「盤鬼のマニア魂」

Monday, April 21st 2008

「盤鬼のマニア魂」

　平林直哉のフルトヴェングラー復刻では、フランクの交響曲が予想外におもしろかった。というよりも、大いに感心させられた。マニアの間では珍品として取り引きされている高価なＬＰの復刻らしい。あらかじめ言っておくが、何と言っても古い、それも新品同様はあり得ないような盤の復刻だから、どうしてもパチパチしたノイズはある。聴きはじめは、「長く聴くとくたびれそうな音だな」と思ったほど。
　ところが、だ。そんな気持はほんの数十秒で薄れた。音楽の異常な緊張感や、自由自在で雄大な流れ、息づかいが生々しく伝わるのだ。私は特にフルトヴェングラーの信奉者でもなければ、古い演奏や録音に興味があるわけではない。しかし、この演奏には間違いなく聴く者を引き込む不思議な魔力が宿っている。テンポの伸縮に不自然さがなく、非常にスムーズなうえ、テンポの変化と楽想の変化が完璧に合っている。確かにこれは名人芸と言うほかない。このフランクの作品は、渋い灰色の曲のようにイメージされがちだが、この演奏だと全然そんなことはない。すばらしく溌剌として生気に富んでいる。これに比べると、やはり最近出た同じ平林復刻の「田園」（ウィーン・フィルのよく知られている演奏）は、音質はずっとずっとよく、今まで聴いた盤は何だったのだろうと思わされるほどだが、演奏としては抜け殻のようにすら感じられてしまう（抜け殻は厳しすぎるにしても、この人の晩年ならではの妙に突き放した感じがする）。
　このフランクは１９４５年、第二次世界大戦が終了する直前のライヴだ。フルトヴェングラーはこの演奏の直後、間一髪でスイスに脱出した。それが危険な企てだったことはものの本に書いてある。そうした緊迫した状況が絡んでいるのかどうか、とうてい判断がつくものではないけれども、ウィーン・フィルの艶やかな弦楽器が、決して甘美なだけでなく、劇的で深刻な表情を帯びているのは確かだ。
　音が欠落というか飛んでしまうところもある。だから、神経質な人には勧められないが、この指揮者の芸風が十全に発揮されたという点では、非常に上位に入る録音ではあるまいか。フルトヴェングラーのフランクの交響曲としては、もっとよく知られた１９５０年代の録音があり、音質もそちらのほうがよいが、演奏自体の魅力という点では、こちらの１９４５年盤のほうがずっと上ではないかと思った。

　ところで、平林直哉と言えば、氏の積年の宿願だった『クラシック名曲初演＆初録音事典』（大和書房）が発売された。
　実は数年前から、平林氏が何か単行本を出すという噂があった。しかし、どんな本か、どの出版社かを問われても本人は口を閉ざして答えなかった。どうしてそんなに秘密にするのかが謎であった。さんざん飲んだときなどに「いいから、言っちゃえば」と多人数に迫られても、口を割らなかった。そのため、いったいどんな本なのか、さまざまな憶測がなされた。フルトヴェングラーの、あるいはクナッパーツブッシュの本ではないか等々。だが、いよいよ形になった本は、そうした推測とはまったくかけ離れた超渋い事典だったのである。
　平林氏がこの本について沈黙を守ったのは、莫大な投資がなされているかららしい。同種の企画がよそで行われると、十余年にわたって行われた膨大な資料のための出費がパーになってしまうのだ。この沈黙の守り方といい、コツコツと資料を集め情報を整理するやり方といい、粘着質で粘り強い人でなければできない。まさしく「盤鬼」と呼ばれる人ならではのコレクター魂がなさしめた１冊である。
　率直な話、私は初録音には全然興味がない。ここで書かれたのを読んでも「ふうん」と思うだけである。それよりもところどころに記されている筆者の苦心譚のほうが、マニアの生々しい情念がにじみ出ていておもしろかった。そういえば、序文にも「この本を読まずしてクラシック音楽は語れない」という鼻息の荒い一文がある。
　この本の成立過程については、最近出た『クラシック・スナイパー２』（青弓社）で本人が詳しく書いているので、このへんにしておこう。

（きょみつとし　音楽評論家、慶応大学教授）