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CD Import
Hermann Abendroth : Collector's Edition -Legendary Eterna Recordings (15CD)
Item Details
Catalogue Number
:
HACE001
Number of Discs
:
15
Format
:
CD
Other
:
Import
Product Description

アーベントロート・エテルナ・ボックス(15CD)
既発売の7点をまとめたセット!
かつて東ドイツのエテルナ・レーベルから発売されたアーベントロートの一連の録音は、モノラルながらバランスの良い聴きやすい音質と個性的な演奏で知られています。
ベルリン・クラシックスの「エテルナ・オリジナル・マスター・シリーズ」ではドイツのマスターテープから2022年に新たなマスタリングをおこなって7点(15枚分)を発売済み。このボックスはそれら7点のアルバムをそのままの状態でまとめたものです。
「彼の指揮はある種の破壊的なエネルギーに満ちていた。」とギュンター・ヘルビヒも称えるアーベントロートの個性的演奏の数々を手軽に楽しめるセットです。

マスタリングについて〜クリストフ・シュティッケル(マスタリング・エンジニア)
ETERNAテープをリマスタリングする際の前提は、オリジナル・サウンドを変えることなく可能な限り最高の状態でオリジナル・サウンドを再現することでした。
全ての作業はオリジナルのアナログ・マスターテープに基づき、マスタリングはそれぞれのテープに対して細心の注意を払って行われました。
アナログ領域のみでサウンド処理されたアナログ信号を96kHz / 24bitの高品位デジタル化後に44.1kHz / 16bit化されました。
また、デジタル領域においてもノイズの除去や、オリジナル・サウンドに影響を与えるその他の修復は行わず、必要最小限のテープ・エラーとテクニカル・クリックのみの修復が行われました。

Berlin Classics所蔵 オリジナル・アナログ・マスターテープ使用


収録会場
ライプツィヒ放送スタジオ
1929年から1930年にかけて建設された保険会社のオフィスビルを、終戦直後、ソ連軍政当局が「ライプツィヒ放送」設立のために接収。翌1946年、「中部ドイツ放送」が運営を開始し、1947年9月には中庭に放送用の大ホールも完成。1952年には東ドイツに国家放送委員会が設立され、全国の放送組織も国営のDDR放送として統合されたため「中部ドイツ放送」の名前は1991年まで使用されなくなります。
1949年から本格化した大ホールでの放送用オーケストラ演奏は、アーベントロート率いるライプツィヒ放送交響楽団と、ケーゲル率いる「ライプツィヒ放送大管弦楽団」が担当。「ライプツィヒ放送大管弦楽団」はライプツィヒ放送交響楽団と誤認されることが非常に多いですが、放送コンサートのほか放送オペラなども担当する別団体。「大管弦楽団」という名前はついていますが、実際には編成はフレキシブルで、小規模での演奏も多かったようです。
ケーゲルはアーベントロートの死の2年後の1958年にライプツィヒ放送交響楽団の第1指揮者となり、その2年後の1960年に首席指揮者に昇格。「ライプツィヒ放送大管弦楽団」のケーゲルの後任はレーグナーで、1958年に首席指揮者に就任しています。

ライプツィヒ、コングレスハレ
1900年に開場した複合文化施設。ライプツィヒ動物園入口に隣接(画像の左端)。1,000席の大ホールにはオルガンも設置されており、ゲヴァントハウス管弦楽団やライプツィヒ放送交響楽団がコンサート会場として使用。

ハウス・デス・ルントフンクス
終戦直後の1945年5月、ベルリン放送交響楽団はソ連軍政当局により許可されて活動を開始。場所は前放送組織「国家放送協会」が1929年から1931年にかけて建設した巨大な複合施設で、ベルリンのイギリス占領地区にあったため、イギリス軍政当局はソ連に抗議しましたが、圧倒的な数の赤軍を駐留させていたソ連は相手にせず、東ベルリンのナレパシュトラーセに新しい放送センターが完成するまでの約10年、そのまま使用させていました。

フンクハウス・ナレパシュトラーセ
東ドイツ時代にべルリンの南東部に建設された巨大な放送センター。約135,000u(東京ドームの約3倍)の広大な敷地に1950年代初頭から工場改修や新築などによって施設運用がおこなわれるようになり、やがて4つの放送局を収容。5,000人以上の人々が働く放送や録音制作の拠点として、1991年、ドイツ統一の翌年まで稼働。その後は一時閉鎖されていましたが、改修を経て現在もレコーディングなどに使用されています。レコーディングに使用された大ホール「SRK1」は響きが豊かで、ベルリン放送交響楽団をはじめとする東ベルリンのオーケストラやアンサンブルの録音が数多くおこなわれてきました。「SRK」は国家放送委員会の略で、「1」は第1ホールの略。


収録情報
0302789BC(1CD)のトラックリスト等
◆ バッハ:管弦楽組曲第3番 BWV1068
◆ ヘンデル:二重協奏曲第3番 HWV334
◆ ハイドン:交響曲第88番 Hob.I:88
◆ ハイドン:交響曲第97番 Hob.I:97
0302790BC(2CD)のトラックリスト等
◆ モーツァルト:交響曲第33番 KV 319
◆ モーツァルト:交響曲第35番 KV 385「ハフナー」
◆ モーツァルト:交響曲第38番 KV 504「プラハ」
◆ モーツァルト:交響曲第41番 KV 551「ジュピター」
◆ モーツァルト:ディヴェルティメント第7番 KV205(173a)
◆ モーツァルト:ノットゥルノ KV.286(269a)
0302791BC(3CD)のトラックリスト等
◆ ベートーヴェン:交響曲第1番 Op.21
◆ ベートーヴェン:交響曲第6番 Op.68「田園」
◆ ベートーヴェン:交響曲第4番 Op.60
◆ R.シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」Op.35
◆ ベートーヴェン:交響曲第9番 Op.125「合唱」
0302792BC(2CD)のトラックリスト等
◆ ブラームス:交響曲第1番 Op.68
◆ ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 Op.56a
◆ ブラームス:交響曲第3番 Op.90
◆ ブラームス:交響曲第4番 Op.98
0302793BC(3CD)のトラックリスト等
◆ ブルックナー:交響曲第4番 「ロマンティック」WAB.104
◆ ブルックナー:交響曲第5番 WAB.105
◆ ブルックナー:交響曲第9番 WAB.109
0302794BC(2CD)のトラックリスト等
◆ シューベルト:交響曲第8(7)番 D759「未完成」
◆ シューベルト:交響曲第9(8)番 D944「グレート」
◆ シューマン:ピアノ協奏曲 Op.54
◆ シューマン:チェロ協奏曲 Op.129
0302796BC(2CD)のトラックリスト等
◆ ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 Op.104
◆ チャイコフスキー:交響曲第4番 Op.36
◆ シューマン:交響曲第4番 Op.120
◆ チャイコフスキー:交響曲第6番 Op.74「悲愴」

トラックリスト等
0302789BC
バッハ:管弦楽組曲第3番、ヘンデル:二重協奏曲第3番、ハイドン:交響曲第88番、第97番
バッハ:管弦楽組曲第3番、ヘンデル:二重協奏曲第3番、ハイドン:交響曲第88番、第97番

◆ バッハ:管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068(序曲ニ長調)
1. 第1曲:Ouverture
2. 第2曲:Air
3. 第3曲:Gavotte I, II
4. 第4曲:Bourrée
5. 第5曲:Gigue
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1949年9月28日、ライプツィヒ
1950年代のものに較べれば音質がイマイチで保存状態に瑕疵もありますが、アーベントロートのバッハが聴けるので貴重です。アーベントロートは1921年にケルン室内管弦楽団の創設に関わっていただけあって、早くからバロックにも取り組んでいました。戦時中のゲヴァントハウス管との録音と比較すると、アリアが1分ほど速くなってすっきりしていることから、旧バッハ全集時代の様式による演奏とは言え、戦後のアーベントロートのバロック解釈が基本的には小型・軽量化を志向していたことが窺えます。
◆ ヘンデル:二重協奏曲第3番ヘ長調 HWV334(合奏協奏曲第29番)
6. 第1楽章:Grave - Allegro
7. 第2楽章:Allegro ma non troppo
8. 第3楽章:Adagio
9. 第4楽章:Andante larghetto
10. 第5楽章:Allegro
ベルリン放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1955年9月15日、ベルリン
CDのドイツ語表記曲名が「二重合唱管弦楽協奏曲」となっていますが、これはヘンデルが影響を受けたガブリエリなどヴェネツィア楽派の「コーリ・スペッツァーティ(分割合唱)様式」に倣って名づけられたもので、ここでは実際に合唱が登場するわけではなく、ホルン、オーボエ、ファゴットから成る管楽器の2つの合奏体と弦楽のリピエーノに競わせる構成となっています。命名者はヘンデル普及の立役者フリードリヒ・クリュザンダー。
もともとがオラトリオ「マカベウスのユダ」の幕間に演奏された作品ということもあり、同じく幕間演奏で人気のあったポジティヴ・オルガンのための「オルガン協奏曲」にも編曲されています(第16番)。
アーベントロートの指揮は作品の目的に関係なく譜面を解釈したもので、荘重な第1曲グラーヴェと、悲痛なアダージョでの耳に残る美しさが印象的、一方でホルンを中心とした協奏的な部分の活気も心地よく、全体に水準の高い表現となっています。
◆ ハイドン:交響曲第88番ト長調 Hob.I:88
11. 第1楽章:Adagio - Allegro
12. 第2楽章:Largo
13. 第3楽章:Menuetto:Allegretto
14. 第4楽章:Finale:Allegro con spirito
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1956年、ライプツィヒ
アーベントロート最高の演奏とよく称えられるのがこの第88番。確かにあちこち個性的なこの作品でアーベントロートが示す細部までコントロールの効いた表現は聴きごたえがあります。第4楽章もスピード感ならクラウスやセルも負けていませんが、ティンパニの活躍やほとんど芝居がかったまでの緩急自在な表現でアーベントロートにかなう演奏はありません。
◆ ハイドン:交響曲第97番ハ長調 Hob.I:97
15. 第1楽章:Adagio - vivace
16. 第2楽章:Adagio ma non troppo
17. 第3楽章:Menuetto:Allegretto
18. 第4楽章:Finale:Presto assai
ベルリン放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1955年1月20日、ベルリン
ベートーヴェンの交響曲第1番や第2番に直接的な影響を与えたとされる第97番は、普通に演奏すると地味ですが、アーベントロートは細部まで徹底的に表現するので、第1楽章などまるでオペラのように聴こえる部分もあったりしますし、ポリフォニーの効果も声部認知度の向上だけでなく機動力の増強を感じさせるのが素晴らしいです。第2楽章では変奏ごとに描き分けられる表現が見事ですし、第4楽章での鮮やかなコントラストとスピード感も実に快適です。
アーベントロートと古楽
アーベントロートは戦前のケルン時代には自身で室内オケを結成して活動していたこともあり、バロック経験も豊富で、このCDのヘンデルとバッハでも説得力のある演奏を聴かせています。
下の楽譜画像は、ヘンデルの二重協奏曲第3番のアダージョの冒頭部分です。通常はただの経過部分として軽く演奏されるこのアダージョで、アーベントロートは誰よりも悲痛で美しい音楽を響かせ、古楽器演奏とはまったく異なる世界を示して驚かせてくれます。カール・リヒターの演奏も似た傾向ですが、アーベントロートはさらに徹底しています。

0302790BC
モーツァルト交響曲第33番、第35番、第38番、第41番、他
モーツァルト交響曲第33番、第35番、第38番、第41番、他

Disc 1
◆ モーツァルト:交響曲第33番変ロ長調KV 319
1. 第1楽章:Allegro assai
2. 第2楽章:Andante moderato
3. 第3楽章:Menuetto
4. 第4楽章:Finale.Allegro assai
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1956年1月9日、ライプツィヒ
ジュピター交響曲の音型が、第1楽章(2か所)と第2楽章(1か所)、第3楽章(2か所)に現れるのでも有名な曲。ティンパニとトランペット無しの軽やかな響きの中で、快速楽章での疾走感と、旋律を濃厚に歌いあげる緩徐楽章のコントラストが鮮やか。
◆ モーツァルト:交響曲第35番ニ長調 KV 385「ハフナー」
5. 第1楽章:Allegro con spirito
6. 第2楽章:(Andante)
7. 第3楽章:Menuetto. Trio
8. 第4楽章:Finale. Presto
ベルリン放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1955年9月16日、ベルリン
祝典的な壮麗さが素晴らしい第1楽章と、リズミカルさを失わない第2楽章アンダンテ、華やかな第3楽章、楽想の描き分けと推進力が素晴らしい第4楽章と、高水準な仕上がりです。
◆ モーツァルト:交響曲第38番ニ長調KV 504「プラハ」
9. 第1楽章:Adagio - Allegro
10. 第2楽章:Andante
11. 第3楽章:Finale.Presto
ベルリン放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1955年2月16日、ベルリン
作曲当時、モーツァルトの身近で相次いで人が死んだことと第1楽章の長大な序奏部がもし関係あるのだとすれば、アーベントロートのほの暗いアプローチには説得力があります。そして対照的にエネルギッシュな主部、表情変化がめまぐるしい第2楽章と続き、第3楽章ではアーベントロートは誰よりも速いテンポで駆け抜けていきます。
Disc 2
◆ モーツァルト:交響曲第41番ハ長調KV 551「ジュピター」
1. 第1楽章:Allegro vivace
2. 第2楽章:Andante cantabile
3. 第3楽章:Menuetto. Allegretto
4. 第4楽章:Finale. Molto Allegro
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1956年3月26日、ライプツィヒ
ライプツィヒ放送交響楽団との1956年3月26日の録音。亡くなる2か月前の録音ですが、死因は脳卒中で急死だったので、いわゆる晩年感などは無く、エネルギー・レヴェルは常に高く保たれています。立派な演奏です。
◆ モーツァルト:ディヴェルティメント第7番ニ長調 KV205 (173a)
5. 第1楽章:Largo - Allegro
6. 第2楽章:Menuetto
7. 第3楽章:(Adagio)
8. 第4楽章:Menuetto
9. 第5楽章:Finale. Presto
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:不明
ゲヴァントハウス管弦楽団との録音ということですが、アーベントロートのモーツァルトのエテルナ音源の中ではこれだけ音が少し古めかしく、また、録音データも不明となっています。今回使用されたマスターテープの箱の写真を見ると、以下のようにタイプされています。
録音場所 : Leipzig, SRK-Übernahme Jan.1974
録音スタッフ : Radio DDR, Sender Leipzig
以上の情報からわかるのは、この音源がライプツィヒ放送によって録音されたもので、それは1974年1月にSRK(国家放送委員会)に継承されているということだけです。
以下、参考までに当時のアーベントロートとその周辺について時系列でまとめておきます。
【強制収容所帰りのライプツィヒ市長によってアーベントロートが解任】
アーベントロートは1934年からゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督を務めており、終戦後もそのまま指揮していましたが、1945年7月にエーリヒ・ツァイグナー[1886-1949]がライプツィヒ市長に任命されると風向きが変わります。ツァイグナーは、元検察官、裁判官、弁護士、ドイツ社会民主党政治家で法務大臣、反ナチ活動家であり、戦前から何度も逮捕・投獄され、1944年からはヒトラー暗殺計画の失敗でブーヘンヴァルト強制収容所に収容されていた人物です。ツァイグナーのナチへの恨みは非常に深く、市の管轄であるゲヴァントハウス管弦楽団で、事実上入党手続きだけだったとはいえ、元党員のアーベントロートが音楽監督を継続することは認めませんでした。
その結果、アーベントロートは1945年11月に解任され、1945年12月に第9を指揮したのを最後にゲヴァントハウス管弦楽団から遠ざかっていました。
【アーベントロートの議員選出】
しかし、アーベントロートは1948年の5月には、ドイツ人民会議議員に選出されていたので、ツァイグナー市長の誤解も解消されていたとも考えられます。
【アーベントロートがライプツィヒ放送響首席指揮者に就任】
そして1949年2月には、アーベントロートは中部ドイツ放送に所属するライプツィヒ放送交響楽団のメンバーたちから熱烈な誘いを受けて首席指揮者に就任しています。これは前任の指揮者でドイツ社会主義統一党員のゲルハルト・ヴィーゼンヒュッター[1912-1978]が、西ベルリンのRIAS交響楽団との契約のために党大会を欠席したため、党からの除名と首席指揮者解任を通告された後の人事で、オーケストラとしても放送だけでなく、定期公演などのコンサートにも力を入れて行くと決定したことによるものです。アーベントロートがライプツィヒを訪れる機会も多くなります。
【ライプツィヒ市長の死】
1949年4月にツァイグナー市長が重病で亡くなると、秋には元ナチ党員であるフランツ・コンヴィチュニーがゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督に就任しています。
連合国軍の爆撃で使えるホールも少なかったことから、アーベントロート率いるライプツィヒ放送交響楽団とは競い合うような関係ではありましたが、お互いに何度か客演するなどライプツィヒ楽壇の活性化に貢献していたようです。
【推測される録音時期】
以上の政治的な背景に加え、録音スタッフ欄にライプツィヒ放送という記載があることを考慮すると、おそらく1945年の録音なのではないかと考えられます。芸風も戦時中のゲヴァントハウス管とのバッハに似ていますし。
◆ モーツァルト:4つのオーケストラのためのノットゥルノ KV.286(269a)
10. 第1楽章:Andante
11. 第2楽章:Allegretto grazioso
12. 第3楽章:Menuetto
ベルリン放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1956年4月12日、ベルリン
師のモットルがウィーン・フィルと演奏するなどしていた曲。第1アンサンブルと第2・第3・第4の3群のアンサンブルのエコーが織りなす響きがおもしろい仕上がりです。
アーベントロートとモーツァルト
【恩師モットルとその親友ヘルマン・レーヴィ】
アーベントロートがミュンヘン王立音楽院で指揮の指導を受けた恩師フェリックス・モットルは、ブルックナーの弟子で有名なワグネリアンですが、モーツァルトも得意とし、ウィーン・フィルとも何度も演奏していました。
また、モットルと長く親友だったワグネリアンのヘルマン・レーヴィは、ミュンヘンの宮廷歌劇場(のちのバイエルン国立歌劇場)で四半世紀も音楽監督を務めてワーグナーだけでなくモーツァルトにも力を入れ、イタリア語オペラを翻訳導入してレパートリー化した人物としても知られています。
【歌劇場でもコンサートホールでもモーツァルト】
アーベントロート自身、若い頃から歌劇場でモーツァルト作品を指揮することも多く、また、オーケストラ・コンサートでも室内オーケストラ・コンサートでも活躍したためモーツァルトとは縁が深く、長年に渡って聴衆を満足させてきた演奏スタイルには独自の魅力が備わっています。
【戦時中のパリでもモーツァルト】
1941年の11月から12月にかけて、モーツァルトの没後150周年を記念してパリ音楽院管弦楽団を中心におこなわれた「大モーツァルト祭」では、ミュンシュ、デゾルミエール、ティボー、コルトー、パスキエ・トリオらフランス勢に混じり、数少ないドイツ人として1週間の公演の最終日にを盛り上げてもいます。曲目は、ヤルナッハの「モーツァルトによる音楽」、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番と、レーガーの「モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ」というものでした。
【速いときは誰よりも速く】
下の楽譜画像は交響曲第38番「プラハ」第3楽章が開始される部分です。アーベントロートの演奏は誰よりも高速に、しかも切れ味良くモーツァルトの沸き立つ楽想を描いています。

0302791BC
ベートーヴェン:交響曲第1番、第4番、第6番,第9番、R.シュトラウス:ドン・キホーテ
ベートーヴェン:交響曲第1番、第4番、第6番,第9番、R.シュトラウス:ドン・キホーテ

Disc 1
◆ ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調 Op.21
1. 第1楽章:Adagio molto - Allegro con brio
2. 第2楽章:Andante cantabile con moto
3. 第3楽章:Menuetto. Allegro molto e vivace
4. 第4楽章:Adagio - Allegro molto e vivace
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1949年、ライプツィヒ
◆ ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 Op.68「田園」
5. 第1楽章:Erwachen heiterer Empfindungen bei der Ankunft auf dem Lande.
6. 第2楽章:Szene am Bach.
7. 第3楽章:Lustiges Zusammensein der Landleute.
8. 第4楽章:Gewitter, Sturm. Allegro
9. 第5楽章:Hirtengesang. Frohe und dankbare Gefühle nach dem Sturm. Allegretto
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1950年6月18日、ライプツィヒ
Disc 2
◆ ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 Op.60
1. 第1楽章:Adagio - Allegro vivace
2. 第2楽章:Adagio
3. 第3楽章:Allegro vivace
4. 第4楽章:Allegro ma non troppo
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1949年12月4日、ライプツィヒ
◆ R.シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」Op.35
5. 序奏:Mäßiges Zeitmaß. Thema mäßig.
6. 主題:Mäßig.
7. 第1変奏:Gemächlich.
8. 第2変奏:Kriegerisch.
9. 第3変奏:Mäßiges Zeitmaß.
10. 第4変奏:Etwas breiter.
11. 第5変奏:Sehr langsam.
12. 第6変奏:Schnell.
13. 第7変奏:Ein wenig ruhiger als vorher.
14. 第8変奏:Gemächlich.
15. 第9変奏:Schnell und stürmisch.
16. 第10変奏:Viel breiter.
17. フィナーレ:Sehr ruhig.
フェルディナント・ダニー(チェロ)
ヘルマン・ヴィルケ(ヴィオラ)
ベルリン放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1955年1月22日、ベルリン、SRKザール1
Disc 3
◆ ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 Op.125「合唱」
1. 第1楽章:Allegro ma non troppo, un poco maestoso
2. 第2楽章:Molto vivace
3. 第3楽章:Adagio molto e cantabile
4. 第4楽章:Presto
エディト・ラウクス(ソプラノ)
ディアナ・オイシュトラーティ(アルト)
ルートヴィヒ・ズートハウス(テノール)
カール・パウル(バス)
ライプツィヒ放送合唱団
ライプツィヒ大学合唱団
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1951年6月29日、ライプツィヒ
アーベントロートのベートーヴェン
アーベントロートの最高傑作と目されるのが、第九をはじめとするベートーヴェンの交響曲。ここではR.シュトラウスの「ドン・キホーテ」も収録して、作品のドラマの面白さを大きな起伏でフルに引き出した名演奏を味わうことができます。音質もモノラルながらバランスの良い聴きやすい水準にあります。

0302792BC
ブラームス交響曲第1番、第3番、第4番、ハイドン変奏曲
ブラームス交響曲第1番、第3番、第4番、ハイドン変奏曲

Disc 1
◆ ブラームス:交響曲第1番ハ短調 Op.68
1. 第1楽章:Un poco sostenuto-Allegro
2. 第2楽章:Andante sostenuto
3. 第3楽章:Un poco Allegretto e grazioso
4. 第4楽章:Adagio-Allegro non troppo, ma con brio
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1949年10月20日、ライプツィヒ放送スタジオ
◆ ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 Op.56a
5. Thema: Chorale St. Antonii. Andante
6. Var I. Poco piu animato
7. Var II. Piu vivace
8. Var III. Con moto
9. Var IV. Andante con moto
10. Var V. Vivace
11. Var VI. Vivace
12. Var VII. Grazioso
13. Var VIII. Presto non troppo
14. Finale. Andante
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1949年12月29日、ライプツィヒ放送スタジオ
Disc 2
◆ ブラームス:交響曲第3番ヘ長調 Op.90
1. 第1楽章:Allegro con brio
2. 第2楽章:Andante
3. 第3楽章:Poco allegretto
4. 第4楽章:Allegro
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1952年3月17日、ライプツィヒ、コングレスハレ
◆ ブラームス:交響曲第4番ホ短調 Op.98
5. 第1楽章:Allegro non troppo
6. 第2楽章:Andante moderato
7. 第3楽章:Allegro giocoso
8. 第4楽章:Allegro energico e pasionato
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1954年11月8日、ライプツィヒ、コングレスハレ
アーベントロートのブラームス
アーベントロートのブラームス演奏では、個性際立つ交響曲第1番がなんといっても有名です。その多彩をきわめた表現の背景には、以下のような事柄の影響があると思われます。
◆ブラームス本人がマイニンゲン宮廷楽団に客演した際、楽譜に無いことをあれこれ指示。
⇓
◆ブラームスの指示などをシュタインバッハが自身の楽譜に書き込み。
⇓
◆ブルーメがそのシュタインバッハの楽譜や指揮、口伝などをもとにまとめて1933年に人智学系出版社から謄写印刷で刊行。
上記のブラームス系伝承に加えて、以下のような事情もあります。
◆アーベントロートはシュタインバッハの後任としてケルンで長く仕事。
◆アーベントロートがシュタインバッハと接触したり演奏を聴いたりした可能性は非常に高い。
◆ブラームス本人が自作の指揮者として最も好んだのはビューローだったというのは当時有名な話。
◆ビューローの指揮は緩急自由でかなりぶっとんだものだったそうで、ブラームス本人は実直なハンス・リヒターの指揮には不満を表明し、ビューローを称えるのが常。
◆ビューローはニキシュよりも人気があり、ギャラも当時最高(ニキシュのボストン響音楽監督年俸1万ドルに対し、ビューローの北米客演報酬は6週間滞在で1万3千ドル、マネジメントも1万2千ドルの利益を得ています)。
◆20世紀初頭にマックス・フィードラー[1859-1939]がビューロー系ともいえる自由な演奏でドイツで高い評価を獲得。フィードラーはブラームスの知人でもあり、録音も存在。
こうした流れの中で、ブラームス系伝承を勘案しながらも、伝説のビューローを意識して自由に形成したのが、アーベントロート独自の境地ともいえるこれらの演奏なのかもしれません。
おかげで有名な交響曲第1番第4楽章の主部第1主題も、万感の思いを込めて歌い抜かれています。下の楽譜画像はその第1主題が開始される部分ですが、新たなマスタリングにより、弦の美しいサウンドも際立っています。

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ブルックナー交響曲第4番、第5番、第9番
ブルックナー交響曲第4番、第5番、第9番

Disc 1
◆ ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調「ロマンティック」[原典版(ハース校訂)]
1. 第1楽章:Bewegt, nicht zu schnell
2. 第2楽章:Andante quasi Allegretto
3. 第3楽章:Scherzo. Bewegt - Trio.
4. 第4楽章:Finale. Bewegt, nicht zu schnell
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1949年11月16日、ライプツィヒ
Disc 2
◆ ブルックナー:交響曲第5番 変ロ長調 [原典版(ハース校訂)]
1. 第1楽章:Introduktion: Adagio - Allegro
2. 第2楽章:Adagio. Sehr langsam
3. 第3楽章:Scherzo. Molt vivace, Schnell - Trio. Im gleichen Tempo
4. 第4楽章:Finale. Adagio - Allegro moderato
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1949年5月27日、ライプツィヒ
Disc 3
◆ ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調 [原典版(オーレル校訂)]
1. 第1楽章:Feierlich, misterioso
2. 第2楽章:Scherzo. Bewegt, lebhaft - Trio. Schnell
3. 第3楽章:Adagio. Langsam, feierlich
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1951年10月29日、ライプツィヒ
アーベントロートのブルックナー
ブルックナーの死の9年後からほぼ半世紀に渡って作品紹介に尽力したアーベントロートは、黎明期の演奏会受容を創出した立役者のひとりでもあり、そのエネルギッシュな活動は、フルトヴェングラーやクレンペラー、シューリヒト、クナッパーツブッシュにも先行していたほどで、ブルックナーの著作権失効に伴って演奏頻度が高まるよりずっと前に、作品の知名度を高めるという重要な役割を果たしてもいました。
初版から原典版へ
1927年にマックス・アウアーやブラウンフェルス、モイスルらによって立ち上げられたブルックナー協会は、同協会実行委員会第2議長のブラウンフェルスがアーベントロートの同僚(ケルン音楽大学共同学長)で、ラインラント・ブルックナー友の会の会長だったこともあってアーベントロートは最初から協力的でした。
1930年代なかばから続々と出版されるようになったブルックナー協会の原典版楽譜には、当時すでに初版で約30年のキャリアを持っていたアーベントロートも理解を示し、第5番以外は、原典版の出版後は初版から切り替えて使用しています。各交響曲の原典版出版年は以下の通りです。
第5番で対立
しかし第5番については大編成の初版(シャルク版)が聴衆に人気があり、アーベントロートの元同僚のクレンペラーも初版でウィーン・フィル演奏会を大成功させたのち同じウィーンで1936年には原典版でコケたりしていたので、アーベントロートもなかなか原典版には切り替えられませんでした。そして1937年7月にはアーベントロートとブルックナー協会が5番の楽譜選択をめぐり衝突してもいます。
アーベントロートの影響力の大きさを懸念したブルックナー協会は、アーベントロートが5番を指揮する際には、協会メンバーが実際の演奏を確認しに行き、使用楽譜について逐一報告を上げていたほどです。結局、出版から5年後の1940年には、アーベントロートも観念して第5番を原典版に切り替えています。
説得力あるブルックナー演奏
初版と原典版でヨーロッパ各地にブルックナーを響かせたアーベントロートは、長いキャリアのうちに聴衆にアピールできるブルックナー演奏を確立しており、重厚で劇的な効果に加え、濃密な抒情美や俊敏さも兼ね備えた音楽づくりが見事な水準に達しています。ブルックナー普及の黎明期から指揮していた巨匠による意義深い解釈と言えると思います。
アーベントロートのブルックナー演奏では、抒情的な旋律の美しさも聴きごたえがあり、特に第5番の第2楽章アダージョ、3分くらいから登場する荘厳な第2主題での心のこもった重厚な表現は素晴らしいものがあります。下の楽譜画像はその第2主題部が開始される部分です。

主なブルックナー演奏
アーベントロートはミュンヘン王立音楽院でフェリックス・モットルに指揮を師事しています。モットルは当時屈指の人気指揮者でワーグナーのスペシャリストとして知られたほか、ブルックナーの弟子でその作品紹介に力を注いでもいました。
【リューベック時代】(1905-1911)
アーベントロートは、師のモットルの紹介がきっかけでリューベック楽友協会フィルハーモニー管弦楽団のオーディションに応募して勝利しています。
1905年 第7番。リューベック初演。常任指揮者に就任した翌月、1905年11月のことで、アーベントロートは22歳でした。
1906年 第5番、第9番。リューベックに革新をもたらしたと高く評価。
【エッセン時代】(1911-1914)
仕事はオペラが主体だったのか、現状でわかっているのは8番のみ。
1913年 第8番。批評では壮大な演奏と称えられています。
【ケルン時代】(1915ー1934)
ケルンでの仕事は第1次大戦下に始まっていますが、合唱団とも関わりが深かったためレパートリーが宗教作品まで拡大。また、ギュルツェニヒ管の活動主体は歌劇場で、コンサートの数は少ないことから(オペラ3に対してコンサート1の割合)、自由時間が増えて客演が増加しています。
1915年 ギュルツェニヒ管:詩篇150篇。
1916年 ギュルツェニヒ管:第7番。
1917年 ギュルツェニヒ管:第4番。
1918年 ギュルツェニヒ管:第5番。徴兵で楽員不足が続く中、ギュルツェニヒ管をケルン歌劇場のクレンペラーと共有していたことから、ときには楽員をめぐって対立もしていましたが、そんな環境でも大編成シャルク版の5番を演奏できたのは、アーベントロートがケルン・コンサート協会の芸術監督兼指揮者でもあったからだと考えられます。
1919年 ギュルツェニヒ管:第9番。
1920年 ギュルツェニヒ管:第8番。7月には「ベートーヴェン=ブルックナー・アーベント」を4回開催。10〜11月にかけてコンセルトヘボウ管弦楽団に客演、第8番をオランダ初演。1920年5月に招聘されたマーラー音楽祭での指揮が評価されての客演でした。
1921年 ギュルツェニヒ管:第3番、ミサ曲第3番。ベルリン・フィル:第3番。
1922年 ギュルツェニヒ管:第6番、第1番。
1923年 ギュルツェニヒ管:第4番、第7番、第5番。この1923年は前年からきびしくなっていたインフレが、秋にハイパーインフレ化した年でもありますが、直前の7月にはギュルツェニヒ管のバルメン公演で、アーベントロートが第4番、クレンペラーが第9番を指揮してもいました。アーベントロートとクレンペラーは戦時中のひっ迫した状況以外では関係良好だったようで、アーベントロートが設立に寄与したケルン室内管弦楽団でもクレンペラーは指揮に参加していましたし、アーベントロートはラインパーク大ホールでクレンペラーの作品を指揮したりもしています。
1924年 ギュルツェニヒ管(ラインパーク大ホール):7月に第8番とテ・デウム、10月に第2番と詩篇第150篇。
1925年 ギュルツェニヒ管:第7番、ミサ曲第2番。同(低地ライン音楽祭):第6番。
1926年 イェテボリ響:第3番。ギュルツェニヒ管:第4番、第8番。
1927年 ギュルツェニヒ管:第9番。イギリスとソ連への長期客演の年。
1928年 ギュルツェニヒ管:第7番。同(マンハイム公演):第8番。同(ウィーン公演):第7番。合同オケ(低地ライン音楽祭公演):第5番。この公演ではギュルツェニヒ管に加え、同オケのルーツでもあるケルンのコンサート協会管弦楽団も動員した大編成で演奏。コンセルトヘボウ管:第7番。
1929年 ウィーン響:第8番、テ・デウム。ベルリン・フィル:第7番。ギュルツェニヒ管:第3番。同(マンハイム公演):第6番、第7番。同(ラインパーク大ホール):第8番、詩篇第150篇。リヴァプール・フィル:第4番。レニングラード・フィル:第5番。
1930年 ギュルツェニヒ管:第4番。ウィーン響:第5番。コンセルトヘボウ管:第7番。ギュルツェニヒ管:第8番、第5番。
1931年 ギュルツェニヒ管:第9番。ベルリン放送管:第5番(のちのベルリン放送響)。
1932年 ゲヴァントハウス管:第4番。ギュルツェニヒ管:第8番、第7番。トーンハレ管:第5番、第2番。
1933年 ギュルツェニヒ管:第3番。マインツ市立管:第5番。
1934年 ギュルツェニヒ管:第9番、ミサ曲第2番。
【ライプツィヒ時代】(1934ー1945)
1934年 ゲヴァントハウス管:第7番、第3番。ワイマール・シュターツカペレ:第3番。
1935年 ゲヴァントハウス管:第5番。ベルリン・フィル:第5番。ゲヴァントハウス管:第1番、第8番、第6番。オスロ・フィル:第4番。
1936年 ゲヴァントハウス管:第9番、第5番。ロイス・カペレ:第4番。マンハイム国立歌劇場管&フィルハーモニー協会:第5番。シュレージア・フィル:第3番。ゲヴァントハウス管:第8番。バーデン・シュターツカペレ:第8番。
1937年 ゲヴァントハウス管:第3番。ベルリン・フィル:第8番。ゲヴァントハウス管:第4番、ウィーン・フィル:第3番。
1938年 ゲヴァントハウス管:第1番、第7番、ミサ曲第1番。イェテボリ響:第4番。
1939年 ゲヴァントハウス管:第2番、第4番。
1940年 ヒルフェルスム放送響:第2番、ゲヴァントハウス管:第5番、テ・デウム。ベルリン・フィル:第3番。
1941年 ゲヴァントハウス管:第8番、第3番。コンセルトヘボウ管:第4番。
1942年 ゲヴァントハウス管:第7番、第8番。ベルリン・フィル:第4番、第7番。ストックホルム・フィル:第3番。ヒルフェルスム放送響:第9番。終了後に、フリッツ・エーザーの指揮で第4楽章の断片を演奏。
1943年 ゲヴァントハウス管:ミサ曲第1番。
1944年 ゲヴァントハウス管:第9番、第4番。
1945年 ゲヴァントハウス管:第8番アダージョ、第7番。
【ワイマール時代】(1945ー1956)
1946年 ワイマール・シュターツカペレ:第3番、第7番。
1948年 ワイマール・シュターツカペレ:第8番。
1949年 ワイマール・シュターツカペレ:第4番、第5番。ライプツィヒ放送響:第4番、第5番(当CD収録)、第8番。
1950年 ギュルツェニヒ管:第3番。
1951年 ライプツィヒ放送響:第9番(当CD収録)。
1952年 ワイマール・シュターツカペレ:第9番、第6番。
1953年 ワイマール・シュターツカペレ:第7番。
1954年 ワイマール・シュターツカペレ:第4番、第8番。
1955年 ワイマール・シュターツカペレ:第5番。ソフィア・フィル:第4番。
1956年 ベルリン放送響:第7番。

ブルックナー協会
著作権失効による楽譜出版の好機
1927年はブルックナー没後31年ということで、当時の法律で著作権料の支払いが不要になった年です。これにより出版社や演奏者のコストが減少するため、演奏会や録音の増加が見込まれます。13年前の1914年には著作権失効によってワーグナー・ブームが起きていましたし、ブルックナーの場合も、すでにアーベントロートやフルトヴェングラー、クレンペラーらによって多くの演奏会が開かれ人気を博してもいたので、著作権失効後の公演数増加は確実で、楽譜の需要増も見込めそうでした。
ブルックナーの楽譜の特殊事情
ブルックナーの場合は出版譜(初版)と自筆譜に少なからぬ違いがあるため、実際に演奏できる形に自筆譜を校訂して出版すれば、楽譜需要のさらなる増大が見込めそうでした。
「校訂」なのでそこに新たな著作権料は発生しませんが、「初版」は時代の要請に応じたもので、「自筆譜」こそブルックナーの原意に違いない、といった推測にはわかりやすい正当性も感じられるため、自筆譜校訂楽譜の市場価値には大きなものが見込めそうでした。

出版の街ライプツィヒの書籍取引所内でブルックナー協会設立
1927年10月、ドイツ各地に存在していたブルックナー愛好会や協会を統合して「ブルックナー協会」を設立し、ライプツィヒ書籍取引所内で起業。
実行委員会の第1議長は、ブルックナー研究者で伝記作家のマックス・アウアー[1880-1962]、第2議長は、アーベントロートの同僚でケルン音楽大学共同学長でユダヤ系のヴァルター・ブラウンフェルス。
当初はブライトコップ・ウント・ヘルテル社からの出版を想定していたため、ライプツィヒでの起業でしたが、ライプツィヒは当時ヨーロッパで有数の出版の街としても知られ、音楽関係の出版社も数多く操業していたという事情もあります。

ウィーンに移転
1929年2月、「ブルックナー協会」はブルックナー資料の豊富なウィーンに拠点を移し、「国際ブルックナー協会」と改名しています。自筆譜の校訂楽譜を出版して収益化するにはまず「楽譜校訂」が必要ということでの移転でした。
名誉会長はまさかのフランツ・シャルク
ウィーンでの再出発に際しては、ブルックナーの弟子で、第5番を大編成改訂してヒットさせてもいたウィーン国立歌劇場総監督のフランツ・シャルク[1863-1931]に名誉会長に就任してもらっています。亡きレーヴェ[1865-1925]と共に、「初版」の象徴ともいえるシャルクの名を戴くことで、ブルックナー普及に努めてきた指揮者たちに対して、近い将来出版される予定の自筆譜の校訂楽譜である「原典版」をアピールする狙いがあったとも考えられ、シャルクと親しかったクレメンス・クラウスも、その後、原典版にシフトしています。

資料のあるところから人材確保
実際に校訂作業をおこなう編集スタッフは、ブルックナー関連資料のあるところから迎えられています。オーストリア国立図書館音楽部門長でウィーン大学音楽学教授のロベルト・ハースを主幹、ウィーン市立図書館収蔵品の管理責任者でウィーン大学音楽学准教授のアルフレート・オーレルをその補佐として契約。共に高名なユダヤ系音楽学者グイド・アドラーの弟子ですが、経歴はずいぶん異なっています。
ロベルト・ハース[1886-1960]
ハースは音楽学を学んでアドラーの助手を2年間務めたのち、指揮者に転向して5年ほどミュンスター、コンスタンツ、エアフルト、ドレスデンの劇場で働きます。その後、中世音楽の出版に携わり、第1次大戦ではライフル中隊に所属。除隊後、1918年から1945年までオーストリア国立図書館に勤務し、1920年には同図書館の音楽部門長に昇格。その間、1923年には教員資格を取得し、1929年にウィーン大学の音楽学教授に任命。
1933年にはウィーンでまだ非合法だったオーストリア・ナチ党に入党していますが、世界大恐慌の影響を受けた当時のオーストリアは「オーストリア・ファシズム政権」のファシズム組織「祖国戦線」のおかげで暴動や陰謀だらけの不穏な社会環境だったので、たとえばウィーン・フィルでも自分や家族を守るためにほぼ半数がナチ党に入党していたという背景があります。それでも1938年にドイツに併合されるまでは、オーストリアでは「祖国戦線」が絶対的な強者で、ウィーン・フィルでも「祖国戦線」の楽員が常任指揮者制度を廃止したり、自分に反対する者を攻撃するなどやりたい放題で、ナチ党員の楽員ですら迫害されるという状況でした。

アルフレート・オーレル[1889-1967]
オーレルはまずウィーン大学で法律を学んで1912年に博士号を取得し、財務省で働きますが、ほどなく音楽の道に転向。1917年から1919年までアドラーに音楽学を学び、1918年から1940年までウィーン市立図書館の収蔵品管理責任者として働いています。その間、1922年には教員資格を取得し、1929年から1945年までウィーン大学の音楽学准教授を務めてもいます。
オーレルは1938年に国際ブルックナー協会を辞め、同年にオーストリアがドイツに併合されるとナチ党に入党を申請。ただしナチ党は国民の過剰な人気のため1933年4月から新規入党を受け付けていなかったので、手続きの予約のような形で入党はできませんでした。そんな中、併合下のオーストリアでは様々な組織の改編が急ピッチで進み、同年にはオーレルはウィーン音楽大学などを運営する国立アカデミーの監督代理に任命されてもいます。
そして1940年に入党が認められると、ウィーン市立図書館を辞め、ウィーン市文化局に設立された特別部門「ウィーン音楽研究所」の責任者となり、1945年まで大学の仕事と兼務していました。

「ベンノ・フィルザー出版社」から出版開始
1930年、レクイエムと荘厳ミサ曲を1冊に収めてブルックナー全集の第15巻として出版。表紙には発行者としてハースとオーレルの名が、提供者としてハースの名が記載されています。国際ブルックナー協会には自前の出版部門が無かったので、アウクスブルクの「ベンノ・フィルザー出版社」と契約しての出版でした。
同社はブルックナー協会設立者のひとりであるフリッツ・グリューニンガーの著書「アントン・ブルックナー その人物像と作品の形而上学的核心部分」を出版していました。

交響曲第9番の2ヴァージョン演奏で成功
1932年4月、オーレルが校訂した交響曲第9番原典版を、初版(レーヴェ版)と共に一度のコンサートで紹介。この野心的なプログラムにより、国際ブルックナー協会が一躍注目を集めることになります。演奏はジークムント・フォン・ハウゼッガー指揮ミュンヘン・フィルでした。

「ベンノ・フィルザー出版社」が教会音楽出版社によって買収
1932年、アウクスブルクの教会音楽専門の出版社「アントン・ベーム&ゾーン」が、「ベンノ・フィルザー出版社」の音楽出版権を買いとり、同社は1934年に清算され、1935年にミュンヘンで「ノイエ・フィルザー出版社」として再起。
「音楽学出版社」を設立
1933年、契約していた「ベンノ・フィルザー出版社」音楽部門の買収を受け、国際ブルックナー協会は出版部門「音楽学出版社」を自前でウィーンで設立。ロゴマークは、Musikwissenschaftlicher VerlagからMとWとVを取り出して組み合わせたものです。

「音楽学出版社」より出版開始
1934年、オーレル校訂による交響曲第9番と「4つの管弦楽小品」を出版。交響曲第9番はアーベントロートもすぐに取り上げています。
そしてその第9番の成功を機に交響曲の出版が本格化。翌1935年にはハース校訂による第1番、第5番、第6番、1936年には第4番が出版されています。
ゲッベルスの演説
1937年6月、国際ブルックナー協会の活動に感銘を受けたゲッベルスが、ブルックナーの楽譜は国際ブルックナー協会の原典版を使用するようレーゲンスブルクのワルハラ神殿で演説。これを機に初版を否定・攻撃する動きが活発化。
ワルハラ神殿はルートヴィヒ1世が建てさせたもので、ドイツに関わる偉人の胸像が置かれており、ブルックナーの胸像もこの年に加えられていました。

ノーヴァクの参加
1937年には国際ブルックナー協会に、レオポルト・ノーヴァク[1904-1991]も参加し、主にハースの補佐を務めるようになります。ノーヴァクもハース、オーレルと同じくアドラーの弟子で、ウィーン大学の教員(1932〜1973年)でもありました。戦後はハースが引退したため、オーストリア国立図書館音楽部門の管理者の後任となり、ウィーンで活動を再開した国際ブルックナー協会で新たに全集シリーズの仕事をおこないます。

オーレルとハースの衝突、オーレルの脱退
翌1938年2月にはオーレルとハースの見解の相違と反目が和解できないレベルとなり、オーレルはブルックナー協会を辞めています。協会最初の交響曲シリーズの原典版となった第9番で成功したオーレルの名前が、ほかは「4つの管弦楽小品」だけなのは、そうした見解の相違が原因かもしれません。オーレルは、断片も含めて自筆はすべて出版すべきとも提唱してもいました。
なお、同年にはハースの校訂による第2番が出版されてもいます。
アウアー会長解任、ドイツ・ブルックナー協会に改名、ライプツィヒに移転
1939年、ナチ党が国際ブルックナー協会を全面的にサポートすることが決まると、名称が「ドイツ・ブルックナー協会」に変更され、「音楽学出版社」も含めて拠点をライプツィヒに移転。また、会長で創設者のマックス・アウアーが反ナチであるとして解任されています。
新会長はフルトヴェングラー
アウアーの後任として、フルトヴェングラーが新会長に就任しています(アウアーは戦後、会長職に返り咲き1954年まで在任。ブルックナー写本のコレクションをオーストリア国立図書館に遺贈してもいました)。
戦時のブルックナー協会
1939年にハースの校訂で第8番が出版され、翌1940年にはハースとノーヴァクの共同校訂でミサ曲第2番が出版。以後しばらく間が空き、1944年になってハース校訂による第7番と第4番(部分改訂版)、ミサ曲第3番が出版されています。
同年には第3番(第1稿)の出版も予定されていましたが、ライプツィヒへの爆撃により一部を除いて焼失したため見送られています。
大戦末期と終戦直後のアーベントロート
ライプツィヒへの本格的な爆撃は1943年5月から1945年4月までの2年間も続き(日本は約9か月)、膨大な瓦礫と多くの民間人死傷者で町が溢れますが、アーベントロートとゲヴァントハウス管は1945年3月まで演奏をおこない、戦後は7月にブルックナー8番アダージョで再開、11月のブルックナー第7番でゲヴァントハウス管の首席指揮者としての仕事を締めくくっています。
下の画像はアメリカとイギリスの残忍な爆撃で瓦礫だらけになった戦時中のライプツィヒの街を片付ける捕虜のソ連兵とライプツィヒ市民たち。

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シューベルト:交響曲「未完成」、「グレート」、シューマン:ピアノ協奏曲、チェロ協奏曲
シューベルト:交響曲「未完成」、「グレート」、シューマン:ピアノ協奏曲、チェロ協奏曲

Disc 1
◆ シューベルト:交響曲第8(7)番ロ短調 D759「未完成」
1. 第1楽章:Allegro moderato>
2. 第2楽章:Andante con moto
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1950年9月18日、ライプツィヒ
◆ シューベルト:交響曲第9(8)番ロ短調 D944「グレート」
3. 第1楽章:Andante - Allegro ma non troppo [13:11]
4. 第2楽章:Andante con moto [14:43]
5. 第3楽章:Scherzo. Allegro vivace. Trio [09:57]
6. 第4楽章:Finale. Allegro vivace [10:56]
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1950年1月11日、ライプツィヒ
Disc 2
◆ シューマン:ピアノ協奏曲イ短調 Op.54
1. 第1楽章:Allegro affettuoso
2. 第2楽章:Intermezzo. Andantino grazioso
3. 第3楽章:Allegro vivace
フリードリヒ・ヴューラー(ピアノ)
ベルリン放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1956年4月13日、ベルリン、SRKザール1
◆ シューマン:チェロ協奏曲イ短調 Op.129
4. 第1楽章:Nicht zu schnell
5. 第2楽章:Langsam
6. 第3楽章:Sehr lebhaft
ポール・トルトゥリエ(チェロ)
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1955年9月5日、ライプツィヒ
アーベントロートのシューベルト、シューマン
アーベントロートのシューベルトは、剛毅なたたずまいの中で味わい深く旋律が歌われる見事な演奏です。シューマンのチェロ協奏曲でも、若きトルトゥリエが、アーベントロートの力強いサポートを得て素晴らしいチェロを聴かせています。ピアノ協奏曲では、ドイツの名匠フリードリヒ・ヴューラーがこれまた渋みのあるピアニズムで、シューマンの抒情を重厚に表現しています。


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シューマン:交響曲第4番、チャイコフスキー:交響曲第4番、第6番、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲
シューマン:交響曲第4番、チャイコフスキー:交響曲第4番、第6番、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲

Disc 1
◆ ドヴォルザーク:チェロ協奏曲ロ短調 Op.104
1. 第1楽章:Allegro
2. 第2楽章:Adagio, ma non troppo
3. 第3楽章:Finale, Allegro moderato
ルートヴィヒ・ヘルシャー(チェロ)
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1956年3月28日、ライプツィヒ
音質良好。往年のドイツのチェリスト、ルートヴィヒ・ヘルシャー[1907-1996]は、ごつごつキビキビとしたスタイルが、アーベントロートの力強い音楽づくりにぴったり。同時代作品にも強く、ドイツでは聴衆にもプロにも人気のあったチェリストだけに、ドヴォルザークのチェロ協奏曲も、1957年のミュラー=クライ盤、1958年のカイルベルト盤もリリースされていましたが、面白さでは断然アーベントロート盤でしょう。
アーベントロートの「注意喚起型」ともいえる雄弁すぎるオーケストラ・パートのおかげか、ヘルシャーも発奮してなかなかエッジの効いた演奏を聴かせており、質実剛健な音色の味わいもさらに引き立っています。
ヘルシャーは翌年のミュラー=クライ盤では、体調のせいなのか指揮者のせいなのかはよくわかりませんが、冴えない演奏を聴かせています。また、ヘルシャーは2年後のカイルベルトとの録音では、伸びやかで美しい演奏を聴かせていたので、アーベントロートとの共演での独特の隈取の濃さには、指揮者の影響が表れているようにも思えます。ちなみにヘルシャーは1953年以降、何度も来日しており、芸大名誉教授でもありました。

◆ チャイコフスキー:交響曲第4番ヘ短調 Op.36
4. 第1楽章:Andante sostenuto - Moderato con anima
5. 第2楽章:Andantino in modo di canzona
6. 第3楽章:Scherzo. Pizzicato ostinato. Allegro
7. 第4楽章:Finale. Allegro con fuoco
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1951年2月13日、ライプツィヒ
終楽章の怒涛の迫力で有名な演奏ですが、第1楽章と第2楽章の情感の豊かさも驚くべきもので、いわゆる「シンフォニック」とは反対の、各素材が語りまくる音楽といった趣です。
Disc 2
◆ シューマン:交響曲第4番ニ短調 Op.120
1. 第1楽章:Ziemlich langsam -Lebhaft
2. 第2楽章:Romanze. Ziemlich langsam
3. 第3楽章:Scherzo. Lebhaft
4. 第4楽章:Langsam – Lebhaft
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1949年9月18日、ライプツィヒ
交響曲第1番の直後に書かれた交響曲ニ短調は、ブラームスには気に入られたものの周囲の評判が良くなかったため放置され、作曲から10年を経てようやく改訂され交響曲第4番として初演・出版の運びとなります。
アーベントロートのシューマン4番の演奏は、第2楽章や第4楽章序奏部などシューマンのダークな部分にもこだわった表現力豊かなもので、長きに渡って高い評価を得ています。
アーベントロートは1956年の4月にドイツ・シューマン委員会の委員長に選出され、7月に開催されるツヴィッカウのシューマン音楽祭の準備にも取り組んでいましたが、5月29日に脳卒中で死去しています。
◆ チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 Op.74「悲愴」
5. 第1楽章:Adagio. Allegro non troppo
6. 第2楽章:Allegro con grazia
7. 第3楽章:Allegro molto vivace
8. 第4楽章:Finale. Adagio lamentoso
ライプツィヒ放送交響楽団
ヘルマン・アーベントロート(指揮)
録音:1952年1月28日、ライプツィヒ
濃厚な情念とダイナミズムに彩られた自在な演奏で、第3楽章の締めなどまさにやりたい放題。しかし、第4楽章の嘆きがあまりにも深いので、それまでの3つの楽章はある種のあがき、もがきのようにも思えてきます。
アーベントロートのシューマン
下の楽譜画像はシューマンの交響曲第4番第4楽章冒頭です。絶望から希望、あるいは暗闇から夜明けに向かうこの部分で、アーベントロートの示すドラマのシリアスな魅力はシューマン暗部に注目する向きには堪らないものと言えそうです。

アーベントロート情報
詩人アーベントロート
コワモテなアーベントロートですが、書籍商の家に生まれ、リューベック時代にはパトロンでもあった女性作家、イーダ・ボイ=エトの影響もあってか、詩作に興じたりするロマンティストでもありました。
アーベントロートの詩は50篇ほど遺されているということですが、中には「ブルックナーの交響曲第5番」などというタイトルの詩もあったりします。
その詩の最後の連(段落)は、アーベントロートのブルックナーへの思いが反映されたものであると同時に、音楽に何かを求める聴衆への心優しいメッセージと受け取ることも可能です。
アーベントロートが美しい旋律や強烈なトゥッティを、ときにアゴーギクを駆使して徹底的に際立たせたりするのもそうした心情のあらわれなのかもしれません。
あなたが探しているもの、
言葉や理屈をはるかに超え、
あらゆる星の彼方で何百万年も続いてきたもの:
この神聖な音楽が、あなたにそれを告げるのです!

アーベントロートとソ連
数多くのソ連への客演
アーベントロートは、1925・1927・1928・1929・1951・1954年にソ連を訪問しており、モスクワとレニングラードで数多くのコンサートを指揮しています。戦前のソ連には、クレンペラーやクラウス、クナッパーツブッシュなど多くの指揮者が招かれていますが、戦後は冷戦ということもあり、渡航者は限られていました。そうした中でアーベントロートのソ連ツアーは目立つものだったようです。1951年にはリヒテルとの共演がプラウダ紙、ソビエト芸術紙に掲載されるなど注目を集めています。

ショスタコーヴィチが絶賛
アーベントロートは1954年にモスクワでベートーヴェン交響曲全曲チクルスをおこなっていますが、ショスタコーヴィチは「わが首都の音楽生活における喜ばしい出来事」として、その魅力に触れ、アーベントロートは、ベートーヴェンの楽譜の優れた目利きであり、ベートーヴェンの作品に典型的に見られる深い情熱をダイナミックに鳴り響かせ、モスクワっ子の期待に応えたと称えています。
ガウクも称賛
有名な指揮者、アレクサンドル・ガウクは、アーベントロートがすべての楽器、すべてのエピソード、すべての声部を引き出して、リズム・パターンを鋭く強調しようとすると説明し、そのオーケストラへの欲求の強さについて語っていました。
ちなみにガウクは戦前のレニングラード・フィルでは外国からの大勢の客演指揮者のためにオーケストラの下準備をしていた人物でもあり、ドイツの指揮者たちの芸風にも精通していました。
戦前の成功と出版、講演
そしてそのレニングラードで、アーベントロートは1929年にブルックナー第5番のレニングラード初演を指揮しており、さらに、独墺ものだけでなく、チャイコフスキーの第5番でも成功を収めていたのです。
なお、アーベントロートは、多くの客演経験をもとに、ソ連に関して肯定的な旅行記をリベラル全国紙「ケルニッシェ・ツァイトゥング(ケルン新聞)」に載せたことや、ケルン大学で講義までおこなっていたこともあってか、たとえば独ソ戦のさなかでもレニングラードのホールからアーベントロートの肖像写真が外されていませんでした。

アーベントロートとナチ
ナチ政権成立以前
アーベントロートの一連のソ連ツアーは、アーベントロートに危機をもたらすことになります。
アーベントロートは1918年に社会主義者の訴えに共同署名していたほか、戦前のソ連ツアーの際、アーベントロートは「私のロシア体験記」をケルンのリベラル全国紙「ケルニッシェ・ツァイトゥング(ケルン新聞)」に載せたことや、ケルン大学でソ連を題材に講義までおこなっていたことで、それがのちにケルン=アーヘン大管区指導者ヨーゼフ・グローエ[1902-1987]から「文化ボルシェヴィズム」だとして非難されることになります。
さらにアーベントロートは、グローエに非難される前の1928年には反ユダヤ主義的なドイツの講演組織「西部ドイツ国民講義講堂」から名誉会員に選ばれますが、関わることを拒否したため、これもナチ党に睨まれる要因になっています。
ナチ政権成立〜ケルン時代
また、ユダヤ人と親しかったアーベントロートは、もともとの姿勢が反ナチ的でもありましたが、ケルンで遭遇した一連の政治的な出来事は、アーベントロートの人生に影響を及ぼすことになります。
まず1933年3月、恩人でもあるアデナウアー市長がナチ突撃隊の襲撃をかわしてギリギリの状態でベルリンに逃亡するという事件が起き、翌月には、同僚で同郷・同門・同年齢(生年月日が一か月違い)のブラウンフェルスがユダヤ系のためケルン音楽大学の共同学長を解任されています。
ケルン市内では不穏な状況が継続し、ナチ親衛隊や突撃隊、ケルン警察、ゲシュタポが暗躍する中、アーベントロート自身も、9か月後の1934年1月にリーゼン市長により解任を通告されてしまいます。
この解任を不服としたケルン音楽大学の人々が抗議集会などおこないますが、帝国音楽院幹部でヴァイオリニストのグスタフ・ハーヴェマン[1882-1960]は、彼らに対してこれ以上アーベントロートを擁護する場合はゲシュタポに引き渡すと脅迫する手紙を送っています。また、彼らの集会は実際に突撃隊に襲われ2人が負傷する事態にまでなっていますが、それがハーヴェマンの指示によるものかは不明です。
ライプツィヒ時代
ゲヴァントハウス管のブルーノ・ワルターの後任を探していたライプツィヒ市長のゲルデラー[1884-1945]は、1933年3月31日に、ケルンのリーゼン市長に対してアーベントロートを称える文書を送っています。ゲルデラーは当初は、ハンブルクやデュッセルドルフがおこなったように歌劇場音楽監督の兼任(ライプツィヒの場合は市の音楽総監督でもあるパウル・シュミッツ[1898-1992])を考えていましたが、任命委員会に却下され、より知名度の高いアーベントロートに白羽の矢が立ったというものです。ゲルデラーはナチ台頭以前からドイツ政界で有名だった人物でもあります。
そうした流れの中で、1934年10月、アーベントロートはゲヴァントハウス管弦楽団首席指揮者に就任し、ライプツィヒを新天地として働くことになります。
狂信的ナチで専横なルドルフ・ハーケ
アーベントロート着任から2年後の1936年11月9日、ゲルデラー市長のフィンランド滞在中に、狂信的なナチ党「国家弁士」で副市長のルドルフ・ハーケ[1903-1945]が扇動してゲヴァントハウス前のメンデルスゾーン像を破壊。当時、ロンドン・フィルと共にゲヴァントハウスを訪れていたビーチャムが、11月10日に花束を捧げようとメンデルスゾーン像を訪れると台座しか残っていませんでした。帰国したゲルデラー市長は、なんとか像を再建しようとしますが市議会にも妨害され、4か月後の3月31日に辞任しています。

ナチ党の人気過熱と新規入党制限
当時、ナチ党はドイツ国民に圧倒的な人気があり(音楽家の半数も党員)、あまりの入党過熱のため1933年4月19日には新規入党の制限を開始し、1939年5月10日に新規入党制限が完全に撤廃されるまで、実に6年間に渡って、新規入党を基本的に受け付けていませんでした(縁故や再入党のほか数回の例外期間を除く)。
なので、政治家が音楽家などに対して入党要請することはほとんどなく、良いポジションを得たい音楽家側から入党申込みをおこなうのが一般的で、すでに知名度が高かった指揮者や演奏家が入党していないケースが多いのはそれが要因でもあります。
ハーケの権力掌握とアーベントロートの入党手続き
1937年4月1日付でハーケは臨時市長に任命されて権力を振るえるようになり、入党禁止期間にも関わらず、アーベントロート(と歌劇場音楽監督のパウル・シュミッツ)に対して入党するよう迫ります。
ハーケの場合は、行状からとてもマトモな政治家と言える人物ではなく、しかも入党制限期間に敢えて入党を迫っているので、アーベントロートが迂闊な対応をすれば深刻な事態を招く恐れもありました。しかも、妻エリーザベトのアーリア人証明が未取得という問題(翌1938年にベルリンの地方裁判所から却下)や、文化ボルシェヴィズム問題、反ユダヤ主義講演団体の名誉職拒否問題もあり、アーベントロートは拒むことができず、5月1日付で入党手続きのみおこなっています。
なお、アーベントロート自身は、入党後の生活について、「党員証を持ったことはなく、党の会合に参加したこともなく、党内で活動したこともなく、党員に課される通常の寄付以外に党に特別な貢献をしたこともない。」と述べています。
ハーケのその後
ハーケは就任6か月後の1937年10月に新市長デーニケ[1899-1945]に替わられます。その5か月後の1938年3月にライプツィヒを訪れたヒトラーに対して、デーニケ市長が「タンホイザー」の楽譜の原本を贈ったつもりがリトグラフだったという間抜けな事件が発生し、それを機にハーケの野心が再燃、党幹部にデーニケが無能だと吹き込み、7か月後の1938年10月に解任させることに成功しています。どこまでも悪い男です。
再び臨時市長となったハーケは、新市長が着任するまでの10か月間、市長権限を振るいます。
1939年8月に着任した新市長のフライベルク[1892-1945]は、財務と法律の専門家でハーケも手が出せず、逆に1943年に市長がハーケの汚職を告発し、ハーケはライプツィヒ市政から追放処分を受けています。
ハーケはその後、占領下のリトアニアでナチの仕事をしたりしますが、やがて「国民突撃隊」のメンバーとなり、ケルブラ村でアメリカ兵によって殺されています。
ちなみに前市長のゲルデラーはヒトラー暗殺計画参加の容疑で処刑、後任のデーニケは占領直前に自殺、その後任のフライベルクも同じく自殺しています。
なお、アーベントロートは1938年5月には、「ユダヤ人もわれわれと同じ人間であり、どの民族にもいる一部の有害な者の過失のために、その民族全員を苦しめることは許されない。」とも述べています。

アーベントロートと戦後
アメリカによる占領統治
ライプツィヒは1945年4月にアメリカ軍によって占領。終戦によりライプツィヒの占領統治が始まると、アメリカ占領軍は、戦勝による敵国人処罰政策として、「非ナチ化」を開始します。これは党籍に関係なく、戦時ドイツの要職者や有名人をブラックリストの対象とするものです。アーベントロートもこのときにリストに入れられています。
しかし、7月になるとアメリカ占領軍は、ベルリン西部の占領を確保することを最優先としてライプツィヒから撤退したため、ライプツィヒの占領統治も終了。
ソ連による占領統治
ほどなくソ連占領軍がライプツィヒに進駐し、占領統治を開始。ソ連の目的は社会体制の変革なので、ソ連占領下の地域(=のちの東ドイツ)では、当局の重要なポストはドイツ人の共産主義者等に速やかに置き換えられ、共産党員らによる農民の再教育なども優先的におこなわれており、食糧支援も英米よりはるかに大規模に実施されていました。
ソ連による非ナチ化政策
ソ連の非ナチ化政策はシンプルで、政府や軍の幹部、戦犯を対象とし、アメリカのように有名人だから裁くというような見せしめ的なことはおこないませんでした(イギリス軍、フランス軍による非ナチ化政策も軽微)。
そのため、アーベントロート、ロベルト・ヘーガー、ハインツ・ボンガルツ、フランツ・コンヴィチュニー、パウル・シュミッツなどナチ党員だった有名指揮者も、ソ連により急遽任命された当局ドイツ人(多くは戦時中にナチに逮捕・収容されていた人)の考えや、劇場の爆撃破壊と代替会場の状態次第で、所属が変えられたりはしたものの指揮活動は継続しています。ちなみにソ連は英米と違って無差別爆撃をおこなっていません。
また、アメリカによって非ナチ化裁判にかけられた多くの音楽家は結局ほとんどが無罪・微罪になったので、その目的は「見せしめ」と、劇場組織の人事刷新によって自国側に利益をもたらすことだったと考えられます。
なお、ソ連は犯罪性のあるナチ党員については強制労働収容所送致や処刑とするなど西側に較べて厳しく対処しており、1948年3月にはスターリンによる非ナチ化宣言がおこなわれ、以後は元ナチ党員も問題なく国家建設に向けて政治活動ができるようになります。
東ドイツでの文化行政参加
非ナチ化宣言を受け、1948年5月には「ドイツ国家民主党(NDPD)」が結党。元ナチ党員や軍人、文化人らの政治的受け皿となります。
アーベントロートは支配政党で事実上の共産党である「ドイツ社会主義統一党(SED)」への参加は拒否しましたが、民主主義ブロック政党である「ドイツ国家民主党(NDPD)」の要請は受け入れ、1949年に参加し、ドイツ人民会議議員に選出されています。
翌1950年には、文化行政に直接関係する「東ドイツ文化連盟(クルトゥーアブント)」のためにドイツ人民議会の会員になって1954年まで活動。1951年には、国家芸術委員会の委員に任命されています。
元ナチ党員だらけの西ドイツと、反ナチ活動家が要職者に多かった東ドイツ
西ドイツ政府は元ナチ党員についてはゲシュタポや親衛隊も含めて大したお咎めなしで済ませています。政治・行政など社会体制があまり変わらなかったため、1933年4月の「職業官吏再建法」で優遇されたのが党員だったことから、司法や警察も含めて実態は元ナチ党員だらけという状態が長く続き、たとえば西ドイツ司法省は1950年代終わりになっても元ナチ党員比率が7割を超えているという状態でした。
一方、東ドイツの方は、要職者に反ナチ運動家や元左派政党の政治家などを重用したため、たとえばライプツィヒ市長は終戦まで強制収容所にいたエーリヒ・ツァイグナーとなり、活動実態に関わらず元党員を憎悪したことで、アーベントロートが1945年11月にゲヴァントハウス管首席指揮者を解任され、逆に1949年には市長が亡くなったことでコンヴィチュニーが首席指揮者に就任できています。
「ペルソナ・ノン・グラータ」という冷戦プロパガンダ
元ナチ党員だらけの西ドイツ政府は、東ドイツを軍事費増大の決め手となる「冷戦」の相手、つまり税公金投入の前提となる重要動機を提供できる「仮想敵国」であると世論定着させるため、東ドイツの元ナチ党員には見せしめ的に対処。東ドイツ国籍を有する元ナチ党員は「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」であるから入国を認めないというプロパガンダまでおこなっていました。
当時は「ラパツキ計画」など東側から提案された軍縮プランを西側がすべて潰してもいたので、西側における米軍需産業の影響力のほどがすでに示されていたと見ることもできます。
おかげで東ドイツの音楽家まで影響を受け、たとえば1950年にはケルン音楽大学の記念式典に出席し、ギュルツェニヒ管弦楽団とブルックナー3番を演奏していたアーベントロートは、西ドイツの「再軍備」が認められた1955年には、元ケルン市長のアデナウアー連邦首相によってケルン来訪を拒否されています。
そうした事情もあって、米軍需産業にとってご利益たっぷりのパワースポットともいえる西ベルリンで、アーベントロートが客演活動をおこなうことはさらに困難で、戦前・戦中に80回も指揮していたベルリン・フィルへの戦後の登場回数はゼロでした。これは同じく元ナチ党員のカラヤンが「再軍備」の年にベルリン・フィルとアメリカ・ツアーまでおこなっていたことを考えると、原因が「冷戦」であることは明らかです。同じ元ナチ党員でも西側だと好ましく、東側だと好ましくないという西側プロパガンダです。
ちなみに1960年代なかばまでに西ドイツ連邦軍の高額装備は、戦車がM41、M46、M47、M48など、戦闘機がF84、F86、F104などアメリカ武器メーカー製品がほとんどでした。


アーベントロート年表
1883・ 1884・ 1885・ 1886・ 1887・ 1888・ 1889・ 1890・ 1891・ 1892・ 1893・ 1894・ 1895・ 1896・ 1897・ 1898・ 1899・ 1900・ 1901・ 1902・ 1903・ 1904・ 1905・ 1906・ 1907・ 1908・ 1909・ 1910・ 1911・ 1912・ 1913・ 1914・ 1915・ 1916・ 1917・ 1918・ 1919・ 1920・ 1921・ 1922・ 1923・ 1924・ 1925・ 1926・ 1927・ 1928・ 1929・ 1930・ 1931・ 1932・ 1933・ 1934・ 1935・ 1936・ 1937・ 1938・ 1939・ 1940・ 1941・ 1942・ 1943・ 1944・ 1945・ 1946・ 1947・ 1948・ 1949・ 1950・ 1951・ 1952・ 1953・ 1954・ 1955・ 1956
1866年
◆ 6月、普墺戦争勃発。
◆ 8月、プラハ条約締結により、普墺戦争が終結。
◆ 10月、フランクフルトがヘッセン州に編入。
1870年
◆ 7月、普仏戦争勃発。
1871年
◆ 1月、ドイツ帝国成立。
◆ 5月、フランクフルト講和条約締結により、普仏戦争が終結。
◆ 10月、書籍商のヘルマン・モリッツ・アーベントロートと、玩具製造業者の娘ヘンリエッテ・エリーザベト・フロマンがヘッセン州のダルムシュタットで結婚。父はドレスデン近郊の出身、母はダルムシュタットの生まれでした。
1883年(0歳)
◆ 1月19日、ヘルマン・パウル・マクシミリアン・アーベントロート、ドイツ帝国のフランクフルトに誕生。生家は書籍を商っており、11歳年長のエルゼ、7歳年長のマリーという二人の姉がいました。
◆ 5月、プロテスタントとして受洗。
1884年(0〜1歳)
◆ フランクフルト在住。
1885年(1〜2歳)
◆ フランクフルト在住。
1886年(2〜3歳)
◆ フランクフルト在住。
1887年(3〜4歳)
◆ フランクフルト在住。
1888年(4〜5歳)
◆ フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに入学。
1889年(5〜6歳)
◆ フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。
1890年(6〜7歳)
◆ フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。
1891年(7〜8歳)
◆ フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。
1892年(8〜9歳)
◆ フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。
1893年(9〜10歳)
◆ フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。
1894年(10〜11歳)
◆ フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。
1895年(11〜12歳)
◆ フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。
1896年(12〜13歳)
◆ フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。
◆ 10月、ブルックナー、ウィーンで死去。

1897年(13〜14歳)
◆ フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。
1898年(14〜15歳)
◆ フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムを卒業。
◆ フランクフルトの商業学校に入学。
1899年(15〜16歳)
◆ フランクフルトの商業学校に在籍。
1900年(16〜17歳)
◆ フランクフルトの商業学校を卒業。

◆ ミュンヘン王立音楽院に入学。指揮法、ピアノ、理論と作曲などを学びます。

指揮法の教師は、フェリックス・モットル[1856-1911]。モットルはブルックナーの弟子で、ワーグナー指揮者として有名。当時、バーデン大公国のカールスルーエ宮廷劇場の音楽監督でもあったモットルは、バイロイト音楽祭では1886年から1906年にかけて69公演指揮しており、カールスルーエ宮廷劇場の楽員の多くをバイロイトでも演奏させたため、宮廷劇場は「小バイロイト」の異名もとっていました。モットルは1903年にミュンヘン宮廷歌劇場の第1楽長となっていますが、並行してメトロポリタン歌劇場にも客演。1904年にかけて63公演も指揮して国際的な名声を高め、コヴェントガーデンやモスクワ、サンクトペテルブルクにもワーグナー作品で客演していました。そして1907年にはミュンヘン宮廷歌劇場の音楽監督に就任。その間、1904年にはミュンヘン王立音楽院の院長にも任命され、さらに宮廷劇場のツアーやオーケストラ・ツアーでも指揮するなど多忙をきわめ、1911年6月21日、「トリスタンとイゾルデ」通算100回目の指揮となった公演で倒れて病院に移送され、治療の甲斐なく7月2日に54歳で死去しています。

ピアノの教師は、アンナ・ヒルツェル=ランゲンハン[1874-1951]。ヒルツェル=ランゲンハンはスイス人ピアニストで、夫リヒャルト・ランゲンハンが1898年にミュンヘンのカイム管弦楽団の第2楽長に任命されたことからミュンヘンでソロや室内楽の演奏活動をおこなっていましたが、アーベントロートが入学する少し前の1900年3月に、夫のリヒャルトが亡くなったため、ミュンヘン音楽院での教育活動に力を入れるようになっています。彼女の門下には、クララ・ハスキル、エディト・ピヒト=アクセンフェルト、ハンス・ライグラフ、ヴェルナー・エックらがいました。

理論の教師は、ルートヴィヒ・トゥイレ[1861-1907]。1882年にミュンヘン王立音楽院を卒業し、翌年には母校の教師となり、1888年に教授に昇格したトゥイレは、1907年に45歳で亡くなるまでエルネスト・ブロッホ、ヴァルター・ブラウンフェルスなど多くの学生を指導します。

1901年(17〜18歳)
◆ ミュンヘン王立音楽院に在籍。

1902年(18〜19歳)
◆ ミュンヘン王立音楽院に在籍。

1903年(19〜20歳)
◆ ミュンヘン王立音楽院に在籍。

◆ ドイツ音楽協会(ADMV)に加入。

◆ ミュンヘンで指揮者デビュー。
◆ アマチュア・オーケストラ「ヴィルデ・グングル」の指揮者となります。「ヴィルデ・グングル」は、ミュンヘンの中産階級市民が主なメンバーであるミュンヘン・オーケストラ協会の運営する楽団で、前任の指揮者はリヒャルト・シュトラウスの父、フランツ・シュトラウスでした。

1904年(20〜21歳)
◆ ミュンヘン王立音楽院を卒業。

◆ アマチュア・オーケストラ「ヴィルデ・グングル」の指揮者を継続。

◆ リューベック楽友協会の常任指揮者募集に応募。これは師のモットルから教わった情報でしたが、応募者が89人という人気ぶりで、若くプロ経験が無かったアーベントロートは書類選考で落とされてしまいます。
しかし、師のトゥイレが、マックス・フォン・シリングスと知り合いで、シリングスがリューベックと関係があったおかげで、実技の最終選考に出場することができ、アーベントロートは審査員全員からの支持を得て選ばれることになります。

1905年(21〜22歳)
◆ 10月、リューベック楽友協会フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。6年間で240回のオーケストラ・コンサートを指揮します。会場は主にフュンフハウゼン・コンツェルトハウス(800席)。

大規模動員が見込める公演ではコロッセウム(3,000席)を使用。

◆ 11月、リューベック楽友協会フィル。ブルックナー第7番。
1906年(22〜23歳)
◆ リューベック楽友協会フィルに常任指揮者として在職。

◆ リューベック楽友協会フィル。ブルックナー第5番、第9番。
1907年(23〜24歳)
◆ リューベック楽友協会フィルに常任指揮者として在職。

◆ 10月、リューベック市立劇場の首席指揮者に就任。4年間で、ローエングリン、さまよえるオランダ人、ワルキューレ、ジークフリート、トリスタンとイゾルデ、マイスタージンガー、フィデリオ、カルメン、こうもり、トロヴァトーレ、後宮からの誘拐、魔笛など129回指揮。
任期中、師のモットルのアシスタントとして、バイロイトとミュンヘンのプリンツレーゲンテン劇場でのワーグナー公演をサポートしてもいます。

◆ リューベック市立劇場在職中に、女性作家で芸術パトロンとしても知られていたイーダ・ボイ=エト[1852-1928]から経済的な支援を受けます。彼女はアーベントロートの後任のフルトヴェングラーも支援していました。

1908年(24〜25歳)
◆ リューベック市立劇場に首席指揮者として在職。新しい劇場が完成。約1,000席。

1909年(25〜26歳)
◆ リューベック市立劇場に首席指揮者として在職。

◆ 2月、ベルリン・フィルに初めて客演。以後、1944年12月までに80公演以上指揮しています。
1910年(26〜27歳)
◆ リューベック市立劇場に首席指揮者として在職。

◆ ドイツ音楽協会(ADMV)の取締役会のメンバーになり、委員として活動。

◆ リューベック・フィルハーモニー合唱団の指揮者に就任。
1911年(27〜28歳)
◆ 2月、ミュンヘン・フィル。クローゼ:イースター賛歌「ヴィディ・アクアム」。合唱演奏会協会。
◆ 4月、リューベック市立劇場首席指揮者として最後のコンサート。後任はフルトヴェングラー。

◆ 7月2日、恩師モットル、ミュンヘンで死去。自身100回目となる「トリスタンとイゾルデ」の公演中に倒れ、搬送先の病院で11日後に死去。54歳でした。
◆ 8月、結婚。相手はブレーメン出身の19歳のエリーザベト・ヴァルター(愛称はリーゼル)で、リューベック時代に知り合っていました。
◆ 秋、エッセン市の音楽総監督に就任。オペラやコンサートの指揮を任されます。

◆ ギュルツェニヒ管。モーツァルト。

◆ 11月、ミュンヘン・フィル。ベートーヴェン:イェーナ交響曲。ベートーヴェン: ピアノと管弦楽のためのロンド、ピアノ協奏曲ニ長調断章(恩師ヒルツェル=ランゲンハン)。独奏はミュンヘン王立音楽院の恩師。
1912年(28〜29歳)
◆ エッセン市音楽総監督在職。

1913年(29〜30歳)
◆ エッセン市音楽総監督在職。
◆ 4月、エッセン市立劇場管弦楽団。ブルックナー第8番。

1914年(30〜31歳)
◆ エッセン市音楽総監督在職。

◆ 7月、第1次世界大戦開戦。
◆ 7月、フリッツ・シュタインバッハ、ケルン市音楽総監督を退任。これにより、ギュルツェニヒ管弦楽団首席指揮者とケルン音楽院院長の職が空席となります。

◆ 11月、アーベントロート、ギュルツェニヒ管弦楽団とコンサート。ベートーヴェン:エグモント序曲、「レオノーレ」序曲第3番、ヴァイオリン協奏曲(カール・フレッシュ)、交響曲第5番。

◆ ドイツ音楽協会(ADMV)の主催する第49回ADMV音楽祭に指揮者として出演し、シリングス、ハウゼッガー、シュナーベル、フルトヴェングラー、レーガー、プフィッツナーらと交流。

1915年(31〜32歳)
◆ 1月、アーベントロート、ギュルツェニヒ管弦楽団首席指揮者に就任。ギュルツェニヒ管弦楽団の母体は、1827年にケルン市民が「音楽協会」と「市立合唱協会」を一緒にして設立した「ケルン・コンサート協会」で、要は市民参加のオーケストラと合唱団を運営する協会です。オーケストラの方は、劇場楽団や大聖堂の礼拝堂楽団、軍楽隊、アマチュア音楽家なども参加していました。
やがて1857年11月には、15世紀の古い建築で遮音や音響に多少問題はあるものの、新たに1,338席の座席を設置しコンサートホールとしてもなんとか使えるようになった「ギュルツェニヒ」で、「協会大コンサート」を開催、以後、定期的にギュルツェニヒでコンサートをおこなうようになって「ギュルツェニヒコンツェルト」と呼ばれるようになり、オケは「ギュルツェニヒ管弦楽団」、合唱団は「ギュルツェニヒ合唱団」として親しまれるようになります。
そして1888年にケルン市がオーケストラを運営することを決定、1902年にはケルン市が当時のドイツで最大級の歌劇場(1,800席)を新たに建設しオペラ団体を運営するようになったため、以後、ギュルツェニヒ管弦楽団は歌劇場とコンサートの両方の仕事をこなすオーケストラとして活動。年間の演奏回数は200回前後で、比率はオペラ3に対してコンサート1ぐらいなので、いわゆる歌劇場オーケストラとしてはコンサート回数は多い方ですが、通常のコンサート専門オーケストラに較べると半分以下という水準です。
そのため、アーベントロートの知名度が上がるとともに海外への客演も増え、ケルン時代にアーベントロートの名声が国際的になったのはその少ない演奏回数のおかげともいえます。

ちなみにオーケストラ・コンサートの際は基本的にギュルツェニヒが演奏会場でしたが、特別公演などではアーベントロートもケルン歌劇場を使用しており、クレンペラーが指揮するオーケストラ・コンサートについては歌劇場が使用されていました。

◆ 1月、アーベントロート、ケルン音楽院の院長に就任。前任のシュタインバッハのときに学生が大幅に増えたことから、ヴァルラフ市長が委員長を務める委員会で35万マルクの資金を調達、8万uの土地の譲渡も承認されていましたが、第1次大戦の開戦により計画は中止、以後、ハイパーインフレで資金が消失するなどして計画は大幅に延期され、実現したのは1975年のことでした。

◆ 1月、アーベントロート、ケルン・コンサート協会の芸術監督兼指揮者に就任。この協会はギュルツェニヒ管弦楽団のルーツともいえるもので、ケルン市民によるオーケストラと合唱団を運営していました。
◆ 12月、ギュルツェニヒ管&合唱団。ブルックナー:詩篇第150篇、他。

1916年(32〜33歳)
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽院に院長として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 2月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第7番、他。

1917年(33〜34歳)
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽院に院長として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 1月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第4番、他。

◆ コンラート・アデナウアーがケルン市長に選ばれます。

◆ クレンペラーがケルン歌劇場の音楽監督に就任。

1918年(34〜35歳)
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽院に院長として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 3月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第5番、他。

◆ ケルン市の音楽総監督に就任。
◆ ケルン音楽院の院長兼音楽監督に就任。
◆ 社会主義者の訴えに共鳴して共同署名。のちにナチ党から問題にされることになります。
◆ 父ヘルマン・モリッツ・アーベントロート、フランクフルトで死去。
◆ イギリス軍がケルン近くに駐留を開始してケルン市街にも展開。当初は5個軍団の大規模なものでしたが再編・解散・縮小し、1929年に役割を終えています。

1919年(35〜36歳)
◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽院に院長兼音楽監督として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ ケルン音楽院の教授に就任。アーベントロートは院長を務める一方で指揮も教え、シュタインベルク(スタインバーグ)やエルメンドルフなど約80人を指導。
◆ 2月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第9番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番(エリー・ナイ)。

◆ ヨーロッパ各都市に客演。
◆ イギリス陸軍ライン軍団が設立されケルン近くに駐留。約13,360人で構成され、月額約30万ポンドの駐留費用が発生。大隊向けに新聞「ケルン・ポスト」まで発行。

1920年(36〜37歳)
◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽院に院長兼音楽監督として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 1月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第8番、他。

◆ 5月、オランダのマーラー音楽祭に参加。

◆ 7月、ギュルツェニヒ管。ベートーヴェン=ブルックナー・アーベントを4回開催。会場はケルン歌劇場。

◆ 10〜11月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。ブルックナー第8番、ブラームス第1番、グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲、他。

◆ イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。
1921年(37〜38歳)
◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽院に院長兼音楽監督として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 1月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第3番、他。
◆ 2月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー:ミサ曲第3番、他。
◆ ケルン室内管弦楽団の設立に寄与。ギュルツェニヒ管弦楽団の楽員とケルン音楽院の教師に対して古楽演奏を主目的とした室内オーケストラの結成を勧めて実現したものです。ケルン室内管弦楽団が正式な団体として発足したのは1923年11月のことでした。

◆ 5月、ケルン室内管弦楽団、ライン室内音楽フェスティヴァルに出演。指揮はアーベントロートとクレンペラー、または指揮者無し。会場はケルンのブリュール城のムジークザール。

◆ 12月、ベルリン・フィル。ブルックナー第3番、他。
◆ イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。
1922年(38〜39歳)
◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽院に院長兼音楽監督として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 3月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第6番、他。
◆ 5月、ケルンで開催された「低地ライン音楽祭」で、監督に任命。プフィッツナーのカンタータ「ドイツ精神について」をケルン初演。
◆ 5月、ケルン室内管弦楽団、ライン室内音楽フェスティヴァルに出演。指揮はアーベントロートとクレンペラー、または指揮者無し。会場はケルンのブリュール城のムジークザール。

◆ 6月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。アルプス交響曲、ハフナー、他。

◆ シュターツカペレ・ベルリンの指揮者に就任。シュターツカペレ・ベルリンはベルリン国立歌劇場の楽団員がシンフォニック・コンサートを演奏する際の名称で、通常、指揮者はベルリン国立歌劇場音楽監督が兼務します。しかし、当時、音楽監督でユダヤ系のレオ・ブレッヒは、1919年に着任した総監督で反ユダヤ主義者のマックス・フォン・シリングスと対立して解任されていたため、1920年からフルトヴェングラーがシュターツカペレの指揮者を務めていました。そのフルトヴェングラーがベルリン・フィルの首席指揮者に就任してシュターツカペレの指揮は困難となり、1922年からはアーベントロートが引き継ぐことになったという展開です。アーベントロートは1923年にエーリヒ・クライバーが音楽監督に着任するまでシュターツカペレの指揮者として活動しています。

◆ 12月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第1番、他。
◆ イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。
1923年(39〜40歳)
◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽院に院長兼音楽監督として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ シュターツカペレ・ベルリンの指揮者として在職。

◆ 5月、ケルン室内管弦楽団、ライン室内音楽フェスティヴァルに出演。指揮はアーベントロートとクレンペラー、または指揮者無し。会場はケルンのブリュール城のムジークザール。

◆ 7月、ギュルツェニヒ管。バルメン公演。ブルックナー第4番。同じコンサートでクレンペラーがブルックナーの9番を指揮。

◆ ケルン音楽院、資金難のため運営困難な状況に陥ります。第1次大戦後から長引くインフレのため、1920年に5万マルクだったケルン市当局の助成金は、1922年には2.5倍の12万5千マルクに達し、1923年にはベルリンのプロイセン政府がすべての助成金を停止。さらにハイパーインフレにより寄付金もすべて消失していました。

◆ 10月、ケルン音楽院理事会とケルン市教育委員会が、国の助成金を受けられるよう、文化大臣のケステンベルク[1882-1962]の草案を協議し、ケルン音楽院を国立の音楽大学にする再編成案を作成。

◆ 11月、ギュルツェニヒ管。デュッセルドルフ公演。ブルックナー第7番、他。
◆ 12月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第5番、他。
◆ ケルン音楽院の冬学期、遅れて開始。プロイセン政府の資金援助を受けるため、新しい基準で試験を実施して学生数を約400人(前年の3分の1)に抑制し、教員数も約40人(前年の3分の2)に削減。ちなみにケステンベルク大臣は、のちにクレンペラーに話を持ち掛けてベルリンにクロールオーパーをつくった人物です。

◆ イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。
1924年(40〜41歳)
◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽院に院長兼音楽監督として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 5月、ケルン室内管弦楽団、ライン室内音楽フェスティヴァルに出演。指揮はアーベントロートとクレンペラー、または指揮者無し。会場はケルンのブリュール城のムジークザール。

◆ 「ギュルツェニヒコンツェルト」に続く2つ目のコンサート・シリーズとして「フォルクスジンフォニーコンツェルト」を開始。これは、アデナウアー市長の主導で建設された巨大なラインパークにある5,000席の大ホールを使用するもので、メインストリームの作品だけでなく、ケルン音楽院やケルンの作曲家の作品まで紹介するというもので、同僚のクレンペラーの作品なども含まれていました。

◆ 7月、ギュルツェニヒ管。ラインパーク大ホール。ブルックナー第8番、テ・デウム。
◆ 10月、ギュルツェニヒ管。ラインパーク大ホール。ブルックナー第2番、詩篇第150篇。
◆ 10月、ポーランドのウッチ交響楽団に客演。
◆ アーベントロートのケルン市の音楽総監督としての仕事が増大していたため、調整役としてもうひとりの学長を置き、プロイセン芸術アカデミーの会員でもある作曲家、ブラウンフェルスを任命することが決定。これにより規模が縮小した音楽院の改革を進め、国立の音楽大学として運営を強化することを狙います。ブラウンフェルスは学長職だけでなく、オペラ、オラトリオ、オーケストラ演奏も指導します。

◆ イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。
1925年(41〜42歳)
◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 2月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第7番、ミサ曲第2番。
◆ 5月、ケルンで開催された「低地ライン音楽祭」で監督に任命。
◆ 5月、ケルン室内管弦楽団、ライン室内音楽フェスティヴァルに出演。指揮はアーベントロートとクレンペラー、または指揮者無し。会場はケルンのブリュール城のムジークザール。

◆ 6月、ギュルツェニヒ管。「低地ライン音楽祭」。ブルックナー第6番。
◆ 6月、ケルンでヨーロッパ初の高層ビル「ハンザタワー」(65m)が開業。前年3月に着工して15か月間の工事で完成したもので、一世紀近く経った今でも現役。ハイパーインフレで利益を得た者も多かったことを象徴するようなビルでもあります。

◆ ハイパーインフレで閉鎖していた「ケルン音楽院」が、「ケルン音楽大学」となって活動を再開。
◆ アーベントロートと友人のヴァルター・ブラウンフェルスが、「ケルン音楽大学」共同学長に就任。

◆ ソ連。指揮ツアー。モスクワとレニングラードのオーケストラに客演。
◆ イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。
1926年(42〜43歳)
◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 2月、イェテボリ交響楽団。ブルックナー第3番、他。
◆ 3月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第4番、他。
◆ 6月、妻のエリーザベトと共にトーマス・マンの51歳の誕生日祝いに招かれリューベックを訪問。

◆ 7月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第8番、詩篇第150篇。会場はケルン歌劇場。

◆ イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。
1927年(43〜44歳)
◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 1月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第9番、他。
◆ 2月、ロンドン交響楽団に客演。ブラームス4番、他。
◆ 3月、ロンドン交響楽団に客演。ベートーヴェン第9番、第1番。
◆ 3月、ギュルツェニヒ管、ギュルツェニヒ合唱団。ブラウンフェルスの大ミサを初演。

◆ 5月、ギュルツェニヒ合唱団のベルリン公演を指揮。オーケストラはベルリン国立歌劇場管。ブラウンフェルスの大ミサ。

◆ ソ連からの招待でモスクワとレニングラードのオーケストラに客演。
◆ イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。
1928年(44〜45歳)
◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 2月、ロンドン交響楽団。ベートーヴェン第4番、ブラームス第2番、他。
◆ 2月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第7番、他。
◆ 3月、ロンドン交響楽団。死と変容、ベートーヴェン第5番、他。
◆ 3月、ロンドン交響楽団。ブラームス第1番をHMVに録音。
◆ 5月、ケルンで開催された「低地ライン音楽祭」で監督に任命。
◆ 5月、ギュルツェニヒ管。ウィーン公演(ムジークフェラインザール)。ブルックナー第7番。ケルン歌劇場ウィーン公演に伴っておこなわれたコンサート。当時のケルン歌劇場音楽監督はユダヤ系のオイゲン・センカー[1891-1977]。19年間に及ぶアーベントロートのギュルツェニヒ管首席指揮者在任中のケルン歌劇場音楽監督はグスタフ・ブレッヒャー[1879-1940]、クレンペラー、センカーで、3代続けてすべてユダヤ系であり、アーベントロートとの関係も良好でした。

◆ 6月、ギュルツェニヒ管。低地ライン音楽祭公演。ブルックナー第5番、他。ケルンのコンサート協会管弦楽団も動員した大編成での演奏。
◆ 7月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。ブルックナー第7番、ベートーヴェン第7番。

◆ ソ連。指揮ツアー。モスクワとレニングラードのオーケストラに客演。
◆ ギュルツェニヒ管。マンハイム公演。ブルックナー第8番、他。
◆ イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。
◆ ケルン市の音楽総監督ということで、講演組織「西部ドイツ国民講義講堂」から名誉会員に選ばれるものの拒否。これは同組織が反ユダヤ的なものだったからです。
1929年(45〜46歳)
◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 1月、ウィーン響。ブルックナー第8番、テ。デウム。

◆ 1月、ケルン室内管弦楽団とフランクフルト公演。

◆ 2月、ベルリン・フィル。ブルックナー第7番、他。
◆ 2月、ロンドン交響楽団。英雄の生涯、ブラームス1番、他。
◆ 3月、ロンドン交響楽団。モーツァルト第40番、ベートーヴェン第7番、他。
◆ 3月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第3番。
◆ 5,6月、ギュルツェニヒ管。マンハイム公演。ブルックナー第6番、第7番、他。
◆ 6,7月、ミュンヘン・フィル。キッシンゲンの夏音楽祭。
◆ 7月、国際ブルックナー協会ラインラント支部を、アーベントロートとケルン音楽大学で共同学長を務めるヴァルター・ブラウンフェルスが設立。支部長はペーター・ラーベ。ブラウンフェルスはユダヤ系で、ラーベはのちに反ユダヤ主義で有名になる人物ですが、このときはまともだったようです。
◆ 10月、ギュルツェニヒ管。ラインパーク大ホールでの演奏。ブルックナー第8番、詩篇第150篇。

◆ 11月、リヴァプール・フィル。ブルックナー第4番、他。
◆ ソ連。指揮ツアー。モスクワとレニングラードのオーケストラに客演。
◆ レニングラード・フィル。ブルックナー第5番。レニングラード初演。
◆ マクデブルク・フィル。
◆ ヴェネツィアに客演。
◆ イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。この年で終了。
1930年(46〜47歳)
◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 1月、ウィーン響。ブルックナー第5番、他。

◆ 1月、ロンドン交響楽団に客演。ブラウンフェルス:ベルリオーズの主題による幻想的出現、ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(クライスラー)、他。
◆ 1月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第4番、シューマン:ピアノ協奏曲(バックハウス)。
◆ 2月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。アルプス交響曲、ブルックナー第7番、レーガー:ピアノ協奏曲、他。

◆ 3月、ロンドン交響楽団に客演。ブラームス第4番、グリーグ:ピアノ協奏曲(コルトー)、他。
◆ 7月、ギュルツェニヒ管。マンハイム公演。ブルックナー第8番、他。
◆ 11月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第5番、他。
◆ ボン市の音楽総監督に就任。ボン市立管弦楽団(現ボン・ベートーヴェン管弦楽団)の音楽監督となります。

1931年(47〜48歳)
◆ ボン市音楽総監督、ボン市立管弦楽団に音楽監督として在職。

◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。

◆ 11月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第9番、他。
◆ 11月、ベルリン放送管。ブルックナー第5番。のちのベルリン放送交響楽団(東)。
◆ ロンドン交響楽団に客演。
◆ シュテッティンに客演。
1932年(48〜49歳)
◆ ボン市音楽総監督、ボン市立管弦楽団に音楽監督として在職。

◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。

◆ 1月、ゲヴァントハウス管。ニキシュ没後10周年記念演奏会。ケルビーニ:アナクレオン序曲、クレツキ:ピアノ協奏曲、ブルックナー第4番。

◆ 2月、ケルン室内管弦楽団とフランクフルト公演。

◆ 3月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第8番、他。
◆ 5月、チューリヒ・トーンハレ管。ブルックナー第5番、他。

◆ 10月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第7番、他。
◆ 11月、チューリヒ・トーンハレ管。ブルックナー第2番、他。

◆ ロンドン交響楽団に客演。
◆ 12月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。ストラヴィンスキー:詩篇交響曲、サティ:ソクラテス、R.メンゲルベルク:ミサ・プロ・パーチェ、モンテヴェルディ:アリアンナの嘆き、ドビュッシー:神聖な舞曲と世俗的な舞曲、他。

1933年(49〜50歳)
◆ ボン市音楽総監督、ボン市立管弦楽団の音楽監督を退任。

◆ ケルン市音楽総監督在職。
◆ ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。

◆ ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
◆ 1月、ギュルツェニヒ管。マンハイム公演。ブルックナー第3番、他。
◆ 3月、ケルン市議会選挙では、市民の4割近くが投票したナチ党が、選挙連合「戦線 黒白赤(ドイツ国家人民党と鉄兜団の連合)」と連立、さらに共産党の票が無効とされた結果、絶対多数を獲得。市議会はアデナウアー市長を解任することを即時決定し、自宅に突撃隊を派遣。アデナウアーはベルリンに逃亡して難を逃れます。

◆ 3月、16年に渡ってケルン市長を務めていた中央党のアデナウアーに代わり、ナチ党のギュンター・リーゼンが臨時市長に任命されています。リーゼンはユダヤ系のレーヴィ銀行の幹部でしたが、前年にナチ党員となってからは反ユダヤ主義に転向。市庁舎は親衛隊と突撃隊が占拠した状態となります。

◆ 3月、マインツ市立劇場管弦楽団。ブルックナー第5番、他。
◆ 3月、ライプツィヒのゲルデラー市長がアーベントロートをワルターの後任に欲しいとリーゼン市長あてに文書を送付。
◆ 4月、ケルン音楽大学共同学長のブラウンフェルスが半ユダヤ人ということで解任。アーベントロートは単独で学長職を継続。

◆ <4月、国家秘密警察法制定。政治警察がゲシュタポとなり、警察組織から独立。br>

◆ 5月、ケルン大学前で抗議の焼身自殺事件。
◆ 夏、ケルン警察とゲシュタポによる住民統制が本格化。ケルン警察は、ケルン市とその周辺の行政区域に住む150万人以上の人々を担当。ゲシュタポは反ナチ派を監視・摘発。

◆ ロンドン交響楽団に客演。
◆ ドレスデンに客演。
◆ ケムニッツに客演。
◆ ギュルツェニヒ管。マンハイム公演。
◆ カールスルーエに客演。
◆ 9月、アーベントロート、「ドイツ文化闘争同盟(KfdK)」から「ライン川におけるドイツ文化の日」のオープニングにオーケストラの音楽家を提供するよう要請されるものの拒否。
◆ 9月、帝国文化院法制定。それまでドイツにあった映画、演劇、音楽、造形芸術、文学、新聞、ラジオに関する7つの業界組織を統合し、会員の保護・統制を目的とするもので、当初17万人の会員数は、やがて25万人まで増加します。
◆ 11月、帝国音楽院設立。会長はR.シュトラウス、副会長はフルトヴェングラー。アーベントロートは音楽教育者評議会監督、合唱監督として参加。
◆ 11月、新たな国家秘密警察法により、ケルンのゲシュタポはベルリン本部から直接指示を受けることになります。

1934年(50〜51歳)
◆ 帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
◆ 1月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第9番。
◆ 1月、ギュンター・リーゼン市長により、アーベントロートはケルン市音楽総監督とギュルツェニヒ管弦楽団首席指揮者、ケルン音楽大学の学長、ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者職の解任が決定。
背景には当時ドイツで歌劇場がオーケストラ・コンサートもおこなっているところでは、オペラとコンサートの音楽監督2人体制から、オペラの音楽監督がコンサートの音楽監督も兼務する1人体制に変更するという人事がおこなわれていたことがあります。すでにハンブルクやデュッセルドルフでは実施済みで、前年3月にアデナウアーの代わりに臨時市長となり11月に正式に市長となっていたリーゼンも実施に向けて動いていましたがなぜか頓挫。やがてリーゼンは、1936年12月に外国為替法違反で解任されています。

◆ 3月、コンセルトヘボウ管。バッハ:マタイ受難曲。

◆ 3月、ギュルツェニヒ管。バッハ:マタイ受難曲、ブルックナー:ミサ曲第2番、他。
◆ ロンドン交響楽団に客演。
◆ ギュルツェニヒ管。マンハイム公演。
◆ カールスルーエに客演。
◆ ノルウェーに客演。
◆ 10月、ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者に就任。ケルンの場合と同じくライプツィヒでもライプツィヒ歌劇場とゲヴァントハウス管のオーケストラ・コンサートはひとつのオーケストラが兼務しています。しかしゲヴァントハウス管弦楽団は人数が多かったため、歌劇場上演とオーケストラ・コンサートを並行して行うことが可能でした。そのため、ゲヴァントハウス管は通常のコンサート専門オーケストラ並みの演奏回数をこなしています。

ちなみにライプツィヒ歌劇場の音楽監督はパウル・シュミッツで、1951年まで継続していました。

◆ 10月、ゲヴァントハウス管。ブランデンブルク協奏曲第3番、ベートーヴェン第1番、ブラームス第4番、ブルックナー第3番、第7番、他。
◆ 10月、ライプツィヒ音楽院教授に就任。

◆ ライプツィヒでは、カール・シュトラウベ、ギュンター・ラミン、ゲオルク・クーレンカンプ、マックス・シュトループといったアーティストや、作曲家のカール・ヘラー、ユリウス・ヴァイスマンらと交流。
◆ 12月、ワイマール・シュターツカペレ。ワイマール国民劇場。オベロン序曲、ハイドン第13番、ブルックナー第3番。

◆ ライプツィヒ当局、将来の戦争に備え、27の死体収容部隊を編成。これは過去、ライプツィヒが1813年の諸国民戦争の舞台となりナポレオン軍など約50万人が戦う場となって約10万人の死傷者が発生、初代ゲヴァントハウスまで死傷者であふれかえったことから準備されたものです。
1935年(51〜52歳)
◆ 帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
◆ ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ ライプツィヒ音楽院に教授として在職。

◆ 2月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第5番、他。
◆ 5月、ベルリン・フィル。ブルックナー第5番、他。
◆ 7月、ゲヴァントハウス管。フライブルク・ブルックナー・フェスティヴァル。ブルックナー第1番、第8番。
◆ 9月、アーベントロート、友人のユダヤ系作曲家ギュンター・ラファエルの資格停止処分を無効にするため、帝国音楽院総裁のペーター・ラーベと談判。
◆ 10月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第6番、他。
◆ 11月、オスロ・フィル。ブルックナー第4番、他。
◆ ロンドン交響楽団に客演。
◆ アーベントロートとフルトヴェングラー、リューベック慈善事業振興協会からゴールド記念メダルを授与。

1936年(52〜53歳)
◆ 帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
◆ ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ ライプツィヒ音楽院に教授として在職。

◆ 1月1日、ゲヴァントハウス管。ニューイヤーコンサート。ブルックナー第9番、他。
◆ 1月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第9番、第5番、他。
◆ 1月、マンハイム国立歌劇場管&フィルハーモニー協会。ローゼンガルテン、ムーゼンザール。ワーグナー:ファウスト序曲、ブルックナー第5番。

◆ 3月、ロイス・カペレ。ブルックナー第4番、他。
◆ ロンドン交響楽団に客演。
◆ 5月、ベルリン・フィル・ツアーを指揮。
◆ 6月、シュレージア・フィル(シレジア・フィル)。ブルックナー第3番、他。
◆ 10月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー・フェスティヴァル。ブルックナー第8番、他。
◆ 10月、バーデン・シュターツカペレ。ブルックナー第8番、他。
◆ 11月9日、ドイツ・ツアー中のビーチャムとロンドン・フィルがゲヴァントハウスで演奏。
◆ 11月9日、ゲヴァントハウス前のメンデルスゾーン像が破壊。主犯はルドルフ・ハーケ副市長。ゲルデラー市長はフィンランドに滞在中でした。
◆ 11月10日、ビーチャムがメンデルスゾーン像に花束を捧げに訪れると、そこには台座しかありませんでした。
1937年(53〜54歳)
◆ 帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
◆ ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ ライプツィヒ音楽院に教授として在職。

◆ ユーゴスラヴィア王国より聖サヴァ勲章を授与。

◆ ウィーン・フィルに客演。レオノーレ第3番、ブルックナー第3番、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲。

◆ 3月31日、ライプツィヒ市長、ゲルデラーが辞任。
◆ 4月1日、ルドルフ・ハーケがライプツィヒの臨時市長に就任。<hr> ◆ 5月1日、アーベントロート、ナチ党に入党。
◆ 5月、ベルリン・フィル。ベルリン芸術週間。ブルックナー第8番。
◆ 6月、ゲッベルスがブルックナーの楽譜はブルックナー協会の原典版を使用するようレーゲンスブルクで演説。
◆ 6月、オーストリアのナチ事務所が、ブルックナー協会会長のマックス・アウアーが反国家主義者であるという手紙を国民啓蒙宣伝省に送付。
◆ 7月、アーベントロートとブルックナー協会が、ミュンヘンで演奏する予定の第5番のヴァージョンの選択をめぐり衝突。
◆ ロンドン交響楽団に客演。
◆ 10月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第4番、他。
◆ 10月、ウィーン・フィル。ブルックナー第3番、他。
◆ 10月12日、ライプツィヒ市長にヴァルター・デーニケが就任。
◆ ヘッセン州立劇場管弦楽団の首席指揮者に就任。ダルムシュタットの州立劇場のオペラのオーケストラがシンフォニー・コンサートを開くときに指揮を担当。

◆ 11月、ヘッセン州立劇場管。ベートーヴェン第3番、ドランスマン:交響的音楽、他。
1938年(54〜55歳)
◆ 帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
◆ ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ ライプツィヒ音楽院に教授として在職。

◆ ヘッセン州立劇場管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ 1月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第1番、他。
◆ 2月、ブルックナー協会の出版社の会議でオーレルとハースの見解の相違が和解できないレベルとなり、第9番の校訂をおこなったオーレルは、以後、全集版編集から手を引きます。
◆ 3月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー:ミサ曲第1番、他。
◆ 3月、ベルリン・フィル。ドランスマン:交響的音楽、他。
◆ 3月、ミュンヘン・フィル。マンフレッド序曲、タンホイザー序曲、ドン・ファン、エック:自然、愛、死、ドランスマン:交響的音楽、シューベルト:歌曲集(管弦楽伴奏)。
◆ 4月、イェテボリ響。ブルックナー第4番、他。
◆ 5月、ベルリン・フィル。デュッセルドルフ公演。ベートーヴェン第9番。
◆ 6月、ハイデルベルク・ドイツ連邦学生協会管弦楽団。第1回大ドイツ学生の日の祝賀コンサート。ブルックナー第4番。
◆ 7月、ベルリン・フィル。ミュンヘンの「ドイツ芸術の日」での公演。
◆ 7月、ゲヴァントハウス管。ミュンヘン・レジデンツ公演。ブルックナー第5番。
◆ 10月、ベルリン・フィル。フィデリオ序曲、他。
◆ 10月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第7番、他。
◆ 10月11日、ルドルフ・ハーケがライプツィヒの臨時市長に就任。ヴァルター・デーニケ市長はハーケの中傷により解任。
1939年(55〜56歳)
◆ 帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
◆ ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ ライプツィヒ音楽院に教授として在職。

◆ 2月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第2番、他。
◆ 5月、デュッセルドルフ「帝国音楽の日」。帝国音楽院の音楽教育者セクションのワークショップ開催。
◆ 7月、ベルリン・フィル。ミュンヘンの「大ドイツ美術展」での公演。
◆ 8月21日、ライプツィヒ市長にアルフレート・フライベルクが就任。
◆ 12月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第4番、他。
1940年(56〜57歳)
◆ 帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
◆ ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ ライプツィヒ音楽院に教授として在職。

◆ ヒルフェルスム放送交響楽団。ブルックナー第2番、他。
◆ 2月、ベルリン・フィル。
◆ 3月、ゲヴァントハウス管。R.シュトラウス:祝典前奏曲、他。
◆ 7月、ベルリン・フィルのスカンジナヴィア・ツアーを指揮。スウェーデン、デンマークなど。
◆ 10月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第5番、他。
◆ 10月、ベルリン・フィル。ブルックナー第3番、他。
◆ 12月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー:テ・デウム、他。
1941年(57〜58歳)
◆ 帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
◆ ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ ライプツィヒ音楽院に教授として在職。秋の新年度より「国立音楽大学、音楽教育および舞台芸術」と改称。

◆ 1月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第8番、他。
◆ 2月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。ブルックナー第4番、ブラームス第4番、レーガー:ベックリンによる4つの音詩、他。

◆ 10月、パリ・オペラ座。フィデリオ。
◆ 10月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第3番、他。
◆ ライン=マイン州立管弦楽団の首席指揮者に就任。ケンプやエルトマンらも共演で訪れる新しいオーケストラ。本拠地はフランクフルトのザールバウ。

◆ 11月、ライン=マイン州立管弦楽団。12回のコンサートを開催。
◆ 11月、ベルリン・フィル。グレーナー:「気高き騎士オイゲン王子」、他。
◆ 12月、パリ音楽院管。「大モーツァルト祭り」。ヤルナッハ:モーツァルトによる音楽、モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番、レーガー:モーツァルト変奏曲。
◆ スウェーデンに客演。
1942年(58〜59歳)
◆ 帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
◆ ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ ライプツィヒ国立音楽大学に教授として在職。

◆ ライン=マイン州立管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ 1月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第7番、他。
◆ 2月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第8番、他。
◆ 3月、ベルリン・フィル。ブルックナー第7番、他。
◆ 4月、ストックホルム・フィル。ブルックナー第3番、他。
◆ 6月、ヒルフェルスム放送交響楽団。ブルックナー第9番。終了後に、フリッツ・エーザーの指揮で第4楽章の断片を演奏。
◆ ライプツィヒ当局、1934年に編成した27の死体収容部隊を市長直属の作戦部隊に引き継がせ、英米の爆撃に備えます。死体収容だけでなく、爆撃で家を失った2万人を受け入れ食事を供給する施設が47か所確保。さらに1度に1万人の食事を提供できる大食堂とも契約し、まもなく30万人を収容できる場所も用意していました。
◆ 11月、ベルリン・フィル。ブルックナー第4番、他。
1943年(59〜60歳)
◆ 帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
◆ ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ ライプツィヒ国立音楽大学に教授として在職。

◆ ライン=マイン州立管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ 4月、ストックホルム・フィル。ベートーヴェン第9番、他。
◆ 6月、パリ音楽院管。「ベートーヴェン祭」。ナイ、コルトー、ヌヴー、ケンプ、他。ベートーヴェン第9番、他。
◆ 7,8月、バイロイト音楽祭でマイスタージンガーを指揮。フルトヴェングラーとのダブル・キャスト。
◆ 10月、ベルリン・フィルのバルカン・ツアーを指揮。
◆ 10月、イギリス空軍がライプツィヒを爆撃。市街地・住宅地に1,085トンの爆弾を投下。
◆ 10月、ベルリン・フィル。ブカレスト、クロンシュタット、ブダペスト、アグラムを巡るツアー。
◆ 11月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー:ミサ曲第1番、他。
◆ 12月、イギリス空軍がライプツィヒを大規模爆撃。爆弾約1,400トンにより市街地・住宅地を徹底攻撃し、約14万人分の家を破壊し、約1万人を死傷させています。ライプツィヒは当時60万人ほどの都市で、軍需産業の工場も多かったものの、工場はあまり爆撃されませんでした。
◆ 12月、ライプツィヒ歌劇場、イギリス軍の爆撃で破壊。以後は、座席数が半分に満たない500席ほどのドライリンデン劇場で上演を継続。ゲヴァントハウス管弦楽団のライプツィヒ歌劇場要員が減るということでもありました。
1944年(60〜61歳)
◆ 帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
◆ ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ ライプツィヒ国立音楽大学閉鎖。

◆ ライン=マイン州立管弦楽団に首席指揮者として在職。

◆ 1月、ベルリン・フィル。ジーゲル「ミンナ・フォン・バルンヘルム」初演、他。
◆ 2月、ベルリン国立歌劇場でマイスタージンガーを指揮。
◆ 2月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第9番、第4番、他。
◆ 2月、イギリス軍が夜間爆撃、アメリカ軍が昼間爆撃でライプツィヒを空爆。
◆ 2月、ゲヴァントハウス、爆撃により破壊。以後は市内の様々なホールで演奏。
◆ 4月、ブリュッセル・フィル。プフィッツナー:ピアノ協奏曲、シューマン第4番、他。
◆ 5,6,7月、アメリカ軍がライプツィヒを空爆。
◆ 7,8月、バイロイト音楽祭でマイスタージンガーを指揮。フルトヴェングラーとのダブル・キャスト。
◆ 8月、アーベントロート、国民啓蒙宣伝省の「神の祝福を受けた者たちのリスト」に選出。指揮者ではほかに、ベーム、エルメンドルフ、ヘーガー、ヨッフム、カバスタ、カラヤン、クナッパーツブッシュ、カイルベルト、クラッセルト、クラウス、ラミン、シュミット=イッセルシュテット、シュミッツ、シューラー、シューリヒト(以上ABC順)の名があり、そして特別リストには、プフィッツナー、R.シュトラウスと共にフルトヴェングラーが選ばれていました。
オーケストラでは、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、バイエルン国立管、ゲヴァントハウス管、ザクセン・シュターツカペレ(ドレスデン)、プロイセン・シュターツカペレ(ベルリン)、リンツ・ブルックナー管、ハンブルク・フィル、プラハ・ドイツ響が選ばれ、徴兵などで優遇されることになります。
◆ 9月、全ドイツの劇場(歌劇場)閉鎖令。国家総力戦の一環で、「文化労働者」も前線動員するのが目的でしたが、アーベントロートとゲヴァントハウス管弦楽団は「神の祝福を受けた者たちのリスト」に選ばれていたため、終戦直前まで活動継続が可能でした。
◆ 12月、アメリカ軍がライプツィヒを空爆。
1945年(61〜62歳)
◆ 帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
◆ 2月、アメリカ軍がライプツィヒを空爆。
◆ 3月、ゲヴァントハウス管弦楽団と録音。
◆ 4月、イギリス軍がライプツィヒを空爆。
◆ 4月、アメリカ軍がライプツィヒを占領。

◆ 6月、ベルリン宣言によりドイツの政府権限停止。連合国各国軍による占領統治開始。
◆ 6月、アメリカ占領軍によるライプツィヒの占領統治開始。非ナチ化政策ではまず要職者や有名人をブラックリストに記載。アーベントロートも対象となります。
◆ 7月、アメリカ占領軍は西ベルリンの占領状態を確保するためにライプツィヒから撤退し同地の占領統治も終了。
下の画像はドイツ銀行前のM18駆逐戦車。ドイツ銀行はナチ政権のおかげで1938年12月にメンデルスゾーン銀行の1億マルクを超える全資産を手に入れて大銀行になっていましたが、これは当時のドイツ帝国銀行の資産7,600万マルクをはるかに上回る莫大な金額でした。

◆ 7月、ソ連占領軍がライプツィヒに進駐。ソ連の非ナチ化政策は、主に政府や軍の幹部、戦犯を対象とし、有名人だから見せしめで裁くというようなことはおこないませんでした。

◆ 7月、ゲヴァントハウス管弦楽団。ブルックナー第8番アダージョ、他。途中、飛行機の爆音で最初からやり直し。
◆ 8月、ワイマール・シュターツカペレ。ハイドン第13番、シューマン第4番、ベートーヴェン第7番。ワイマール・シュターツカペレを11年ぶりに指揮。

◆ ワイマール国民劇場の音楽監督に就任。楽団がオーケストラ演奏会をおこなう際の「ワイマール・シュターツカペレ」の首席指揮者も翌年から兼務。国民劇場(1,000席)は爆撃で破壊されていましたが、1932年に完成したばかりのワイマールハレ(1,200席)が使用可能でした。
ワイマール国民劇場はテューリンゲン州の運営で、州首相のルドルフ・パウルはジューコフ元帥に任命された人物。

◆ ワイマール国立音楽大学の指揮科教授に就任。

◆ 11月、ゲヴァントハウス管弦楽団と首席指揮者として最後のコンサート。会場はキャピトル映画館。ブルックナー第7番、他
◆ 11月、ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者を解任。7月に任命された新市長のエーリヒ・ツァイグナー[1886-1949]は、元検察官、裁判官、弁護士、ドイツ社会民主党政治家で法務大臣で、反ナチ活動家であり、戦前から何度も逮捕・投獄され、1944年からはヒトラー暗殺計画の失敗でブーヘンヴァルト強制収容所に収容されていた人物です。ナチへの憎悪は深く、入党手続きだけだったとはいえアーベントロートの首席指揮者継続は認めませんでした。
◆ 12月、ゲヴァントハウス管。ベートーヴェン第9番。
◆ 12月、ワイマール・シュターツカペレ。イェーナ公演(フォルクスハウス)。フィンガルの洞窟、画家マティス、ブラームス第1番。

1946年(62〜63歳)
◆ ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。

◆ ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。

◆ 1月、ワイマール・シュターツカペレ。モーツァルト第39番、魔笛序曲、他。
◆ 2月、ワイマール・シュターツカペレ。マーラー第1番、ベートーヴェン:献堂式序曲、第7番、バッハ:管弦楽組曲第3番、メンデルスゾーン:真夏の夜の夢序曲、他。
◆ 2,3月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。リゴレット。
◆ 3,4月、ワイマール・シュターツカペレ。オベロン序曲、魔弾の射手序曲、バラキレフ:ロシア、シューベルト第3番、第8番、レーガー:モーツァルト変奏曲、ヒラー変奏曲、モーツァルト第39番、ベートーヴェン第7番、バッハ:管弦楽組曲第3番、ワーグナー:ファウスト序曲、パルジファル前奏曲、ブルックナー第3番。
◆ 4月、党員60万人のKPD(ドイツ共産党)と68万人のSPD(ドイツ社会民主党)が統合され、SED(ドイツ社会主義統一党)が誕生。結党大会はベルリンのアドミラルパラストで実施。

◆ 5月、ワイマール・シュターツカペレ。オベロン序曲、こうもり序曲、春の声、ウィーン気質、ピツィカート・ポルカ、シューベルト第3番、モーツァルト第39番、ブルックナー第3番、他。
◆ 7月、ワイマール・シュターツカペレ。リスト:ファウスト交響曲、ピアノ協奏曲第2番。
◆ 5月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。リゴレット。
◆ 8,10,11月、ワイマール・シュターツカペレ。ヘンデル:合奏協奏曲ト短調、ブルックナー第7番、マーラー第4番、シューベルト第3番、チャイコフスキー第5番、他。
◆ 8,10,11,12月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。魔笛、リゴレット。
◆ 12月、ワイマール・シュターツカペレ。ショスタコーヴィチ第5番、ブラームス:ピアノ協奏曲第1番(シュトイラー)、ベートーヴェン第9番。
1947年(63〜64歳)
◆ ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。

◆ ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。

◆ ワイマール市音楽総監督に就任。
◆ 1月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。魔笛。
◆ 1月、ワイマール・シュターツカペレ。魔弾の射手序曲、ベートーヴェン第9番、ヴァイオリン協奏曲、ハイドン第92番、プロコフィエフ:ロシア序曲、他。
◆ 3月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。魔笛。
◆ 3月、ワイマール・シュターツカペレ。かるた遊び、モーツァルト第41番、バッハ:管弦楽組曲第1番、第3番、他。
◆ 4月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第9番。
◆ 4月、ワイマール・シュターツカペレ。エアフルト近郊ゼマーダのフォルクスハウスで、ドイツ社会主義統一党の一周年記念演奏会。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン。

◆ 5月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。魔笛。
◆ 5,6,7,8月、ワイマール・シュターツカペレ。ティル、アナクレオン序曲、ヒンデミット室内音楽第5番(ヴィオラ協奏曲)、ブラッハー:交響曲、チャイコフスキー第4番、ベートーヴェン第9番、第3番シューベルト第9番、他。
◆ 10月、ワイマール・シュターツカペレ。マンフレッド序曲、レーガー:ピアノ協奏曲、ブラームス第2番。
◆ 11月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。魔笛。
◆ 11,12月、ワイマール・シュターツカペレ。メンデルスゾーン:静かな海と楽しい航海、最初のワルプルギスの夜の夢、チャイコフスキー第6番、ミャスコフスキー第22番、他。
1948年(64〜65歳)
◆ ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。

◆ ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。

◆ 1,2,3月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。トリスタンとイゾルデ、フィデリオ。
◆ 1,2,4,5,6月、ワイマール・シュターツカペレ(ワイマールハレ)。ヒンデミット:交響曲変ホ調、ハイドン第101番、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番、コリオラン、ラファエル:シンフォニア・セレーナ、シューマン第3番、モーツァルト第36番、ラヴェル:ピアノ協奏曲(ムスリン)、ヒンデミット:ヴェーバーの主題による交響的変容、ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲、ブルックナー第8番、ボロディン第2番、ベートーヴェン第5番、他。
◆ 5月、「ドイツ国家民主党(NDPD)」が結党。元ナチ党員や軍人、文化人らの政治的受け皿となる民主主義ブロック政党。
◆ 「ドイツ国家民主党(NDPD)」に入党。
◆ ドイツ人民会議議員に選出。
◆ 5,6月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。魔笛、トリスタンとイゾルデ。
◆ 8月、ワイマール国民劇場が再建されて開場(1,000席)。ドイツ初の劇場再建でした。

◆ 8月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第9番。
◆ 9月、シュターツカペレ・アルテンブルク。フォルクスハウス。公演告知には人民評議会と教授の文字があります。

◆ ワイマール国民劇場にルドルフ・ケンペが楽長として着任(1950年まで)。
◆ 10月、ワイマール・シュターツカペレ。ブラームス第1番、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番。
◆ 11月、ワイマール・シュターツカペレ。モスクワ芸術座50周年記念祝賀会。チャイコフスキー第5番第2楽章、組曲第3番主題と変奏。
◆ 12月、ワイマール・シュターツカペレ。ディークマン:トッカータ、インヴェンションとシャコンヌ、ラファエル:シンフォニエッタ、他。
◆ 12月、ワイマール国民劇場。ワルキューレ。
◆ 12月31日、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第9番。ゲーテ生誕200周年記念「ゲーテ・イヤー」開幕演奏会。
1949年(65〜66歳)
◆ ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。

◆ ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。

◆ 1月1日、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第9番。ゲーテ生誕200周年記念「ゲーテ・イヤー」開幕演奏会。
◆ 2月、ライプツィヒ放送交響楽団の首席指揮者に就任。本業の放送用収録やレコーディングは、シュプリンガーシュトラーセの中部ドイツ放送フンクハウスでおこなわれています(1952年からDDR放送に名称変更)。

また、ライプツィヒ放送響のコンサートは、主にライプツィヒ動物園に隣接したコングレスハレ(1,000席)で開かれていました。

◆ 1,2,3月、ワイマール国民劇場。ワルキューレ。
◆ 1,2,3,4月、ワイマール・シュターツカペレ。古典交響曲、ドン・キホーテ、ヒンデミット:シンフォニア・セレーナ、カバレフスキー:ピアノ協奏曲、ベートーヴェン第8番、モーツァルト第40番、プフィッツナー:小交響曲、ブルックナー第4番、レーガー:ヒラー変奏曲、バラキレフ:ロシア、他。
◆ 5月、ライプツィヒ放送響。ブルックナー第5番。エテルナに録音。

◆ 6月、ワイマール国民劇場。R=コルサコフ:5月の夜。
◆ 8月、ドイツ人民評議会より「ドイツ民主共和国国家功労賞」授与。10,000マルクは全額ライプツィヒ放送交響楽団に寄付。当時の東の10,000マルクは、東の平均月収の約40倍に相当。

◆ 9月、ライプツィヒ放送響。ブルックナー第8番。
◆ 9,10月、ワイマール・シュターツカペレ。ヘンデル:合奏協奏曲Op.6-5、ブルックナー第5番、ベートーヴェン第9番、チャイコフスキー:ロメオとジュリエット、ブラームス第4番、他。
◆ 9,10月、ワイマール国民劇場。ワルキューレ、R=コルサコフ:5月の夜。
◆ 10月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。
◆ 11月、ライプツィヒ放送響。ブルックナー第4番。エテルナに録音。

◆ 11月、ワイマール・シュターツカペレ。イン・メモリアム・R.シュトラウス(9月8日に亡くなったシュトラウスを偲んで忍んで)、シューベルト:グレート、プフィッツナー:ピアノ協奏曲。
◆ 12月、ワイマール・シュターツカペレ。ディークマン:トッカータ、インベンションとシャコンヌ、ラファエル:シンフォニエッタ、ベートーヴェン:レオノーレ第2番、他。
◆ 12月、ワイマール国民劇場。マイスタージンガー。
1950年(66〜67歳)
◆ ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。

◆ ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。

◆ ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。

◆ ドイツ人民会議議員として「東ドイツ文化連盟(クルトゥアブント)」のために働きます。
◆ 1〜6月、ワイマール国民劇場。マイスタージンガー。
◆ 1月、ワイマール・シュターツカペレ。イェーナ公演(フォルクスハウス)。ヴァイスマン:協奏曲、プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番、シューマン第1番。

◆ 2月、ワイマール・シュターツカペレ。ジーゲル:ミンナ・フォン・バルンヘルム組曲、ヒンデミット:チェロ協奏曲、ベートーヴェン第6番。
◆ 3月、ワイマール・シュターツカペレ。ショパン:ピアノ協奏曲第2番(ムスリン)、ショスタコーヴィチ第1番。
◆ 5月、ケルン音楽大学25周年記念式典に参加。1923年にケルン市の助成金打ち切りによる資金難とハイパーインフレで一時閉鎖されたケルン音楽院が、規模を縮小して国からの助成に切り替えて1925年にケルン音楽大学として再開してから25年が経過したことを祝うイベントでした。久しぶりにギュルツェニヒ管弦楽団を指揮してもいます。
◆ 5月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第3番。
◆ 6月、ワイマール・シュターツカペレ。ハイドン変奏曲、ベートーヴェン第3番、シェバリーン第3番、他。
◆ 8月、ワイマール市700周年記念コンサートにワイマール・シュターツカペレと出演。ワーグナー、リスト。

◆ 9,10,11月、ワイマール国民劇場。マイスタージンガー、フィデリオ。
1951年(67〜68歳)
◆ ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。

◆ ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。

◆ ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。

◆ ドイツ人民会議議員として「東ドイツ文化連盟(クルトゥアブント)」のために働きます。
◆ 1月、ワイマール国民劇場。マイスタージンガー。
◆ 1,2月、ソ連。指揮ツアー。モスクワとレニングラードのオーケストラに客演。リヒテルとの共演がプラウダ紙、ソビエト芸術紙に掲載。
◆ 2,4月、ワイマール国民劇場。マイスタージンガー、フィデリオ。
◆ 4,5,6月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第7番、第8番、プフィッツナー:ハイルブロンのケートヒェン序曲、バルトーク:ピアノ協奏曲第3番、ブラームス第4番、ヨハン・シュトラウス・アーベント、ベートーヴェン第9番、他。
◆ ハインツ・レーグナーがコレペティートアとしてワイマール国民劇場に配属。すぐに実力を認められ、オペラ、オペレッタの指揮と、演劇部門への劇音楽の作曲などに多忙な3年間を過ごすことになります。
◆ 10月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第2番、第3番、他。
◆ 11月、ライプツィヒ放送響。ブルックナー第9番。エテルナに録音。

◆ 12月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第6番、他。
◆ 12月、ゲヴァントハウス管。
1952年(68〜69歳)
◆ ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。

◆ ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。

◆ ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。

◆ ドイツ人民会議議員として「東ドイツ文化連盟(クルトゥアブント)」のために働きます。
◆ ドイツ芸術アカデミー音楽部門会員に選出。
◆ 2月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第5番、第6番、他。 Gerster, Ottmar(1897-06-29 - 1969-08-31) Beethoven, Ludwig van(1770-12-17 - 1827-03-26) Čajkovskij, Modest Il’ič(1850 - 1918)
◆ 3月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン没後125周年記念祝賀会。
◆ 4,5月、ワイマール国民劇場。フィデリオ。
◆ 4月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第7番、第8番、他。
◆ 5月、ワイマール・シュターツカペレ。グリエール:序曲「人民の友情」、ボルトキエヴィチ:ピアノ協奏曲第2番、ブラームス第2番。
◆ 6月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第1番、ブルックナー第9番。
◆ 9月、ベルリン国立歌劇場。フィデリオ。
◆ 12月、ワイマール・シュターツカペレ。ブルックナー第6番、他。
◆ 12月、ワイマール・シュターツカペレ。ライプツィヒ公演(プーシキン広場の労働者劇場)。ベートーヴェン、チャイコフスキー、他。
1953年(69〜70歳)
◆ ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。

◆ ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。

◆ ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。

◆ ベルリン放送交響楽団の首席指揮者に就任。

◆ ドイツ人民会議議員として「東ドイツ文化連盟(クルトゥアブント)」のために働きます。
◆ ザクセン=アンハルト州交響楽団より名誉指揮者の称号を授与。
◆ イェーナ・フリードリヒ・シラー大学より名誉上院議員の称号を授与。
◆ 1月、オットー・グローテヴォール首相が、アーベントロートの70歳の誕生日に政府を代表して祝辞を述べています。当時の東ドイツには、グローテヴォール首相のほかピーク大統領もおり、ウルブリヒト国家評議会議長のもとで国を治めていました。
◆ 1月、ワイマール市より名誉市民の称号を授与。
◆ 1,2月、ワイマール国民劇場。こうもり。
◆ 1月、ワイマール・シュターツカペレ。R=コルサコフ第3番、ヘンデル:合奏協奏曲Op.6-12、他。
◆ 2月、ワイマール・シュターツカペレ。クライン:パッサカリアとフーガ、シューベルト第9番、他。
◆ 3月、ワイマール・シュターツカペレ。モニューシュコ:ハルカ序曲、ショスタコーヴィチ第9番。
◆ 4月、ワイマール・シュターツカペレ。シューベルト第8番、ブルックナー第7番。
◆ 4月、ワイマール国民劇場。こうもり。
◆ 5〜6月、ソフィア・フィル。
◆ 6月、ワイマール・シュターツカペレ。ブラームス:ピアノ協奏曲第1番、ベートーヴェン第5番。
◆ 6月、ワイマール国民劇場。こうもり。
◆ 9月、ワイマール国民劇場。マイスタージンガー。
◆ 9月、ベルリン放送響。フリードリヒシュタットパラスト公演。パーヴェル・セレブリャコフとのチャイコフスキー、他。

◆ 11月、ワイマール・シュターツカペレ。シューベルト第5番、第8番、さすらい人幻想曲、他。
1954年(70〜71歳)
◆ ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。

◆ ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。

◆ ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。

◆ ベルリン放送交響楽団に首席指揮者として在職。

◆ ドイツ人民会議議員として「東ドイツ文化連盟(クルトゥアブント)」のために働きます。
◆ 東ドイツ政府より「祖国功労勲章」銀賞授与。

◆ ドイツ合唱指揮者協会より名誉会員に選出。
◆ 1,2,3月、ワイマール・シュターツカペレ。モーツァルト:協奏交響曲K297b、ブルックナー第4番、ミャスコフスキー第27番、ハイドン第97番、ヴィシュキ:ピアノ協奏曲、ハース:古いロココの主題による変奏曲組曲、他。
◆ 4月、ワイマール・シュターツカペレ。ブルックナー第8番、他。
◆ 5月、ポーランド。指揮ツアー。
◆ 6月、ワイマール・シュターツカペレ。ルトスワフスキ:小組曲、ゲルナー:ピアノ協奏曲、ベートーヴェン第3番。
◆ 10月、ソ連。指揮ツアー。モスクワとレニングラードのオーケストラに客演。
◆ 11月、フィンランド。指揮ツアー。
◆ 12月17日、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン:コリオラン、ピアノ協奏曲第3番、チャイコフスキー第6番。コリオランは11月30日に亡くなったフルトヴェングラーの思い出に捧げられています。アーベントロートとフルトヴェングラーは親しい友人関係にありました。
1955年(71〜72歳)
◆ ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。

◆ ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。

◆ ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。

◆ ベルリン放送交響楽団に首席指揮者として在職。

◆ ケルンを訪れる話が、連邦首相のアデナウアーによって拒否されます。冷戦が過熱していたためで、1950年のケルン客演は許可されていました。
◆ 2月、ワイマール・シュターツカペレ。モーツァルト:クラリネット協奏曲、ブルックナー第5番、R.シュトラウス:家庭交響曲、他。
◆ 3月、ワイマール・シュターツカペレ。モーツァルト:ディヴェルティメント第7番、プロコフィエフ第7番、他。
◆ 3月、ソフィア・フィル。ベートーヴェン第5番、コリオラン、他。
◆ 4月、ソフィア・フィル。ブルックナー第4番、他。
◆ 4月、ワイマール・シュターツカペレ。レーガー:ヒラー変奏曲、他。
◆ 5月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第9番。
◆ 6月、ワイマール・シュターツカペレ。ハイドン第101番、モーツァルト第38番、ベートーヴェン第7番。
◆ 9月、ライプツィヒ放送響。プロコフィエフ第7番、シューマン:チェロ協奏曲、他。
◆ 9月、ベルリン放送響。シューマン第1番、モーツァルト第35番、他。
◆ 9月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第1番、レーガー:ベックリンによる4つの音詩、ラヴェル:左手協奏曲、他。
◆ 9月、ベルリン国立歌劇場が再建。杮落しは2日のコンヴィチュニーの「マイスタージンガー」で、アーベントロートは29日の祝典コンサートにベルリン放送交響楽団を率いて登場。曲目は、オベロン序曲、ゲルスターの交響曲第2番、シューベルトのグレート。なお、ベルリン国立歌劇場にはマルティン・アーベントロート[1883-1977]というバスバリトン歌手が在籍しており、この9月にも出演していました。

◆ 10月、ワイマール・シュターツカペレ。ティル・オイレンシュピーゲル、画家マティス、ブラームス第4番、ヘッセンベルク:コンチェルタンテ・ムジーク、他。
◆ 11月、ライプツィヒ放送響。モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番、他。
◆ 11,12月、ハンガリー、チェコスロヴァキア。指揮ツアー。
◆ 12月、ワイマール・シュターツカペレ。ショスタコーヴィチ第10番、ブラームス:ピアノ協奏曲第2番。
◆ 12月、ベルリン放送響。ベートーヴェン第9番。
◆ 12月、ライプツィヒ放送響。モーツァルト第33番、他。
1956年(72〜73歳)
◆ ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。

◆ ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。

◆ ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。

◆ ベルリン放送交響楽団に首席指揮者として在職。

◆ 1月、バイエルン国立管。オベロン序曲、ブラームス第1番、他。
◆ 1月、ワイマール・シュターツカペレ。セレナータ・ノットゥルナ、リンツ、他。
◆ 1月、ハンガリー国立歌劇場管。ワーグナー:ヴォータンの告別、他。
◆ 1月、ベルリン放送響。モーツァルト:ディヴェルティメント第7番、交響曲第39番、他。
◆ 2月、シュターツカペレ・ドレスデン。セレナータ・ノットゥルナ、戴冠式、他。
◆ 2月、ベルリン放送響。ブルックナー第7番。
◆ 2月、ワイマール・シュターツカペレ。デッサウ:1楽章の交響曲、コッハン:ヴァイオリン協奏曲、ベートーヴェン第6番。
◆ 2月、ライプツィヒ放送響。ザクセ:ドビュッシーの主題による変奏曲、他。
◆ 3月、ワイマール・シュターツカペレ。皇帝ティトゥス序曲、グラン・パルティータ、ジュピター、他。
◆ 3月、ライプツィヒ放送響。モーツァルト第41番、ディヴェルティメント第7番、他。
◆ 4月、ワイマール・シュターツカペレ。ハイドン第96番、リートミュラー:コンチェルティーノ、チャイコフスキー第5番。
◆ 4月、ベルリン放送響。モーツァルト:セレナーデ第8番、ブラームス第3番、他。
◆ 4月、ワイマール・シュターツカペレ。マンフレッド序曲、シューマン第1番、第4番。
◆ ドイツ・シューマン委員会の委員長に選出。
◆ 4月27日、7月に開催されるツヴィッカウのシューマン音楽祭について、アーベントロート委員長のもと、基本的な準備が終わったと新聞報道。
◆ 5月29日、イェーナで死去。死因は脳卒中。

◆ 6月2日、国葬。数千人の市民、国の有力者が葬儀に参列。
◆ 6月、埋葬。


ヴューラー情報

誕生:1900年6月29日、オーストリア帝国、ウィーン
死没:1975年12月27日、西ドイツ、マンハイム
【芸風】
国際現代音楽協会への参加がプロとしての初期の重要な仕事だったこともあり、5年間に及ぶ作曲家とのリアルタイムの交流は、解釈の客観性と演奏の説得力という両面のバランスを常に追求するスタンスの醸成に有効だったようです。
アーベントロートとのここでのシューマンでも、オケと共にメリハリの効いた力強いロマンティシズム構築に成功しています。特に第2楽章では濃厚すぎるほど濃厚に煽るアーベントロート指揮するオーケストラ・パートを前にしても、崩したりすることなく絶妙な間合いで演奏して面白い対比の効果で聴かせています。
【ウィーン音楽舞台芸術アカデミー(現ウィーン国立音楽大学)】
15歳で入学して、主に以下の教授に師事しています。
●ピアノ:フランツ・シュミット[1874-1939]
●指揮:フェルディナント・レーヴェ[1865-1925]
●音楽理論:ヨーゼフ・マルクス[1882-1964]

【演奏活動】
23歳で演奏活動の範囲を国際的なものとすることに成功し、ヨーロッパ各国に続き、アメリカと日本でもデビュー。38歳の時にザルツブルク音楽祭デビュー。第2次大戦後は主に、ドイツ語圏の国で活動し、ときおりパリやロンドンで演奏していました。
【国際現代音楽協会】
23歳の時に国際現代音楽協会のオーストリア支部創設メンバーとして参加。以後、5年間に渡って作曲家達と交流したほか、同協会の主催するISCMフェスティヴァルで、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン、バルトーク、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ヒンデミット、プフィッツナー、レーガーらの作品を演奏。
【録音活動】
ヴューラーはSP時代からレコーディングをおこなっておりショパンのエチュードでもエレガントな演奏を聴かせていましたが、実演や放送録音ではパワーと勢いのある演奏を聴かせることも多く、戦後のVOX録音などでもその片鱗を窺うことができます。
オーストリアとドイツは敗戦国だったため、戦後は通貨政策で生じた利ザヤを享受すべく戦勝国アメリカのレーベルが乗り込んできて多くのレコーディングをおこなっています。ヴューラーもブラームス、チャイコフスキー、プロコフィエフ、ウェーバーなど数多くの協奏曲録音や、ベートーヴェンとブラームスの協奏曲全集、シューベルトのソナタ全集などをおこなっており、制約の多い条件の中でも立派な演奏を聴かせています。
【教育活動】
ウィーン音楽舞台芸術アカデミー、マンハイム音楽アカデミー、ザルツブルク・モーツァルテウムで教職に就いたほか、ミュンヘンやキールでも教えていました。
【コンクール審査員】
1966年:第2回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール
1968年:エリザベート王妃国際コンクール・ピアノ部門
【作曲・編曲活動】
歌曲、弦楽四重奏曲、ピアノ独奏曲などを作曲。モーツァルトのピアノ協奏曲のカデンツァも作曲していました。
【ヴィトゲンシュタイン事件】
恩師フランツ・シュミットが、パウル・ヴィトゲンシュタインから委嘱されて作曲した左手用の作品が、ヴィトゲンシュタインのオーストリア出国によって演奏機会が無くなったため、ヴューラーはシュミットの承諾を得て両手用に改作して演奏。ヴィトゲンシュタインはユダヤ系大富豪の一族だったため、多くの作曲家に左手用の作品を委嘱していましたが、自分の生きている間は自分に演奏権があるという一文を添えていたことと、本人の難しい性格もあり、ラヴェル作品でも勝手に変更して演奏し、ラヴェルと絶交状態になっていたほか、プロコフィエフ作品は演奏せず、ヒンデミット作品に至っては演奏しないだけでなくしまい込んでしまうなどトラブルが多発。シュミット作品を両手用に改作したヴューラーのことも、ヴィトゲンシュタインはナチ呼ばわりして非難し、ヴューラーも怒って応酬するなどしていました。
トルトゥリエ情報

年表
1914
●パリで家具職人の家に誕生(3月21日)。両親とも音楽愛好家で、父ジョゼフ・ジャン・マリー=バティスト・トルトゥリエ[18789- ?]はヴァイオリンとマンドリンを演奏し、母マルグリート・トルトゥリエ(旧姓:ブーラ)[1886- ?]はチェロを好んでいました。
彼らは1905年に結婚。1906年に誕生したトルトゥリエの8歳年長の姉ジュヌヴィエーヴは、1925年にエティエンヌ・ボド[1903-2001]と結婚、1927年にのちに指揮者になるセルジュ・ボドが生まれています。つまり、ボドはトルトゥリエの甥ということになります。
1920
●6歳でベアトリス・ブルームにチェロを師事。
1923
●9歳でルイ・フイヤールにチェロを師事。
1926
●12歳でパリ音楽院に入学。チェロの師は9歳から学んでいたルイ・フイヤール。のちにジェラール・エッカンに師事。
1930
●16歳でエルガーのチェロ協奏曲によってチェロ科「プルミエ・プリ」を獲得。
●パリ音楽院を休学。
●カフェや映画館でチェロ奏者として活動。
●演奏会デビュー。ラムルー管弦楽団との共演でラロのチェロ協奏曲を演奏(12月)。
1932
●母の勧めでパリ音楽院に復学。和声、作曲、対位法をジャン・ガロンとノエル・ガロンの兄弟に師事。同級生にジャン・ユボー[1917-1992]がおり、1947年のコンセルトヘボウ・デビューの際には、彼のチェロ協奏曲を演奏。
●「パリ放送スタジオ管弦楽団」に入団。副首席チェロ奏者。戦時中は「パリ放送大管弦楽団」となります。
1933
●11月14日、ラムルー管弦楽団との共演でラロのチェロ協奏曲を演奏。
1935
●和声で「プルミエ・プリ」を獲得。
●パリ音楽院を卒業。
●「パリ放送スタジオ管弦楽団」を退団。
●モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団に入団。首席チェロ奏者に就任。在任中は、ブルーノ・ワルターやアルトゥーロ・トスカニーニのもとでも演奏。なお、当時のモンテカルロ・フィルはパリの放送オーケストラと関係がありました。
1937
●モンテカルロ・フィルにリヒャルト・シュトラウスが客演。トルトゥリエは「ドン・キホーテ」でソロを担当。以後、看板レパートリーとなります。
●モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団を退団。
●ボストン交響楽団に入団。首席チェロ奏者に就任。音楽監督クーセヴィツキーの要請。
1938
●ボストン・タウン・ホールでソロ・リサイタル開催。伴奏はレナード・シュア。
◆9月3日、フランス政府、イギリスと共にドイツに宣戦布告。
1940
●4月29日、アメリカ国勢調査実施。トルトゥリエは、ボストン・シンフォニー・ホールから300メートルほどの住居に、母マルグリートと共に暮らしていることが確認されています。
◆5月10日、ドイツ軍がベネルクス三国に侵攻を開始。
◆6月22日、フランス、ドイツに降伏。
●ボストン交響楽団を退団。
●フランスに帰国。アメリカはまだ参戦しておらず、フランスはドイツ占領下だったため、ドイツ海軍から狙われる心配はありませんでした。
1941
●パリ放送大管弦楽団に入団。首席チェロ奏者に就任。楽員にはチェロのモーリス・ジャンドロン、ティンパニのピエール・デルヴォーらがいました。
1942
●恩師ジェラール・エッカン死去。
1944
●1月16日、メンゲルベルク指揮パリ放送大管弦楽団とドヴォルザークのチェロ協奏曲を演奏・録音。メンゲルベルクは1942年から1944年にかけてパリ放送大管弦楽団を29回指揮しており、禁じられていたチャイコフスキーの「悲愴」もとりあげています。
●パリ放送大管弦楽団を退団。
●マドレーヌ・ガストンと離婚。2人の間にはアンヌが生まれていましたが、マドレーヌが引き取っています。
●「チェロ独奏のための組曲ニ短調」作曲。1955に改訂。
1945
●パリ音楽院管弦楽団に入団。首席チェロ奏者に就任。
1946
●1月9日、モード・モニク・マルタン[1926-2015]と結婚。
●パリ音楽院管弦楽団を退団。
●6月、HMVに録音。ショパン:前奏曲第4番ホ短調。
●10月、HMVに録音。バッハ:前奏曲変ホ短調。
1947
●1月12日、ソ連占領軍政府の管轄にあるベルリン放送スタジオで演奏。最初の公演は室温が2度しかなかったため中止となったものの2度目の公演が無事開催。「ヴィオラ・ダ・ガンバの巨匠」として告知されていました。ベルリン・デビュー。
●1月、ベルリン・フィルの演奏会に出演。ハイドン:チェロ協奏曲(チェリビダッケ指揮)。
●4月19日、息子ヤン・パスカル誕生。
●6、10月、HMVに録音。ハイドン:チェロ協奏曲第2番(フルネ指揮コロンヌ管)。
●9月3日、コンセルトヘボウ管の演奏会に出演。ユボー:チェロ協奏曲(ビーチャム指揮)。
●ロイヤル・フィルの「リヒャルト・シュトラウス音楽祭」に出演。「ドン・キホーテ」(ビーチャム指揮)。シュトラウス本人も招かれており、トルトゥリエの解釈を絶賛。
●ウィグモア・ホールでリサイタル開催(ジェラルド・ムーア)。
●10月、HMVに録音。「ドン・キホーテ」(ビーチャム指揮ロイヤル・フィル)。
●10月26日、「パリ学生管弦楽団」の演奏会に出演。ドイツ占領下の1943年に学生有志で結成されたオーケストラで、1950年に解散するまでに約70回の演奏会を開催。戦時中のパリではドイツからの出演も多く、音楽活動は戦前よりも盛んなほどでしたが、背景にはパリ音楽院院長のクロード・デルヴァンクールが、対独協力強制労働から学生や職員を免除することに尽力したこともありました。

1948
●1月、ベルリン(西)でレクチャー・リサイタル開催。
●1月、ベルリン放送響(東)の演奏会に出演。サン=サーンス:チェロ協奏曲第1番(ローター指揮)。
●3月、HMVに録音。チャイコフスキー:ロココ変奏曲(デル・マー指揮ロイヤル・フィル)。
●10月、HMVに録音。ドビュッシー:チェロ・ソナタ第1番、自作:「ピエロ」。
1949
●2月、ベルリン(西)、RIASで録音。
●2月、ベルリン・フィルの演奏会に出演。ラロ:チェロ協奏曲(チェリビダッケ指揮)。
◆5月、ドイツ連邦共和国成立(西ドイツ)。
●9月、西ベルリン、RIASで録音。
◆10月、ドイツ民主共和国成立(東ドイツ)。
1950
●1月、HMVに録音。ベートーヴェン:魔笛の主題による変奏曲。
●第1回プラド音楽祭に出演。オーケストラでは首席チェロ奏者。室内楽も演奏。音楽監督カザルスの要請。バッハ没後200周を記念して創設された音楽祭。
●「2台のチェロとオーケストラのための二重協奏曲」作曲。
1951
●ペルピニャンで開催されたプラド音楽祭に出演。オーケストラでは首席チェロ奏者。室内楽も演奏。
●MMSレーベルに録音。ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(アッカーマン指揮トーンハレ管)。
●12月、パテ・マルコーニに録音。ベートーヴェン:チェロ・ソナタ第1番、第2番(エンゲル)。
1952
●プラド音楽祭に出演。オーケストラでは首席チェロ奏者。室内楽も演奏。
●7月、シューマン:ピアノ五重奏曲(ヘス、スターン、シュナイダー、トーマス)、ブラームス:ピアノ四重奏曲第3番(ヘス、シゲティ、カティムス)、弦楽五重奏曲第2番(スターン、シュナイダー、トーマス、カティムス)を演奏・録音。
●ジュネス・ミュジカル・カナダのツアーに参加。
●ボストンの「ピーボディ・メイソン・コンサート」シリーズに出演。
1953
●1月、プラド公演。モーツァルト:ピアノ四重奏曲第2番(カペル、グリュミオー、トーマス)。
●5月、パテ・マルコーニに録音。ベートーヴェン:チェロ・ソナタ第3番、第4番(エンゲル)。
●プラド音楽祭に出演。オーケストラでは首席チェロ奏者。室内楽も演奏。
●9月、HMVに録音。ブラームス:チェロ・ソナタ第1番、第2番(エンゲル)。
●コンサートホール・レーベルに録音。サン=サーンス:チェロ協奏曲第1番(ゲール指揮トーンハレ管)。
1954
●「2台のチェロのための二重奏曲」作曲。
●翌年にかけてアメリカ・ツアー実施。

1955
●西ベルリンでリサイタル開催。
●BBCのテレビ番組でチェロ・リサイタル。
◆5月14日、ワルシャワ条約機構発足。ソ連主導の軍事同盟。
●5月15日、スプラフォンに録音。ヒンデミット:チェロ協奏曲(アンチェル指揮チェコ・フィル)。
●7月17日、HMVに録音。ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(サージェント指揮フィルハーモニア管)。
●9月3日、ライプツィヒ放送で録音。シューマン:チェロ協奏曲(アーベントロート指揮ライプツィヒ放送響)。
●9月16日、HMVに録音。サン=サーンス:チェロ協奏曲第1番、フォーレ:エレジー、チャイコフスキー:ロココ変奏曲(メンゲス指揮フィルハーモニア管)。
◆9月22日、西ドイツ、アデナウアー首相により、「ハルシュタイン・ドクトリン」が宣言。東ドイツを国家として承認する国とは断交することを表明。これは東ドイツを経済面で破綻させ、崩壊させるための作戦で、西ドイツは実際に、ユーゴスラヴィア、キューバと断交していました(ソ連は国交を樹立したばかりなので除外)。
●イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団からの客演要請。指揮者デビュー。
●家族と共にイスラエルのマアバロットに移住し、翌年秋までの1年間はこの地で生活。トルトゥリエは不可知論者のカトリック教徒でしたが、イスラエル建国に熱く共感しており、ヨルダン川西岸地区に隣接するキブツ(生活協同体)であるマアバロットに移住しています。
ヨルダン川西岸地区は、1948年にヨルダンに占領され1950年に併合されており、1967年にイスラエルが占領するまではヨルダン領でした。1967年以降はイスラエルの占領状態が55年間続いており、現在では事実上の併合状態であるとされています。
トルトゥリエが妻モード、息子ヤン=パスカル、娘マリア・ド・ラ・ポーと暮らしていた住居は、ヨルダン国境から数百メートルという地域にありました。
●「ピアノ協奏曲」作曲。
1956
●「イスラエル交響曲」作曲。
●家族と共にパリに帰還。
●パリ音楽院のチェロ科教授に就任。
1957
●2月、パテ・マルコーニに録音。オネゲル:チェロ協奏曲(ツィピーヌ指揮フランス国立放送管)。
1958
●6月、HMVに録音。「ドン・キホーテ」(ケンペ指揮ベルリン・フィル)。
●9月、パテ・マルコーニに録音。ショパン:前奏曲第4番、クープラン:アリアとシャコンヌ、キュイ:万華鏡、ドヴォルザーク:ロンド、フレスコバルディ:トッカータ、ジャルディーニ:タンボリーノ、ニン:グラナディーナ、パガニーニ:無窮動、ポッパー:ガヴォット、プロコフィエフ:行進曲、ラヴェル:ハバネラ形式の小品、サラサーテ:サパテアード、シューマン:トロイメライ。
1959
●2月、パテ・マルコーニに録音。シューベルト:アルペジョーネ・ソナタ、ドビュッシー:チェロ・ソナタ第1番、グリーグ;チェロ・ソナタ。
●娘ポモーヌ誕生。
●12月、パテ・マルコーニに録音。バッハ:無伴奏チェロ組曲全曲。
1960
●「平和の賛歌」作曲。
●エラートに録音。シューマン:ピアノ三重奏曲第1番、第3番。
1961
●4月、エラートに録音。フォーレ:チェロ・ソナタ第1番、第2番、エレジー。
1962
●1月、西ベルリン、RIASで録音。
●6月、HMVに録音。ブラームス:二重協奏曲(フェラス、クレツキ指揮フィルハーモニア管)。
●7月、エラートに録音。ドビュッシー:チェロ・ソナタ第1番。
●11月、BBCに録音。シューマン:チェロ協奏曲(ドラティ指揮BBC響)。
1963
●3月、エラートに録音。バッハ:ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ第1番、第2番、第3番。
1964
●2月、西ベルリン、RIASで録音。
●BBCのテレビ番組に出演。マスタークラスを開催。
●11月、エラートに録音。ヴィヴァルディ:6つのヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ。
1965
●オックスフォード・バッハ音楽祭で指揮。
1966
●バッハ:無伴奏チェロ組曲の楽譜を校訂しガイヤール社から出版。1983年に改訂。
●12月、バイエルン放送響の演奏会に出演。「ドン・キホーテ」(ケンペ指揮)。
1967
●11月、パテ・マルコーニに録音。ラフマニノフ、ショパン:チェロ・ソナタ。
●12月、BBCに録音。ヒンデミット:チェロ協奏曲(ダウンズ指揮ニュー・フィルハーモニア管)。
1968
●11月、パテ・マルコーニに録音。ラフマニノフ、ショパン:チェロ・ソナタ。追加セッション。
1969
●3月、パテ・マルコーニに録音。チェレプニン:無伴奏チェロ組曲、ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲、ピアノ三重奏曲。
●パリ音楽院を退職。
●エッセンのフォルクヴァング芸術大学の教授に就任。
1970
●「弦楽のための捧げ物」作曲。
●5月、ユニコーンに録音。C.P.E.バッハ:チェロ協奏曲第3番、ハイドン:チェロ協奏曲第2番(ロンドン室内管)。
●5月、フランス国立放送管の演奏会に出演。ベートーヴェン:三重協奏曲(フェラス、ハイドシェク、マルティノン指揮)。
1971
●1月、ユニコーンに録音。ルーセル:シンフォニエッタ、マルタン:小協奏交響曲、トルトゥリエ:捧げもの(トルトゥリエ指揮ロンドン室内管)。
●7月、パテ・マルコーニに録音。ベートーヴェン:チェロ・ソナタ全曲。
●初来日。
1972
●1月、東芝音楽工業に録音。ショパン:序奏と華麗なポロネーズ、前奏曲第4番、ドヴォルザーク:ロンド、フォーレ:パピヨン、夢のあとに、グラナドス:ゴイェスカス間奏曲、マスネ:エレジー、パガニーニ:モーゼ変奏曲、無窮動、ラヴェル:ハバネラ形式の小品、サン=サーンス:白鳥、サラサーテ:サパテアード、ヴァレンティーニ:チェロ・ソナタ。
●2〜3月、パテ・マルコーニに録音。ベートーヴェン:チェロ・ソナタ全曲。追加セッション。
●3、7、10月、パテ・マルコーニに録音。ベートーヴェン:チェロとピアノの為の変奏曲3曲。
●10月、HMVに録音。エルガー:チェロ協奏曲(ボールト指揮ロンドン・フィル)。
●10月、BBC響の演奏会に出演。エルガー:チェロ協奏曲(ボールト指揮)。
●イギリス、レスター大学から名誉音楽博士号の称号を授与。
1973
●著書「How I Play, How I Teach」、ロンドンのチェスター社から出版。
1974
●BBCのテレビ番組に出演。マスタークラスを開催。
●来日。
1975
●エッセンのフォルクヴァング芸術大学を退職。
●イギリスのブリストル国際チェロ・コンクールの芸術監督と審査員長に選出。記念公演では、自作の「2台のチェロのための協奏曲」を息子の指揮、妻との共演でとりあげています。
●イギリス、オックスフォード大学から名誉音楽博士号の称号を授与。
1977
●エディンバラ音楽祭出演。ハイティンク指揮コンセルトヘボウ管弦楽団と「ドン・キホーテ」。
1978
●ニース音楽院の教授に就任。
1980
●ニース音楽院を退職。
●北京音楽院から名誉教授の称号を授与。
●来日。
1983
●西ベルリンでリサイタル開催。
1984
●カリフォルニア、ラグナ・ビーチ・サマー・ミュージック・フェスティヴァルで妻と共に演奏。
●8月19日、シドニー・オペラ・ハウスで開催された「世界平和のためのコンサート」に出演。
1987
●BBCのテレビ番組に出演。マスタークラスを開催。
●スイスのラ・ショー・ド・フォンでマスタークラスを開催。最終日には隣のル・ロックル市で演奏会を開き、24台のチェロで平和の賛歌「ル・グラン・ドラポー(偉大なる旗)」を演奏。
1988
●西ベルリンでリサイタル開催。
1989
●スイスのペーター・アマンが制作したテレビ・ドキュメンタリー「魅惑のチェロ」に出演。
●ニューヨークで演奏。
●11月29日、西ベルリンで演奏。
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1990
●2月、ニューヨークで演奏。
●プラド音楽祭に出演。バッハ・リサイタル開催。
●パリ郊外、ヴァル=ドワーズのマノワール・ド・ヴィラルソーで心臓発作により死去(12月18日)。十数人の若い音楽家へのレッスン中でした。

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