ効果
マイナス・イメージな言葉が好まれていたのは、クラシック音楽の収益性が低く、団体などを維持継続するためには公私の助成が必要なケースが多いため、「伝統文化を維持するためには助けが必要」というストーリーを、マイナス・イメージによって強化・浸透させる方が都合が良かったからでしょう。
貧困証明書
かつてのカトリックでは、払える信徒には財産の寄付なども求められ、たとえばボッケリーニも「貧困証明書」を発行して、財産は子供が引き継ぐため教会に寄付できないとする手続きをおこなっています。この「貧困証明書」には助成を求める際の必要書類という側面もあったため、事実無根のボッケリーニ貧困説が広まってしまったようです。
シェーンベルクの場合
シェーンベルクの時代のオーストリアでも「貧困証明書」制度は形を変えて残っており、奨学金や助成金を申し込んだ際に、団体によっては「貧困証明書」の発行が求められています。
1904年3月、 シェーンベルクはいつものディール的行動で何か助成を求めたのか、「貧困証明書発行のための質問票」に、3人家族で住んでいたアパートの状況について記入しています。
「部屋3室、控え室1室、台所1室/家賃:四半期あたり250クローネ/使用人:メイド1名/月給:24クローネ」。つまり年間家賃1,000クローネ(約125万円相当)、1か月家賃約83クローネ(約10万4千円相当)で、メイドの月給は3万円相当ということになります。当時のウィーンの日給平均は約3クローネ(約3,750円相当)なので、29歳でメイドまで雇っていたシェーンベルクの家計は恵まれていることになり、助成を受けることはできなかったと思われます。ちなみにこのアパートの「控え1室」は、3年後の1907年に親しい画家のゲルストルに無償貸与しますが、翌年、彼と妻マティルデの不倫が発覚。マティルデはゲルストルと共に家を出てしまい、ウェーベルンらの説得により1週間ほどでゲルストルと別れるものの、その後もゲルストルの欲求は収まらず、やがてマティルデから拒絶されたことを苦に自殺。傷心のシェーンベルクは仕事に打ち込んで収入が大幅に増え、翌々年、年間家賃2,600クローネ(約325万円相当/月額約27万円)のアパートに転居。2人のメイドも雇用しています。
渡米して貧乏になった説
1933年、プロイセン芸術アカデミーで弾圧を受けたシェーンベルクは、パリで誰の支援も受けられず困っていたところ、アメリカのユダヤ人チェロ奏者マルキンから自分の音楽院で働かないかと誘いがあり、その後のアメリカでの生活に備えてか、すぐにユダヤ教に改宗し、「フランス・イスラエル自由連合」に入会することでユダヤ人コミュニティに復帰。10月末に渡米し、11月から働き始めます。
マルキン音楽院の基本年俸は当時のアメリカ人フルタイム就業者平均年収の4倍以上にあたる4,800ドル。この金額は生徒12人の基本額で各1時間の講義を週2回×32週間、つまり年に正味わずか64時間で、準備に時間がかかるにしてもかなりの待遇の良さです。そして、生徒が1人増えると200ドルが追加され、さらにニューヨーークの教室などへの出張講義の金額は別途加算されるという好条件。また、時間に余裕ができるため、自宅で生徒を個人指導することも許可され、1時間あたり最低30ドルで教えてもいました。
シェーンベルク流ディール発言
前職のプロイセン芸術アカデミーでは、講義時間が長いにも関わらず、年俸はドル換算で約4,500ドルだったので、時間当たり賃金では数倍以上の上昇ということになります。
しかし、シェーンベルクはこの好条件でも、報酬が想定の4分の1だったとか、渡航費用が自己負担だったなどとヨーロッパの知人に不満を表明して、自分がひどい目に遭っているように見せています。
これはおそらく、大恐慌下でドイツの失業率が26.3%(約480万人失業)、アメリカも24.9%(約1,283万人失業)と、一般の人々は悲惨な状況に置かれていることに配慮したものでしょう。特にドイツのユダヤ人や現代音楽関係者は悲惨な目に遭っていましたし。
面白いのはこのディール的な不平表明を額面通りに受け取った後世の人間が多いことで、それが「シェーンベルクはアメリカで不幸だった」などという定説に繋がっているのかもしれません。

オーストリア、ドイツ、アメリカ
シェーンベルクはヨーロッパに59年間、アメリカに約18年間暮らしており、生活拠点はウィーン、ベルリン、ボストン、ロサンジェルスの4地域。
1874〜1901(27年間) ウィーン(3〜7人家族)
◆証券取引仲介銀行「ウェルナー社」(見習い)

◆メードリング合唱協会(指揮者)
1901〜1903(2年間) ベルリン(2〜3人家族)
◆ブンテス・テアター(楽長)

◆シュテルン音楽院(講師)

1903〜1911(8年間) ウィーン(3〜4人家族)
◆シュワルツワルト学校(講師)

1911〜1913(2年間) ベルリン(4人家族)
◆シュテルン音楽院(講師)

1913〜1925(12年間) ウィーン(2〜4人家族)
◆シュワルツワルト学校(講師)

1925〜1933(8年間) ベルリン(2〜3人家族)
◆プロイセン芸術アカデミー(教授)

1933〜1934(1年間) ボストン(3人家族)
◆マルキン音楽院(講師)

◆記録的大寒波
通説ではシェーンベルクは東海岸の気候が合わずロサンジェルス行きを選んだとされていますが、ボストンやニューヨークの気候はベルリンやウィーンと大差ないので、たまたまこの冬に到来した記録的大寒波(ボストンで摂氏マイナス27.8度、しかも強風)に衝撃を受けて決断したということでしょう。

1934〜1951(17年間) ロサンジェルス(3〜5人家族)
◆自動車購入
下の画像はシェーンベルクが到着間もなく購入したキャデラックの1933年型ラサール。通説と違って東海岸時代にかなり稼いでいたことがわかります。

◆南カリフォルニア大学(講師)

◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(教授)

◆自動車購入
下の画像はシェーンベルクが購入したキャデラックの1937年型ラサール。

批評家や敵対勢力の妨害から逃れるための演奏会開催
第1次大戦が終わっても収束しない反ユダヤ主義的風潮の中、いわれのない誹謗中傷や妨害行為に悩んでいたシェーンベルクは、仲間たちと会員制の演奏会シリーズを企画し、1918年11月にシェーンベルクの暮らすウィーン近郊のメードリングで「私的演奏協会」を設立。
順調な活動
ほどなく「赤いウィーン」と呼ばれる左派体制の世の中になって、公演も順調に推移。3年間で117回のコンサートが開催され、154曲の現代作品が演奏。コンサートやリハーサルは、ウィーン・コンツェルトハウス、ウィーン楽友協会などで実施。レパートリーは、マーラー、R.シュトラウス、ブゾーニ、レーガー、ドビュッシー、サティ、ストラヴィンスキー、コルンゴルト、ウェーベルンなど数多く、シェーンベルク自身の作品は1920年から登場。演奏者は主にシェーンベルクの弟子たちで、オーケストラが利用できないため、シェーンベルクの5つの管弦楽曲、ブルックナーの交響曲第7番、マーラーの交響曲第4番、ドビュッシーの牧神の午後への前奏曲などが特別に室内アンサンブル用に編曲されたりもしています。
活動停止
戦後のインフレ下でも活動は順調でしたが、やがてオーストリアのインフレがハイパーインフレに移行すると、予約演奏会システムは崩壊し、1921年12月に活動ができなくなり、事実上の解散に追い込まれています。

応募そのものがシェーンベルク流ディール
ディール的な逸話が多いシェーンベルクですが、中でもグッゲンハイムの助成金をめぐる話には面白いものがあります。
年齢制限40歳の選考会に70歳で応募
1945年4月、どう考えてもダメモトで応募したとしか思えない選考会で、当たり前のようにプロジェクトが落選。シェーンベルクが申請した3つのプロジェクトは以下の通り。
◆オペラ「モーゼとアロン」の完成(作曲目安6〜7か月)
◆オラトリオ「ヤコブの梯子」の完成(作曲目安18〜24か月)
◆音楽理論書全3巻の執筆
落選理由としてジョン・サイモン・グッゲンハイム記念財団側は、助成金制度が、将来性豊かな「若手」研究者及び創作活動従事者への支援を目的とするもので、当該資金が余った場合に限り、その他の対象者への助成を検討すると説明しています。助成を勝ち取ったクラシック作曲家は、サミュエル・バーバー、エリオット・カーター、ルーカス・フォス(ドイツ系アメリカ人)、ノーマン・デロ・ジョイオ(イタリア系アメリカ人)、ニコライ・ロパトニコフ(ロシア系アメリカ人)、ダイ・キオン・リー(中国系アメリカ人)の6名。
ちなみにこの1945年は、第2次大戦の兵役のおかげでプロジェクト申請できなかった研究者や創作活動従事者が50名近く追加で助成対象となったため、余剰資金もない状況でした。
当然の結果に対する異常な反応
シェーンベルクとしてもわかりきっていたからこそ、長く手を付けていなかった未完作品の完成という無茶な話を持ち出したのでしょう。
しかしこれに対して後世の音楽業界が、グッゲンハイム財団の判断ミスが2つの偉大な傑作の完成を阻んだなどと書いたりしているのを見ると、財団もお気の毒というほかありません。

父は喘息
石炭の煤煙などによる大気汚染が過酷だった19世紀後半のウィーンに暮らした父サムエルは、おそらく喘息が持病だったにも関わらず、酒好きのヘヴィースモーカーを貫き、1889年の大晦日にインフルエンザがきっかけとなり51歳で死去(1890年は誤り)。
幼少期から喘息
シェーンベルクはその遺伝なのか、幼い時から喘息の発作に悩まされ、呼吸困難で体調不良に陥ることも多く、猩紅熱に罹った際には鼓膜が再発性の炎症を起こし、また、インフルエンザには毎年のように苦しめられたといいます。第1次大戦中の2度の兵役が短期間で済んだのは喘息の発作によるものでした。
ハイパーインフレ下での禁酒禁煙とその後のリバウンド
第1次大戦後のハイパーインフレによりタバコも酒も買いにくくなったため、シェーンベルクは禁酒禁煙を実行。しかし、ハイパーインフレが収束すると、再び酒を呑み始め、毎日タバコを60本吸う生活になり、加えて濃いコーヒーを日に3リットルも飲んでいたのだとか。
健康状態悪化により節酒禁煙
シェーンベルクが再び禁煙に踏み切るのは、1944年に70歳となり定年退職してからのことで、糖尿病悪化のためインスリン注射治療を開始したという事情がありました。禁煙に加えて、飲酒もウイスキーかコニャックをたまに一杯飲む程度にとどめ、健康のため、卓球、テニス、水泳、ボート漕ぎなどで体を動かすことを優先しますが、翌1945年にはインスリン注射による失神回数が増加したため糖尿病治療を中断。
喘息薬がきっかけで一気に体調悪化
1946年になると喘息の発作を抑えるために、ベンゼドリン(≒アンフェタミン)治療をおこないますが、数時間後に心臓付近が激痛に襲われ、処方した医師を探すものの見つからず、別な医師が治療にあたり、麻酔薬系の鎮静剤を注射したところ痛みが無くなるものの10分後にシェーンベルクは昏睡状態に陥り、心拍と脈拍が停止。医師が心臓に直接アドレナリン注射をするなどしてなんとか蘇生。回復には3週間ほど要し、その間、ペニシリンを160回も注射されています。この治療によりシェーンベルクの健康は大きく損なわれ、4年後に心臓発作で亡くなることになります。

前史 1871 1872 1873 1874 1875 1876 1877 1878 1879 1880 1881 1882 1883 1884 1885 1886 1887 1888 1889 1890 1891 1892 1893 1894 1895 1896 1897 1898 1899 1900 1901 1902 1903 1904 1905 1906 1907 1908 1909 1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945 1946 1947 1948 1949 1950 1951
参照資料: 「Schoenberg: Why He Matters / Sachs」、 「Schoenberg's New World / Feisst」、 「Schönberg / Freitag」、 「Schönberg / Vlasova」、 「Schoenberg / Armitage」、 「Schoenberg's error / Thomson」、 「Schoenberg and the new music / Dahlhaus」、 「Schoenberg & His School / Leibowitz」、 「Schoenberg Hollywood modernism / Marcus」、 「Schoenberg and redemption / Brown」、 「Schoenberg critical biography / Reich」、 「Schoenberg Dialogues / Gould」、 「Schoenberg remembered / Newlin」、 「Schoenberg and his world / Frisch」、 「Schoenberg's program notes and musical analyses」、 「Arnold Schoenberg / Stuckenschmidt」、 「Arnold Schoenberg / Rosen」、 「Arnold Schoenberg / Meyerowitz」、 「Arnold Schonberg. Gedenkausstellung / Hilmar」、 「Arnold Schoenberg's journey / Shawn」、 「Arnold Schoenberg's Vienna / Kallirs」、 「Arnold Schoenberg the composer as Jew / Ringer」、 「A Schoenberg Reader: Documents of a Life / Auner」、 「The Cambridge companion to Schoenberg / Shaw, Auner」、 「Composers of the Nazi Era: Eight Portraits / Kater」、 「Alban Berg / Carner」、 「Alban Berg and his world / Hailey」、 「Hanns Eisler, political musician / Betz」、 「Zemlinsky / Beaumont」、 「Anton von Webern / Moldenhauer」、 「The Unimportance of Being Oscar」、 「Otto Klemperer: His Life and Times / Heyworth」、 「A history of Habsburg Jews, 1670-1918 / McCagg」、 「Red Vienna / Gruber」、 「Wiener Wirtschaftsbürgertum im 19. Jahrhundert / Milota」、 「シェーンベルク / 浅井佑太」、 「シェーンベルクの旅路 / 石田 一志」、 「シェーンベルクのヴィーン / 細川晋、他」、 「シェーンベルクと若きウィーン / テレーゼ・ムクセネーダー(阿久津三香子訳)」、 「シェーンベルク音楽論集 / 上田昭訳」、 他

◆3月13日、大雨と雪解け水によりドナウ川下流が氾濫、ハンガリー西部の村々が流され、ブダとペシュトも水没し、150人以上が溺死。周辺諸国が飢饉と疫病拡大を防ぐためにハンガリー支援に乗り出します。
◆9月20日、父サムエル・シェーンベルク(1838-1889)、「オーストリア帝国領」ハンガリー王国北部セーチェーニ(ウィーンの東約230qに位置)に誕生。一族は18世紀から同地に暮らすユダヤ系でドイツ語話者。1852年にハンガリー王国西部のプレスブルク(現・スロヴァキア首都ブラチスラヴァ。ウィーンの東約55qに位置)に転居し、その後、オーストリア大公国首都ウィーンに転居。国籍はハンガリー王国。

◆2月24日、パリで革命勃発。国王を追放し、26日に第二共和政を宣言。ヨーロッパ各地に影響が波及。
◆3月13日、プラハで政情が不安定化。
◆3月13日、ウィーンで革命勃発。メッテルニヒが亡命。
◆3月15日、ブダペストで革命勃発。
◆3月20日、オーストリア帝国で農奴制廃止。
◆4月7日、母パウリーネ・ナーホト(1848-1921)、「オーストリア帝国領」ボヘミア王国プラハ(ウィーンの北北西約250qに位置)で誕生。一族は18世紀から同地に暮らすユダヤ系で、シナゴーグのカントルを複数輩出。ドイツ語話者。国籍はボヘミア王国。

◆6月12日、プラハ蜂起。オーストリア軍により5日後に鎮圧。43人死亡。
◆10月、ハンガリー独立宣言。オーストリアとハンガリーの独立戦争開戦。
◆2月9日、教皇領でローマ共和国の樹立を宣言。イタリア統一運動の一環。
◆3月、オーストリア軍がイタリア北部の戦いでイタリア反乱軍に勝利。
◆4月、オーストリア軍がハンガリー東部の戦いでハンガリー反乱軍に敗北。
◆7月3日、フランス軍とスペイン軍により鎮圧され、ローマ共和国議会が解散・廃止。
◆8月、オーストリア軍とロシア軍の連合軍がハンガリー南部の戦いでハンガリー反乱軍に勝利。
◆10月、クリミア戦争勃発。ロシア帝国とオスマン帝国(とフランス、イギリス、サルデーニャ)が1856年3月まで2年5か月戦い、ロシアが敗北。オーストリアはオスマン帝国を支持したため、ロシアとの関係が悪化したことで、1815年に発足した国家連合「ドイツ連邦」での影響力が低下。
◆6月、普墺戦争開戦。オーストリアと対立し「ドイツ連邦」を脱退したプロイセンと、「ドイツ連邦」諸国(オーストリア、ザクセン、バイエルン、ヴュルテンベルク、ハノーファー、バーデン、ヘッセン、フランクフルト等)が戦闘。
◆8月、普墺戦争終結。オーストリア側(ドイツ連邦諸国)が、プロイセン側(プロイセン、イタリア等)に敗北。
◆2月9日、オーストリア=ハンガリー帝国成立(アウグスライヒ)。
◆ウィーンのユダヤ人に法的な平等と居住地や職業などの自由が認められます。これによりウィーンのユダヤ人の人口は1860年の約6千人から1870年には約4万人まで激増しており、以後も増加は続きます。背景には1848年革命により各地で人々の移動が盛んになっていたことがありますが、ユダヤ人の平等と自由がウィーンほどには認められていなかったオーストリア大公国の他の地域では目立った人口増は見られません。
◆1月18日、ドイツ統一。占領地フランスのヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式。10日後には、同じ場所で「普仏戦争」の休戦協定が署名。半世紀後、第1次大戦でドイツに勝利したフランス(連合国)は、ドイツにとって屈辱的なヴェルサイユ条約を同じく鏡の間で締結して報復。

◆5月10日、フランクフルト講和条約締結により普仏戦争終結。フランスはアルザスとロレーヌの領土割譲に加え莫大な賠償金を準備。3年期限の賠償金額は約50億フラン(=純金1,450トン=約45億マルク=現在価値で約14兆円)で、支払いが終わる1873年9月までドイツ軍がフランス東部に駐留。賠償金の50〜60%ほどがドイツの金融市場に恩恵をもたらして市場経済を過熱させ、1873年にバブルが崩壊するまでの2年間にドイツでは928の株式会社が新たに設立され、投資先もオーストリアやロシアにまで及ぶようになります。

◆10月14日、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871-1942)、ウィーンで誕生。
◆3月17日、サムエル・シェーンベルク(父)とパウリーネ・ナーホト(母)がウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、テンペルガッセ2番地のシナゴーグで結婚。住居は同区、ターボア通り4番地。結婚式がおこなわれたシナゴーグは座席数2千を超える巨大なシナゴーグで、1858年に落成(1938年11月に反ユダヤ主義者らにより破壊)。

◆8月、サムエル・シェーンベルク(父)が、特殊な印刷を可能にする広告包装紙の技術を発明し、独占販売権を帝国商務省に申請、認可されます(年次更新)。翌年のウィーン万博を見越した発明と考えられます。
◆12月20日、姉アデーレ・ファイゲレ・シェーンベルク、ウィーンで誕生。
◆5月1日、ウィーン万国博覧会開始(11月2日まで半年開催)。2.33平方kmの会場に35か国が出展しますが、ほぼ同時にウィーン発の世界恐慌が始まったことで、訪問者は725万5千人に留まっています。ちなみに日本も京都御所を再現するなどした日本館を建設していました。

◆5月9日金曜日、ウィーン証券取引所のバブル崩壊により株式市場が暴落。「証券王」アドルフ・ペチェク(1834-1905)が早朝に破産を申請し、午前中にウィーンの120もの銀行が破綻しますが、これらのほとんどは「ブローカー銀行」で、仲介手数料目的に不適切な担保運用などが常態化していたことで引き起こされています。世界初の「ブラック・フライデー」とも言われるこのウィーンの暴落ですが、すでに資金の流れは国際的なものにもなっていたため、ほどなく世界各国で恐慌が引き起こされることになり、その影響は長いところでは四半世紀に及んでいます。背景となった要因は複合的で、銀の大増産による暴落と金本位制導入による金の高騰、普仏戦争で敗北したフランスの賠償金が各地にもたらしたバブルや、ドイツの法人設立自由化による投資の過熱、スエズ運河開通によるイギリス権益の減少、シカゴ大火、ボストン大火など世界各地で発生したさまざまな出来事が恐慌を長引かせることになります。下の画像は、5月9日のウィーン証券取引所の様子ですが、ウィーンでは特に金融やマスコミにユダヤ人が多かったことから、カトリック国に根強い反ユダヤ主義にも繋がり、やがてウィーン市長のカール・ルエーガー(1844-1910)のような極端な政治家が人気を博すことになります。

◆5月8日、姉アデーレ・ファイゲレ・シェーンベルク、ウィーンで髄膜炎により死去。1歳5か月。
◆9月13日、アルノルト・アヴラハム・シェーンベルク、オーストリア=ハンガリー帝国首都ウィーンに誕生。父は自由主義かつ同化主義的なユダヤ人で、母はカントル(ハッザーン)を輩出した正統派家系のユダヤ人。住居は第2区(レオポルトシュタット)のオーベレ・ドナウ通り5番地。国籍は父と同じくハンガリー。ミドルネームのアヴラハムは誕生から8日目の割礼儀式の際に付与されたヘブライ語の名前。
当時のウィーンはユダヤ人が大活躍で、医師の60%以上、弁護士の58%以上、広告宣伝業の96%以上、銀行の75%以上のほか、リベラル系の新聞や雑誌はほぼすべてユダヤ系で、ウィーン大学も学生の3分の1以上がユダヤ人でした。人口比では1割くらいなのでかなりの躍進ぶりといえ、シェーンベルクの生地レオポルトシュタットにも立派なシナゴーグがいくつも建設されています。

◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、オーベレ・ドナウ通り5番地に、父、母と3人で居住。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、オーベレ・ドナウ通り5番地に、父、母と3人で居住。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、アーダムベルガーガッセ5(当時はテレージエンガッセ)5番地に、父、母、妹と4人で居住。
◆6月9日、妹オッティーリエ・レア・サラ・シェーンベルク(1876-1954)、ウィーンで誕生。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、アーダムベルガーガッセ(当時はテレージエンガッセ)5番地に、父、母、妹と4人で居住。
◆1月22日、従妹のマルヴィーナ・ゴルトシュミート、ウィーンで誕生。シェーンベルクの母パウリーネの妹アンナ・ファニー・ゴルトシュミート(1853-1919)の子。シェーンベルクはのちに彼女に夢中になります。
◆9月7日、マティルデ・ツェムリンスキー、ウィーンで誕生。のちにシェーンベルクと結婚。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、アーダムベルガーガッセ(当時はテレージエンガッセ)5番地に、父、母、妹と4人で居住。
◆ウィーンの学生団体、リベルタス友愛会が同化ユダヤ人を排除。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、アーダムベルガーガッセ(当時はテレージエンガッセ)5番地に、父、母、妹と4人で居住。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、アーダムベルガーガッセ(当時はテレージエンガッセ)5番地に、父、母、妹と4人で居住。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹と4人で居住。
◆9月、小学校(男子8クラス制のフォルクスシューレ)に入学。生徒数838名、教師数18名で、所在地はウィーン中心部のクライネ・プファルガッセ33番地。近くにはシュテファン大聖堂がありました。

◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹と4〜6人で居住。
◆小学校(フォルクスシューレ)に在学。1〜2年生。
◆12月8日、ウィーンのリング劇場がガス爆発により全焼し、観客など約400人が死亡。オッフェンバックの「ホフマン物語」を観るために劇場に居た母パウリーネの兄であるハインリヒとその妻ヘルミーネも犠牲になったため、彼らの2人の娘、3歳のメラニー(1878-1942)と1歳10か月のオルガ(1880-1942)がシェーンベルク家に引き取られます。この不幸な事故の被害者遺族を支援するために、ウィーン市では救済委員会を設置し、遺族への補償金のほか、遺族年金の支給を開始。寄付も募って、遺児一人当たり6千グルデン(約600万円相当)の基金をまずつくり、そこから里親に対して遺児が成人するまで養育費などを毎年支給する制度を構築。

◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆小学校(フォルクスシューレ)に在学。2〜3年生。
◆4月29日、弟ハインリヒ・イスラエル・シェーンベルク(1882-1941)、ウィーンで誕生。
◆従兄弟のルドルフ・ゴルトシュミート(1875-1944)と一緒にヴァイオリンのレッスンに通うようになります。
◆作曲を開始。自分と従兄弟のための同盟ワルツ。

◆「リンツ綱領」が策定。オーストリア ・ドイツ民族主義の政策文書。「オーストリア=ハンガリー帝国」をオーストリア大公国部分と、ハンガリー王国(とガリツィア、ブコヴィア、ダルマチアなど)の部分に分けるのが目的で、背景にはオーストリア大公国からハンガリーなどに渡る補助金の多さへの国民の不満もありました。多民族共生ではなく民族分離・自活を提唱するもので、この段階では、反ユダヤ主義というよりも、よくある自国優先の排外主義政策といった印象です。策定にはユダヤ人政治家も参加していますし。
【作品】
●2つのヴァイオリンのための「同盟ワルツ」
●2つのヴァイオリンのための「陽光ポルカ」
●2つのヴァイオリンのための「無言歌」
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆小学校(フォルクスシューレ)に在学。3〜4年生。
◆12月3日、アントン・ウェーベルン、ウィーンで誕生。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆小学校(フォルクスシューレ)に在学。4〜5年生。
◆9月24日、母方祖父でカントルのヨーゼフ・ガブリエル・ナーホト、ウィーンで死去。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆2月9日、アルバン・ベルク、ウィーンで誕生。
◆5月14日、オットー・クレンペラー、ブレスラウで誕生。
◆小学校(フォルクスシューレ)を卒業。5年生。
◆帝立実科学校(レアルシューレ)に入学。所在地はウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、フェラインスガッセ21番地。小学校から約600メートルのところにありました。
◆ゲオルク・フォン・シェーネラー(1842-1921)が、「リンツ綱領」に「アーリア人条項」を追加。反ユダヤ主義者のルエーガー(のちのウィーン市長)も嫌悪するほどの内容。

◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆帝立実科学校(レアルシューレ)に在学。1〜2年生。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆帝立実科学校(レアルシューレ)に在学。2〜3年生。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆帝立実科学校(レアルシューレ)に在学。3〜4年生。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆帝立実科学校(レアルシューレ)に在学。4〜5年生。
◆12月31日、父サムエル、インフルエンザ罹患後に肺炎となり自宅で死去。51歳。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆1月2日、父サムエルの遺体をウィーンの中央墓地に埋葬。
◆帝立実科学校(レアルシューレ)に在学。5〜6年生。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆1月22日、帝立実科学校(レアルシューレ)を6年生の冬学期終わりに中退。
◆5月、ウィーン第1区(インネレ・シュタット)、ショッテンリング10番地に拠点を置く証券取引仲介銀行「ウェルナー社」が、見習いとしてシェーンベルクを採用。「ウェルナー社」は、1873年11月9日に、ウィーン証券取引委員会の証券ディーラーであるシークムント・ウェルナーと、アダルベルト・ヒルシュラーによって設立。業務内容は証券取引の仲介なので、一般的にイメージされる銀行(=貯蓄銀行)ではありません。
ちなみに、バブル崩壊4年前の1869年以降、ブローカー銀行中心に各種小規模銀行が急増し、1873年の株式市場暴落直前には、ウィーンには69もの新しい銀行が存在していました。これらの69行のうち、1883年時点で存続していたのはわずか8行ですが、この「ウェルナー社」のように恐慌の年に開業しているところも珍しくなく、各種取引案件の値下がりはチャンスでもあることから、銀行清算後に名前を変えての再出発組も多かったものと思われます。このウェルナー社もシェーンベルクの入社時点ですでに開業18年目で、世界的な恐慌の中、零細ながら存続し続けているのはなかなかの手腕です。下の画像は近くのウィップリンガー通りの当時の様子。

◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、グローセ・シュタットグートガッセ10番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、グローセ・シュタットグートガッセ10番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆ウェルナー社に在職。

◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、グローセ・シュタットグートガッセ10番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆ウェルナー社に在職。

◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、グローセ・シュタットグートガッセ10番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆ウェルナー社に在職。

◆10月15日、ドレフュス事件発生。フランス陸軍司令部所属のユダヤ人軍人アルフレド・ドレフュス大尉(1859-1935)がスパイ容疑で逮捕。冤罪でしたが、これによりヨーロッパ各地で反ユダヤ主義が過熱。真犯人はエステルハージ家の子孫の私生児で、パリ生まれのオーストリア育ちであるフェルディナン・ヴァルサン・エステラジー(1847-1923)。ドイツのスパイでした。

◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、レオポルトガッセ9番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆ウィーン市議会選挙で、キリスト教社会党が過半数議席を獲得。同党は反ユダヤ主義的な政党で、これまで30年以上に渡ってリベラル派が過半数を占めてきたウィーン市議会の運営が激変することは明らかでした。
◆ウェルナー社を退職。

◆アレクサンダー・ツェムリンスキー(1871-1942)が指揮者を務めていたアマチュア弦楽オーケストラ「ポリヒュムニア」にチェロ奏者として入団。ツェムリンスキーの父アントン・セムリンスキーはハンガリーのカトリック教徒で19世紀前半にウィーンに移住。母クララ・セモはユダヤ系で、ボスニアのイスラム教徒の家庭に誕生。結婚後、2人はウィーンでセファルディム系のユダヤ教コミュニティに参加。ツェムリンスキーもセファルディム系のシナゴーグの聖歌隊で歌いオルガンを演奏。やがてウィーン楽友協会音楽院に進み、13歳から21歳まで8年間在学。

◆メードリング合唱協会と契約。指揮者。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、レオポルトガッセ9番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆ツェムリンスキーから作曲の指導。

◆10月11日、ブルックナーがウィーンで死去。
◆反ユダヤ主義団体「ヴァイトホーフェン連盟」が結成。オーストリア大公国各地で活動。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、レオポルトガッセ9番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆ツェムリンスキーに師事。対位法、作曲など。

◆4月3日、ブラームスがウィーンで死去。
◆4月8日、熱烈な反ユダヤ主義者で、反資本主義、反自由主義、反マジャル主義を掲げてウィーン市民に人気を博したカール・ルエーガー(1844-1910]が市長に就任。実際にはルエーガーは1895年10月にウィーン市長に選出されていましたが、その強烈な反ユダヤ主義を恐れたフランツ・ヨーゼフ皇帝が承認を拒否。その後の選出に際しても皇帝は拒否で一貫していましたが、1897年4月8日、2年間で5度目の選出となった人気ぶりにローマ教皇のレオ13世(1810-190)も黙っていられなくなり、個人的にフランツ・ヨーゼフ皇帝にとりなして、なんとか承認させています。これによりルエーガー側も暴力的な反ユダヤ主義運動は認めないことにしますが、マスコミなどを使った反ユダヤ主義キャンペーンでユダヤ人を迫害することはOKとしてウィーンでの人気を維持し、1910年に亡くなった際には、数十万人のウィーン市民が葬列に参加するほどの異例の人気ぶりで(当時人口約203万人)、ヒトラーのヒーローにもなっていました。

【作品】
●弦楽四重奏曲ニ長調
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、レオポルトガッセ9番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆3月25日、ウィーンのドロテアガッセにあるルター派教会で受洗し、ユダヤ教からキリスト教(ルター派プロテスタント)に改宗。洗礼名はアルノルト・フランツ・ワルター・シェーンベルク。1895年の選挙で反ユダヤ主義のキリスト教社会党がウィーン市議会で過半数議席を獲得して、30年以上続いたリベラル期が終わり、1897年には熱烈な反ユダヤ主義者のルエーガーが市長になってことで、シェーンベルクが指揮者として活動範囲を広げるためには必要なことでした。
ちなみに改宗に訪れたルター派教会は、もともと16世紀にクララ修道会修道院のカトリック教会として建てられたものですが、ヨーゼフ2世(1741-1790)の啓蒙主義改革の一環として、修道院が解散させられ、1781年の寛容勅令に基づいて、プロテスタント・コミュニティが教会を含む修道院の一部を購入。その際、寛容勅令の規定で、外部から教会と認識できないようにするため改築されますが、1861年にプロテスタントの礼拝と公的活動の完全な自由が認められたため、1876年に教会とわかるように改修されています。その後、紆余曲折を経て現在は違う外観になっているため、シェーンベルクが改宗した当時の絵に着色して表示しておきます。

◆4月、弦楽四重奏曲ニ長調、ウィーンのトーンキュンストラー協会で試演。
◆12月、弦楽四重奏曲ニ長調、ウィーンのベーゼンドルファーホールでフィッツナー四重奏団により初演。成功。
【作品】
●2つの歌 Op.1
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、グラーザーガッセ19番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆マティルデ・ツェムリンスキー(1877-1923)と交際開始。ツェムリンスキーの妹。。
◆文芸グループ「若きウィーン」と交流開始。
◆ツェムリンスキー、ユダヤ教からキリスト教に改宗(ルター派プロテスタント)。
◆夏、オーストリア南部のパイエルバッハにツェムリンスキー兄妹と共に滞在。
◆9月頃、「浄められた夜」を3週間で作曲。修正を経て12月1日に自筆譜完成。
◆12月3日、同居従妹のメラニーが、ハインリヒ・フェーダー(1868-1925)と結婚。
【作品】
●デーメルの詩による4つの歌 Op.2
●浄められた夜 Op.4(デーメルの詩による)

◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、グラーザーガッセ19番地に、母、弟、従妹と4人で居住。
◆1月、オッティーリエがエミール・ヴィルヘルム・クラーマー(1872-1908)と結婚。
◆アルマ・シンドラーと交流。当時アルマはツェムリンスキーと交際。

【作品】
●「グレの歌」(作曲開始)
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、ポルツェラーンガッセ53番地に、母、弟、従妹と4人で居住。
◆マティルデ・ツェムリンスキーがユダヤ教からキリスト教に改宗(ルター派プロテスタント)。
◆マティルデと結婚。
◆ベルリンに、妻と2人で居住。
◆12月、キャバレー劇場「ブンテス・テアター」と楽長として契約。

◆ベルリンに、妻、娘と3人で居住。
◆1月8日、娘ゲルトルーデ(1902-1947)、ベルリンで誕生。
◆3月9日、マーラーとアルマ・シンドラーがウィーンで結婚。
◆3月18日、「浄められた夜」初演。ウィーン楽友協会小ホールで、ロゼー四重奏団とフランツ・イェリネク(第2ヴィオラ)、フランツ・シュミット(第2チェロ)が演奏。シェーンベルク作品の公演で初のスキャンダル。
◆7月、キャバレー劇場「ブンテス・テアター」の楽長契約が終了。

◆リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)と交流。
◆シュテルン音楽院で講師として作曲を指導(R.シュトラウスの紹介)。
◆全ドイツ音楽協会からシェーンベルクにリスト奨学金が給付(R.シュトラウスの紹介)。
【作品】
●ロルツィング:歌劇「鎧鍛冶(刀鍛冶)」をピアノ連弾用に編曲
◆ベルリンに、妻、娘と3人で居住。
◆シュテルン音楽院で講師として作曲を指導(R.シュトラウスの紹介)。

◆全ドイツ音楽協会からシェーンベルクにリスト奨学金が給付(R.シュトラウスの紹介)。
◆9月、ウィーンに帰還。
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘と3人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
◆マーラー(1860-1911)と交流。

◆シュワルツワルト学校で和声と対位法を指導。同校ではツェムリンスキーが定期的に教えてもいました。

◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘と3人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
◆シュワルツワルト学校で和声と対位法を指導。

◆3月、 貧困証明書発行のための質問票に居住アパートについて記入。「部屋3室、控え室1室、台所1室/家賃:四半期あたり250クローネ/使用人:メイド1名/月給:24クローネ」。つまり年間家賃1,000クローネ(約125万円相当)、1か月約10万4千円相当で、メイドの月給は3万円相当ということになります。
◆ツェムリンスキーとシェーンベルク、オスカー・C・ポーザは「創造的音楽家協会」を設立。マーラーが名誉会長になり支援。現代音楽作品の保護と推進を目的とし、7回のコンサートを開催しますが、翌年に解散。

◆ウェーベルン(1883-1945)が弟子入り(1908年まで)。

◆ベルク(1885-1935)が弟子入り(1911年まで)。

◆12月、マーラーの交響曲第3番を鑑賞後、手紙を書いて崇拝者に転じたと報告。

【作品】
●弦楽四重奏曲第1番 Op.7(作曲開始)
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘と3人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
◆1月25日、「ペレアスとメリザンド」初演。シェーンベルク自身がウィーン演奏協会管弦楽団(のちのウィーン交響楽団)を指揮。
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘、息子と4人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
◆春、画家リヒャルト・ゲルストル(1883-1908)と交流。ゲルストルの父の宗教はユダヤ教で、母はキリスト教(ローマ・カトリック)でしたが、結婚を機に母はユダヤ教に改宗。ゲルストルは15歳までにキリスト教(ローマ・カトリック)に改宗し、その後、母と父もキリスト教(ローマ・カトリック)に改宗。ゲルストルはシェーンベルクの肖像画を描いています。

◆9月22日、息子ゲオルク・ヴィルヘルム(1906-1974)、誕生。
【作品】
●室内交響曲第1番 Op.9
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘、息子と4人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
◆2月5日、弦楽四重奏曲第1番初演。
◆2月8日、室内交響曲第1番初演。
◆シェーンベルクは画家ゲルストルに自宅の一室を無償で貸与。
【作品】
●弦楽四重奏曲第2番 Op.10(作曲開始)
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘、息子と4人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
◆夏、妻マティルデがゲルストルと親密になっていることがわかり、シェーンベルクは一時自殺も考えますがすぐに思いとどまり、弦楽四重奏曲第2番の作曲を継続。
◆夏、浮気が発覚した妻マティルデは、シェーンベルクと子供を捨ててゲルストルと出奔。ゲルストルの友人でもあるウェーベルンがマティルデの説得にあたり、1週間ほどでマティルデはゲルストルと別れています。
◆10月6日、オーストリア=ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを併合。青年ボスニア運動が開始され、後年のサラエヴォ事件の実行犯グループが形成。
◆11月4日、マティルデの愛人ゲルストルが自殺、家庭に戻ったマティルデに対して自分のところに来るよう懇願するものの受け入れられずナイフで胸を刺したうえで首を吊って自殺。弟の死を手紙で知らせてきた陸軍中尉のアロイス(1881-1961)に対し、シェーンベルクはマスコミに無用なことを話さないように返信で要請。

◆弦楽四重奏曲第2番初演。マティルデに献呈。
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘、息子と4人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
【作品】
●3つのピアノ曲 Op.11
●「架空庭園の書」 Op.15
●5つの管弦楽曲 Op.16
●モノドラマ「期待」 Op.17
◆1月、ウィーン市第13区(ヒーツィング)、ヒーツィンガー中央通り113番地に転居。妻、娘、息子と4人で居住。年間家賃2,600クローネ。メイド2人。
◆3月10日、ウィーン市長、カール・ルエーガーが死去。65歳。ウィーン市民に絶大な人気を博した反ユダヤ主義的政治家で、1897年から13年間在職。
◆著書「和声学」の執箪を開始。
◆シェーンベルク絵画の個展開催。
◆秋、ウィーン音楽アカデミーで作曲を指導。
◆10月31日、「ペレアスとメリザンド」、オスカー・フリート指揮ブリュートナー管弦楽団によりドイツ初演。シェーンベルクはリハーサルから列席して細部まで完璧なフリートの準備に驚嘆し、本番も大成功。1905年にシェーンベルクの指揮によってウィーンでおこなわれた初演では、作曲者を精神病院に入れろなどと書かれますが、当時のウィーンは、ローマ教皇レオ13世のおかげで市長に就任できたルエーガーの反ユダヤ主義が人気を博していたので、作品の内容というよりもウィーンの風潮に迎合した忖度評論だったと思われます。2年後の1907年にはマーラーも評論家らによるマスコミ・キャンペーンでウィーン宮廷歌劇場を追い出されていましたし。

◆ウィーン市第13区(ヒーツィング)、ヒーツィンガー中央通り113番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆2月22日、ウェーベルンが従妹のウィルヘルミーネと結婚。カトリックでは従妹婚は禁じられていたため、挙式は戦時中の1915年までおこなわず、その間に3人の子供が生まれていました(その後もう1人誕生)。ウィルヘルミーネは反ユダヤ主義的な人物で、ウェーベルンも影響を受けるようになり、後年、ヒトラーの「我が闘争」を愛読し、初期のナチ党についても支持。息子のペーターはナチ党員になり、娘のクリストルの夫ベンノ・マッテル(1917-2018)は武装親衛隊の所属。
◆5月18日、マーラーがウィーンで死去。50歳。

◆8月、ウィーン市第13区(ヒーツィング)、ヒーツィンガー中央通り113番地から退去。家主とのトラブルにより。
◆9月、ベルリンヘ2度目の移住。
◆ベルリンのツェーレンドルフに、妻、娘、息子と4人で居住。
◆画家カンデインスキーと交流。
◆第1回「青騎士展」に自作を出品。
◆シュテルン音楽院で講師として作曲を指導。

◆12月、マックス・ラインハルト演出のブゾーニ「トゥーランドット」の指揮を、責任者のラインハルトがオスカー・フリートに任せたため、自分に指揮をやらせて欲しいと申し入れていたシェーンベルクが激怒。なにか鬱憤でもあったのか、ラインハルトや「トゥーランドット」の悪口に加え、フリートがマーラーを騙していたなどとウソまで書いた子供のような手紙を師だったツェムリンスキーに送付。その後、シェーンベルクはウェーベルンも巻き込んでフリートのことを悪く言うようになり、フリートと親しかったクレンペラーもたまにとばっちりを受けるようになります。

【作品】
●6つのピアノ曲 Op.11、作曲(無調)。
◆ベルリンのツェーレンドルフに、妻、娘、息子と4人で居住。
◆シュテルン音楽院で講師として作曲を指導。

◆プラハ、ベルリン、ウイーンでマーラーについて講演。
◆ウィーン音楽アカデミーからの教授就任要請を辞退。
◆「月に憑かれたピエロ」巡演開始。
【作品】
●「月に憑かれたピエロ」Op.21
◆ベルリンのツェーレンドルフに、妻、娘、息子と4人で居住。
◆シュテルン音楽院で講師として作曲を指導。

◆マーラー財団よりマーラー奨学金がシェーンベルクに授与。
◆2月23日、「グレの歌」、ウィーン楽友協会でシュレーカーの指揮により初演。大成功。しかし、シェーンベルクが演奏者にはお辞儀をしたものの聴衆のことは無視したため、気分を害した人々により、翌月のコンサートで報復されることになります。
◆3月31日、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク、マーラーの作品から成る演奏会をウィーン楽友協会で実施したところ、途中で聴衆の乱闘騒ぎが始まり中止に追い込まれます。前月のシェーンベルクの発言に対する報復でした。

◆5月、ウィーンに帰還。妻、娘、息子と4人で居住。
◆ウィーンに、妻、娘、息子と4人で居住。
◆マーラー財団よりマーラー奨学金がシェーンベルクに授与。
◆「5つの管弦楽曲」、ロンドン公演で指揮。
◆4月、ウィーンに到着。
◆5月、徴兵検査。結果は免除。
◆9月、ウィーン市第13区(ヒーツィング)、グロリエッテガッセのアパートに、妻、娘、息子と4人で居住。アルマ・マーラーの裕福な友人リリー・リーザー・ランダウが無償で提供。
◆11月、戦況悪化時の徴兵に備え、配属先が自分で選べる1年間の志願兵制度を選択。
◆12月、希望が叶い、ウィーン南東約30qのブルック・アン・デア・ライタ郡の訓練部隊に配属。

◆ウィーン市第13区(ヒーツィング)、グロリエッテガッセのアパートに、妻、娘、息子と4人で居住。
◆6月、ウィーン音楽家協会などの嘆願が功を奏し、ウィーンでの軍務に変更。
◆7月、ウィーン駐屯地の病院で健康診断。所見は、中程度の甲状腺腫、運動時の呼吸困難。
◆8月8日、歩兵第4連隊第9補充中隊の補助兵役に配属。
◆10月21日、文化教育省の介入により10か月目で除隊。

◆11月21日、オーストリア皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世崩御。在位68年目。86歳。
◆ウィーン市第13区(ヒーツィング)、グロリエッテガッセのアパートに、妻、娘、息子と4人で居住。
◆1月、弟ハインリヒ(バス歌手)がプロテスタントに改宗し、サルツブルク市長マックス・オット(1855-1941)の娘、ルペルティーネ・ベルタ(1884-1978)と結婚。オットの市長在職期間は1912年から1919年、1927年から1935年の計15年間。
◆夏、無償でアパートを提供してくれていたリリー・リーザー・ランダウとトラブルになり退去。
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、アルザー通りのペンション・アストラに転居し、妻、娘、息子と4人で居住。
◆ウィーン市第3区(ラントシュトラーセ)、レヒテ・バーンガッセ10番地に、転居し、妻、娘、息子と4人で居住。
◆9月、ツェムリンスキーが銀行の役員を通じて1,500クローネをシェーンベルクに贈与。
◆9月、文化教育省から700クローネの助成金が給付。
◆9月、作曲セミナーを開催。シュワルツワルトが部屋を提供。収入面では期待外れの結果。

◆9月17日、2度目の徴兵。歩兵第4連隊の補充大隊に配属されウィーン周辺で軽作業に従事。
◆12月5日、2か月と18日で除隊。

【作品】
●6月19日、「ヤコプの梯子」作曲開始。
◆ウィーン市第3区(ラントシュトラーセ)、レヒテ・バーンガッセ10番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆4月、ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に転居し、妻、娘、息子と4人で居住。パソティーニ男爵夫人の紹介。
◆マーラー記念賞がシェーンベルクに授与。賞金額は2,500クローネ。
◆シュワルツワルト学校で作曲を指導。助手はウェーベルン。1920年までに、ヴィクトル・ウルマン、ハンス・アイスラー、マックス・ドイチュ、エルヴィン・ラッツ、パウル・ピスク、ヨーゼフ・ルーファー、ルドルフ・コーリッシュ、カール・ランクル、フェリックス・グライスル、ルドルフ・ゼルキン、エドゥアルト・シュトイアマンなど多くの生徒を指導。

◆春、シェーンベルクとウェーベルンが対立。

◆7月「私的演奏協会」設立。

◆室内交響曲のリハーサルで、あるユダヤ人と名乗る人物からシェーンベルクに宛に1万クローネの寄付が届きます。
◆7月
◆10月、オーストリア皇帝カール1世(1887-1922)、事実上の退位。オーストリア=ハンガリー帝国政府崩壊。
◆10月18日、「チェコスロヴァキア共和国」独立。
◆シェーンベルクの国籍の根拠ともなっていた父サムエルの故郷、ハンガリー王国領プレスブルクがチェコスロヴァキア領となり、チェコスロヴァキア国籍に移行。母パウリーネと同じ国籍。ちなみにシェーンベルクはプロテスタントで、母はユダヤ教、妻と子供2人はオーストリア国籍でカトリック。
◆10月、シェーンベルクとウェーベルンが和解。
◆11月11日、第1次世界大戦終結。
◆11月12日、「ドイツ=オーストリア共和国」成立を宣言するものの、自国領として主張する約11万8千平方キロメートル(人口約1千万人)のうち、ズデーテン地方など多くが新生チェコスロヴァキアの領土で、実質的には約8万4千平方キロメートル(人口約650万人)だったため、諸外国は国家承認を拒否。オーストリア=ハンガリー帝国領だった周辺諸国からも高関税障壁などを設けられ、さらにチェコスロヴァキアとユーゴスラヴィアの2国とは国境紛争も勃発。
◆戦後の混乱に乗じ、翌年にかけてポーランド、ウクライナ、ベラルーシなどで大規模なポグロム(ユダヤ人迫害)が発生。各地のユダヤ人居住区が略奪・爆破・破壊され、数万人が殺害。シェーンベルクの父の故郷プレスブルクでもポグロムが発生し、多くのユダヤ人が殺されたり追放されたりしています。
◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆シュワルツワルト学校在職(講師)。

◆「私的演奏協会」活動継続。

◆ハンス・アイスラー(1898-1962)が弟子に。

◆5月4日、ウィーン市議会議員選挙により社会民主党が絶対多数を獲得し、以後、1934年まで「赤いウィーン」と呼ばれる状態が15年間継続。市長のヤーコプ・ロイマンも社会民主党。
◆7月、キリスト教社会党の右派議員、アントン・イェルツァベク(1867-1939)らによって「反ユダヤ同盟(ドイツ・オーストリア保護協会反ユダヤ同盟)」がウィーンで設立。機関誌「鉄のほうき」などでの活動を通じて、急速にオーストリアの他の地域に拡大し、300以上の地方組織と、約1万人の会員を獲得。大規模なデモや挑発行為をユダヤ人居住区などでも実施。「退廃的」「東洋的」「シオニスト的」「非ドイツ的」といった言葉を用いて民族差別・人種差別を煽ります。

◆9月10日、サン=ジェルマン条約により、オーストリア共和国(第一共和国)が成立。
◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆シュワルツワルト学校在職(講師)。

◆「私的演奏協会」活動継続。

◆5月、アムステルダムの「マーラー音楽祭」にメンゲルベルクにがシェーンベルク夫妻を招待。

◆10月、アムステルダム近郊のザントフォールトに滞在開始(翌年3月まで)。オランダ各地に出かけ、演奏、教育の両方で活動。
◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆3月、アムステルダムからウィーンに帰還。
◆6月、オーストリアの戦中・戦後のインフレがハイパーインフレに移行。第1次ハイパーインフレの開始。

◆7月、6月から家族と弟子たちと共に避暑に訪れていたサルツブルク近郊のマットゼー(マット湖)で、同地の議員から、マットゼーがユダヤ人立ち入り禁止になったことを知らされ、滞在を続ける場合は、ユダヤ人ではないことを証明するよう求められたため、シェーンベルクは憤慨して退去。東南東50qほどのところにある保養地トラウンキルヒェンに移り、そこで12音技法のアイデアを思い付いたとされています。

◆7月、シェーンベルクはサルツブルクの東約55qに位置するザルツカンマーグートのトラウンキルヒェンに滞在し、そこで初めて十二音技法による作曲を試みています。
◆10月12日、母パウリーネ、ベルリンで死去。73歳。ユダヤ教徒でしたが、プロテスタントの墓地に埋葬。
◆11月10日、娘のゲルトルーデがフェリックス・アントン・ルドルフ・ガイスレ(1894-1982)と結婚。
◆12月、「私的演奏協会」活動停止。ハイパーインフレにより。

◆12月、オーストリアの第1次ハイパーインフレが収束。
◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻、息子と3人で居住。
◆6月、オーストリアで第2次ハイパーインフレが開始。
◆夏、ミヨー、プーランクと交流。
◆8月、オーストリアの第2次ハイパーインフレが収束。物価は開戦前の約1万4千倍になっていました。

◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻、息子と3人で居住。
◆4月9日、娘ゲルトルーデ(1902-1947)と夫フェリックス・グライスレ(1894-1982)の子、アルノルト(1923-2021)がウィーンで誕生。シェーンベルクの初孫。
◆10月18日、妻マティルデがウィーンで肺疾患により死去。46歳。
◆シェーンベルクの弟子、オルガ・ノヴァコヴィチ(1884-1946)がウィーンにアパートを借り、ウィーン音楽アカデミーに通うシェーンベルクの息子ゲオルクを寄宿させ、ピアノの指導も実施。
◆ウィーン市長にカール・ザイツが就任。
◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆8月28日、ゲルトルート・ベルタ・コーリッシュ(1898-1967)と、ウィーン近郊のメードリングで結婚。ゲルトルートは作家でペンネームはマックス・ブロンダ。兄はシェーンベルクの弟子でコーリッシュ四重奏団主宰者のルドルフ・コーリッシュ(1896-1978)。コーリッシュ家はキリスト教(ローマ・カトリック)に改宗したユダヤ系で、シェーンベルクとの結婚の条件として子供はカトリックとして育てることが取り決められます。
◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆妻ゲルトルートとイタリアに新婚旅行。
◆4月4日、娘ゲルトルーデと夫フェリックス・グライスレの子、ヘルマン(1925-1990)がウィーン郊外のメードリングで誕生。
◆虫垂炎のため手術。
◆10月1日、プロイセン芸術アカデミー(現・ベルリン芸術アカデミー)の作曲科主任教授に任命。ブゾーニ(1866-1924)の後任。1930年9月30日までの5年契約。年俸は16,800〜18,000マルク。

◆10月、ベルリンヘ3度目の移住。
◆ベルリン、シャルロッテンブルクのペンション・バイエルンに、妻と2人で居住。
◆ベルリン、シャルロッテンブルクのペンション・バイエルンに、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆プロイセン芸術アカデミー在職(作曲科教授)。

◆ベルリン、シャルロッテンブルクのペンション・バイエルンに、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆プロイセン芸術アカデミー在職(作曲科教授)。

【作品】
●弦楽四重奏曲第3番 Op.30
◆ベルリン、シャルロッテンブルクのペンション・バイエルンに、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆プロイセン芸術アカデミー在職(作曲科教授)。

◆3月、ベルリン、ヴェステント地区ヌスバウムアレーに転居。妻ゲルトルートと2人で居住。
◆12月、管弦楽のための変奏曲 Op.31がフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルにより初演。リハーサル不足で演奏が不首尾に終わり、その場にいたウェーベルンは「信じられない!全く無責任だ!」とウィーンのシェーンベルクに打電。
【作品】
●管弦楽のための変奏曲 Op.31
◆ベルリン、ヴェステント地区ヌスバウムアレーに、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆プロイセン芸術アカデミー在職(作曲科教授)。

◆6月15日、息子ゲオルクがウィーン郊外のメードリングで結婚。相手はアンナ・ザックス(1906-?)。
◆7月14日、息子ゲオルクとアンナの子、ゲルトルーデ(1929-2015)、ウィーンで誕生。
◆10月、ニューヨークで株価大暴落。影響は世界的に拡大し、戦争特需により軍需産業などで莫大な利益を得たアメリカでさえ、株価回復は25年後の1954年でした。
◆ベルリン、ヴェステント地区ヌスバウムアレーに、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆プロイセン芸術アカデミー在職(作曲科教授)。

【作品】
●「モーゼとアロン」(作曲開始)
◆ベルリン、ヴェステント地区ヌスバウムアレーに、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆プロイセン芸術アカデミー在職(作曲科教授)。

◆喘息悪化により、プロイセン芸術アカデミーを休職。
◆バルセロナに妻と長期滞在(翌年夏まで)。
◆独墺関税同盟、フランスの要求により破棄。
【作品】
●「モーゼとアロン」(第1幕完成)
◆5月7日、娘ヌーリア・ドロテーア(1932- )、バルセロナで誕生。ヌーリアは1955年にルイージ・ノーノ(1924-1990)と結婚。
◆6月、ベルリンに帰還。プロイセン芸術アカデミーに復職(作曲科教授)。

◆ベルリン、ヴェステント地区ヌスバウムアレーに、妻ゲルトルート、娘と3人で居住。
◆7〜8月、ロサンジェルス・オリンピック開催。大恐慌の影響で既存施設をそのまま、あるいは改造して使用。
【作品】
●「モーゼとアロン」(第2幕完成)
◆ベルリン、ヴェステント地区ヌスバウムアレーに、妻ゲルトルート、娘と3人で居住。
◆1月、シェーンベルク作品のドイツでの演奏が禁止。
◆1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。14年間続いた「ヴァイマル共和政」から「国家社会主義ドイツ労働者党独裁体制」に移行。
◆2月20日、 ヒトラーとゲーリングがドイツ経済界首脳陣と会合、大恐慌の影響下ながら300万マルクの政治献金を獲得。背景には「第一次五カ年計画」(1928-193)によるソ連工業生産の飛躍的増大に伴い、鉄鋼業界などドイツからソ連への輸出が莫大な金額になっていたことがあります。

◆2月27日、ベルリンの国会議事堂が放火され炎上。犯人がオランダ共産党員だったことから、ドイツ共産党・社会民主党も活動禁止措置。

◆3月、プロイセン芸術アカデミー学長のマックス・フォン・シリングス(1868-1933)によるシェーンベルクへの弾圧が開始。R.シュトラウスの親友で、フルトヴェングラーやヘーガーの師でもあるシリングスは、有名な作曲家・指揮者で、ナチ信奉者、反ユダヤ主義者としてもよく知られていました。シリングスは同時にシェーンベルクの同僚のフランツ・シュレーカーにも圧力をかけて辞めさせています。

◆3月、オーストリア、キリスト教社会党のドルフース首相が、警察を動員して議会を閉鎖。緊急令により独裁的な政権運営を開始。
◆4月、シェーンベルクとプロイセン芸術アカデミーの終身契約が停止。
◆4月19日、ナチ党、新規の入党希望者の制限を開始。1月末の内閣成立、3月の総選挙という人気過熱イベントを経て、4月7日には、失業対策の目玉ともいわれる「職業官吏再建法」(反ユダヤ法)が施行され、爆発的な数の失業者が、求職目的、あるいは待遇向上目的で入党手続きに殺到したため、新規の入党希望者の制限を実施。以後、1939年5月10日に新規入党制限が完全に撤廃されるまでの6年間は、再入党や縁故のほか、数回の例外期間を除いて新規入党を基本的に受け付けませんでした。
◆5月10日、「ドイツ学生協会」の主宰で、大規模な「焚書」が実施。以後、6月末までにドイツの34の大学都市で、学生たちが率先して大量の「非ドイツ的」な書物を焼却。新聞や放送を通じて全ドイツ国民に向けて成果を報道。ナチは、教員・役人・劇場人などの公務員のほか、学生など若年層に特に人気がありました。
◆5月、一家でパリに滞在。長期休暇のつもりでしたが、コーリッシュやクレンペラーから警告されていたこともあり、ドイツへの帰国を諦めます。
◆カザルスの支援恃みのスペインの夏場の滞在計画は頓挫し、フルトヴェングラーへのたび重なる支援要請も無駄に終わり、イギリスとの契約話も低すぎる額が論外という状況で、やがてフランス滞在資金にもこと欠く状況となります。
◆6月、ボストンに新設されたばかりのマルキン音楽院から招聘。院長のジョセフ・マルキン(1879-1969)は、ポグロムの本場ウクライナのオデッサに生まれたユダヤ人チェロ奏者で、ウクライナを逃れてパリ音楽院で学び、ソリスト、室内楽奏者のほか、ベルリン・フィル首席(1902-1908)、ボストン響首席(1914-1916)、シカゴ響首席(1919-1922)などとして活動した人物。
この招聘話は、ボストンのテレーゼ・ファイリーン(百貨店オーナーの妻)の資金提供により実現したもので、さらに、裕福ではない学生がシェーンベルクに師事できるようにするための奨学金基金には、ガーシュウィンやストコフスキー、スタインウェイ&サンズなども資金を提供しています。

◆6月、シェーンベルクはユダヤ教に改宗。パリのラビにより文書が作成され、シャガールらも証人となり署名。妻ゲルトルートと娘ヌーリアはカトリックのままで、以後もシェーンベルクのみユダヤ教で他の家族はカトリックという状況が続きます。
◆7月24日、パリ16区にある改革派ユダヤ教のシナゴーグで、シェーンベルクは「フランス・イスラエル自由連合」に入会し、ユダヤ人コミュニティに復帰。

◆10月25日、シェーンベルク家は、ル・アーヴル港からニューヨーク港に向けて出発し、31日に到着。
◆ボストンに、妻、娘と3人で居住。
◆11月、ボストンのマルキン音楽院の講師として契約。基本年俸は当時のアメリカ人フルタイム就業者平均年収の4倍以上にあたる4,800ドル。この金額は生徒12人の基本額で各1時間の講義を週2回×32週間、つまり年に正味わずか64時間で、準備に時間がかかるにしてもかなりの待遇の良さです。そして、生徒が1人増えると200ドルが追加され、さらにニューヨーークの教室などへの出張講義の金額は別途加算されるという好条件。また、時間に余裕ができるため、自宅で生徒を個人指導することも許可され、1時間あたり最低30ドルで教えてもいました。前職のプロイセン芸術アカデミーでは講義時間が長いにも関わらず、年俸はドル換算で約4,500ドルだったので、時間当たり賃金では数倍以上の上昇ということになります。
しかし、シェーンベルクはこの好条件でも、報酬が想定の4分の1だったとか、渡航費用が自己負担だったなどとヨーロッパの知人に不満を表明して、自分がひどい目に遭っているように見せています。これはおそらく、大恐慌下でドイツの失業率が26.3%(約480万人失業)、アメリカも24.9%(約1,283万人失業)と、一般の人々は悲惨な状況に置かれていることに配慮したものでしょう。シェーンベルクお得意のディール的な側面もありそうですが。
マルキン音楽院は、チェロ奏者のマルキンによって、同年9月に新設されたばかりの音楽院。校舎として借りていた物件は、ビーコン・ストリート299番地の赤煉瓦ビル(1870年建設)。講師陣には、指揮者のアーサー・フィードラー、作曲家のロジャー・セッションズ、そしてジョセフ・マルキンの兄弟であるヴァイオリニストのジャック・マルキン、ピアニストのマンフレッド・マルキンなどが含まれ、1934年1月にピアニストのエゴン・ペトリ、1938年には作曲家のエルンスト・クレネクも参加。小規模ながら人気を集めますが、戦争のため1943年に閉校。マルキンはチェロ奏者に戻り、1944年から1949年までニューヨーーク・フィルで演奏しています。
ちなみにシェーンベルクはまだ英語がほとんど喋れず、書くことはもっと不自由だったため、作曲の授業は困難をきわめ、さらにニューヨークに出向いての出張講義もあり、また、この年の冬はアメリカ北東部が記録的な大寒波に襲われており、持病の喘息と心臓病に悩まされるシェーンベルクにはつらい状況が続いていました。

◆ボストンに、妻、娘と3人で居住。
◆マルキン音楽院在職(講師)。ニューヨークやボルティモアでの出張講義もあり収入は増加するものの、記録的寒波がシェーンベルクを苦しめます。

◆2月9日、ボストンで摂氏マイナス27.8度を記録(現在も破られていない同市の最低気温記録)。しかも強風でした。

◆2月、シェーンベルクがシカゴ交響楽団を指揮して「ペレアスとメリザンド」を演奏。
◆3月、シェーンベルクがボストン交響楽団を指揮して「浄められた夜」を演奏。
◆4月1日、ドイツを離れるユダヤ人の子供たちのパレスチナ移住を支援する慈善コンサートに、アインシュタイン、ゴドフスキーらと出演。会場はカーネギー・ホール。

◆ニューヨーク作曲家連盟に招かれ、シェーンベルクは室内作品を指揮。
◆ニューヨークで2,000人規模の大規模なレセプションが開催され、シェーンベルクはそのうちの500人ほどと握手を交わしています。
◆3月、マルキン音楽院との契約が終了。更新を打診されますが記録的な大寒波に恐れをなしたシェーンベルクは辞退。また、ジュリアード音楽院とシカゴ音楽大学から年俸4,000〜5,000ドルで招かれますが、すでに喘息が悪化していたためこちらも辞退しています。

◆7月中旬、静養のためニュー―ヨーク市の北東約500kmに位置するニューヨーク州シャトークア湖畔に滞在開始。同地で開催されるジュリアード音楽院大学院のシャトークア・サマースクールで指導しながら、9月中旬まで滞在。
◆秋、シャーマー社から印税の前払い金3,000ドル。
◆秋、ハリウッド・ボウル近くのロサンジェルス市キャニオン・コーヴ5860番地に家を借り、妻、娘と3人で居住(ハリウッド大通りの北約1.5kmに位置)。当時のロサンジェルス市は人口約130万人で、ニューヨーク市の人口約700万に対して人口密度的にもかなり余裕があり、また、温暖な気候で物価も安いカリフォルニアは亡命ユダヤ人に人気の州でもありました。
◆キャデラックのラサール1933年型を購入。

◆秋、自宅で少人数制のレッスンを開始。南カリフォルニア大学の音楽理論助教授で作曲家でもあるポーリン・アルダーマンと、音楽理論部門の責任者であるジュリア・ハウエル教授の手配により学生を集め、受講料を参加者で分担するという方法でシェーンベルクはかなりの収入を得ています。
【作品】
●弦楽合奏のための「古い様式による組曲」
◆ロサンジェルス市キャニオン・コーヴ5860番地に、妻、娘と3人で居住。
◆指揮報酬1,000ドル受領。
◆春、自宅のレッスンを大規模化し、弦時には楽四重奏団による演奏も交えながら本格的な講義を実施。1回600ドルの受講料を多くの参加者で負担する方法で、ジョン・ケージも受講。ケージはシェーンベルクに気に入られ、プライベートでも親しく交流。
◆4〜9月、作曲の個人指導に、プロとして活躍していたピアニスト、映画音楽作曲家のオスカー・レヴァントが弟子として参加。シェーンベルクは彼のことを気に入ったため、アシスタントになるよう依頼しますが、レヴァントは自分にはその資格が無いと断っています。レヴァントはガーシュウィンの親友でもありました。

◆夏、私立の南カリフォルニア大学(USC)の非常勤講師として年俸約4,000ドルで契約。当時のアメリカ人のフルタイム就業者の平均年収は1,146ドルなので、非常に恵まれた条件でした。しかも南カリフォルニア大学は大恐慌の影響でリストラをおこなっているところだったのでこの厚遇には、すでにシェーンベルクのアメリカでの名声が高まっていたことが窺えます。

◆12月24日、アルバン・ベルク、ウィーンで敗血症により死去。

◆ロサンジェルス市キャニオン・コーヴ5860番地に、妻、娘と3人で居住。
◆南カリフォルニア大学(USC)から契約更新の打診があったものの、シェーンベルクは辞退し退職。短い在職期間でしたが、総額4,000ドル以上を得ていました。

◆5月1日、カリフォルニア州ロサンジェルス市、ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地の住宅に、妻、娘と3人で入居。当時の評価額は17,500ドルで、頭金として1,000ドル支払い、残りは毎月250ドルでローンを組んでいます。近くにはトーマス・マンやテオドール・アドルノ、ルドルフ・コーリッシュ、ハンス・アイスラー、エルンスト・トッホ、ベルトルト・ブレヒト、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラー、ジョージ・ガーシュウィンなどが住んでいました。
◆7月、州立のカリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)の教授に就任。年俸は4,800ドル(当時のアメリカの大学教授の全国平均は約4,000ドル)。

◆個人指導継続。
◆8月、ガーシュウィンがハリウッドに転居。シェーンベルクとの親しい交流が始まります。

◆コーリッシュ四重奏団がカリフォルニア大学ロサンジェルス校でシェーンベルクの弦楽四重奏曲を全曲演奏。客席のガーシュウィンが深い感銘を受けています。
◆10月、作曲の個人指導に、オスカー・レヴァントが再び参加。翌年11月までシェーンベルク家を訪れています。

◆12月、ガーシュウィンによるシェーンベルクの肖像画が完成。ちなみにシェーンベルクもガーシュウィンの肖像を描いています。

◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸4,800ドルに増額。

◆個人指導による収入が約2,000ドル。
◆キャデラックのラサール1937年型を購入。

◆3月、橋本國彦に個人指導。
◆6月9日、息子ロナルド(1937-2012)、カリフォルニア州サンタ・モニカで誕生。
◆7月11日朝、ガーシュウィン、死去。38歳。前日に腫瘍摘出のため5時間に及ぶ開頭手術がおこなわれ、そのまま意識が戻らず亡くなっています。

◆10月、コロラド州デンヴァーでシェーンベルクを称える音楽祭が開催。シェーンベルクの作品に加え、弟子のベルク、ストラング、ウェーベルン、レヴァントの作品も演奏。コーリッシュ四重奏団などが演奏。
【作品】
●ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番の管弦楽編曲(クレンペラーからの委嘱作)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸4,800ドル。

◆個人指導収入。
◆マルキン音楽院から名誉理事長の称号を打診され受け入れます。
◆3月、ドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)。
◆5月7日、クレンペラー指揮ロサンジェルル・フィルによりブラームスのピアノ四重奏曲第1番のシェーンベルク編曲版が初演。シェーンベルクは交渉の一環として初演をニューヨークでおこなうとクレンペラーに揺さぶりをかけるなどしています。

【作品】
●合唱曲「コル・ニドレ」 Op.39(ユダヤ教ラビのジェイコブ・ソンダーリングからの委嘱作)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸5,100ドル。

◆個人指導収入。
◆3月15日、ドイツによるチェコスロヴァキア分割により、シェーンベルクは無国籍状態に。
◆9月、ドイツがポーランドに侵攻。その後、第2次世界大戦に拡大。
◆9月、65歳となり、定年退職年齢に達しますが、大学は5年間延長することを決定。住宅ローンがまだ半分近くの残っていたのでシェーンベルクには朗報でした。
◆10月、ミズーリ州カンザスシティで開催された全米音楽教師協会の年次総会に、基調講演者として招かれ、熱烈な歓迎を受けます。
【作品】
●室内交響曲第2番 Op.38(1906年に作曲開始したものの中断。指揮者フリッツ・シュティ−ドリーから600ドルで委嘱を受けて完成)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸5,100ドル。

◆個人指導収入。
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸5,100ドル。

◆個人指導収入。
◆1月27日、息子ローレンス(1941- )、カリフォルニア州ロサンジェルスで誕生。
◆3月10日、サルツブルク在住の弟ハインリヒ(バス歌手)がゲシュタポにより逮捕・投獄。
◆4月11日、シェーンベルクと妻ゲルトルート、娘ヌーリアがアメリカ市民権を取得。
◆6月1日、ゲシュタポにより逮捕された弟ハインリヒが敗血症になり、収監先の病院で死去。59歳。
◆9月、かつて私的演奏協会に出演していたピアニスト、チェシア・ディシェ(1896-1941)が、レンベルク(現・リヴィウ)の路上で母と共に射殺。44歳。ドイツ政府は終戦までに同地のユダヤ人約10万人を数百人まで減らしています。

◆10月、大学に対して3年間給与が引き上げられていないとして、年俸増額を交渉するものの財政難を理由に断られます。
◆12月、太平洋戦争勃発。
【作品】
●オルガンのための「レチタティーヴォによる変奏曲」 Op.40
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸5,400ドル。

◆個人指導収入。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆1月11日、シェーンベルクと共に育った従妹のメラニーが、ラトヴィアのリガで虐殺。63歳。
◆3月15日、ツェムリンスキーがニューヨーク近郊のラーチモント(ニューヨーク州ウェストチェスター郡)で死去。70歳。
◆7月21日、シェーンベルクと共に育った従妹のオルガが、ラトヴィアのリガで虐殺。62歳。
◆10月14日、台本作家のオスカー・ブルマウアー=フェリックス(1887-1942)がベルリンで死去。シェーンベルクの妹オッティーリエの夫。
【作品】
●「ナポレオン・ボナパルトへの頌歌」 Op.41(作曲協議会からの委嘱作)
●ピアノ協奏曲(オスカー・レヴァントからの委嘱作)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸5,400ドル。

◆個人指導収入。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
【作品】
●吹奏楽のための「主題と変奏」 Op.43a
●管弦楽のための「主題と変奏」 Op.43b
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸5,400ドル。

◆個人指導収入。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆9月、カリフォルニア大学ロサンジェルス校を定年退職。本来は65歳で定年でしたが、大学側の好意で5年間延長していました。さらに大学は名誉教授の称号を授与。
◆カリフォルニア大学の年金支給が開始。月額29.60ドルとアメリカ式に低額だったため、シェーンベルクはカリフォルニア大学ロサンジェルス校への私文書寄贈合意を撤回し、南カリフォルニア大学に寄贈することにします。

◆個人指導を継続。
◆糖尿病のためインスリン注射治療開始。
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆糖尿病のためインスリン注射治療継続。
◆4月、グッゲンハイム・フェローシップ(年齢制限40歳で資金が余った場合には例外措置あり)に申請していたプロジェクトが落選。70歳のシェーンベルクが申請した3つのプロジェクトは、オペラ「モーゼとアロン」の完成(作曲目安6〜7か月)、オラトリオ「ヤコブの梯子」の完成(作曲目安18〜24か月)、そして音楽理論書全3巻の執筆というものでした。
落選理由としてジョン・サイモン・グッゲンハイム記念財団側は、助成金制度が、将来性豊かな「若手」研究者及び創作活動従事者への支援を目的とするもので、当該資金が余った場合に限り、その他の対象者への助成を検討すると説明しています。また、この年は、兵役のおかげでプロジェクト申請できなかった研究者や創作活動従事者が50名近く助成対象となったため、余剰資金もない状況でした。
ちなみにこの年に助成を勝ち取ったクラシック作曲家は、サミュエル・バーバー、エリオット・カーター、ルーカス・フォス(ドイツ系アメリカ人)、ノーマン・デロ・ジョイオ(イタリア系アメリカ人)、ニコライ・ロパトニコフ(ロシア系アメリカ人)、ダイ・キオン・リー(中国系アメリカ人)の6名。

◆5月、ドイツ降伏。
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に居住。
◆個人指導を継続。
◆3月頃、糖尿病のインスリン注射治療を中止。失神発作の増加により。
◆6月、ストコフスキーが演奏時間2分ほどのファンファーレを作曲するよう依頼。委嘱料は1,000ドル。
◆7月、金管アンサンブルと打楽器群のための「グレの歌のモチーフによるファンファーレ」として作曲を終え、オーケストレーションが3分の2(46小節中の31小節)まで終わった段階で目の不調により作業ができなくなり中断。後年、弟子のレナード・スタインが完成。委嘱料の返還は求められず、シェーンベルクの医療費に充てられています。
◆9月15日、ウェーベルンがサルツブルク州のミッタ―ジルでアメリカ軍の兵により射殺。61歳。ちなみに3週間前の8月23日にはベルリン・フィル首席指揮者のレオ・ボルヒャルト(1899-1945)がやはりアメリカ兵により射殺されています。

◆9月、タンスマン、ミヨー、ストラヴィンスキーらとの共同作品「創世記」組曲のために、前奏曲 Op.44を作曲。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校から法学博士号授与について打診されるものの辞退。
【作品】
●前奏曲 Op.44
◆2月22日、ウェーベルンが従妹のウィルヘルミーネと結婚。カトリックでは従妹婚は禁じられていたため、挙式は戦時中の1915年までおこなわず、その間に3人の子供が生まれていました(その後もう1人誕生)。ウィルヘルミーネは反ユダヤ主義的な人物で、ウェーベルンも影響を受けるようになり、後年、ヒトラーの「我が闘争」を愛読し、初期のナチ党についても支持。息子のペーターはナチ党員になり、娘のクリストルの夫ベンノ・マッテル(1917-2018)はの所属。
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆国際現代音楽協会がシェーンベルクに名誉会長の称号を授与。
◆3月、シカゴ大学が客員教授としてシェーンベルクを招聘(翌4月まで)。
◆6月、ハーヴァード大学から弦楽三重奏曲の作曲を750ドルで委嘱。スケッチを開始。
◆8月2日、喘息薬として新たにベンゼドリン(≒アンフェタミン)が処方された数時間後に心臓付近が激痛に襲われ、処方した医師を探すものの見つからず、助手のレナード・スタインが手配した医師が治療にあたり、ディラウディド(麻酔薬系の鎮静剤)を注射して処置。しかし10分後にシェーンベルクは昏睡状態に陥り、心拍と脈拍が停止したため、医師が心臓に直接アドレナリン注射をするなどしてなんとか蘇生。回復には3週間ほど要し、その間、ペニシリンを160回も注射されています。
◆8月20日、ハーヴァード大学から750ドルで委嘱されていた弦楽三重奏曲の作曲を本格的に開始し、9月23日に完成。作品には死にかけたときの経験が反映。
【作品】
●弦楽三重奏曲 Op.45(ハーヴァード大学からの委嘱作)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆6月、アメリカ芸術・文学アカデミーがシェーンベルクの生涯功績を称えて功労賞を授与。賞金は1,000ドル。
◆音楽の趣味が保守的でシェーンベルクの音楽を好まなかったトーマス・マンが、無許可でシェーンベルクと十二音技法をモデルにしてさらに侮蔑的な扱いまでしたところも含む小説「ファウストゥス博士」が出版。
◆12月25日、娘ゲルトルーデ、ニューヨークで死去。45歳。
【作品】
●「ワルシャワの生き残り」Op.46(クーセヴィツキー財団からの委嘱作)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆小説「ファウストゥス博士」で自分が勝手に題材にされていると知り、さらに協力者が当時嫌っていたアドルノであることを知ったシェーンベルクが、トーマス・マン宛に抗議の手紙を送付。トーマス・マンは謝罪し、説明文を付すことで対応。

◆サンタ・バーバラで講演。
◆著書「作曲の基礎」上辣。
【作品】
●「3つの民謡」Op.49
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆連合軍政府により分割統治中のオーストリアで、約50万人の元ナチ党員が参政権を回復。
◆5月、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)誕生。
◆9月、健康状態悪化により、75歳記念祝賀会のためにヨーロッパに渡ることを断念。
◆9月13日、ウィーン市が、シェーンベルクの誕生日に名誉市民の称号を授与。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校から同大学音楽学部作曲家評議会への参加を要請されるものの拒否。
◆10月、東ドイツ(ドイツ民主共和国)誕生。
【作品】
●ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 Op.47
●「千年が三度」Op.50a
●「イスラエル再興」
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆8月、自身の健康状態について報告書を作成。喘息の発作は以前より少なくなったものの、息切れは慢性化して睡眠時に息切れで目覚める恐怖から椅子で寝ることが多くなります。また、これまでに、糖尿病、肺炎、腎臓病、ヘルニア、浮腫症の治療を受けたことも記されています。
◆9月、誕生日の祝賀会開催が中止。
◆10月、遺言状を2通作成。
◆慈善団体に寄付。
◆11月、トーマス・マンと和解。
◆エッセイ集「スタイルとアイデア」が、弟子のディーカ・ニューリンの編纂により出版。
【作品】
●詩篇第130番「深き淵より」 Op.50b
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆エルサレムのイスラエル音楽アカデミーから名誉会長の称号がシェーンベルクに授与。
◆7月13日金曜日午後11時45分、ロサンジェルスの自宅で死去。76歳。当時のシェーンベルク家の在宅家族は、妻ゲルトルーデ(53歳)、娘ヌーリア(19歳)、息子ロナルド(14歳)、息子ローレンス(10歳)。デスマスクはアンナ・マーラーが作成。
◆7月17日、ウェスト・ロサンジェルスのウェイサイド・チャペルで葬儀。ユダヤ教改革派のラビ、エドガー・F・マニンが式を執り行い、80人の会葬者が参列。
【作品】
●現代詩篇 Op.50c(前年に着手。未完)
◆1月、カリフォルニア州の山火事で、ロサンジェルスのパシフィック・パリセイズ地区にあるシェーンベルクの息子ローレンス(ラリー)の自宅とその裏にある「ベルモント・ミュージック」の建物が全焼し、ベルモント・ミュージックの所蔵品である原稿やオリジナル楽譜、書簡、書籍、写真、美術作品など10万点以上がすべて焼失。
【複数作曲家】
◆女性作曲家たち
◆Piano Classics スラヴ・エディション
◆Piano Classics フレンチ・エディション
◆Piano Classics アメリカ・エディション
◆オランダのピアノ協奏曲集
◆オランダのチェロ協奏曲集
◆イタリアのヴァイオリン・ソナタ集
◆イタリアのチェロ・ソナタ集
◆ファゴットとピアノのためのロマン派音楽
【中世〜バロック作曲家(生年順)】
◆ヒルデガルト・フォン・ビンゲン (1098-1179)
◆バード (c.1540-1623)
◆スウェーリンク (1562-1621)
◆モンテヴェルディ (1567-1643)
◆ファゾーロ (c.1598-c.1664)
◆カッツァーティ (1616-1678)
◆レグレンツィ (1626-1690)
◆ルイ・クープラン (1626-1661)
◆クープラン一族
◆ブクステフーデ (1637-1707)
◆マッツァフェッラータ (c.1640–1681)
◆ムルシア (1673-1739)
◆グリューネヴァルト (1673-1739)
◆ダンドリュー (1682-1738)
◆J.S.バッハ (1685-1750)
◆B.マルチェッロ (1686-1739)
◆モルター (1696-1765)
◆スタンリー (1713-1786)
◆ヨハン・エルンスト・バッハ (1722-1777)
【古典派&ロマン派作曲家(生年順)】
◆ハイドン (1732-1809)
◆ミスリヴェチェク (1737-1781) (モーツァルトへの影響大)
◆ボッケリーニ (1743-1805)
◆モンジュルー (1764-1836) (ピアノ系)
◆ベートーヴェン (1770-1827)
◆クラーマー (1771-1858)
◆ジャダン (1776-1800) (ピアノ系)
◆リース (1784-1838)
◆ブルックナー (1824-1896)
◆マルトゥッチ (1856-1909)
◆マーラー (1860-1911)
◆トゥルヌミール (1870-1939)
◆ルクー (1870-1894)
◆レーガー (1873-1916)
◆ラフマニノフ (1873-1943)
◆ウォルフ=フェラーリ (1876-1948)
【近現代作曲家(生年順)】
◆レーバイ (1880-1953) (ギター系)
◆マルティヌー (1890-1959)
◆ミゴ (1891-1976) (ギター系も)
◆サントルソラ (1904-1994) (ギター系も)
◆ショスタコーヴィチ (1906-1975)
◆ラングレー (1907-1991) (オルガン系)
◆アンダーソン (1908-1975)
◆デュアルテ (1919-2004) (ギター系)
◆プレスティ (1924-1967) (ギター系)
◆テオドラキス (1925-2021)
◆ヘンツェ (1926-2012)
◆スハット (1935-2003)
◆坂本龍一 (1952-2023)
【オーケストラ】
◆ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
【指揮者(ドイツ・オーストリア)】
◆アーベントロート
◆エッシェンバッハ
◆カラヤン
◆クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィル、 ベルリン・フィル、 ミュンヘン・フィル、 国立歌劇場管、レジェンダリー)
◆クラウス
◆クリップス
◆クレンペラー (VOX&ライヴ、ザルツブルク・ライヴ、VENIASボックス
◆サヴァリッシュ
◆シューリヒト
◆スイトナー (ドヴォルザーク、 レジェンダリー)
◆フリート
◆フルトヴェングラー
◆ヘルビヒ (ショスタコーヴィチ、 マーラー、 ブラームス)
◆ベーム
◆メルツェンドルファー
◆ヤノフスキー
◆ライトナー
◆ラインスドルフ
◆レーグナー (ブルックナー、 マーラー、 ヨーロッパ、 ドイツ)
◆ロスバウト
【指揮者(ロシア・ソ連)】
◆アーロノヴィチ
◆ガウク
◆クーセヴィツキー
◆ゴロワノフ
◆ペトレンコ
◆マルケヴィチ
【指揮者(アメリカ)】
◆クーチャー(クチャル)
◆スラトキン(父)
◆ドラゴン
◆バーンスタイン
◆フェネル
【指揮者(オランダ)】
◆オッテルロー
◆クイケン
◆フォンク
◆ベイヌム
◆メンゲルベルク
【指揮者(フランス)】
◆パレー
◆モントゥー
【指揮者(ハンガリー)】
◆セル
◆ドラティ
【指揮者(スペイン)】
◆アルヘンタ
【指揮者(スイス)】
◆アンセルメ
【指揮者(ポーランド)】
◆クレツキ
【指揮者(チェコ)】
◆ターリヒ
【指揮者(ルーマニア)】
◆チェリビダッケ
【指揮者(イタリア)】
◆トスカニーニ
【指揮者(イギリス)】
◆バルビローリ
【指揮者(ギリシャ)】
◆ミトロプーロス
【指揮者(日本)】
◆小澤征爾
【鍵盤楽器奏者(楽器別・生国別)】
【ピアノ(ロシア・ソ連)】
◆ヴェデルニコフ
◆グリンベルク
◆ソフロニツキー
◆タマルキナ
◆ニコラーエワ
◆ネイガウス父子
◆フェインベルク
◆フリエール
◆モイセイヴィチ
◆ユージナ
【ピアノ(フランス)】
◆ウーセ
◆カサドシュ
◆ティッサン=ヴァランタン
◆ハスキル
◆ロン
【ピアノ(ドイツ・オーストリア)】
◆キルシュネライト
◆シュナーベル
◆デムス
◆ナイ
◆レーゼル (ブラームス、 ベートーヴェン)
【ピアノ(イタリア)】
◆フィオレンティーノ
【ピアノ(ハンガリー)】
◆ファルナディ
【ピアノ(南米)】
◆タリアフェロ
◆ノヴァエス
【チェンバロ】
◆ヴァレンティ
◆カークパトリック
◆ランドフスカ
【弦楽器奏者(楽器別・五十音順)】
【ヴァイオリン】
◆オイストラフ
◆コーガン
◆スポールディング
◆バルヒェット
◆フランチェスカッティ
◆ヘムシング
◆リッチ
◆レナルディ
◆レビン
【チェロ】
◆カサド
◆シュタルケル
◆デュ・プレ
◆トルトゥリエ
◆ヤニグロ
◆ロストロポーヴィチ
【管楽器奏者】
【クラリネット】
◆マンツ
【ファゴット】
◆デルヴォー(ダルティガロング)
【オーボエ】
◆モワネ
【歌手】
◆ド・ビーク (メゾソプラノ)
【室内アンサンブル(編成別・五十音順)】
【三重奏団】
◆パスキエ・トリオ
【ピアノ四重奏団】
◆フォーレ四重奏団
【弦楽四重奏団】
◆グリラー弦楽四重奏団
◆シェッファー四重奏団
◆シュナイダー四重奏団
◆ズスケ四重奏団
◆パスカル弦楽四重奏団
◆ハリウッド弦楽四重奏団
◆バルヒェット四重奏団
◆ブダペスト弦楽四重奏団
◆フランスの伝説の弦楽四重奏団
◆レナー弦楽四重奏団
【楽器】
◆アルザスのジルバーマン・オルガン
ウェルナーの破産発言の真意
ちなみにシェーンベルクが退職した際の話は、1895年にウェルナーが「破産だ」と言ったことに関連付けられていますが、この場合の「破産」という言葉は、おそらく同年のウィーン市議会選挙で、キリスト教社会党が過半数議席を獲得したことを嘆く言葉と思われます。
キリスト教社会党は反ユダヤ主義的な政党なので、それまで実に30年以上に渡ってリベラル派が過半数議席を占めてきたウィーン市議会の運営が激変することは明らかだったため、ウェルナー社の顧客離れを見越しての発言だったのでしょう。
ウェルナー社の解散
1897年4月8日、熱烈な反ユダヤ主義者で、反資本主義、反自由主義、反マジャル(ハンガリー)主義を掲げてウィーン市民に人気を博したカール・ルエーガー(1844-1910]が市長に就任すると、いよいよ勝機無しと判断したのか、3か月後の7月2日にウェルナー社は解散しています。
シェーンベルクへの影響
こうした時代環境の中、2人の証券ディーラーの仕事に約5年間も身近に接していた多感なシェーンベルクが、「ディール」の影響を受けないとは考えにくく、会話や文章に誇張や仕掛けが含まれ、ときには冗談やウソ、ハッタリまで交え、傲慢に威嚇したり、過剰に賛美したり嘆いたり陶酔したりといった大袈裟で挑発的な様相を帯びてくるのもむしろ自然な成り行きでした。
その意味では、シェーンベルクの交渉や仕事関係の発言・手紙の言葉をなんでも「額面通り」に受け止めるのは判断ミスに繋がりかねないため、国家の体制や規模感、社会制度、各種政策、インフレや為替、軍事、気候、宗教、文化なども含めた歴史的関連事実の幅広い情報収集と時系列的な検証も求められるところです。
下の画像はウェルナー社に近いウィップリンガー通りの当時の様子です。

反ユダヤ主義とシェーンベルク
背景
シェーンベルクの父サムエルは自由主義かつ同化主義的なユダヤ人で、母パウリーネはカントル(ハッザーン)を輩出した正統派家系のユダヤ人。シェーンベルクはユダヤ教徒として生後8日めに割礼儀式を受け、その際にヘブライ語のミドル・ネームをアヴラハムと命名。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世時代のウィーンはユダヤ人が大活躍で、医師の60%以上、弁護士の58%以上、広告宣伝業の96%以上、銀行の75%以上のほか、リベラル系の新聞や雑誌はほぼすべてユダヤ系で、ウィーン大学も学生の3分の1以上がユダヤ人でした。人口比ではユダヤ人は1割くらいなのでかなりの躍進ぶりですが、一方で、サルツブルクなど、ウィーン以外の地域はカトリック支配が強力で反ユダヤ主義も根強く、また、1895年にウィーン市議会選挙で、反ユダヤ主義的な「キリスト教社会党」が過半数議席を獲得したことで、ウィーンのユダヤ人の立場は不安定なものとなっていきます。
ウィーン市長ルエーガー
1897年に市長となったルエーガーは、実際には1895年10月にウィーン市長に選出されていましたが、その強烈な反ユダヤ主義を恐れた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が承認を拒否。その後の選出に際しても皇帝は拒否で一貫していましたが、1897年4月8日、2年間で5度目の選出となった人気ぶりに高齢のローマ教皇レオ13世(1810-190)も黙っていられなくなり、個人的にフランツ・ヨーゼフにとりなして、なんとか承認させています。これによりルエーガー側も暴力的な反ユダヤ主義運動は認めないことにしますが、マスコミなどを使った反ユダヤ主義キャンペーンでユダヤ人を迫害することはOKとしてウィーンでの人気を維持し、1910年に亡くなった際には、数十万人のウィーン市民が葬列に参加するほどの異例の人気ぶりで(当時人口約203万人)、ヒトラーのヒーローにもなっていました(もう一人のヒーローは、「リンツ綱領」に「アーリア人条項」を追加したゲオルク・フォン・シェーネラー)。

キリスト教に改宗
1898年3月25日、シェーンベルクはウィーンのドロテアガッセにあるルター派教会で受洗し、ユダヤ教からキリスト教(ルター派プロテスタント)に改宗しています。洗礼名はアルノルト・フランツ・ワルター・シェーンベルク。
1895年の選挙で反ユダヤ主義のキリスト教社会党がウィーン市議会で過半数議席を獲得したことで30年以上続いたリベラル期が終わり、1897年には熱烈な反ユダヤ主義者のルエーガーが市長になってことで、シェーンベルクが指揮者として活動範囲を広げるためには必要なことでした。

「反ユダヤ同盟」がウィーンで設立
1919年7月、キリスト教社会党の右派議員、アントン・イェルツァベク(1867-1939)らによって設立。機関誌「鉄のほうき」などでの活動を通じて、急速にオーストリアの他の地域に拡大し、300以上の地方組織と、約1万人の会員を獲得。大規模なデモや挑発行為をユダヤ人居住区などでも実施。「東洋的」「非ドイツ的」「シオニスト的」「退廃的」といった言葉を用いて民族差別・人種差別を煽ります。

マットゼー事件
1921年7月、6月から家族と弟子たちと共に避暑に訪れていたサルツブルク近郊のマットゼー(マット湖)で、自治体当局の人間から、マットゼーがユダヤ人立ち入り禁止になったことを知らされ、滞在を続ける場合は、ユダヤ人ではないことを文書で証明するよう求められたため、シェーンベルクは憤慨して退去。サルツブルクの実弟ハインリヒの義父でサルツブルクク州副知事のオット邸に短期滞在したのち、50qほど東にある保養地トラウンキルヒェンに移り、そこで12音技法のアイデアを思い付いたとされています。ちなみに、1920年代初頭にはチロル州とオーストリア南部の7つの州にある70か所の避暑地が「ユダヤ人がいない」場所としてポスターや新聞などで広く宣伝されていました。また、1921年5月29日には、サルツブルクのドイツ帝国への併合に関する住民投票がおこなわれ、90%以上の賛成が得られていましたが、第1次大戦戦勝国の定めた戦後協定により法的には無効でした。

シリングスからの弾圧
1933年3月、プロイセン芸術アカデミー学長のマックス・フォン・シリングス(1868-1933)によるシェーンベルクへの弾圧が開始。これはシェーンベルクが終身契約だったため、4月にまず終身契約を停止し、やがて辞任に追い込むプロセスでした。R.シュトラウスの親友で、フルトヴェングラーやヘーガーの師でもあるシリングスは、有名な作曲家・指揮者で、ナチ信奉者、反ユダヤ主義者としても有名。シリングスは同時にシェーンベルクの同僚のフランツ・シュレーカーにも圧力をかけて辞めさせています。

ユダヤ教に復帰
1933年、アメリカ行きの決まったシェーンベルクはすぐにユダヤ教に改宗。パリのラビにより文書が作成され、シャガールらも証人となり署名。妻ゲルトルートと娘ヌーリアはカトリックのままで、以後もシェーンベルクのみユダヤ教で他の家族はカトリックという状況が続きます。
7月24日には、パリ16区にある改革派ユダヤ教のシナゴーグで、シェーンベルクは「フランス・イスラエル自由連合」に入会し、ユダヤ人コミュニティに復帰。

修行時代
シェーンベルクは8歳からヴァイオリンを習い、独学で作曲もしていますが、最初に自分で作品番号を付けたのはそれから16年後のことで、アドラーの指導を経て、ツェムリンスキーのレッスンを終えた翌年のことでした。
ヴァイオリンのレッスンと作曲
1882年から従兄弟のルドルフ・ゴルトシュミート(1875-1944)と一緒にヴァイオリンのレッスンに通い始め、ほどなく自分と従兄弟のために、2つのヴァイオリンのための「同盟ワルツ」「陽光ポルカ」「無言歌」を作曲。下の画像、左端がシェーンベルクで右端がルドルフ。手前がシェーンベルクがのちに夢中になるマルヴィーナ。

アドラーからの指導
オスカー・アドラー(1875-1955)は、1891年頃から音楽理論や、各種楽器演奏、哲学、詩などを指導した親友。のちに医師、音楽家、占星術師として活躍。シェーンベルクが数秘術にはまるきっかけもアドラー。

ツェムリンスキーからの指導
アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871-1942)からは、1896年から1897年頃にかけて、対位法などのレッスンを受けています。

同居家族
家族思いのシェーンベルク
シェーンベルクは76歳で亡くなるまで常に家族と共に生活していた人物でもありました。
シェーンベルク7歳、妹5歳の時には、リング劇場に「ホフマン物語」を見に行って焼け死んだ伯父夫婦の遺児である3歳の娘と1歳の娘の2人が加わって6人家族となり、その5か月後には弟が生まれてシェーンベルク家は7人の大所帯にまで成長。
当時7歳のシェーンベルクが、母を手伝って世話をしていたのは、0歳、1歳、3歳、5歳というまったく目が離せない時期の4人の子供たちで、それがシェーンベルクのコミュニケーション能力を高め、老齢になっても子供とうまく過ごせたことに繋がったのかもしれません。そしてそれが教育という仕事でも成功する能力を育んだ可能性もあります。
生家 1874〜1901(27年間/3〜7人家族/オーストリア)
◆1838-1889 父サムエル
◆1848-1921 母パウリーネ
◆1876-1954 妹オッティーリエ
◆1878-1942 従妹メラニー
◆1880-1942 従妹オルガ
◆1882-1941 弟ハインリヒ

マティルデとの家族 1901〜1923(22年間/2〜4人家族/ドイツ、オーストリア)
◆1877-1923 妻マティルデ
◆1902-1947 娘ゲルトルーデ
◆1906-1974 息子ゲオルク

ゲルトルートとの家族 1924〜1951(27年間/2〜5人家族/オーストリア、ドイツ、アメリカ)
◆1898-1967 妻ゲルトルート
◆1932- 娘ヌーリア
◆1937-2012 息子ロナルド
◆1941- 息子ローレンス

困窮説
シェーンベルクの困窮生活とは
シェーンベルクについてはよく生活が貧しかった、困窮していたとされますが、その要因として、クラシック音楽業界では、「失意」「貧困」「忘れ去られ」などというマイナス・イメージな言葉が好まれていたことに加え、主にカトリック圏で使用されていた「貧困証明書」に対する誤認識があると考えられます。
マイナス・イメージ効果
マイナス・イメージな言葉が好まれていたのは、クラシック音楽の収益性が低く、団体などを維持継続するためには公私の助成が必要なケースが多いため、「伝統文化を維持するためには助けが必要」というストーリーを、マイナス・イメージによって強化・浸透させる方が都合が良かったからでしょう。
貧困証明書
かつてのカトリックでは、払える信徒には財産の寄付なども求められ、たとえばボッケリーニも「貧困証明書」を発行して、財産は子供が引き継ぐため教会に寄付できないとする手続きをおこなっています。この「貧困証明書」には助成を求める際の必要書類という側面もあったため、事実無根のボッケリーニ貧困説が広まってしまったようです。
シェーンベルクの場合
シェーンベルクの時代のオーストリアでも「貧困証明書」制度は形を変えて残っており、奨学金や助成金を申し込んだ際に、団体によっては「貧困証明書」の発行が求められています。
1904年3月、 シェーンベルクはいつものディール的行動で何か助成を求めたのか、「貧困証明書発行のための質問票」に、3人家族で住んでいたアパートの状況について記入しています。
「部屋3室、控え室1室、台所1室/家賃:四半期あたり250クローネ/使用人:メイド1名/月給:24クローネ」。つまり年間家賃1,000クローネ(約125万円相当)、1か月家賃約83クローネ(約10万4千円相当)で、メイドの月給は3万円相当ということになります。当時のウィーンの日給平均は約3クローネ(約3,750円相当)なので、29歳でメイドまで雇っていたシェーンベルクの家計は恵まれていることになり、助成を受けることはできなかったと思われます。ちなみにこのアパートの「控え1室」は、3年後の1907年に親しい画家のゲルストルに無償貸与しますが、翌年、彼と妻マティルデの不倫が発覚。マティルデはゲルストルと共に家を出てしまい、ウェーベルンらの説得により1週間ほどでゲルストルと別れるものの、その後もゲルストルの欲求は収まらず、やがてマティルデから拒絶されたことを苦に自殺。傷心のシェーンベルクは仕事に打ち込んで収入が大幅に増え、翌々年、年間家賃2,600クローネ(約325万円相当/月額約27万円)のアパートに転居。2人のメイドも雇用しています。
渡米して貧乏になった説
1933年、プロイセン芸術アカデミーで弾圧を受けたシェーンベルクは、パリで誰の支援も受けられず困っていたところ、アメリカのユダヤ人チェロ奏者マルキンから自分の音楽院で働かないかと誘いがあり、その後のアメリカでの生活に備えてか、すぐにユダヤ教に改宗し、「フランス・イスラエル自由連合」に入会することでユダヤ人コミュニティに復帰。10月末に渡米し、11月から働き始めます。
マルキン音楽院の基本年俸は当時のアメリカ人フルタイム就業者平均年収の4倍以上にあたる4,800ドル。この金額は生徒12人の基本額で各1時間の講義を週2回×32週間、つまり年に正味わずか64時間で、準備に時間がかかるにしてもかなりの待遇の良さです。そして、生徒が1人増えると200ドルが追加され、さらにニューヨーークの教室などへの出張講義の金額は別途加算されるという好条件。また、時間に余裕ができるため、自宅で生徒を個人指導することも許可され、1時間あたり最低30ドルで教えてもいました。
シェーンベルク流ディール発言
前職のプロイセン芸術アカデミーでは、講義時間が長いにも関わらず、年俸はドル換算で約4,500ドルだったので、時間当たり賃金では数倍以上の上昇ということになります。
しかし、シェーンベルクはこの好条件でも、報酬が想定の4分の1だったとか、渡航費用が自己負担だったなどとヨーロッパの知人に不満を表明して、自分がひどい目に遭っているように見せています。
これはおそらく、大恐慌下でドイツの失業率が26.3%(約480万人失業)、アメリカも24.9%(約1,283万人失業)と、一般の人々は悲惨な状況に置かれていることに配慮したものでしょう。特にドイツのユダヤ人や現代音楽関係者は悲惨な目に遭っていましたし。
面白いのはこのディール的な不平表明を額面通りに受け取った後世の人間が多いことで、それが「シェーンベルクはアメリカで不幸だった」などという定説に繋がっているのかもしれません。

居住地、仕事等
オーストリア、ドイツ、アメリカ
シェーンベルクはヨーロッパに59年間、アメリカに約18年間暮らしており、生活拠点はウィーン、ベルリン、ボストン、ロサンジェルスの4地域。
1874〜1901(27年間) ウィーン(3〜7人家族)
◆証券取引仲介銀行「ウェルナー社」(見習い)

◆メードリング合唱協会(指揮者)
1901〜1903(2年間) ベルリン(2〜3人家族)
◆ブンテス・テアター(楽長)

◆シュテルン音楽院(講師)

1903〜1911(8年間) ウィーン(3〜4人家族)
◆シュワルツワルト学校(講師)

1911〜1913(2年間) ベルリン(4人家族)
◆シュテルン音楽院(講師)

1913〜1925(12年間) ウィーン(2〜4人家族)
◆シュワルツワルト学校(講師)

1925〜1933(8年間) ベルリン(2〜3人家族)
◆プロイセン芸術アカデミー(教授)

1933〜1934(1年間) ボストン(3人家族)
◆マルキン音楽院(講師)

◆記録的大寒波
通説ではシェーンベルクは東海岸の気候が合わずロサンジェルス行きを選んだとされていますが、ボストンやニューヨークの気候はベルリンやウィーンと大差ないので、たまたまこの冬に到来した記録的大寒波(ボストンで摂氏マイナス27.8度、しかも強風)に衝撃を受けて決断したということでしょう。

1934〜1951(17年間) ロサンジェルス(3〜5人家族)
◆自動車購入
下の画像はシェーンベルクが到着間もなく購入したキャデラックの1933年型ラサール。通説と違って東海岸時代にかなり稼いでいたことがわかります。

◆南カリフォルニア大学(講師)

◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(教授)

◆自動車購入
下の画像はシェーンベルクが購入したキャデラックの1937年型ラサール。

私的演奏協会
批評家や敵対勢力の妨害から逃れるための演奏会開催
第1次大戦が終わっても収束しない反ユダヤ主義的風潮の中、いわれのない誹謗中傷や妨害行為に悩んでいたシェーンベルクは、仲間たちと会員制の演奏会シリーズを企画し、1918年11月にシェーンベルクの暮らすウィーン近郊のメードリングで「私的演奏協会」を設立。
順調な活動
ほどなく「赤いウィーン」と呼ばれる左派体制の世の中になって、公演も順調に推移。3年間で117回のコンサートが開催され、154曲の現代作品が演奏。コンサートやリハーサルは、ウィーン・コンツェルトハウス、ウィーン楽友協会などで実施。レパートリーは、マーラー、R.シュトラウス、ブゾーニ、レーガー、ドビュッシー、サティ、ストラヴィンスキー、コルンゴルト、ウェーベルンなど数多く、シェーンベルク自身の作品は1920年から登場。演奏者は主にシェーンベルクの弟子たちで、オーケストラが利用できないため、シェーンベルクの5つの管弦楽曲、ブルックナーの交響曲第7番、マーラーの交響曲第4番、ドビュッシーの牧神の午後への前奏曲などが特別に室内アンサンブル用に編曲されたりもしています。
活動停止
戦後のインフレ下でも活動は順調でしたが、やがてオーストリアのインフレがハイパーインフレに移行すると、予約演奏会システムは崩壊し、1921年12月に活動ができなくなり、事実上の解散に追い込まれています。

グッゲンハイム・フェローシップ問題
応募そのものがシェーンベルク流ディール
ディール的な逸話が多いシェーンベルクですが、中でもグッゲンハイムの助成金をめぐる話には面白いものがあります。
年齢制限40歳の選考会に70歳で応募
1945年4月、どう考えてもダメモトで応募したとしか思えない選考会で、当たり前のようにプロジェクトが落選。シェーンベルクが申請した3つのプロジェクトは以下の通り。
◆オペラ「モーゼとアロン」の完成(作曲目安6〜7か月)
◆オラトリオ「ヤコブの梯子」の完成(作曲目安18〜24か月)
◆音楽理論書全3巻の執筆
落選理由としてジョン・サイモン・グッゲンハイム記念財団側は、助成金制度が、将来性豊かな「若手」研究者及び創作活動従事者への支援を目的とするもので、当該資金が余った場合に限り、その他の対象者への助成を検討すると説明しています。助成を勝ち取ったクラシック作曲家は、サミュエル・バーバー、エリオット・カーター、ルーカス・フォス(ドイツ系アメリカ人)、ノーマン・デロ・ジョイオ(イタリア系アメリカ人)、ニコライ・ロパトニコフ(ロシア系アメリカ人)、ダイ・キオン・リー(中国系アメリカ人)の6名。
ちなみにこの1945年は、第2次大戦の兵役のおかげでプロジェクト申請できなかった研究者や創作活動従事者が50名近く追加で助成対象となったため、余剰資金もない状況でした。
当然の結果に対する異常な反応
シェーンベルクとしてもわかりきっていたからこそ、長く手を付けていなかった未完作品の完成という無茶な話を持ち出したのでしょう。
しかしこれに対して後世の音楽業界が、グッゲンハイム財団の判断ミスが2つの偉大な傑作の完成を阻んだなどと書いたりしているのを見ると、財団もお気の毒というほかありません。

健康状態
父は喘息
石炭の煤煙などによる大気汚染が過酷だった19世紀後半のウィーンに暮らした父サムエルは、おそらく喘息が持病だったにも関わらず、酒好きのヘヴィースモーカーを貫き、1889年の大晦日にインフルエンザがきっかけとなり51歳で死去(1890年は誤り)。
幼少期から喘息
シェーンベルクはその遺伝なのか、幼い時から喘息の発作に悩まされ、呼吸困難で体調不良に陥ることも多く、猩紅熱に罹った際には鼓膜が再発性の炎症を起こし、また、インフルエンザには毎年のように苦しめられたといいます。第1次大戦中の2度の兵役が短期間で済んだのは喘息の発作によるものでした。
ハイパーインフレ下での禁酒禁煙とその後のリバウンド
第1次大戦後のハイパーインフレによりタバコも酒も買いにくくなったため、シェーンベルクは禁酒禁煙を実行。しかし、ハイパーインフレが収束すると、再び酒を呑み始め、毎日タバコを60本吸う生活になり、加えて濃いコーヒーを日に3リットルも飲んでいたのだとか。
健康状態悪化により節酒禁煙
シェーンベルクが再び禁煙に踏み切るのは、1944年に70歳となり定年退職してからのことで、糖尿病悪化のためインスリン注射治療を開始したという事情がありました。禁煙に加えて、飲酒もウイスキーかコニャックをたまに一杯飲む程度にとどめ、健康のため、卓球、テニス、水泳、ボート漕ぎなどで体を動かすことを優先しますが、翌1945年にはインスリン注射による失神回数が増加したため糖尿病治療を中断。
喘息薬がきっかけで一気に体調悪化
1946年になると喘息の発作を抑えるために、ベンゼドリン(≒アンフェタミン)治療をおこないますが、数時間後に心臓付近が激痛に襲われ、処方した医師を探すものの見つからず、別な医師が治療にあたり、麻酔薬系の鎮静剤を注射したところ痛みが無くなるものの10分後にシェーンベルクは昏睡状態に陥り、心拍と脈拍が停止。医師が心臓に直接アドレナリン注射をするなどしてなんとか蘇生。回復には3週間ほど要し、その間、ペニシリンを160回も注射されています。この治療によりシェーンベルクの健康は大きく損なわれ、4年後に心臓発作で亡くなることになります。

シェーンベルク関連年表
前史 1871 1872 1873 1874 1875 1876 1877 1878 1879 1880 1881 1882 1883 1884 1885 1886 1887 1888 1889 1890 1891 1892 1893 1894 1895 1896 1897 1898 1899 1900 1901 1902 1903 1904 1905 1906 1907 1908 1909 1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945 1946 1947 1948 1949 1950 1951
参照資料: 「Schoenberg: Why He Matters / Sachs」、 「Schoenberg's New World / Feisst」、 「Schönberg / Freitag」、 「Schönberg / Vlasova」、 「Schoenberg / Armitage」、 「Schoenberg's error / Thomson」、 「Schoenberg and the new music / Dahlhaus」、 「Schoenberg & His School / Leibowitz」、 「Schoenberg Hollywood modernism / Marcus」、 「Schoenberg and redemption / Brown」、 「Schoenberg critical biography / Reich」、 「Schoenberg Dialogues / Gould」、 「Schoenberg remembered / Newlin」、 「Schoenberg and his world / Frisch」、 「Schoenberg's program notes and musical analyses」、 「Arnold Schoenberg / Stuckenschmidt」、 「Arnold Schoenberg / Rosen」、 「Arnold Schoenberg / Meyerowitz」、 「Arnold Schonberg. Gedenkausstellung / Hilmar」、 「Arnold Schoenberg's journey / Shawn」、 「Arnold Schoenberg's Vienna / Kallirs」、 「Arnold Schoenberg the composer as Jew / Ringer」、 「A Schoenberg Reader: Documents of a Life / Auner」、 「The Cambridge companion to Schoenberg / Shaw, Auner」、 「Composers of the Nazi Era: Eight Portraits / Kater」、 「Alban Berg / Carner」、 「Alban Berg and his world / Hailey」、 「Hanns Eisler, political musician / Betz」、 「Zemlinsky / Beaumont」、 「Anton von Webern / Moldenhauer」、 「The Unimportance of Being Oscar」、 「Otto Klemperer: His Life and Times / Heyworth」、 「A history of Habsburg Jews, 1670-1918 / McCagg」、 「Red Vienna / Gruber」、 「Wiener Wirtschaftsbürgertum im 19. Jahrhundert / Milota」、 「シェーンベルク / 浅井佑太」、 「シェーンベルクの旅路 / 石田 一志」、 「シェーンベルクのヴィーン / 細川晋、他」、 「シェーンベルクと若きウィーン / テレーゼ・ムクセネーダー(阿久津三香子訳)」、 「シェーンベルク音楽論集 / 上田昭訳」、 他

1838年
◆3月13日、大雨と雪解け水によりドナウ川下流が氾濫、ハンガリー西部の村々が流され、ブダとペシュトも水没し、150人以上が溺死。周辺諸国が飢饉と疫病拡大を防ぐためにハンガリー支援に乗り出します。
◆9月20日、父サムエル・シェーンベルク(1838-1889)、「オーストリア帝国領」ハンガリー王国北部セーチェーニ(ウィーンの東約230qに位置)に誕生。一族は18世紀から同地に暮らすユダヤ系でドイツ語話者。1852年にハンガリー王国西部のプレスブルク(現・スロヴァキア首都ブラチスラヴァ。ウィーンの東約55qに位置)に転居し、その後、オーストリア大公国首都ウィーンに転居。国籍はハンガリー王国。

1848年
◆2月24日、パリで革命勃発。国王を追放し、26日に第二共和政を宣言。ヨーロッパ各地に影響が波及。
◆3月13日、プラハで政情が不安定化。
◆3月13日、ウィーンで革命勃発。メッテルニヒが亡命。
◆3月15日、ブダペストで革命勃発。
◆3月20日、オーストリア帝国で農奴制廃止。
◆4月7日、母パウリーネ・ナーホト(1848-1921)、「オーストリア帝国領」ボヘミア王国プラハ(ウィーンの北北西約250qに位置)で誕生。一族は18世紀から同地に暮らすユダヤ系で、シナゴーグのカントルを複数輩出。ドイツ語話者。国籍はボヘミア王国。

◆6月12日、プラハ蜂起。オーストリア軍により5日後に鎮圧。43人死亡。
◆10月、ハンガリー独立宣言。オーストリアとハンガリーの独立戦争開戦。
1849年
◆2月9日、教皇領でローマ共和国の樹立を宣言。イタリア統一運動の一環。
◆3月、オーストリア軍がイタリア北部の戦いでイタリア反乱軍に勝利。
◆4月、オーストリア軍がハンガリー東部の戦いでハンガリー反乱軍に敗北。
◆7月3日、フランス軍とスペイン軍により鎮圧され、ローマ共和国議会が解散・廃止。
◆8月、オーストリア軍とロシア軍の連合軍がハンガリー南部の戦いでハンガリー反乱軍に勝利。
1853年
◆10月、クリミア戦争勃発。ロシア帝国とオスマン帝国(とフランス、イギリス、サルデーニャ)が1856年3月まで2年5か月戦い、ロシアが敗北。オーストリアはオスマン帝国を支持したため、ロシアとの関係が悪化したことで、1815年に発足した国家連合「ドイツ連邦」での影響力が低下。
1866年
◆6月、普墺戦争開戦。オーストリアと対立し「ドイツ連邦」を脱退したプロイセンと、「ドイツ連邦」諸国(オーストリア、ザクセン、バイエルン、ヴュルテンベルク、ハノーファー、バーデン、ヘッセン、フランクフルト等)が戦闘。
◆8月、普墺戦争終結。オーストリア側(ドイツ連邦諸国)が、プロイセン側(プロイセン、イタリア等)に敗北。
1867年
◆2月9日、オーストリア=ハンガリー帝国成立(アウグスライヒ)。
◆ウィーンのユダヤ人に法的な平等と居住地や職業などの自由が認められます。これによりウィーンのユダヤ人の人口は1860年の約6千人から1870年には約4万人まで激増しており、以後も増加は続きます。背景には1848年革命により各地で人々の移動が盛んになっていたことがありますが、ユダヤ人の平等と自由がウィーンほどには認められていなかったオーストリア大公国の他の地域では目立った人口増は見られません。
1871年/明治4年
◆1月18日、ドイツ統一。占領地フランスのヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式。10日後には、同じ場所で「普仏戦争」の休戦協定が署名。半世紀後、第1次大戦でドイツに勝利したフランス(連合国)は、ドイツにとって屈辱的なヴェルサイユ条約を同じく鏡の間で締結して報復。

◆5月10日、フランクフルト講和条約締結により普仏戦争終結。フランスはアルザスとロレーヌの領土割譲に加え莫大な賠償金を準備。3年期限の賠償金額は約50億フラン(=純金1,450トン=約45億マルク=現在価値で約14兆円)で、支払いが終わる1873年9月までドイツ軍がフランス東部に駐留。賠償金の50〜60%ほどがドイツの金融市場に恩恵をもたらして市場経済を過熱させ、1873年にバブルが崩壊するまでの2年間にドイツでは928の株式会社が新たに設立され、投資先もオーストリアやロシアにまで及ぶようになります。

◆10月14日、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871-1942)、ウィーンで誕生。
1872年/明治5年
◆3月17日、サムエル・シェーンベルク(父)とパウリーネ・ナーホト(母)がウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、テンペルガッセ2番地のシナゴーグで結婚。住居は同区、ターボア通り4番地。結婚式がおこなわれたシナゴーグは座席数2千を超える巨大なシナゴーグで、1858年に落成(1938年11月に反ユダヤ主義者らにより破壊)。

◆8月、サムエル・シェーンベルク(父)が、特殊な印刷を可能にする広告包装紙の技術を発明し、独占販売権を帝国商務省に申請、認可されます(年次更新)。翌年のウィーン万博を見越した発明と考えられます。
◆12月20日、姉アデーレ・ファイゲレ・シェーンベルク、ウィーンで誕生。
1873年/明治6年
◆5月1日、ウィーン万国博覧会開始(11月2日まで半年開催)。2.33平方kmの会場に35か国が出展しますが、ほぼ同時にウィーン発の世界恐慌が始まったことで、訪問者は725万5千人に留まっています。ちなみに日本も京都御所を再現するなどした日本館を建設していました。

◆5月9日金曜日、ウィーン証券取引所のバブル崩壊により株式市場が暴落。「証券王」アドルフ・ペチェク(1834-1905)が早朝に破産を申請し、午前中にウィーンの120もの銀行が破綻しますが、これらのほとんどは「ブローカー銀行」で、仲介手数料目的に不適切な担保運用などが常態化していたことで引き起こされています。世界初の「ブラック・フライデー」とも言われるこのウィーンの暴落ですが、すでに資金の流れは国際的なものにもなっていたため、ほどなく世界各国で恐慌が引き起こされることになり、その影響は長いところでは四半世紀に及んでいます。背景となった要因は複合的で、銀の大増産による暴落と金本位制導入による金の高騰、普仏戦争で敗北したフランスの賠償金が各地にもたらしたバブルや、ドイツの法人設立自由化による投資の過熱、スエズ運河開通によるイギリス権益の減少、シカゴ大火、ボストン大火など世界各地で発生したさまざまな出来事が恐慌を長引かせることになります。下の画像は、5月9日のウィーン証券取引所の様子ですが、ウィーンでは特に金融やマスコミにユダヤ人が多かったことから、カトリック国に根強い反ユダヤ主義にも繋がり、やがてウィーン市長のカール・ルエーガー(1844-1910)のような極端な政治家が人気を博すことになります。

1874年/明治7年 (0歳/ハンガリー国籍)
◆5月8日、姉アデーレ・ファイゲレ・シェーンベルク、ウィーンで髄膜炎により死去。1歳5か月。
◆9月13日、アルノルト・アヴラハム・シェーンベルク、オーストリア=ハンガリー帝国首都ウィーンに誕生。父は自由主義かつ同化主義的なユダヤ人で、母はカントル(ハッザーン)を輩出した正統派家系のユダヤ人。住居は第2区(レオポルトシュタット)のオーベレ・ドナウ通り5番地。国籍は父と同じくハンガリー。ミドルネームのアヴラハムは誕生から8日目の割礼儀式の際に付与されたヘブライ語の名前。
当時のウィーンはユダヤ人が大活躍で、医師の60%以上、弁護士の58%以上、広告宣伝業の96%以上、銀行の75%以上のほか、リベラル系の新聞や雑誌はほぼすべてユダヤ系で、ウィーン大学も学生の3分の1以上がユダヤ人でした。人口比では1割くらいなのでかなりの躍進ぶりといえ、シェーンベルクの生地レオポルトシュタットにも立派なシナゴーグがいくつも建設されています。

1875年/明治8年 (0〜1歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、オーベレ・ドナウ通り5番地に、父、母と3人で居住。
1876年/明治9年 (1〜2歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、オーベレ・ドナウ通り5番地に、父、母と3人で居住。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、アーダムベルガーガッセ5(当時はテレージエンガッセ)5番地に、父、母、妹と4人で居住。
◆6月9日、妹オッティーリエ・レア・サラ・シェーンベルク(1876-1954)、ウィーンで誕生。
1877年/明治10年 (2〜3歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、アーダムベルガーガッセ(当時はテレージエンガッセ)5番地に、父、母、妹と4人で居住。
◆1月22日、従妹のマルヴィーナ・ゴルトシュミート、ウィーンで誕生。シェーンベルクの母パウリーネの妹アンナ・ファニー・ゴルトシュミート(1853-1919)の子。シェーンベルクはのちに彼女に夢中になります。
◆9月7日、マティルデ・ツェムリンスキー、ウィーンで誕生。のちにシェーンベルクと結婚。
1878年/明治11年 (3〜4歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、アーダムベルガーガッセ(当時はテレージエンガッセ)5番地に、父、母、妹と4人で居住。
◆ウィーンの学生団体、リベルタス友愛会が同化ユダヤ人を排除。
1879年/明治12年 (4〜5歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、アーダムベルガーガッセ(当時はテレージエンガッセ)5番地に、父、母、妹と4人で居住。
1880年/明治13年 (5〜6歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、アーダムベルガーガッセ(当時はテレージエンガッセ)5番地に、父、母、妹と4人で居住。
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹と4人で居住。
◆9月、小学校(男子8クラス制のフォルクスシューレ)に入学。生徒数838名、教師数18名で、所在地はウィーン中心部のクライネ・プファルガッセ33番地。近くにはシュテファン大聖堂がありました。

1881年/明治14年 (6〜7歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹と4〜6人で居住。
◆小学校(フォルクスシューレ)に在学。1〜2年生。
◆12月8日、ウィーンのリング劇場がガス爆発により全焼し、観客など約400人が死亡。オッフェンバックの「ホフマン物語」を観るために劇場に居た母パウリーネの兄であるハインリヒとその妻ヘルミーネも犠牲になったため、彼らの2人の娘、3歳のメラニー(1878-1942)と1歳10か月のオルガ(1880-1942)がシェーンベルク家に引き取られます。この不幸な事故の被害者遺族を支援するために、ウィーン市では救済委員会を設置し、遺族への補償金のほか、遺族年金の支給を開始。寄付も募って、遺児一人当たり6千グルデン(約600万円相当)の基金をまずつくり、そこから里親に対して遺児が成人するまで養育費などを毎年支給する制度を構築。

1882年/明治15年 (7〜8歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆小学校(フォルクスシューレ)に在学。2〜3年生。
◆4月29日、弟ハインリヒ・イスラエル・シェーンベルク(1882-1941)、ウィーンで誕生。
◆従兄弟のルドルフ・ゴルトシュミート(1875-1944)と一緒にヴァイオリンのレッスンに通うようになります。
◆作曲を開始。自分と従兄弟のための同盟ワルツ。

◆「リンツ綱領」が策定。オーストリア ・ドイツ民族主義の政策文書。「オーストリア=ハンガリー帝国」をオーストリア大公国部分と、ハンガリー王国(とガリツィア、ブコヴィア、ダルマチアなど)の部分に分けるのが目的で、背景にはオーストリア大公国からハンガリーなどに渡る補助金の多さへの国民の不満もありました。多民族共生ではなく民族分離・自活を提唱するもので、この段階では、反ユダヤ主義というよりも、よくある自国優先の排外主義政策といった印象です。策定にはユダヤ人政治家も参加していますし。
【作品】
●2つのヴァイオリンのための「同盟ワルツ」
●2つのヴァイオリンのための「陽光ポルカ」
●2つのヴァイオリンのための「無言歌」
1883年/明治16年 (8〜9歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆小学校(フォルクスシューレ)に在学。3〜4年生。
◆12月3日、アントン・ウェーベルン、ウィーンで誕生。
1884年/明治17年 (9〜10歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆小学校(フォルクスシューレ)に在学。4〜5年生。
◆9月24日、母方祖父でカントルのヨーゼフ・ガブリエル・ナーホト、ウィーンで死去。
1885年/明治18年 (10〜11歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆2月9日、アルバン・ベルク、ウィーンで誕生。
◆5月14日、オットー・クレンペラー、ブレスラウで誕生。
◆小学校(フォルクスシューレ)を卒業。5年生。
◆帝立実科学校(レアルシューレ)に入学。所在地はウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、フェラインスガッセ21番地。小学校から約600メートルのところにありました。
◆ゲオルク・フォン・シェーネラー(1842-1921)が、「リンツ綱領」に「アーリア人条項」を追加。反ユダヤ主義者のルエーガー(のちのウィーン市長)も嫌悪するほどの内容。

1886年/明治19年 (11〜12歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆帝立実科学校(レアルシューレ)に在学。1〜2年生。
1887年/明治20年 (12〜13歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆帝立実科学校(レアルシューレ)に在学。2〜3年生。
1888年/明治21年 (13〜14歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆帝立実科学校(レアルシューレ)に在学。3〜4年生。
1889年/明治22年 (14〜15歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、父、母、妹、弟、従妹2人と7人で居住。
◆帝立実科学校(レアルシューレ)に在学。4〜5年生。
◆12月31日、父サムエル、インフルエンザ罹患後に肺炎となり自宅で死去。51歳。
1890年/明治23年 (15〜16歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆1月2日、父サムエルの遺体をウィーンの中央墓地に埋葬。
◆帝立実科学校(レアルシューレ)に在学。5〜6年生。
1891年/明治24年 (16〜17歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、ターボア通り48番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆1月22日、帝立実科学校(レアルシューレ)を6年生の冬学期終わりに中退。
◆5月、ウィーン第1区(インネレ・シュタット)、ショッテンリング10番地に拠点を置く証券取引仲介銀行「ウェルナー社」が、見習いとしてシェーンベルクを採用。「ウェルナー社」は、1873年11月9日に、ウィーン証券取引委員会の証券ディーラーであるシークムント・ウェルナーと、アダルベルト・ヒルシュラーによって設立。業務内容は証券取引の仲介なので、一般的にイメージされる銀行(=貯蓄銀行)ではありません。
ちなみに、バブル崩壊4年前の1869年以降、ブローカー銀行中心に各種小規模銀行が急増し、1873年の株式市場暴落直前には、ウィーンには69もの新しい銀行が存在していました。これらの69行のうち、1883年時点で存続していたのはわずか8行ですが、この「ウェルナー社」のように恐慌の年に開業しているところも珍しくなく、各種取引案件の値下がりはチャンスでもあることから、銀行清算後に名前を変えての再出発組も多かったものと思われます。このウェルナー社もシェーンベルクの入社時点ですでに開業18年目で、世界的な恐慌の中、零細ながら存続し続けているのはなかなかの手腕です。下の画像は近くのウィップリンガー通りの当時の様子。

◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、グローセ・シュタットグートガッセ10番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
1892年/明治25年 (17〜18歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、グローセ・シュタットグートガッセ10番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆ウェルナー社に在職。

1893年/明治26年 (18〜19歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、グローセ・シュタットグートガッセ10番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆ウェルナー社に在職。

1894年/明治27年 (19〜20歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、グローセ・シュタットグートガッセ10番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆ウェルナー社に在職。

◆10月15日、ドレフュス事件発生。フランス陸軍司令部所属のユダヤ人軍人アルフレド・ドレフュス大尉(1859-1935)がスパイ容疑で逮捕。冤罪でしたが、これによりヨーロッパ各地で反ユダヤ主義が過熱。真犯人はエステルハージ家の子孫の私生児で、パリ生まれのオーストリア育ちであるフェルディナン・ヴァルサン・エステラジー(1847-1923)。ドイツのスパイでした。

1895年/明治28年 (20〜21歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、レオポルトガッセ9番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆ウィーン市議会選挙で、キリスト教社会党が過半数議席を獲得。同党は反ユダヤ主義的な政党で、これまで30年以上に渡ってリベラル派が過半数を占めてきたウィーン市議会の運営が激変することは明らかでした。
◆ウェルナー社を退職。

◆アレクサンダー・ツェムリンスキー(1871-1942)が指揮者を務めていたアマチュア弦楽オーケストラ「ポリヒュムニア」にチェロ奏者として入団。ツェムリンスキーの父アントン・セムリンスキーはハンガリーのカトリック教徒で19世紀前半にウィーンに移住。母クララ・セモはユダヤ系で、ボスニアのイスラム教徒の家庭に誕生。結婚後、2人はウィーンでセファルディム系のユダヤ教コミュニティに参加。ツェムリンスキーもセファルディム系のシナゴーグの聖歌隊で歌いオルガンを演奏。やがてウィーン楽友協会音楽院に進み、13歳から21歳まで8年間在学。

◆メードリング合唱協会と契約。指揮者。
1896年/明治29年 (21〜22歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、レオポルトガッセ9番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆ツェムリンスキーから作曲の指導。

◆10月11日、ブルックナーがウィーンで死去。
◆反ユダヤ主義団体「ヴァイトホーフェン連盟」が結成。オーストリア大公国各地で活動。
1897年/明治30年 (22〜23歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、レオポルトガッセ9番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆ツェムリンスキーに師事。対位法、作曲など。

◆4月3日、ブラームスがウィーンで死去。
◆4月8日、熱烈な反ユダヤ主義者で、反資本主義、反自由主義、反マジャル主義を掲げてウィーン市民に人気を博したカール・ルエーガー(1844-1910]が市長に就任。実際にはルエーガーは1895年10月にウィーン市長に選出されていましたが、その強烈な反ユダヤ主義を恐れたフランツ・ヨーゼフ皇帝が承認を拒否。その後の選出に際しても皇帝は拒否で一貫していましたが、1897年4月8日、2年間で5度目の選出となった人気ぶりにローマ教皇のレオ13世(1810-190)も黙っていられなくなり、個人的にフランツ・ヨーゼフ皇帝にとりなして、なんとか承認させています。これによりルエーガー側も暴力的な反ユダヤ主義運動は認めないことにしますが、マスコミなどを使った反ユダヤ主義キャンペーンでユダヤ人を迫害することはOKとしてウィーンでの人気を維持し、1910年に亡くなった際には、数十万人のウィーン市民が葬列に参加するほどの異例の人気ぶりで(当時人口約203万人)、ヒトラーのヒーローにもなっていました。

【作品】
●弦楽四重奏曲ニ長調
1898年/明治31年 (23〜24歳/ハンガリー国籍、ユダヤ教徒→キリスト教徒)
◆ウィーン市第2区(レオポルトシュタット)、レオポルトガッセ9番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆3月25日、ウィーンのドロテアガッセにあるルター派教会で受洗し、ユダヤ教からキリスト教(ルター派プロテスタント)に改宗。洗礼名はアルノルト・フランツ・ワルター・シェーンベルク。1895年の選挙で反ユダヤ主義のキリスト教社会党がウィーン市議会で過半数議席を獲得して、30年以上続いたリベラル期が終わり、1897年には熱烈な反ユダヤ主義者のルエーガーが市長になってことで、シェーンベルクが指揮者として活動範囲を広げるためには必要なことでした。
ちなみに改宗に訪れたルター派教会は、もともと16世紀にクララ修道会修道院のカトリック教会として建てられたものですが、ヨーゼフ2世(1741-1790)の啓蒙主義改革の一環として、修道院が解散させられ、1781年の寛容勅令に基づいて、プロテスタント・コミュニティが教会を含む修道院の一部を購入。その際、寛容勅令の規定で、外部から教会と認識できないようにするため改築されますが、1861年にプロテスタントの礼拝と公的活動の完全な自由が認められたため、1876年に教会とわかるように改修されています。その後、紆余曲折を経て現在は違う外観になっているため、シェーンベルクが改宗した当時の絵に着色して表示しておきます。

◆4月、弦楽四重奏曲ニ長調、ウィーンのトーンキュンストラー協会で試演。
◆12月、弦楽四重奏曲ニ長調、ウィーンのベーゼンドルファーホールでフィッツナー四重奏団により初演。成功。
【作品】
●2つの歌 Op.1
1899年/明治32年 (24〜25歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、グラーザーガッセ19番地に、母、妹、弟、従妹2人と6人で居住。
◆マティルデ・ツェムリンスキー(1877-1923)と交際開始。ツェムリンスキーの妹。。
◆文芸グループ「若きウィーン」と交流開始。
◆ツェムリンスキー、ユダヤ教からキリスト教に改宗(ルター派プロテスタント)。
◆夏、オーストリア南部のパイエルバッハにツェムリンスキー兄妹と共に滞在。
◆9月頃、「浄められた夜」を3週間で作曲。修正を経て12月1日に自筆譜完成。
◆12月3日、同居従妹のメラニーが、ハインリヒ・フェーダー(1868-1925)と結婚。
【作品】
●デーメルの詩による4つの歌 Op.2
●浄められた夜 Op.4(デーメルの詩による)

1900年/明治33年 (25〜26歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、グラーザーガッセ19番地に、母、弟、従妹と4人で居住。
◆1月、オッティーリエがエミール・ヴィルヘルム・クラーマー(1872-1908)と結婚。
◆アルマ・シンドラーと交流。当時アルマはツェムリンスキーと交際。

【作品】
●「グレの歌」(作曲開始)
1901年/明治34年 (26〜27歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、ポルツェラーンガッセ53番地に、母、弟、従妹と4人で居住。
◆マティルデ・ツェムリンスキーがユダヤ教からキリスト教に改宗(ルター派プロテスタント)。
◆マティルデと結婚。
◆ベルリンに、妻と2人で居住。
◆12月、キャバレー劇場「ブンテス・テアター」と楽長として契約。

1902年/明治35年 (27〜28歳/ハンガリー国籍)
◆ベルリンに、妻、娘と3人で居住。
◆1月8日、娘ゲルトルーデ(1902-1947)、ベルリンで誕生。
◆3月9日、マーラーとアルマ・シンドラーがウィーンで結婚。
◆3月18日、「浄められた夜」初演。ウィーン楽友協会小ホールで、ロゼー四重奏団とフランツ・イェリネク(第2ヴィオラ)、フランツ・シュミット(第2チェロ)が演奏。シェーンベルク作品の公演で初のスキャンダル。
◆7月、キャバレー劇場「ブンテス・テアター」の楽長契約が終了。

◆リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)と交流。
◆シュテルン音楽院で講師として作曲を指導(R.シュトラウスの紹介)。
◆全ドイツ音楽協会からシェーンベルクにリスト奨学金が給付(R.シュトラウスの紹介)。
【作品】
●ロルツィング:歌劇「鎧鍛冶(刀鍛冶)」をピアノ連弾用に編曲
1903年/明治36年 (28〜29歳/ハンガリー国籍)
◆ベルリンに、妻、娘と3人で居住。
◆シュテルン音楽院で講師として作曲を指導(R.シュトラウスの紹介)。

◆全ドイツ音楽協会からシェーンベルクにリスト奨学金が給付(R.シュトラウスの紹介)。
◆9月、ウィーンに帰還。
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘と3人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
◆マーラー(1860-1911)と交流。

◆シュワルツワルト学校で和声と対位法を指導。同校ではツェムリンスキーが定期的に教えてもいました。

1904年/明治37年 (29〜30歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘と3人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
◆シュワルツワルト学校で和声と対位法を指導。

◆3月、 貧困証明書発行のための質問票に居住アパートについて記入。「部屋3室、控え室1室、台所1室/家賃:四半期あたり250クローネ/使用人:メイド1名/月給:24クローネ」。つまり年間家賃1,000クローネ(約125万円相当)、1か月約10万4千円相当で、メイドの月給は3万円相当ということになります。
◆ツェムリンスキーとシェーンベルク、オスカー・C・ポーザは「創造的音楽家協会」を設立。マーラーが名誉会長になり支援。現代音楽作品の保護と推進を目的とし、7回のコンサートを開催しますが、翌年に解散。

◆ウェーベルン(1883-1945)が弟子入り(1908年まで)。

◆ベルク(1885-1935)が弟子入り(1911年まで)。

◆12月、マーラーの交響曲第3番を鑑賞後、手紙を書いて崇拝者に転じたと報告。

【作品】
●弦楽四重奏曲第1番 Op.7(作曲開始)
1905年/明治38年 (30〜31歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘と3人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
◆1月25日、「ペレアスとメリザンド」初演。シェーンベルク自身がウィーン演奏協会管弦楽団(のちのウィーン交響楽団)を指揮。
1906年/明治39年 (31〜32歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘、息子と4人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
◆春、画家リヒャルト・ゲルストル(1883-1908)と交流。ゲルストルの父の宗教はユダヤ教で、母はキリスト教(ローマ・カトリック)でしたが、結婚を機に母はユダヤ教に改宗。ゲルストルは15歳までにキリスト教(ローマ・カトリック)に改宗し、その後、母と父もキリスト教(ローマ・カトリック)に改宗。ゲルストルはシェーンベルクの肖像画を描いています。

◆9月22日、息子ゲオルク・ヴィルヘルム(1906-1974)、誕生。
【作品】
●室内交響曲第1番 Op.9
1907年/明治40年 (32〜33歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘、息子と4人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
◆2月5日、弦楽四重奏曲第1番初演。
◆2月8日、室内交響曲第1番初演。
◆シェーンベルクは画家ゲルストルに自宅の一室を無償で貸与。
【作品】
●弦楽四重奏曲第2番 Op.10(作曲開始)
1908年/明治41年 (33〜34歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘、息子と4人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
◆夏、妻マティルデがゲルストルと親密になっていることがわかり、シェーンベルクは一時自殺も考えますがすぐに思いとどまり、弦楽四重奏曲第2番の作曲を継続。
◆夏、浮気が発覚した妻マティルデは、シェーンベルクと子供を捨ててゲルストルと出奔。ゲルストルの友人でもあるウェーベルンがマティルデの説得にあたり、1週間ほどでマティルデはゲルストルと別れています。
◆10月6日、オーストリア=ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを併合。青年ボスニア運動が開始され、後年のサラエヴォ事件の実行犯グループが形成。
◆11月4日、マティルデの愛人ゲルストルが自殺、家庭に戻ったマティルデに対して自分のところに来るよう懇願するものの受け入れられずナイフで胸を刺したうえで首を吊って自殺。弟の死を手紙で知らせてきた陸軍中尉のアロイス(1881-1961)に対し、シェーンベルクはマスコミに無用なことを話さないように返信で要請。

◆弦楽四重奏曲第2番初演。マティルデに献呈。
1909年/明治42年 (34〜35歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、リーヒテンシュタイン通り68-70番地に、妻、娘、息子と4人で居住。ツェムリンスキー家の隣り。
【作品】
●3つのピアノ曲 Op.11
●「架空庭園の書」 Op.15
●5つの管弦楽曲 Op.16
●モノドラマ「期待」 Op.17
1910年/明治43年 (35〜36歳/ハンガリー国籍)
◆1月、ウィーン市第13区(ヒーツィング)、ヒーツィンガー中央通り113番地に転居。妻、娘、息子と4人で居住。年間家賃2,600クローネ。メイド2人。
◆3月10日、ウィーン市長、カール・ルエーガーが死去。65歳。ウィーン市民に絶大な人気を博した反ユダヤ主義的政治家で、1897年から13年間在職。
◆著書「和声学」の執箪を開始。
◆シェーンベルク絵画の個展開催。
◆秋、ウィーン音楽アカデミーで作曲を指導。
◆10月31日、「ペレアスとメリザンド」、オスカー・フリート指揮ブリュートナー管弦楽団によりドイツ初演。シェーンベルクはリハーサルから列席して細部まで完璧なフリートの準備に驚嘆し、本番も大成功。1905年にシェーンベルクの指揮によってウィーンでおこなわれた初演では、作曲者を精神病院に入れろなどと書かれますが、当時のウィーンは、ローマ教皇レオ13世のおかげで市長に就任できたルエーガーの反ユダヤ主義が人気を博していたので、作品の内容というよりもウィーンの風潮に迎合した忖度評論だったと思われます。2年後の1907年にはマーラーも評論家らによるマスコミ・キャンペーンでウィーン宮廷歌劇場を追い出されていましたし。

1911年/明治44年 (36〜37歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第13区(ヒーツィング)、ヒーツィンガー中央通り113番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆2月22日、ウェーベルンが従妹のウィルヘルミーネと結婚。カトリックでは従妹婚は禁じられていたため、挙式は戦時中の1915年までおこなわず、その間に3人の子供が生まれていました(その後もう1人誕生)。ウィルヘルミーネは反ユダヤ主義的な人物で、ウェーベルンも影響を受けるようになり、後年、ヒトラーの「我が闘争」を愛読し、初期のナチ党についても支持。息子のペーターはナチ党員になり、娘のクリストルの夫ベンノ・マッテル(1917-2018)は武装親衛隊の所属。
◆5月18日、マーラーがウィーンで死去。50歳。

◆8月、ウィーン市第13区(ヒーツィング)、ヒーツィンガー中央通り113番地から退去。家主とのトラブルにより。
◆9月、ベルリンヘ2度目の移住。
◆ベルリンのツェーレンドルフに、妻、娘、息子と4人で居住。
◆画家カンデインスキーと交流。
◆第1回「青騎士展」に自作を出品。
◆シュテルン音楽院で講師として作曲を指導。

◆12月、マックス・ラインハルト演出のブゾーニ「トゥーランドット」の指揮を、責任者のラインハルトがオスカー・フリートに任せたため、自分に指揮をやらせて欲しいと申し入れていたシェーンベルクが激怒。なにか鬱憤でもあったのか、ラインハルトや「トゥーランドット」の悪口に加え、フリートがマーラーを騙していたなどとウソまで書いた子供のような手紙を師だったツェムリンスキーに送付。その後、シェーンベルクはウェーベルンも巻き込んでフリートのことを悪く言うようになり、フリートと親しかったクレンペラーもたまにとばっちりを受けるようになります。

【作品】
●6つのピアノ曲 Op.11、作曲(無調)。
1912年/明治45年〜大正元年 (37〜38歳/ハンガリー国籍)
◆ベルリンのツェーレンドルフに、妻、娘、息子と4人で居住。
◆シュテルン音楽院で講師として作曲を指導。

◆プラハ、ベルリン、ウイーンでマーラーについて講演。
◆ウィーン音楽アカデミーからの教授就任要請を辞退。
◆「月に憑かれたピエロ」巡演開始。
【作品】
●「月に憑かれたピエロ」Op.21
1913年/大正2年 (38〜39歳/ハンガリー国籍)
◆ベルリンのツェーレンドルフに、妻、娘、息子と4人で居住。
◆シュテルン音楽院で講師として作曲を指導。

◆マーラー財団よりマーラー奨学金がシェーンベルクに授与。
◆2月23日、「グレの歌」、ウィーン楽友協会でシュレーカーの指揮により初演。大成功。しかし、シェーンベルクが演奏者にはお辞儀をしたものの聴衆のことは無視したため、気分を害した人々により、翌月のコンサートで報復されることになります。
◆3月31日、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク、マーラーの作品から成る演奏会をウィーン楽友協会で実施したところ、途中で聴衆の乱闘騒ぎが始まり中止に追い込まれます。前月のシェーンベルクの発言に対する報復でした。

◆5月、ウィーンに帰還。妻、娘、息子と4人で居住。
1914年/大正3年 (39〜40歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーンに、妻、娘、息子と4人で居住。
◆マーラー財団よりマーラー奨学金がシェーンベルクに授与。
◆「5つの管弦楽曲」、ロンドン公演で指揮。
1915年/大正4年 (40〜41歳/ハンガリー国籍)
◆4月、ウィーンに到着。
◆5月、徴兵検査。結果は免除。
◆9月、ウィーン市第13区(ヒーツィング)、グロリエッテガッセのアパートに、妻、娘、息子と4人で居住。アルマ・マーラーの裕福な友人リリー・リーザー・ランダウが無償で提供。
◆11月、戦況悪化時の徴兵に備え、配属先が自分で選べる1年間の志願兵制度を選択。
◆12月、希望が叶い、ウィーン南東約30qのブルック・アン・デア・ライタ郡の訓練部隊に配属。

1916年/大正5年 (41〜42歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第13区(ヒーツィング)、グロリエッテガッセのアパートに、妻、娘、息子と4人で居住。
◆6月、ウィーン音楽家協会などの嘆願が功を奏し、ウィーンでの軍務に変更。
◆7月、ウィーン駐屯地の病院で健康診断。所見は、中程度の甲状腺腫、運動時の呼吸困難。
◆8月8日、歩兵第4連隊第9補充中隊の補助兵役に配属。
◆10月21日、文化教育省の介入により10か月目で除隊。

◆11月21日、オーストリア皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世崩御。在位68年目。86歳。
1917年/大正6年 (42〜43歳/ハンガリー国籍)
◆ウィーン市第13区(ヒーツィング)、グロリエッテガッセのアパートに、妻、娘、息子と4人で居住。
◆1月、弟ハインリヒ(バス歌手)がプロテスタントに改宗し、サルツブルク市長マックス・オット(1855-1941)の娘、ルペルティーネ・ベルタ(1884-1978)と結婚。オットの市長在職期間は1912年から1919年、1927年から1935年の計15年間。
◆夏、無償でアパートを提供してくれていたリリー・リーザー・ランダウとトラブルになり退去。
◆ウィーン市第9区(アルザーグルント)、アルザー通りのペンション・アストラに転居し、妻、娘、息子と4人で居住。
◆ウィーン市第3区(ラントシュトラーセ)、レヒテ・バーンガッセ10番地に、転居し、妻、娘、息子と4人で居住。
◆9月、ツェムリンスキーが銀行の役員を通じて1,500クローネをシェーンベルクに贈与。
◆9月、文化教育省から700クローネの助成金が給付。
◆9月、作曲セミナーを開催。シュワルツワルトが部屋を提供。収入面では期待外れの結果。

◆9月17日、2度目の徴兵。歩兵第4連隊の補充大隊に配属されウィーン周辺で軽作業に従事。
◆12月5日、2か月と18日で除隊。

【作品】
●6月19日、「ヤコプの梯子」作曲開始。
1918年/大正7年 (43〜44歳/ハンガリー国籍→チェコスロヴァキア国籍)
◆ウィーン市第3区(ラントシュトラーセ)、レヒテ・バーンガッセ10番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆4月、ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に転居し、妻、娘、息子と4人で居住。パソティーニ男爵夫人の紹介。
◆マーラー記念賞がシェーンベルクに授与。賞金額は2,500クローネ。
◆シュワルツワルト学校で作曲を指導。助手はウェーベルン。1920年までに、ヴィクトル・ウルマン、ハンス・アイスラー、マックス・ドイチュ、エルヴィン・ラッツ、パウル・ピスク、ヨーゼフ・ルーファー、ルドルフ・コーリッシュ、カール・ランクル、フェリックス・グライスル、ルドルフ・ゼルキン、エドゥアルト・シュトイアマンなど多くの生徒を指導。

◆春、シェーンベルクとウェーベルンが対立。

◆7月「私的演奏協会」設立。

◆室内交響曲のリハーサルで、あるユダヤ人と名乗る人物からシェーンベルクに宛に1万クローネの寄付が届きます。
◆7月
◆10月、オーストリア皇帝カール1世(1887-1922)、事実上の退位。オーストリア=ハンガリー帝国政府崩壊。
◆10月18日、「チェコスロヴァキア共和国」独立。
◆シェーンベルクの国籍の根拠ともなっていた父サムエルの故郷、ハンガリー王国領プレスブルクがチェコスロヴァキア領となり、チェコスロヴァキア国籍に移行。母パウリーネと同じ国籍。ちなみにシェーンベルクはプロテスタントで、母はユダヤ教、妻と子供2人はオーストリア国籍でカトリック。
◆10月、シェーンベルクとウェーベルンが和解。
◆11月11日、第1次世界大戦終結。
◆11月12日、「ドイツ=オーストリア共和国」成立を宣言するものの、自国領として主張する約11万8千平方キロメートル(人口約1千万人)のうち、ズデーテン地方など多くが新生チェコスロヴァキアの領土で、実質的には約8万4千平方キロメートル(人口約650万人)だったため、諸外国は国家承認を拒否。オーストリア=ハンガリー帝国領だった周辺諸国からも高関税障壁などを設けられ、さらにチェコスロヴァキアとユーゴスラヴィアの2国とは国境紛争も勃発。
◆戦後の混乱に乗じ、翌年にかけてポーランド、ウクライナ、ベラルーシなどで大規模なポグロム(ユダヤ人迫害)が発生。各地のユダヤ人居住区が略奪・爆破・破壊され、数万人が殺害。シェーンベルクの父の故郷プレスブルクでもポグロムが発生し、多くのユダヤ人が殺されたり追放されたりしています。
1919年/大正8年 (44〜45歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆シュワルツワルト学校在職(講師)。

◆「私的演奏協会」活動継続。

◆ハンス・アイスラー(1898-1962)が弟子に。

◆5月4日、ウィーン市議会議員選挙により社会民主党が絶対多数を獲得し、以後、1934年まで「赤いウィーン」と呼ばれる状態が15年間継続。市長のヤーコプ・ロイマンも社会民主党。
◆7月、キリスト教社会党の右派議員、アントン・イェルツァベク(1867-1939)らによって「反ユダヤ同盟(ドイツ・オーストリア保護協会反ユダヤ同盟)」がウィーンで設立。機関誌「鉄のほうき」などでの活動を通じて、急速にオーストリアの他の地域に拡大し、300以上の地方組織と、約1万人の会員を獲得。大規模なデモや挑発行為をユダヤ人居住区などでも実施。「退廃的」「東洋的」「シオニスト的」「非ドイツ的」といった言葉を用いて民族差別・人種差別を煽ります。

◆9月10日、サン=ジェルマン条約により、オーストリア共和国(第一共和国)が成立。
1920年/大正9年 (45〜46歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆シュワルツワルト学校在職(講師)。

◆「私的演奏協会」活動継続。

◆5月、アムステルダムの「マーラー音楽祭」にメンゲルベルクにがシェーンベルク夫妻を招待。

◆10月、アムステルダム近郊のザントフォールトに滞在開始(翌年3月まで)。オランダ各地に出かけ、演奏、教育の両方で活動。
1921年/大正10年 (46〜47歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆3月、アムステルダムからウィーンに帰還。
◆6月、オーストリアの戦中・戦後のインフレがハイパーインフレに移行。第1次ハイパーインフレの開始。

◆7月、6月から家族と弟子たちと共に避暑に訪れていたサルツブルク近郊のマットゼー(マット湖)で、同地の議員から、マットゼーがユダヤ人立ち入り禁止になったことを知らされ、滞在を続ける場合は、ユダヤ人ではないことを証明するよう求められたため、シェーンベルクは憤慨して退去。東南東50qほどのところにある保養地トラウンキルヒェンに移り、そこで12音技法のアイデアを思い付いたとされています。

◆7月、シェーンベルクはサルツブルクの東約55qに位置するザルツカンマーグートのトラウンキルヒェンに滞在し、そこで初めて十二音技法による作曲を試みています。
◆10月12日、母パウリーネ、ベルリンで死去。73歳。ユダヤ教徒でしたが、プロテスタントの墓地に埋葬。
◆11月10日、娘のゲルトルーデがフェリックス・アントン・ルドルフ・ガイスレ(1894-1982)と結婚。
◆12月、「私的演奏協会」活動停止。ハイパーインフレにより。

◆12月、オーストリアの第1次ハイパーインフレが収束。
1922年/大正11年 (47〜48歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻、息子と3人で居住。
◆6月、オーストリアで第2次ハイパーインフレが開始。
◆夏、ミヨー、プーランクと交流。
◆8月、オーストリアの第2次ハイパーインフレが収束。物価は開戦前の約1万4千倍になっていました。

1923年/大正12年 (48〜49歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻、息子と3人で居住。
◆4月9日、娘ゲルトルーデ(1902-1947)と夫フェリックス・グライスレ(1894-1982)の子、アルノルト(1923-2021)がウィーンで誕生。シェーンベルクの初孫。
◆10月18日、妻マティルデがウィーンで肺疾患により死去。46歳。
◆シェーンベルクの弟子、オルガ・ノヴァコヴィチ(1884-1946)がウィーンにアパートを借り、ウィーン音楽アカデミーに通うシェーンベルクの息子ゲオルクを寄宿させ、ピアノの指導も実施。
◆ウィーン市長にカール・ザイツが就任。
1924年/大正13年 (49〜50歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆8月28日、ゲルトルート・ベルタ・コーリッシュ(1898-1967)と、ウィーン近郊のメードリングで結婚。ゲルトルートは作家でペンネームはマックス・ブロンダ。兄はシェーンベルクの弟子でコーリッシュ四重奏団主宰者のルドルフ・コーリッシュ(1896-1978)。コーリッシュ家はキリスト教(ローマ・カトリック)に改宗したユダヤ系で、シェーンベルクとの結婚の条件として子供はカトリックとして育てることが取り決められます。
1925年/大正14年 (50〜51歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ウィーン近郊のメードリング、ベルンハルトガッセ6番地に、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆妻ゲルトルートとイタリアに新婚旅行。
◆4月4日、娘ゲルトルーデと夫フェリックス・グライスレの子、ヘルマン(1925-1990)がウィーン郊外のメードリングで誕生。
◆虫垂炎のため手術。
◆10月1日、プロイセン芸術アカデミー(現・ベルリン芸術アカデミー)の作曲科主任教授に任命。ブゾーニ(1866-1924)の後任。1930年9月30日までの5年契約。年俸は16,800〜18,000マルク。

◆10月、ベルリンヘ3度目の移住。
◆ベルリン、シャルロッテンブルクのペンション・バイエルンに、妻と2人で居住。
1926年/大正15年〜昭和元年 (51〜52歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ベルリン、シャルロッテンブルクのペンション・バイエルンに、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆プロイセン芸術アカデミー在職(作曲科教授)。

1927年/昭和2年 (52〜53歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ベルリン、シャルロッテンブルクのペンション・バイエルンに、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆プロイセン芸術アカデミー在職(作曲科教授)。

【作品】
●弦楽四重奏曲第3番 Op.30
1928年/昭和3年 (53〜54歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ベルリン、シャルロッテンブルクのペンション・バイエルンに、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆プロイセン芸術アカデミー在職(作曲科教授)。

◆3月、ベルリン、ヴェステント地区ヌスバウムアレーに転居。妻ゲルトルートと2人で居住。
◆12月、管弦楽のための変奏曲 Op.31がフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルにより初演。リハーサル不足で演奏が不首尾に終わり、その場にいたウェーベルンは「信じられない!全く無責任だ!」とウィーンのシェーンベルクに打電。
【作品】
●管弦楽のための変奏曲 Op.31
1929年/昭和4年 (54〜55歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ベルリン、ヴェステント地区ヌスバウムアレーに、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆プロイセン芸術アカデミー在職(作曲科教授)。

◆6月15日、息子ゲオルクがウィーン郊外のメードリングで結婚。相手はアンナ・ザックス(1906-?)。
◆7月14日、息子ゲオルクとアンナの子、ゲルトルーデ(1929-2015)、ウィーンで誕生。
◆10月、ニューヨークで株価大暴落。影響は世界的に拡大し、戦争特需により軍需産業などで莫大な利益を得たアメリカでさえ、株価回復は25年後の1954年でした。
1930年/昭和5年 (55〜56歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ベルリン、ヴェステント地区ヌスバウムアレーに、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆プロイセン芸術アカデミー在職(作曲科教授)。

【作品】
●「モーゼとアロン」(作曲開始)
1931年/昭和6年 (56〜57歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ベルリン、ヴェステント地区ヌスバウムアレーに、妻ゲルトルートと2人で居住。
◆プロイセン芸術アカデミー在職(作曲科教授)。

◆喘息悪化により、プロイセン芸術アカデミーを休職。
◆バルセロナに妻と長期滞在(翌年夏まで)。
◆独墺関税同盟、フランスの要求により破棄。
【作品】
●「モーゼとアロン」(第1幕完成)
1932年/昭和7年 (57〜58歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆5月7日、娘ヌーリア・ドロテーア(1932- )、バルセロナで誕生。ヌーリアは1955年にルイージ・ノーノ(1924-1990)と結婚。
◆6月、ベルリンに帰還。プロイセン芸術アカデミーに復職(作曲科教授)。

◆ベルリン、ヴェステント地区ヌスバウムアレーに、妻ゲルトルート、娘と3人で居住。
◆7〜8月、ロサンジェルス・オリンピック開催。大恐慌の影響で既存施設をそのまま、あるいは改造して使用。
【作品】
●「モーゼとアロン」(第2幕完成)
1933年/昭和8年 (58〜59歳/チェコスロヴァキア国籍、キリスト教徒→ユダヤ教徒)
◆ベルリン、ヴェステント地区ヌスバウムアレーに、妻ゲルトルート、娘と3人で居住。
◆1月、シェーンベルク作品のドイツでの演奏が禁止。
◆1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。14年間続いた「ヴァイマル共和政」から「国家社会主義ドイツ労働者党独裁体制」に移行。
◆2月20日、 ヒトラーとゲーリングがドイツ経済界首脳陣と会合、大恐慌の影響下ながら300万マルクの政治献金を獲得。背景には「第一次五カ年計画」(1928-193)によるソ連工業生産の飛躍的増大に伴い、鉄鋼業界などドイツからソ連への輸出が莫大な金額になっていたことがあります。

◆2月27日、ベルリンの国会議事堂が放火され炎上。犯人がオランダ共産党員だったことから、ドイツ共産党・社会民主党も活動禁止措置。

◆3月、プロイセン芸術アカデミー学長のマックス・フォン・シリングス(1868-1933)によるシェーンベルクへの弾圧が開始。R.シュトラウスの親友で、フルトヴェングラーやヘーガーの師でもあるシリングスは、有名な作曲家・指揮者で、ナチ信奉者、反ユダヤ主義者としてもよく知られていました。シリングスは同時にシェーンベルクの同僚のフランツ・シュレーカーにも圧力をかけて辞めさせています。

◆3月、オーストリア、キリスト教社会党のドルフース首相が、警察を動員して議会を閉鎖。緊急令により独裁的な政権運営を開始。
◆4月、シェーンベルクとプロイセン芸術アカデミーの終身契約が停止。
◆4月19日、ナチ党、新規の入党希望者の制限を開始。1月末の内閣成立、3月の総選挙という人気過熱イベントを経て、4月7日には、失業対策の目玉ともいわれる「職業官吏再建法」(反ユダヤ法)が施行され、爆発的な数の失業者が、求職目的、あるいは待遇向上目的で入党手続きに殺到したため、新規の入党希望者の制限を実施。以後、1939年5月10日に新規入党制限が完全に撤廃されるまでの6年間は、再入党や縁故のほか、数回の例外期間を除いて新規入党を基本的に受け付けませんでした。
◆5月10日、「ドイツ学生協会」の主宰で、大規模な「焚書」が実施。以後、6月末までにドイツの34の大学都市で、学生たちが率先して大量の「非ドイツ的」な書物を焼却。新聞や放送を通じて全ドイツ国民に向けて成果を報道。ナチは、教員・役人・劇場人などの公務員のほか、学生など若年層に特に人気がありました。
◆5月、一家でパリに滞在。長期休暇のつもりでしたが、コーリッシュやクレンペラーから警告されていたこともあり、ドイツへの帰国を諦めます。
◆カザルスの支援恃みのスペインの夏場の滞在計画は頓挫し、フルトヴェングラーへのたび重なる支援要請も無駄に終わり、イギリスとの契約話も低すぎる額が論外という状況で、やがてフランス滞在資金にもこと欠く状況となります。
◆6月、ボストンに新設されたばかりのマルキン音楽院から招聘。院長のジョセフ・マルキン(1879-1969)は、ポグロムの本場ウクライナのオデッサに生まれたユダヤ人チェロ奏者で、ウクライナを逃れてパリ音楽院で学び、ソリスト、室内楽奏者のほか、ベルリン・フィル首席(1902-1908)、ボストン響首席(1914-1916)、シカゴ響首席(1919-1922)などとして活動した人物。
この招聘話は、ボストンのテレーゼ・ファイリーン(百貨店オーナーの妻)の資金提供により実現したもので、さらに、裕福ではない学生がシェーンベルクに師事できるようにするための奨学金基金には、ガーシュウィンやストコフスキー、スタインウェイ&サンズなども資金を提供しています。

◆6月、シェーンベルクはユダヤ教に改宗。パリのラビにより文書が作成され、シャガールらも証人となり署名。妻ゲルトルートと娘ヌーリアはカトリックのままで、以後もシェーンベルクのみユダヤ教で他の家族はカトリックという状況が続きます。
◆7月24日、パリ16区にある改革派ユダヤ教のシナゴーグで、シェーンベルクは「フランス・イスラエル自由連合」に入会し、ユダヤ人コミュニティに復帰。

◆10月25日、シェーンベルク家は、ル・アーヴル港からニューヨーク港に向けて出発し、31日に到着。
◆ボストンに、妻、娘と3人で居住。
◆11月、ボストンのマルキン音楽院の講師として契約。基本年俸は当時のアメリカ人フルタイム就業者平均年収の4倍以上にあたる4,800ドル。この金額は生徒12人の基本額で各1時間の講義を週2回×32週間、つまり年に正味わずか64時間で、準備に時間がかかるにしてもかなりの待遇の良さです。そして、生徒が1人増えると200ドルが追加され、さらにニューヨーークの教室などへの出張講義の金額は別途加算されるという好条件。また、時間に余裕ができるため、自宅で生徒を個人指導することも許可され、1時間あたり最低30ドルで教えてもいました。前職のプロイセン芸術アカデミーでは講義時間が長いにも関わらず、年俸はドル換算で約4,500ドルだったので、時間当たり賃金では数倍以上の上昇ということになります。
しかし、シェーンベルクはこの好条件でも、報酬が想定の4分の1だったとか、渡航費用が自己負担だったなどとヨーロッパの知人に不満を表明して、自分がひどい目に遭っているように見せています。これはおそらく、大恐慌下でドイツの失業率が26.3%(約480万人失業)、アメリカも24.9%(約1,283万人失業)と、一般の人々は悲惨な状況に置かれていることに配慮したものでしょう。シェーンベルクお得意のディール的な側面もありそうですが。
マルキン音楽院は、チェロ奏者のマルキンによって、同年9月に新設されたばかりの音楽院。校舎として借りていた物件は、ビーコン・ストリート299番地の赤煉瓦ビル(1870年建設)。講師陣には、指揮者のアーサー・フィードラー、作曲家のロジャー・セッションズ、そしてジョセフ・マルキンの兄弟であるヴァイオリニストのジャック・マルキン、ピアニストのマンフレッド・マルキンなどが含まれ、1934年1月にピアニストのエゴン・ペトリ、1938年には作曲家のエルンスト・クレネクも参加。小規模ながら人気を集めますが、戦争のため1943年に閉校。マルキンはチェロ奏者に戻り、1944年から1949年までニューヨーーク・フィルで演奏しています。
ちなみにシェーンベルクはまだ英語がほとんど喋れず、書くことはもっと不自由だったため、作曲の授業は困難をきわめ、さらにニューヨークに出向いての出張講義もあり、また、この年の冬はアメリカ北東部が記録的な大寒波に襲われており、持病の喘息と心臓病に悩まされるシェーンベルクにはつらい状況が続いていました。

1934年/昭和9年 (59〜60歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ボストンに、妻、娘と3人で居住。
◆マルキン音楽院在職(講師)。ニューヨークやボルティモアでの出張講義もあり収入は増加するものの、記録的寒波がシェーンベルクを苦しめます。

◆2月9日、ボストンで摂氏マイナス27.8度を記録(現在も破られていない同市の最低気温記録)。しかも強風でした。

◆2月、シェーンベルクがシカゴ交響楽団を指揮して「ペレアスとメリザンド」を演奏。
◆3月、シェーンベルクがボストン交響楽団を指揮して「浄められた夜」を演奏。
◆4月1日、ドイツを離れるユダヤ人の子供たちのパレスチナ移住を支援する慈善コンサートに、アインシュタイン、ゴドフスキーらと出演。会場はカーネギー・ホール。

◆ニューヨーク作曲家連盟に招かれ、シェーンベルクは室内作品を指揮。
◆ニューヨークで2,000人規模の大規模なレセプションが開催され、シェーンベルクはそのうちの500人ほどと握手を交わしています。
◆3月、マルキン音楽院との契約が終了。更新を打診されますが記録的な大寒波に恐れをなしたシェーンベルクは辞退。また、ジュリアード音楽院とシカゴ音楽大学から年俸4,000〜5,000ドルで招かれますが、すでに喘息が悪化していたためこちらも辞退しています。

◆7月中旬、静養のためニュー―ヨーク市の北東約500kmに位置するニューヨーク州シャトークア湖畔に滞在開始。同地で開催されるジュリアード音楽院大学院のシャトークア・サマースクールで指導しながら、9月中旬まで滞在。
◆秋、シャーマー社から印税の前払い金3,000ドル。
◆秋、ハリウッド・ボウル近くのロサンジェルス市キャニオン・コーヴ5860番地に家を借り、妻、娘と3人で居住(ハリウッド大通りの北約1.5kmに位置)。当時のロサンジェルス市は人口約130万人で、ニューヨーク市の人口約700万に対して人口密度的にもかなり余裕があり、また、温暖な気候で物価も安いカリフォルニアは亡命ユダヤ人に人気の州でもありました。
◆キャデラックのラサール1933年型を購入。

◆秋、自宅で少人数制のレッスンを開始。南カリフォルニア大学の音楽理論助教授で作曲家でもあるポーリン・アルダーマンと、音楽理論部門の責任者であるジュリア・ハウエル教授の手配により学生を集め、受講料を参加者で分担するという方法でシェーンベルクはかなりの収入を得ています。
【作品】
●弦楽合奏のための「古い様式による組曲」
1935年/昭和10年 (60〜61歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ロサンジェルス市キャニオン・コーヴ5860番地に、妻、娘と3人で居住。
◆指揮報酬1,000ドル受領。
◆春、自宅のレッスンを大規模化し、弦時には楽四重奏団による演奏も交えながら本格的な講義を実施。1回600ドルの受講料を多くの参加者で負担する方法で、ジョン・ケージも受講。ケージはシェーンベルクに気に入られ、プライベートでも親しく交流。
◆4〜9月、作曲の個人指導に、プロとして活躍していたピアニスト、映画音楽作曲家のオスカー・レヴァントが弟子として参加。シェーンベルクは彼のことを気に入ったため、アシスタントになるよう依頼しますが、レヴァントは自分にはその資格が無いと断っています。レヴァントはガーシュウィンの親友でもありました。

◆夏、私立の南カリフォルニア大学(USC)の非常勤講師として年俸約4,000ドルで契約。当時のアメリカ人のフルタイム就業者の平均年収は1,146ドルなので、非常に恵まれた条件でした。しかも南カリフォルニア大学は大恐慌の影響でリストラをおこなっているところだったのでこの厚遇には、すでにシェーンベルクのアメリカでの名声が高まっていたことが窺えます。

◆12月24日、アルバン・ベルク、ウィーンで敗血症により死去。

1936年/昭和11年 (61〜62歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ロサンジェルス市キャニオン・コーヴ5860番地に、妻、娘と3人で居住。
◆南カリフォルニア大学(USC)から契約更新の打診があったものの、シェーンベルクは辞退し退職。短い在職期間でしたが、総額4,000ドル以上を得ていました。

◆5月1日、カリフォルニア州ロサンジェルス市、ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地の住宅に、妻、娘と3人で入居。当時の評価額は17,500ドルで、頭金として1,000ドル支払い、残りは毎月250ドルでローンを組んでいます。近くにはトーマス・マンやテオドール・アドルノ、ルドルフ・コーリッシュ、ハンス・アイスラー、エルンスト・トッホ、ベルトルト・ブレヒト、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラー、ジョージ・ガーシュウィンなどが住んでいました。
◆7月、州立のカリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)の教授に就任。年俸は4,800ドル(当時のアメリカの大学教授の全国平均は約4,000ドル)。

◆個人指導継続。
◆8月、ガーシュウィンがハリウッドに転居。シェーンベルクとの親しい交流が始まります。

◆コーリッシュ四重奏団がカリフォルニア大学ロサンジェルス校でシェーンベルクの弦楽四重奏曲を全曲演奏。客席のガーシュウィンが深い感銘を受けています。
◆10月、作曲の個人指導に、オスカー・レヴァントが再び参加。翌年11月までシェーンベルク家を訪れています。

◆12月、ガーシュウィンによるシェーンベルクの肖像画が完成。ちなみにシェーンベルクもガーシュウィンの肖像を描いています。

1937年/昭和12年 (62〜63歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸4,800ドルに増額。

◆個人指導による収入が約2,000ドル。
◆キャデラックのラサール1937年型を購入。

◆3月、橋本國彦に個人指導。
◆6月9日、息子ロナルド(1937-2012)、カリフォルニア州サンタ・モニカで誕生。
◆7月11日朝、ガーシュウィン、死去。38歳。前日に腫瘍摘出のため5時間に及ぶ開頭手術がおこなわれ、そのまま意識が戻らず亡くなっています。

◆10月、コロラド州デンヴァーでシェーンベルクを称える音楽祭が開催。シェーンベルクの作品に加え、弟子のベルク、ストラング、ウェーベルン、レヴァントの作品も演奏。コーリッシュ四重奏団などが演奏。
【作品】
●ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番の管弦楽編曲(クレンペラーからの委嘱作)
1938年/昭和13年 (63〜64歳/チェコスロヴァキア国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸4,800ドル。

◆個人指導収入。
◆マルキン音楽院から名誉理事長の称号を打診され受け入れます。
◆3月、ドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)。
◆5月7日、クレンペラー指揮ロサンジェルル・フィルによりブラームスのピアノ四重奏曲第1番のシェーンベルク編曲版が初演。シェーンベルクは交渉の一環として初演をニューヨークでおこなうとクレンペラーに揺さぶりをかけるなどしています。

【作品】
●合唱曲「コル・ニドレ」 Op.39(ユダヤ教ラビのジェイコブ・ソンダーリングからの委嘱作)
1939年/昭和14年 (64〜65歳/チェコスロヴァキア国籍→無国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸5,100ドル。

◆個人指導収入。
◆3月15日、ドイツによるチェコスロヴァキア分割により、シェーンベルクは無国籍状態に。
◆9月、ドイツがポーランドに侵攻。その後、第2次世界大戦に拡大。
◆9月、65歳となり、定年退職年齢に達しますが、大学は5年間延長することを決定。住宅ローンがまだ半分近くの残っていたのでシェーンベルクには朗報でした。
◆10月、ミズーリ州カンザスシティで開催された全米音楽教師協会の年次総会に、基調講演者として招かれ、熱烈な歓迎を受けます。
【作品】
●室内交響曲第2番 Op.38(1906年に作曲開始したものの中断。指揮者フリッツ・シュティ−ドリーから600ドルで委嘱を受けて完成)
1940年/昭和15年 (65〜66歳/無国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子と4人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸5,100ドル。

◆個人指導収入。
1941年/昭和16年 (66〜67歳/無国籍→アメリカ国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸5,100ドル。

◆個人指導収入。
◆1月27日、息子ローレンス(1941- )、カリフォルニア州ロサンジェルスで誕生。
◆3月10日、サルツブルク在住の弟ハインリヒ(バス歌手)がゲシュタポにより逮捕・投獄。
◆4月11日、シェーンベルクと妻ゲルトルート、娘ヌーリアがアメリカ市民権を取得。
◆6月1日、ゲシュタポにより逮捕された弟ハインリヒが敗血症になり、収監先の病院で死去。59歳。
◆9月、かつて私的演奏協会に出演していたピアニスト、チェシア・ディシェ(1896-1941)が、レンベルク(現・リヴィウ)の路上で母と共に射殺。44歳。ドイツ政府は終戦までに同地のユダヤ人約10万人を数百人まで減らしています。

◆10月、大学に対して3年間給与が引き上げられていないとして、年俸増額を交渉するものの財政難を理由に断られます。
◆12月、太平洋戦争勃発。
【作品】
●オルガンのための「レチタティーヴォによる変奏曲」 Op.40
1942年/昭和17年 (67〜68歳/アメリカ国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸5,400ドル。

◆個人指導収入。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆1月11日、シェーンベルクと共に育った従妹のメラニーが、ラトヴィアのリガで虐殺。63歳。
◆3月15日、ツェムリンスキーがニューヨーク近郊のラーチモント(ニューヨーク州ウェストチェスター郡)で死去。70歳。
◆7月21日、シェーンベルクと共に育った従妹のオルガが、ラトヴィアのリガで虐殺。62歳。
◆10月14日、台本作家のオスカー・ブルマウアー=フェリックス(1887-1942)がベルリンで死去。シェーンベルクの妹オッティーリエの夫。
【作品】
●「ナポレオン・ボナパルトへの頌歌」 Op.41(作曲協議会からの委嘱作)
●ピアノ協奏曲(オスカー・レヴァントからの委嘱作)
1943年/昭和18年 (68〜69歳/アメリカ国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸5,400ドル。

◆個人指導収入。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
【作品】
●吹奏楽のための「主題と変奏」 Op.43a
●管弦楽のための「主題と変奏」 Op.43b
1944年/昭和19年 (69〜70歳/アメリカ国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)在職(教授)。年俸5,400ドル。

◆個人指導収入。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆9月、カリフォルニア大学ロサンジェルス校を定年退職。本来は65歳で定年でしたが、大学側の好意で5年間延長していました。さらに大学は名誉教授の称号を授与。
◆カリフォルニア大学の年金支給が開始。月額29.60ドルとアメリカ式に低額だったため、シェーンベルクはカリフォルニア大学ロサンジェルス校への私文書寄贈合意を撤回し、南カリフォルニア大学に寄贈することにします。

◆個人指導を継続。
◆糖尿病のためインスリン注射治療開始。
1945年/昭和20年 (70〜71歳/アメリカ国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆糖尿病のためインスリン注射治療継続。
◆4月、グッゲンハイム・フェローシップ(年齢制限40歳で資金が余った場合には例外措置あり)に申請していたプロジェクトが落選。70歳のシェーンベルクが申請した3つのプロジェクトは、オペラ「モーゼとアロン」の完成(作曲目安6〜7か月)、オラトリオ「ヤコブの梯子」の完成(作曲目安18〜24か月)、そして音楽理論書全3巻の執筆というものでした。
落選理由としてジョン・サイモン・グッゲンハイム記念財団側は、助成金制度が、将来性豊かな「若手」研究者及び創作活動従事者への支援を目的とするもので、当該資金が余った場合に限り、その他の対象者への助成を検討すると説明しています。また、この年は、兵役のおかげでプロジェクト申請できなかった研究者や創作活動従事者が50名近く助成対象となったため、余剰資金もない状況でした。
ちなみにこの年に助成を勝ち取ったクラシック作曲家は、サミュエル・バーバー、エリオット・カーター、ルーカス・フォス(ドイツ系アメリカ人)、ノーマン・デロ・ジョイオ(イタリア系アメリカ人)、ニコライ・ロパトニコフ(ロシア系アメリカ人)、ダイ・キオン・リー(中国系アメリカ人)の6名。

◆5月、ドイツ降伏。
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に居住。
◆個人指導を継続。
◆3月頃、糖尿病のインスリン注射治療を中止。失神発作の増加により。
◆6月、ストコフスキーが演奏時間2分ほどのファンファーレを作曲するよう依頼。委嘱料は1,000ドル。
◆7月、金管アンサンブルと打楽器群のための「グレの歌のモチーフによるファンファーレ」として作曲を終え、オーケストレーションが3分の2(46小節中の31小節)まで終わった段階で目の不調により作業ができなくなり中断。後年、弟子のレナード・スタインが完成。委嘱料の返還は求められず、シェーンベルクの医療費に充てられています。
◆9月15日、ウェーベルンがサルツブルク州のミッタ―ジルでアメリカ軍の兵により射殺。61歳。ちなみに3週間前の8月23日にはベルリン・フィル首席指揮者のレオ・ボルヒャルト(1899-1945)がやはりアメリカ兵により射殺されています。

◆9月、タンスマン、ミヨー、ストラヴィンスキーらとの共同作品「創世記」組曲のために、前奏曲 Op.44を作曲。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校から法学博士号授与について打診されるものの辞退。
【作品】
●前奏曲 Op.44
◆2月22日、ウェーベルンが従妹のウィルヘルミーネと結婚。カトリックでは従妹婚は禁じられていたため、挙式は戦時中の1915年までおこなわず、その間に3人の子供が生まれていました(その後もう1人誕生)。ウィルヘルミーネは反ユダヤ主義的な人物で、ウェーベルンも影響を受けるようになり、後年、ヒトラーの「我が闘争」を愛読し、初期のナチ党についても支持。息子のペーターはナチ党員になり、娘のクリストルの夫ベンノ・マッテル(1917-2018)はの所属。
1946年/昭和21年 (71〜72歳/アメリカ国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆国際現代音楽協会がシェーンベルクに名誉会長の称号を授与。
◆3月、シカゴ大学が客員教授としてシェーンベルクを招聘(翌4月まで)。
◆6月、ハーヴァード大学から弦楽三重奏曲の作曲を750ドルで委嘱。スケッチを開始。
◆8月2日、喘息薬として新たにベンゼドリン(≒アンフェタミン)が処方された数時間後に心臓付近が激痛に襲われ、処方した医師を探すものの見つからず、助手のレナード・スタインが手配した医師が治療にあたり、ディラウディド(麻酔薬系の鎮静剤)を注射して処置。しかし10分後にシェーンベルクは昏睡状態に陥り、心拍と脈拍が停止したため、医師が心臓に直接アドレナリン注射をするなどしてなんとか蘇生。回復には3週間ほど要し、その間、ペニシリンを160回も注射されています。
◆8月20日、ハーヴァード大学から750ドルで委嘱されていた弦楽三重奏曲の作曲を本格的に開始し、9月23日に完成。作品には死にかけたときの経験が反映。
【作品】
●弦楽三重奏曲 Op.45(ハーヴァード大学からの委嘱作)
1947年/昭和22年 (72〜73歳/アメリカ国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆6月、アメリカ芸術・文学アカデミーがシェーンベルクの生涯功績を称えて功労賞を授与。賞金は1,000ドル。
◆音楽の趣味が保守的でシェーンベルクの音楽を好まなかったトーマス・マンが、無許可でシェーンベルクと十二音技法をモデルにしてさらに侮蔑的な扱いまでしたところも含む小説「ファウストゥス博士」が出版。
◆12月25日、娘ゲルトルーデ、ニューヨークで死去。45歳。
【作品】
●「ワルシャワの生き残り」Op.46(クーセヴィツキー財団からの委嘱作)
1948年/昭和23年 (73〜74歳/アメリカ国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆小説「ファウストゥス博士」で自分が勝手に題材にされていると知り、さらに協力者が当時嫌っていたアドルノであることを知ったシェーンベルクが、トーマス・マン宛に抗議の手紙を送付。トーマス・マンは謝罪し、説明文を付すことで対応。

◆サンタ・バーバラで講演。
◆著書「作曲の基礎」上辣。
【作品】
●「3つの民謡」Op.49
1949年/昭和24年 (74〜75歳/アメリカ国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆米国作曲家作詞家出版者協会から著作権収入。
◆連合軍政府により分割統治中のオーストリアで、約50万人の元ナチ党員が参政権を回復。
◆5月、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)誕生。
◆9月、健康状態悪化により、75歳記念祝賀会のためにヨーロッパに渡ることを断念。
◆9月13日、ウィーン市が、シェーンベルクの誕生日に名誉市民の称号を授与。
◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校から同大学音楽学部作曲家評議会への参加を要請されるものの拒否。
◆10月、東ドイツ(ドイツ民主共和国)誕生。
【作品】
●ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 Op.47
●「千年が三度」Op.50a
●「イスラエル再興」
1950年/昭和25年 (75〜76歳/アメリカ国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆8月、自身の健康状態について報告書を作成。喘息の発作は以前より少なくなったものの、息切れは慢性化して睡眠時に息切れで目覚める恐怖から椅子で寝ることが多くなります。また、これまでに、糖尿病、肺炎、腎臓病、ヘルニア、浮腫症の治療を受けたことも記されています。
◆9月、誕生日の祝賀会開催が中止。
◆10月、遺言状を2通作成。
◆慈善団体に寄付。
◆11月、トーマス・マンと和解。
◆エッセイ集「スタイルとアイデア」が、弟子のディーカ・ニューリンの編纂により出版。
【作品】
●詩篇第130番「深き淵より」 Op.50b
1951年/昭和26年 (76歳/アメリカ国籍)
◆ロサンジェルス市ブレントウッド、ノース・ロッキンガム・アヴェニュー116番地に、妻、娘、息子2人と5人で居住。
◆個人指導を継続。
◆エルサレムのイスラエル音楽アカデミーから名誉会長の称号がシェーンベルクに授与。
◆7月13日金曜日午後11時45分、ロサンジェルスの自宅で死去。76歳。当時のシェーンベルク家の在宅家族は、妻ゲルトルーデ(53歳)、娘ヌーリア(19歳)、息子ロナルド(14歳)、息子ローレンス(10歳)。デスマスクはアンナ・マーラーが作成。
◆7月17日、ウェスト・ロサンジェルスのウェイサイド・チャペルで葬儀。ユダヤ教改革派のラビ、エドガー・F・マニンが式を執り行い、80人の会葬者が参列。
【作品】
●現代詩篇 Op.50c(前年に着手。未完)
2025年/令和7年
◆1月、カリフォルニア州の山火事で、ロサンジェルスのパシフィック・パリセイズ地区にあるシェーンベルクの息子ローレンス(ラリー)の自宅とその裏にある「ベルモント・ミュージック」の建物が全焼し、ベルモント・ミュージックの所蔵品である原稿やオリジナル楽譜、書簡、書籍、写真、美術作品など10万点以上がすべて焼失。
商品説明詳細ページ一覧
【複数作曲家】
◆女性作曲家たち
◆Piano Classics スラヴ・エディション
◆Piano Classics フレンチ・エディション
◆Piano Classics アメリカ・エディション
◆オランダのピアノ協奏曲集
◆オランダのチェロ協奏曲集
◆イタリアのヴァイオリン・ソナタ集
◆イタリアのチェロ・ソナタ集
◆ファゴットとピアノのためのロマン派音楽
【中世〜バロック作曲家(生年順)】
◆ヒルデガルト・フォン・ビンゲン (1098-1179)
◆バード (c.1540-1623)
◆スウェーリンク (1562-1621)
◆モンテヴェルディ (1567-1643)
◆ファゾーロ (c.1598-c.1664)
◆カッツァーティ (1616-1678)
◆レグレンツィ (1626-1690)
◆ルイ・クープラン (1626-1661)
◆クープラン一族
◆ブクステフーデ (1637-1707)
◆マッツァフェッラータ (c.1640–1681)
◆ムルシア (1673-1739)
◆グリューネヴァルト (1673-1739)
◆ダンドリュー (1682-1738)
◆J.S.バッハ (1685-1750)
◆B.マルチェッロ (1686-1739)
◆モルター (1696-1765)
◆スタンリー (1713-1786)
◆ヨハン・エルンスト・バッハ (1722-1777)
【古典派&ロマン派作曲家(生年順)】
◆ハイドン (1732-1809)
◆ミスリヴェチェク (1737-1781) (モーツァルトへの影響大)
◆ボッケリーニ (1743-1805)
◆モンジュルー (1764-1836) (ピアノ系)
◆ベートーヴェン (1770-1827)
◆クラーマー (1771-1858)
◆ジャダン (1776-1800) (ピアノ系)
◆リース (1784-1838)
◆ブルックナー (1824-1896)
◆マルトゥッチ (1856-1909)
◆マーラー (1860-1911)
◆トゥルヌミール (1870-1939)
◆ルクー (1870-1894)
◆レーガー (1873-1916)
◆ラフマニノフ (1873-1943)
◆ウォルフ=フェラーリ (1876-1948)
【近現代作曲家(生年順)】
◆レーバイ (1880-1953) (ギター系)
◆マルティヌー (1890-1959)
◆ミゴ (1891-1976) (ギター系も)
◆サントルソラ (1904-1994) (ギター系も)
◆ショスタコーヴィチ (1906-1975)
◆ラングレー (1907-1991) (オルガン系)
◆アンダーソン (1908-1975)
◆デュアルテ (1919-2004) (ギター系)
◆プレスティ (1924-1967) (ギター系)
◆テオドラキス (1925-2021)
◆ヘンツェ (1926-2012)
◆スハット (1935-2003)
◆坂本龍一 (1952-2023)
【オーケストラ】
◆ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
【指揮者(ドイツ・オーストリア)】
◆アーベントロート
◆エッシェンバッハ
◆カラヤン
◆クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィル、 ベルリン・フィル、 ミュンヘン・フィル、 国立歌劇場管、レジェンダリー)
◆クラウス
◆クリップス
◆クレンペラー (VOX&ライヴ、ザルツブルク・ライヴ、VENIASボックス
◆サヴァリッシュ
◆シューリヒト
◆スイトナー (ドヴォルザーク、 レジェンダリー)
◆フリート
◆フルトヴェングラー
◆ヘルビヒ (ショスタコーヴィチ、 マーラー、 ブラームス)
◆ベーム
◆メルツェンドルファー
◆ヤノフスキー
◆ライトナー
◆ラインスドルフ
◆レーグナー (ブルックナー、 マーラー、 ヨーロッパ、 ドイツ)
◆ロスバウト
【指揮者(ロシア・ソ連)】
◆アーロノヴィチ
◆ガウク
◆クーセヴィツキー
◆ゴロワノフ
◆ペトレンコ
◆マルケヴィチ
【指揮者(アメリカ)】
◆クーチャー(クチャル)
◆スラトキン(父)
◆ドラゴン
◆バーンスタイン
◆フェネル
【指揮者(オランダ)】
◆オッテルロー
◆クイケン
◆フォンク
◆ベイヌム
◆メンゲルベルク
【指揮者(フランス)】
◆パレー
◆モントゥー
【指揮者(ハンガリー)】
◆セル
◆ドラティ
【指揮者(スペイン)】
◆アルヘンタ
【指揮者(スイス)】
◆アンセルメ
【指揮者(ポーランド)】
◆クレツキ
【指揮者(チェコ)】
◆ターリヒ
【指揮者(ルーマニア)】
◆チェリビダッケ
【指揮者(イタリア)】
◆トスカニーニ
【指揮者(イギリス)】
◆バルビローリ
【指揮者(ギリシャ)】
◆ミトロプーロス
【指揮者(日本)】
◆小澤征爾
【鍵盤楽器奏者(楽器別・生国別)】
【ピアノ(ロシア・ソ連)】
◆ヴェデルニコフ
◆グリンベルク
◆ソフロニツキー
◆タマルキナ
◆ニコラーエワ
◆ネイガウス父子
◆フェインベルク
◆フリエール
◆モイセイヴィチ
◆ユージナ
【ピアノ(フランス)】
◆ウーセ
◆カサドシュ
◆ティッサン=ヴァランタン
◆ハスキル
◆ロン
【ピアノ(ドイツ・オーストリア)】
◆キルシュネライト
◆シュナーベル
◆デムス
◆ナイ
◆レーゼル (ブラームス、 ベートーヴェン)
【ピアノ(イタリア)】
◆フィオレンティーノ
【ピアノ(ハンガリー)】
◆ファルナディ
【ピアノ(南米)】
◆タリアフェロ
◆ノヴァエス
【チェンバロ】
◆ヴァレンティ
◆カークパトリック
◆ランドフスカ
【弦楽器奏者(楽器別・五十音順)】
【ヴァイオリン】
◆オイストラフ
◆コーガン
◆スポールディング
◆バルヒェット
◆フランチェスカッティ
◆ヘムシング
◆リッチ
◆レナルディ
◆レビン
【チェロ】
◆カサド
◆シュタルケル
◆デュ・プレ
◆トルトゥリエ
◆ヤニグロ
◆ロストロポーヴィチ
【管楽器奏者】
【クラリネット】
◆マンツ
【ファゴット】
◆デルヴォー(ダルティガロング)
【オーボエ】
◆モワネ
【歌手】
◆ド・ビーク (メゾソプラノ)
【室内アンサンブル(編成別・五十音順)】
【三重奏団】
◆パスキエ・トリオ
【ピアノ四重奏団】
◆フォーレ四重奏団
【弦楽四重奏団】
◆グリラー弦楽四重奏団
◆シェッファー四重奏団
◆シュナイダー四重奏団
◆ズスケ四重奏団
◆パスカル弦楽四重奏団
◆ハリウッド弦楽四重奏団
◆バルヒェット四重奏団
◆ブダペスト弦楽四重奏団
◆フランスの伝説の弦楽四重奏団
◆レナー弦楽四重奏団
【楽器】
◆アルザスのジルバーマン・オルガン
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