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実験映像作家 伊藤高志 インタビュー

Tuesday, January 5th 2010

伊藤高志 Ito Takashi

「伊藤高志映画回顧展」公開時、トークショーのために東京に来られた伊藤高志さんに『伊藤高志映画作品集』から、松本俊夫氏や森村泰昌氏のこと、そして、先鋭的なダンサーをはじめとした肉体を使って身体表現をされている方との映像を使ったコラボレーションへの試み・・・などについてお話を伺いました。 一時期、”ポケモン”のフラッシュ効果で気持ち悪くなって失神しちゃう子供達が出てから、フラッシュ効果があるものに対して少し、世間的にナーバスになっている傾向がありますが、この『伊藤高志映画作品集』でのフラッシュ効果は伊藤さんのお言葉をお借りすれば「あっちみたいにもやっとした気持ち悪さじゃなくて、はっきりとした、ハキハキした感じっていうかね(笑)。気持ちいい感じになると思いますけどね」と。 特典映像も含めて、この映像体験から最高にハイになって頂きたい。ドラックを吸引しなくてもここでは合法・・・トリップしても捕まりませんので、共に”悦楽共犯者”に。でも、この光を浴びていると、不思議といろいろな感情が起こるのは、一体何故でしょう。 INTERVIEW and TEXT: 長澤玲美

これは「テレビでは放映出来ない」って感じかな(笑)。

--- 現在「伊藤高志映画回顧展」が開催中(シアター・イメージフォーラムにて2009年11月28日〜12月5日開催/インタビューは12月5日)で、12月18日にDVD『伊藤高志映画作品集』がリリースされますが、『SPACY』(1981)完成から30年を迎えつつある今、ご自身の作品が改めて観られるということに対して、どのようなお気持ちですか?

そうですね・・・「上映時間にして2時間くらいか」って思ったりするので、やっぱり、「この30年の中でたったこれだけしか作品を作ってないのか」って感じですかね(笑)。

70年代後半、わたしが8mmフィルムで映画を作り始めた頃の自主映画の状況というのは、劇映画やテレビとは違った、アート系の映像を作る作家がたくさんいたので、自分を取り巻くそういう環境が自分に強い影響を与えたことは確かなんですよね。

70年代の後半から80年代にかけて自分が学生だった頃に影響を受けた、感銘を受けた映画は、普通に映画館で公開されるような、俳優が出てきてストーリーが展開して1時間半から2時間を過ごすというような映画ではなくて、5分、10分という短い時間でも作り手の強い個人的な思いが見られる映画だった。どっちかって言うと、劇映画では個人的な思いを強烈に見せるっていうことはあんまりされないでしょ?自主映画ではそういうことが自由なわけだし、劇映画には見られない新鮮さが逆にあったんです。個人の強い思いを映画というメディアを使って表現していることのおもしろさって言うんでしょうかね。表現の方法自体も劇映画とは全く違った独特な方法論みたいなことがたくさんあって、わたしが学生の頃に作り始めたのは写真を使ったアニメーションなんですけど、先輩作家の人達が既にやっていたそういう方法にすごくおもしろみを感じていたんですよね。

アニメーションと一口で言っても、いろんな方法を当時の個人作家は生み出していて、そういう独自な方法の映画をたくさん観て、自分でもやりたいなと。自分でもそういう方法を編み出して、自分の強い思いをストレートに表現したい!っていうのが始まりですよね。当時はそこから始まって、特に強い影響を受けたのが松本俊夫という映像作家の作品だったわけです。

--- 『アートマン』(1975)ですね。

そうですね、『アートマン』は特に。他には、相原信洋(あいはらのぶひろ)とか、居田伊佐雄(こたいさお)、瀬尾俊三(せおしゅんぞう)とかね、名を挙げたらきりがないんですけど。そういう作家のおもしろい個人映画を観た時に、カメラさえあれば一人でも、みんなが驚くような世界が作れるんだという・・・、つまり、いわゆる大きな製作費とかたくさんのスタッフ、キャストで作られる劇映画には手が届かないというか、それは自分の場合は観るだけのたのしみというか、「自分ではなかなか出来ないな」っていう思いがあったんですけど、そういう自主映画を観てると、一人、二人っていう人数と低予算で劇映画にはない独特な世界を作れるんだという喜び、勇気を与えられたというか。そこからですね、始まったのは。

九州芸術工科大学(画像設計学科)でグラフィックデザインを中心に勉強していたんですけど、その他にも光学的な勉強とか彫刻も陶芸もやったし、鉄の溶接で造形物を作るとか、塩ビを加工して立体物を作るとか、様々なメディア、方法を使った表現を勉強していたんです。自分が映画を作る時はそういう方法をいろいろ取り込んで、自分なりの方法を編み出したいなと思って、写真を使ったアニメーションにおもしろみを感じて徹底的にやってみた作品が『SPACY』、『BOX』(1982)です。

--- 影響を受けていた松本俊夫さんが大学に赴任してくることが4年生の時にわかり、就職を蹴って大学に残ったんですよね?

そうなんですよ。処女作の『SPACY』を作る前のことです。松本さんの『アートマン』に影響を受けて、「『アートマン』みたいな作品を自分でも作りたい」と思って、8mmでどんどん作っていたのが大学の4年間だったんですけど、4年目に松本さんがうちの大学に赴任してくるということがわかって、「え!?」っていう感じですよね。就職も決まってましたけど、「あの人が来るの!?」っていう驚きがありまして。衝撃的でしたよね、本当に。

--- 本当に偶然?

本当に偶然なんですよ。就職決まってたんですけどたまんなくなっちゃってね、「絶対勉強したい!」って思っちゃって、就職を蹴って松本さんについたんですよ。大学でいうといわゆる5年生からですけどね。

松本さんが来た途端にわたしがいた学科の授業の内容ががらっと変わったんですよね。彼が来るわけですから、当然映画の授業が増えるし、個人映画というかそういうアート系の映像の授業も増えてきて。今まではそういう授業があまりなかったので、新鮮味がすごくあったんです。それで強い刺激を受けながら、なおかつ、松本さんがわたしのゼミの指導教官でしたから、指導を受けながら、それまで8mmで作っていた写真を使ったアニメーションをさらにぐっと発展させる形で『SPACY』という映画を作ったんです。

--- 影響を受けていた作家が自分の大学に赴任してくるなんて、すごく運命的といいますか、ドラマチックですよね。

そうですね。松本俊夫という人物がうちの大学に来なかったら、『SPACY』という作品は絶対に生まれてなかったと思いますし、そういうことを考えると本当に運命的な出会いですよね。「この人に出会ったことによって、今の自分の作家としての立ち位置があるんだな」っていうのをすごく感じますね。

--- 11月28日の公開初日には松本さんのトークショーがありました。

そうですね。松本さんのもとで、大学5年生、6年生、7年生と3年間留年して作品を作りましたんで、結構強く印象に残ってるんじゃないですかね、わたしのことが(笑)。毎年毎年「映画を作りたいから残る」ってわがままを言ってましたんで。

--- 大学卒業後はATG(日本アートシアターギルド)という映画制作配給会社で働いていたんですよね?

そうですね。大学に通算7年間いて、その後は文化事業の仕事をしたかったので、27の時に東京の西武百貨店文化事業部に就職しました。そこに入ったと同時に、西武にちょうど「映画の配給会社を作る」っていう計画があって。そこでまた、タイミングがばっちり合ったんですよ。「伊藤っていう人間が映画も作ってて、おもしろそうなヤツだから、こいつを配給会社に配属させよう」と。それで、その前の1年間、「ATGで映画配給の勉強をしてこい」ってことになって入ったんですよね。

--- その時に、石井聰互さんの『逆噴射家族』(1983)の特殊視覚効果を担当されたんですか?

そう。石井聰互も(自分と同じ)福岡の出身で、福岡にいる頃から面識はあったんです。お互いに作品も観ていて、「いつか一緒に何かやりたいですね」っていうようなことは福岡の時代から言ってたんですけれども、ちょうどATGの出向社員で配給宣伝の仕事をしている時に石井聰互の『逆噴射家族』の制作があって。わたしは宣伝の仕事として、現場に付いたんですよ。そしたら、石井聰互から「宣伝なんてそんなつまんない仕事しないで僕の作品手伝ってよ」って言われて(笑)、それで特殊視覚効果っていう役目で『逆噴射家族』の一部のシーンを担当したんです。

--- 『逆噴射家族』は好きな作品で観ていたんですが、伊藤さんがあの作品に関わっていたということを最近知ってびっくりしました。どのシーンを担当されたんですか?

本当にちょっとなんですけど、タイトルクレジットっていうんですかね、“逆噴射家族”ってタイトルが出る近辺の写真をいっぱい使ったシーンと、あとはあの一家が戦争して家が崩れた後の写真を使ったアニメーションのシーンを担当しましたね。

--- 改めて、観返したいと思います(笑)。

あの当時、僕がやってたようなああいう映像は劇映画の中では新鮮でしたからね。あんまり一般的には知られてない映像でしたから、刺激的ではありましたよね。

--- その会社勤めのかたわら、個人の映画制作を続けていたという・・・。

そうですね、毎年やってましたね。

--- 当時は睡眠時間がすごく少ない中でふらふらになりながら作っていたとか。

作品を手掛けている時はいつも睡眠不足でふらふらになりますけど、それは作品を作ってる人だったら誰でもそうだと思うので(笑)、別に不思議でも何でもないんですよ。東京で映画会社のサラリーマンを10年間やりましたが、イメージフォーラム・フェスティバルの招待作家として、だいたい毎年1本、16mmで作品を発表してたんですよね。自分としてはあのフェスティバルがあるおかげで作品が作れたっていうところがあって、サラリーマンしながら自分で好きなように映画を作るって言っても、何か発表するという枷がないとなかなか出来ないでしょ?だからね、それも恵まれてたんですよね。招待作家だから作らざるを得ないという立場なんだけど、自分のお尻を一生懸命叩きながら毎年毎年苦労しながら作っていったものを自分のフィルモグラフィとして見た時に、「ああ、よかったな」と思うわけですよね。

--- 1996年の作品『ギ・装置M』は、わたしが個人的に森村泰昌(もりむらやすまさ)さんの作品が好きなこともありまして(笑)、すごく魅了された作品でした。当時、横浜美術館で開催された森村泰昌展のために制作されたもののようですが、制作の経緯やどのようにあの作品が生まれたのかを伺いたいのですが。

ギ・装置M』は、横浜美術館で開催された森村さんの個展(「美に至る病-女優になった私 森村泰昌展」)があって、あの時はいわゆる「女優シリーズ」の写真を展示していて、いろんな女優の格好をした森村さんの写真がある中でマリリン・ モンローの写真が一応メインだったんです。で、写真だけではなくて、横浜美術館の中に古い感じの映画館のセットを作ったんですよ。もぎりのところとかもちゃんと作ってね、そこを通って中に客席、奥にはスクリーンがあって。そのスクリーンに投影する映画を森村さんの方から「やってくれませんか?」っていうお話があって、それで手掛けたんですよね。だから、この映画を作るにあたって、えーっと、大阪の焼肉の街・・・。

--- 鶴橋・・・。

そうそう、鶴橋(笑)。その鶴橋のガード下に森村さんの事務所があるんですけど、そこに何度も足を運んで彼が考えていることをいろいろ聞いたり、過去の作品の美術品を見せてもらったりね。でね、彼が身体に付ける装飾品とか衣装を保管している秘密の家があって・・・。

--- 秘密の家?(笑)。

そう。表札もかかってない、誰も連れて行かない秘密の家があるんですよ(笑)。本当に普通の一軒屋なんですよね、日本家屋の。そこに連れて行かれたんだけど、入っていくともうすごいんですよ、中は。そういう小物だらけで。入り口の下駄箱の中もがちゃって開けると煌びやかな靴がずらっとあるし、クローゼットの中にも衣装がずらっとあるし、っていう部屋で、彼が今まで身に付けていたものを見せてもらってね。それから、マリリン・モンローの映画もほとんど観直して、僕自身がそこからイメージしてくるものを映像にしたというものですね。

キーワードはいろいろあって、マリリン・モンローということもあって”セックスシンボル”、”女優”、”虚飾”、”死”、そこから森村さんが作品のテーマにしてるんだけど”偽装”とか。そういったいろんな言葉をまず書き起こしてそこから生まれてくるイメージですよね。これをどんどんスケッチして全体の構成を考えていき、森村さんと話し合いながら撮影をしていきましたね。

その当時ちょうど、大阪の道頓堀近くに松竹座っていうものすごく古い映画館があって、もうそろそろ取り壊されるっていう時期だったんです。あの作品に映ってるトイレはその劇場のトイレです。 本当に大正モダンみたいな造りでね、タイルとか壁とか床とか全部デザインされてて。手すりなんかも曲線の木の手すりだったりとかで、ものすごくクラシックないい映画館で。そこでかなり写真を撮らせてもらって、この映画の1つの舞台というか、消えゆく映画館の風景を取り入れたりもしてますね。

--- 『ギ・装置M』では女性の使う化粧品、例えばコンパクトや口紅などといった小物がヤン・シュヴァンクマイエルの作品のような動きもしながら、すごく象徴的に使われていましたよね。

あれも全部、森村さんの所有物です。高価そうなものは何もないんですよ、本当に。ただ単にきらきら光ってるだけでね。そういうものを彼は作品の中に活用してるんですけど、「表面だけが光ってて何もない」ということの虚飾性、表層性は、おそらく彼の作品にもテーマとしてあるだろうし、『ギ・装置M』っていう作品にもそのことはテーマとしてありますね。

--- 2000年の京都造形芸術大学オープンキャンパスで行なったダンサー岩下徹(いわしたとおる)さんとの映像のコラボが、ご自身の予想をはるかに超えておもしろかったそうですね。

おもしろかったですね。オープンキャンパスですから高校生を対象とした大学紹介のイベントなんですけど、当時、映像・舞台芸術学科(の映像責任者)をやってましたんで、学科の紹介のために、舞台の岩下徹さんとわたしとで10分か15分くらいの本当に簡単な余興をやったんです。具体的に言うと、壁に扉がある教室で、岩下さんが扉の中に入ったり、扉からふっと顔を出したり、扉を使ったダンスをしてもらったのをまずビデオカメラで撮影して、その撮った映像を上手く扉に重なるように投影したんです。それだけを観てると、扉がガチャッと開いて、岩下さんが壁から出てくるみたいな映像なんですけど、そこに本物の岩下さんがダンスをするので、本物の岩下さんと映像の岩下さんが重なったり離れたりっていう風にコミュニケーションするわけです。それが思ったよりもおもしろくって。

何がおもしろいって、映像だけ観ていても結構おもしろかったんですけど、肉体を持った岩下さんが入ることで空間が変容していく感覚があって。つまり、背景の映像そのものも肉体の関わり方次第で違って見えてくる。肉体の方も違って見えてくるんですね、映像との関係で。これがものすごくスリリングで。それから、遠目で観ているとどっちが肉体でどっちが映像かわからないみたいな瞬間もあるわけですよね。現実と虚構がふっと入れ替わったりとか、そういう錯覚みたいなこともその空間の中に生まれる。そこのおもしろさを強烈に感じてましたね。

それまではずっと、いわゆるシングル・チャンネルでスクリーンに投影する映画をずっと撮り続けていたんですけど、これをきっかけに映像と身体表現のライブパフォーマンスをすごくやってみたいなあと思って、その後はいくつかやりましたね。

--- 『伊藤高志映画作品集』の特典映像として収録されている、ダンサーの山田せつ子さんとのコラボである公演『DOBLE / 分身』(2001年12月7日から9日公演 京都芸術劇場 / DVDには記録版ダイジェストを収録)と、ダンサーの映像を11台のプロジェクターと4枚の鏡を使って歌舞伎劇場の舞台上に映し出すインスタレーション作品『恋する虜 - The Dead Dance』(最新作!2009年1月17日から18日 京都芸術劇場 / DVDには記録版を収録)について、それぞれどのようなものかをお聞かせ頂けますか?

DOBLE / 分身』は2001年なんで、岩下さんとの余興の翌年にやったんですけど、これは余興というよりは、1年かけて準備をしっかりしてからやろうってことで、岩下さんの時にやったのと同じようなことをちょっと規模を大きくしてやったんですね。

扉のある壁を、今度は扉が3つあるんですけど、それをスタジオの中にセットでちゃんと作って、山田せつ子さんが踊ってるダンスの映像を投影し、その映像の前に山田さんがいてパフォーマンスをするんですね。(DVDに収録したのは)1時間くらいのパフォーマンスの中の13分くらいのシーンです。ある部分はダンスだけのところもあれば、ある部分は映像だけのところもありという感じで、全体の大雑把な構成は僕が考えて、あとは山田さんとの話し合いの中で、「ここでわたしはこういう踊りをするから」とか「それは違うんじゃないの」っていう風にどんどん話し合いながら変えていって完成させた作品ですね。

DOBLE / 分身』は僕自身の中ではすっごくおもしろくってね。映像系の人というかな、自分で映像を作ってる人とか映画が好きな人達はこの公演をとてもおもしろく観てくれて、結構評判よかったんですけど、山田せつ子さん自身は「この作品がいいかどうかよくわからない」って言うんです。身体表現をやってる人達は公演が終わった後に、「これはダンスではない」って言い始めて、評判が悪かった。評価がすごくわかれたんです。身体を表現の手段としてる人と虚像を表現の手段としている人の大きな違いみたいなものが如実に出たなと思いました。

さっき言ったように、本物の山田さんなのか映像の山田さんなのかわからない・・・もう、入り乱れていく、その全体の奇妙な感じが、映像をやってる人は「おもしろい」って言うんだけど、ダンスをやってる人は「身体の表現にしては映像が主張し過ぎてる」とかね、「映像によって身体表現が弱くなってる」って言うわけ。そこで僕もやっぱり何か、肉体表現と映像表現の大きな違い、壁みたいなのがあるのかなって思ったし、でも、その壁をもっと崩すような形で、身体表現をやってる人達が「おもしろい」って思ってくれるようなものにしたいなってすごく思ったんですよね。だからますます闘志が沸くっていうか(笑)。「もっともっとやりたい!」と思って。

恋する虜 -The Dead Dance』は、今年の1月にやった映像インスタレーションですけど、これは肉体を持ったダンサーは誰も出てこない。映像としてのダンサーしか出てこない。ジャン・ジュネという作家の同名の小説があって、「これはダンスのテキストになり得る」っていう風に山田せつ子さんが発想したんですよね。僕は未だにあの小説がどうしてダンスなのかっていうのはよくわからないので(笑)、もっと勉強しなきゃって思ってるくらいなんですけど、山田さんにはそういうインスピレーションがあって、このジャン・ジュネのテキストを基にダンス公演を作るというプロジェクトを3年計画でやろうということになりました。

僕は映像担当としてそこに参加して、いろんなダンサー、美術をやってる人・・・、他ジャンルの人達が集まって、その3年間の中で3回公演をやりました。最初にやったことをさらに突き詰めてもっと違う形にしよう、新たなアイデアが出てきたらもっとそこへ導入しようということで、みんながその(公演の)都度変化していったんですね。で、最終公演を2008年にやって、そこで一応完結したんです。

それで一応終わったんですけど、3回やった公演の映像だけの部分で、「ダンス公演とは別のジャン・ジュネの世界が作れないか?」という考えが生まれて、今度は映像作家のわたしが中心になってジャン・ジュネを映像的に展開するということで、ちょっと独立した形でやったものがここ(DVD)に収録してある作品です。

インスタレーションでは、ダンス公演で出てきたダンサー達の映像を使ったんですが、新たに撮影したり、過去の公演で使ったものの一部を引用したりして、ジャン・ジュネが持っている、セックスと死とかそういう問題・・・、ジャン・ジュネ自身がホモセクシャルな人だったし、泥棒したり、悪いことばっかりして監獄に入れられながらも小説を書いていたように、善と悪の境が全然ないような世界を持った人なので、境界を越えて何かが交わるみたいな世界観を作りたいと思ったんですよね。生と死の境界はどこにあるのか、肉体とその映像、現実と虚構の境界はどこにあるのかと思いながらも「そういう境界は実際はないような感じもするよ」っていうようなね(笑)。そういうない交ぜになったような世界をインスタレーションの世界で実現したいなって思ったんです。

うちの大学(京都造形芸術大学)に歌舞伎の劇場があるんですけど、ステージの上に大きな鏡を4枚立てて、その鏡にプロジェクターを使って映像を投影したんです。ダンサーがダンスしてる映像が映ってるんですけど、鏡に投影するから反射するでしょ?そうするとね、対面のスクリーンに大きく、そのダンサーの映像がぼんやりと現れるし、鏡の表面に薄くパウダーをまぶしたので、鏡の表面にもあるのかないのかわからないような感じで映像が映るんですよね。それが4枚あるので、複雑に人物が関わっていくんです。床にも、床で寝てるダンサーの姿が天井から投影されていたり、別の場所ではダンサーが寝転んでる紙焼きの全身写真が吊り下げられていて、そこに同じダンサーが動いてる映像を投影して重ね合わせたりとかね。すごい気持ち悪いんですけど(笑)、そういうのが何枚かあったりとか。客席にはクリストみたいに白いシーツを被せて敷いて、そこにステージ上から客席でダンスをしているダンサーの映像を投影するんですよ。白いシーツがスクリーンになって、客席の映像と客席にいるダンサーの映像がそこに映るので、一瞬、客席があるように見えるんですよね。

そういう虚像と実体との触れ合いを全体に配置させて、最後は全部燃えて消えていく。(燃えるのは)もちろん映像ですけどね。

20分間の映像をループで繰り返し上映して、お客さんは花道から入ってきて、自由にこの空間を回りながらどんな風に観てもいいっていうインスタレーションです。

(特典映像は)いろんなところにカメラを置いて、あちこち撮ったものを編集でまとめた記録映像ですから、その空間にいないと、決定的には本当の世界は見えないとは思うんですけどね。

--- 歌舞伎の劇場だとまた少し、特殊に映りますか?

えーっとねえ、関係ないですね(笑)。

--- たまたま歌舞伎の劇場があるから使ってみようという。

そうです、そうです、たまたま。

--- 先鋭的なダンサーの方をはじめとした肉体を使って身体表現をされている方と映像を使ってコラボレーションする表現は今後も続ける予定ですか?

すっごいやりたいですね、本当に。いろいろアイデアがあるんですけどね。

--- 伊藤さんは現在、そういったご自身の創作活動を続けながら、大学で学生さんに教えているんですよね?

そうですね。教えながら、学生を(自分の作品に)こき使ってね(笑)。結構優秀な学生がたくさんいるし、演技が出来る学生なんかもいるし。まあ、僕の場合は演技は必要なくて、顔とか存在感がおもしろければ全然構わないんですけど(笑)。技術的にもね、僕の作品の美術を作ってくれたりとか、「手伝って」って言うと喜んで手伝ってくれますよ。

--- 具体的に学生さんにはどのようなことを教えているんですか?

「映像で何を教えるか」っていうのはものすごく難しい問題でね、「教えられることが本当にあるのか」というのは、教師として無責任な言葉だけど、思うんですよ。教えられることがあったら、学生は必ずおもしろいものを作ってるはずですよね(笑)。でもそうはいかない。それは世界的に見てもそうでしょ?カリフォルニア大学の映画学科に行ったからといって、おもしろい映画が出来るかっていうとそうじゃないわけですから。

映画っていうのは、一人の作家のあるぼんやりとした形のないイメージを何とか形にしたものじゃないですか。それで、おもしろい、優秀な作品っていうのは世界を見回してもごまんとあるわけですよね。

そういういい作品を観て、「いい作品がどのように形になったのか」っていうことですよね。つまり、出来上がった映像作品というのは、具体的にいろんな撮影や編集や演出がされて形になったものだから、ものすごくいい教材なわけですよ。だから、それを観ればいいわけです。ただこれは、ちゃんと頭にしっかり叩き込んでおかないと見えないんですね。つまり、映画は観ているようで観てないんですよね。基本的にはストーリーがどうだったのかっていうことを中心に観るわけじゃないですか。で、細かいところはほとんど観てないですよね。だけど、細かいところがあってこそ、映画の強いメッセージが伝わってるわけですから、それをどういう風に見るか、どういう風に演出されているかとかね、そういうことをまず分析して、学生達に教える。そうすると、学生達もはっとするわけです。

例えば映画を観て、笑っちゃったとか泣いちゃったってことに対して、「どうして泣いたのかな」とか「どうして笑ったのかな」とか「どうしてドキドキしたのかな」とか、そういうことをあんまり考えないですよね。だけど、それは確実に演出されてそうなってるわけで、それを教えるとね、「ああ、そういう演出があるから自分の心がこういう風に動いたんだ」っていうのが見えてくる。そこからですよ、始まるのは。それを応用して欲しいってことかな、学生達に。

--- 伊藤さんが松本俊夫さんに学んだように、伊藤さんに影響を受けて、今、伊藤さんの授業を受けている学生さんもきっといると思います。そこからまた新しい作家さんが出てくるといいですよね。

そうですよね、出て来て欲しいですよね。それはまあ、こういう仕事の醍醐味っていうんでしょうかね。どういう人が育ってきたか、そこに尽きるんじゃないでしょうかね。

--- 今日(取材させて頂いた日)のトークショーのお相手は映像ユニットのトーチカさんですが、伊藤さんの教え子だったんですよね?

そうですね。『静かな一日』では、美術をやってくれたんです。あの二人は優秀な学生でしたよ。

映像ってやり尽くされたようなところもあるんですよ。例えば、方法に関して言うと、誰も見たことのないような世界を作るって、もうおそらく至難の業ですよね(笑)。ここ数年、そういう観点でどきりとさせられる映画はほとんどないですから。だから、これから映像を手掛けていくのはそういう意味で言うととっても大変(笑)。でも方法っていうのは、例えば映画でもズームとかクローズアップも1つの方法なわけで、それを駆使して何か新しい映画を作っていくわけじゃないですか?そういうことを考えるとちょっと気持ちが楽になるんですよね(笑)。いろんな個人が編み出したいろんな方法がたくさん世の中にあるわけでね、でもその人の特権でも何でもないから、どんどん利用したらいいんですよ、使っちゃえばいいんですよ。だから、要は内容ですよね。「その作家が何を考えているのか」「どういう問題に興味を持っているのか」っていうことに尽きると思いますね。その問題意識をたくさん・・・1つのことに捉われないでっていうかな、いろんな問題意識を持った作家、作品っていうのは世の中にたくさんあるわけですから、そういうものに触れて「自分ならではの問題意識を持つこと」っていうことでしょうね。

--- 伊藤さんの作品は光の効果がすごいですよね?数年前、『ポケットモンスター』で光の効果で気持ち悪くなって失神しちゃうような子供達が出てから、フラッシュの効果があるものに対して少し、世間的にナーバスになっているような気がするんですが、伊藤さんのこの映像を観た方がどう感じて何と感想を持つのかがすごく気になってます(笑)。

でもね、あの『ポケモン』の明滅はすごかったですよ。僕も観ましたけど、本当に気持ちが悪くてね。トーチカのナガタ君がそれを観て卒倒したんだって、泡吹いて。

--- 本当ですか?

そう。いやね、「どんなもんだろう」って思って観たんだって、彼。そしたら本当に気持ち悪くなっちゃって倒れちゃったんだって。でも、僕のはあっちみたいにもやっとした気持ち悪さじゃなくて、はっきりとした、ハキハキした感じっていうかね(笑)。気持ちいい感じになると思いますけどね。ただ(作品集としてまとめて観た時に)これだけ続くとね(笑)、確かにハイになる人とぐったりする人とかなり極端にわかれるみたいだけど。

でも最近、テレビとか観てても記者会見の時のストロボが光る時は「明滅に注意して下さい」って注意書きが必ず出てくるもんね。

--- ええ。世の中的にそういうことに対してすごく敏感な中、この作品からはパンク精神といいますか、潔い清々しさまで感じました。

そうね、これは「テレビでは放映出来ない」って感じかな(笑)。

--- こんなにまとまっている作品集は当分・・・(笑)。

そうですね、30年後かなっていうね(笑)。

『伊藤高志映像作品集』 予告映像

interview

伊藤高志

profile



伊藤高志氏による、ご自身のプロフィール

1956年福岡市生まれ。新聞記者の父と看護婦の母の次男として出生。映画好きの父の影響で映画大好き少年に。ただ教育的配慮なのか東映アニメやディズニー映画ばかり見せられる。『ゴジラ』シリーズや『サンダ対ガイラ』といった当時子供たちが真っ先に見に行く怪獣映画にはいっさい連れて行ってくれなかった。しかしせがみにせがんでついに見た『大魔神』と『ガメラ対バルゴン』の2本立てを劇場で見た時、大魔神に串刺しにされる悪代官や緑の血を吹き出しながら戦う怪獣たちの残虐な映像にスッゲーと大興奮。高揚した顔つきに親が心配するほどだった。その後ますます映画にはまっていく。と同時に漫画を描くのが趣味だった私は石森章太郎の「サイボーグ009」をオリジナルストーリーで描いたり、手塚治虫や横山光輝の模写に没頭。小学生時には昼休みや放課後の教室でストーリー漫画を皆が見ている前で描き悦に入っていた。小6から中学にかけて長編怪獣漫画「対戦」をノート3冊に描破。地元博多湾から現れた怪獣が石油コンビナートや平和台球場をことごとく破壊して回り、日本を縦断し北海道で他の怪獣と対決するというスペクタクル。地元の風景をロケハンし怪獣に破壊させる場所を選定するなど異常な情熱をそそぐ。「将来は漫画家だね」と回りから言われ本人もその気になっていたが、その後手塚治虫の『火の鳥』を読んで大ショック。こんな凄い物語は自分には絶対考えられないと確信して漫画家になる事をあきらめた。

中学時代は変声期の声が沢田研二に似ていたので「タイガース」の物まねで人気者に。休みの日はほとんど映画を見に行っていたが、そんなにお小遣いがあるわけでもないので試写会の会場に裏口から忍び込んでタダ見を時々していた。少しずつ悪い事も覚える。そんな試写会で大興奮させられたのがスティーヴ・マックイーン主演の『大脱走』。尋常でないドキドキ感とハラハラ感を味わい映画の真の面白さというものを感じた。漫画や映画に没頭するオタク少年ではあったが、中学の時は短距離走で常に1〜2位、またバスケットボール部でも活躍するなどスポーツマン精神も身につけている。高校入試は第一志望校に失敗し、仕方なくやたら運動だけ強い高校に入る。その高校では体育=剣道の授業を密かな楽しみにしていたが、入部までには至らず。ここの運動部は野蛮なので。またここは男子校だったので教師の力は絶大、ビンタや飛び蹴りは日常茶飯事だった。私も強烈なビンタを数学の教師に食らわされたが、そうやって自分の非に気づかされた。また高校時代は美術部で絵を描きながら、いっぽう父のカメラでカメラ小僧として写真を撮りまくり、芸術の世界への興味が少しずつ熟成していく。

九州芸術工科大学画像設計学科にどうしても入りたくて浪人生活を2年間送る。予備校通いとバイトの日々の中で先の見えない不安な日々を送っていた。そんな18歳のある日、『ノストラダムスの大予言』という東宝の特撮映画を見た帰りに胃が破裂して救急病院へ。術後医者から「あと3時間遅かったら死んでたよ」と言われた。「死ぬってこういうことか」と妙に納得するのと同時に、映画『ノストラダムスの大予言』は以後トラウマとなる。

3度目の正直で大学合格。浪人生活の欲求不満が爆発し、映画研究部、写真部、バスケットボール部に同時に入部。先輩や教官の仕事の手伝いなど体を動かし回る。そんな時8ミリカメラを親戚から借りて初めて撮影し、家の襖に映して大興奮。あるはずのない風景がそこに現れるという映像の原初的な力にものすごく感動した。そんな時出会ったのがFMFという自主上映グループで、彼らの上映会に何となく飛び込んで見た8ミリ映画に強烈な刺激を受け、「私も映画作るから上映してー!」と、彼らの活動に参加するようになった。ここから私の個人映画の創作が始まった。同時期福岡で上映された「松本俊夫」個展上映はその創作欲に拍車をかけた。特に彼の『アートマン』という実験映画は私の目標になった。「こんな映画を作りたい」と強く思った。そして大学4年の時なんとなく時流に乗って就職を決めてしまったが、その直後、その松本俊夫がうちの大学に赴任してくることがわかり内定を断って大学に残った。松本俊夫が大学にやって来て画像設計学科の雰囲気はいきなり変わった。実験映画の授業が増え、学生たちも映像思考になり映像作品を作るようになってきた。そんな中私は松本俊夫の指導のもと卒業研究として16ミリ処女作『SPACY』(1981)を制作した。この作品の企画書を松本俊夫に見せた時、「君、これほんとに出来るのか?」「出来たら面白くなるだろーなー」という言葉に私はこの人を絶対感動させてやると思った。『SPACY』は本人も驚くほど世界中で高く評価され嬉しいのと同時に大変なプレッシャーを感じたが、「もっともっと映画を作りたい」という欲求が沸き、翌年再び卒業研究の名目で『BOX』(1982)を手がけ、さらにその翌年も卒業研究で『THUNDER』(1982)を発表。3年間の自主留年創作期間を終えいいかげん卒業。

卒業後は西武百貨店文化事業部に入社。西武美術館やスタジオ200のスタッフとして働いたが、スタジオ200での初めての仕事が「追悼寺山修司」だった。東京へ来て寺山修司の生舞台がやっと見れると思っていた矢先の事だったのでとても残念だった。その後ATG(日本アートシアターギルド)という映画制作配給会社に出向。石井聰互監督の『逆噴射家族』(1983)の特殊視覚効果をこの時に担当した。ATGでの製作・配給・宣伝の勉強を終え、1984年から西武の映画配給会社シネセゾンの宣伝部に配属。おすぎとピーコや淀川長治によく怒られたものだが、彼らの仕事に対する情熱と厳しさには社会人としてとても教えられるものがあった。また私の予告編作りには定評があり、騙しのテクニックはピカイチだった。また会社勤めのかたわら有休やズル休みを駆使して個人の映画制作を行ったが、私の創作にとても理解のある上司だったので全くトラブルはなかった。毎年恒例のイメージフォーラム・フェスティバルには招待作家として新作映画を出品。私の作品を見ていた劇作家如月小春から声がかかり、「舞台に私の映像を取り入れたい」ということで参加した『MORAL』(1984)の公演はとても刺激的で、以後彼女の舞台の映像スタッフとして毎年のように参加することになる。1992年の秋には国際交流基金の支援により、東欧3ケ国を訪問し、自作の上映と講演会を行う。観客からの鋭い質問にたじたじとなり東欧映画芸術の歴史の深さを実感した。というわけであれやこれや公私ともに忙しい東京での社会人生活を10年間送り、10年目にして晴れて宣伝部次長に昇格。分厚い給料袋を手にすることもなくその直後に退職し、京都芸術短期大学の専任講師として京都で新しい人生が始まった。

京都に来る前の3年間は作家として何を作ったらいいかわからなくなり創作をやめていた。そんな私に再び火をつけてくれたのが“下克上上映会”という名の、教師の新作を学生が批評するという不条理な上映会だ。その果し状を学生たちが研究室に持って来た時、「お前ら面白いな」と余裕の表情を見せながらも内心は不安でいっぱい。そこで久々に作った『12月のかくれんぼ』(1993)は上映後学生たちの喝采を浴びとても感動した。学生たちの素敵な罠にはまりその後次々と作品を作るようになる。松本俊夫によって構想設立された映像コースは、その当時東京よりも面白い作品が生まれてくる西の拠点と言われていた。その言葉通り学生たちは非常に優秀だった。というより型破りでエネルギッシュ!たとえ作品が破綻していてもそのパワーに魅入ってしまうことがよくあった。私は彼らに刺激を受けながら、助けられながら映画を作り続けた。

1999年、京都芸術短期大学は併設の京都造形芸術大学に吸収合併され映像コースは映像・舞台芸術学科として再スタート。私は映像の責任者で、舞台の責任者の太田省吾とこの学科の設計にたずさわった。あまりの忙しさに『静かな一日』(1999)は未完成のままイメージフォーラム・フェスティバルに出品。上映日の前日にプリントを持ち込み危うく出入り禁止になるところだった。この作品は2002年に『静かな一日・完全版』として完成させた。この学科での演劇人やダンサーたちとの出会いは私に多大な影響を与えた。

2000年のオープンキャンパスで余興のつもりで行なったダンサー岩下徹と映像のコラボは予想をはるかに超えて面白く、身体と映像の間にある不思議な磁場の魅力を自分なりに追求してみたいと思った。以後積極的に舞台での映像表現に挑戦。2001年のダンサー山田せつ子とのコラボ『Double』は1年かけて準備し大学内の劇場で公演したが、観客以上に私自身が興奮していた。その後も伊藤キムや白井剛、寺田みさ子、砂連尾理などの先鋭的なダンサーや劇作家川村毅とのコラボなど、映画作り以上に熱中した。2009年の1月には『恋する虜 -The Dead Dance』という、ダンサーの映像を11台のプロジェクターと4枚の鏡を使って歌舞伎劇場の舞台上に映し出すインスタレーション作品を初めて手がけた。

2000年から2003年にかけて海外での私の特集上映が集中し、ドイツ、オランダ、台湾などでの映画祭に招待された。この頃になると大学での現場で鍛えられていることもあり、トークショーでの鋭いツッコミもなんのその、相手を説得する術を身につけていた。

映画を作り始めて30年あまりが過ぎた。これまでのほとんどの作品がDVDとなって世に出ることになったが、ここで過去の創作にいったん区切りをつけて今一度新しい創造へ向けてスタートしたい。そんな気分だ。

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