Radiohead 特集!!

Thursday, December 20th 2007

音楽 ロック&ポップス アーティスト特集 Radiohead

 Radiohead 特集!!

Radiohead

 Radiohead バイオグラフィー

Radiohead
1985年頃、イギリスのオックスフォード郊外にある全寮制男子校・アビンドン・スクールで、のちにレディオヘッドを結成するメンバー達は出会った。その5人はトム・ヨーク(vo,g,key /1968年10月7日生)、コリン・グリーンウッド(b/1969年6月26日生)、エド・オブライエン(1968年4月15日生)、フィル・セルウェイ(ds/1967年5月23日生)、ジョニー・グリーンウッド(g, key /1971年11月5日生)。当初トムはTNTというバンドをやっていたが、その次に結成したのが「オン・ア・フライデイ」という名前のバンドだった。毎週金曜日に練習をしていたところから、そう名付けられたこのバンドはレディオヘッドの前身となる。メンバーは学校を卒業すると、トムはエクセター大学、コリンはケンブリッジ大学、エドはマンチェスター大学、フィルはリバプール大学、ジョニーはオックスフォード大学へとそれぞれ進学していった。こうして離れ離れになったメンバー達だったが、この頃にもバンドは夏休みなどを利用してバンドは続けていたという。またフィルとエドは大学卒業後1〜2年間就職し、本格的にバンドをやるためにトムの卒業を待っていたとも言われている。

彼らは1991年の夏に本格的なデモ・テープを制作。その頃にバンド名はレディオヘッドと改められた。そしていよいよこのデモ・テープの出来が認められて、彼らはEMI傘下のパーロフォン・レーベルと契約をとりつける。1992年5月に4曲入りのEPドリルを発表。ここでは先のデモ・テープからの楽曲を聴くことができる。このEPはアンダーグラウンドなインディ・ファン達の間で注目を浴びたものの一般的な成功とまではいかなかった。そして彼らは2nd EPの制作に入る。ここで呼ばれたのが米ボストン・シーンで有名だったプロデューサー、ポール・コードリーとショーン・スレイド。レディオヘッドのメンバー達のお気に入りだった ピクシーズを手掛けたこともあるプロデューサーだった。しかし、この2ndEPのレコーディングはやや難航した。そんな中、結局収録されたのは彼らがいつもリハーサルで演奏してきた楽曲を見直し、録音したものだった。これが彼らのブレイクのきっかけになる”クリープ“。何とこの”クリープ“はワンテイクで録られたもので、あまりにスムーズに録音が済んだという。2ndEP”クリープ“を発表。しかし歌詞がラジオの放送コードに触れたこの名曲は、昼間の時間帯には放送されないという憂き目を見、結局チャートも最高位75位に終わった。その一方でバンドはライヴを精力的にこなし、ファンを徐々に増やしていった。こうしてこの年の暮れまでに、レディオヘッドは英国国内でかなりの注目を集めるようになっていた。それを裏付けるように、年末のNME誌の企画で、レディオヘッドは有望な新人バンド10組に選ばれ、 ”クリープ“が同誌の最優秀シングルを獲得した。

1993年に入ると初の大規模な英国国内ツアーを敢行。ほとんどのショウをソールドアウトにするなどレディオヘッドはファンに熱狂的に受け入れられた。2月、3rdEP“エニワン・キャン・プレイ・ギター”を発表。そして初のトップ40ヒットとなった同曲に続き、2月22日、デビュー・アルバム パブロハニー を発表。この後、このアルバムはある出来事をきっかけにロングセラーとなっていく。5月、4thシングル“ポップ・イズ・デッド”発表。そしてこの後、この年の夏に前述したある出来事(それは本人達にも予想できない出来事だった)が起こり、一気に彼らに注目が集まることとなった。アメリカでの人気だ。”クリープ“の輸入盤を米国のラジオ局がこぞって流し始めた。その後リスナーからのリクエストも多数寄せられ、反響の大きかった同曲はMTVで繰り返し流された。前後するが、6月にレディオヘッドは米国ツアーを行っており、大物アーティスト達からのサポートの話を断った彼らは、小さなクラブを中心に廻った。結果的にツアーは大成功を収めた。そうしたことが複合的に組み合わさり、グランジの勃興でオルタナティヴ・ロックを受け入れる土壌が出来ていたアメリカのリスナーの心をレディオヘッドは掴んだのだった(米タイムズ誌はレディオヘッドをニルヴァーナのイギリス版などと評していた。逆にイギリスのメディアは、かつてREMをスミスのアメリカ版などと紹介するなど、実際こうしたことは多くある)。またこのアメリカでの成功を受けて、英/ヨーロッパで”クリープ“が9月に再リリース。同曲は全英チャート7位という好結果を残すことになった。レディオヘッドは10月から全米18都市、欧州14都市、全英10都市のツアーを敢行。その間中もアルバム パブロハニー とシングル ”クリープ“は世界中でヒットしていた。

1994年、バンドは2ndアルバムのレコーディングを開始。プロデューサーはXTCやストーン・ローゼズで有名なジョン・レッキー。5月ワールド・ツアーを開始、この中の5/27ロンドン公演の模様は後にヴィデオ ライヴ・アット・ジ・アストリア としてリリースされた。また6月には初の来日公演を行っている。9月にシングル“マイ・アイアン・ラング”発表(入手はミニ・アルバム体裁のマイ・アイアン・ラングが便利)。1995年2月17日、シングル “ハイ・アンド・ドライ”発表。そして3月遂に2ndアルバム ベンズ が発表された。今のミューズなど新世代英バンドのサウンドに大きな影響を与えたサウンドというと解り易いだろうか。そうした感触が全編に渡って展開されたのがこの作品だった。またOKコンピューター、リリース後のことになるが、椎名林檎がこのアルバムをフェイバリットだと発言したこともあって、日本でこの作品はリリース後かなりのブランクが開いているにも関わらず、より広いリスナー層に受け入れられたということもあった。ともあれ、この作品も世界中で熱狂的に迎えられ、ヒットを記録。5月に全米ツアー、そして6月に再来日公演。その後再び米国で公演を行っている。9月、ボスニアの戦災児のためのチャリティ・アルバム ヘルプに参加。レディオヘッドは新曲“ラッキー”を提供した。またこの頃から始まった、 REMの欧・米ツアーで、長期にわたるサポートを務めている。

1996年に入り1月からニュー・アルバムに向けてのリハーサルに突入。その直後からプロデュースを手掛けることになったナイジェル・ゴドリッチと共に制作に入る。8月、アラニス・モリセットのツアー・サポートを務め、全米スタジアム・ツアー敢行。また10月には、新曲“トーク・ホスト・ショウ”が収録されたオリジナル・サウンドトラック ロミオ+ジュリエット がリリースされている。

1997年3月、新作となる OKコンピューター のレコーディング終了。5月アルバムからの1stシングル“パラノイド・アンドロイド”を発表。6月7/8日、ビースティー・ボーイズが提唱し実現した有名なチャリティ・ライヴ、ニュー・ヨークで行われたチベタン・フリーダム・コンサートに参加。そして6月16日に、後に90年代の重要作と呼ばれることになる、3rdアルバム OKコンピューター を英/欧州で発表される(日本での発売は先行で5月27日だった)。

この作品は、それまでのレディオヘッドの音にあったエモーショナルな面を解り易く押し出した作風とは、やや異なる重層的な趣き、音像を有していた。今聴くと、この作風をエモーショナルであると言うことは容易に感じられるし、そうした感情の発露に対する距離感(具体的にはプロデュースを手掛けたナイジェル・ゴドリッチとバンド自身の共同作業の中から生まれた、ギター・バンド的サウンドへのエレクトロニクスの混入がそう感じさせる)がこのレディオヘッド作品に独特の雰囲気を与えていると思うことも見えてき易くはなった。ただ正直言えば、初めてこのサウンドを聴いたときには、ある程度の洋楽体験(例えばメンバーらと同世代の人間が体験した80年代のニュー・ウェイヴなど)があるとないとで聴こえ方が違ってくる部分があるように感じたし(特権的な言い回しにとられても仕方がないがそれほど一聴して盛り上がる、といった類のサウンドでないことは確実だろう)、またそれと同時に彼らが古参・英ニュー・ウェイヴ人種の慰みもの以上のサウンドをはるかに越えて出してきたところに、ある種感慨があったことも付け加えたい。

OKコンピューター はその優れたサウンドもさることながら、そのコンセプチュアルなアートワークとも相俟って、独自の世界観を提示していた。80年代のヨーロッパ近代主義的精神を持ったイデオローグが、当時の日本や東京に見出したようなポストモダンな記号としての「都市」のイメージ、あるいはそこに加えて90年代に入ってから大きな展開を見せたインターネットが、世界中の各地に神経細胞のように張り巡らされたことで得られる、ニューロティックなイメージなどが組み合わさった、漠然としながらそれでいて確固たるイメージがホログラムのように立ち現われるのだ。

ともあれこのアルバムはセールス的にも全英一位を記録した。やや遅れ、7月2日全米でOKコンピューター 発売。ここに至り英米のいわゆる音楽評論家と呼ばれる層にレディオヘッドは大絶賛されることとなった。またこの頃以降、多くのミュージシャンがこの作品に対する賛辞を送り、殆ど無名に等しかったナイジェル・ゴドリッチが売れっ子のプロデューサーになるなど、レディオヘッド周辺の評価は、このアルバム・リリース後、それこそ日増しに高くなっていった感がある。次作キッドAが発表される頃までには、ジャーナリズムの一部は「レディオヘッドは現代のピンクフロイドだ」という賛辞を送り、リスナーの間にもそうした、彼らにいちもく置く感覚が出てくるなど、レディオヘッドはロック・ファン達による重要な評価を欲しいままにした。

またこの年に公開された映画 ヴェルヴェット・ゴールドマインのサントラにトムとジョニーが、ヴィーナス・イン・ファーズなる架空のバンドの曲で参加。ちなみに他にヴィーナス・イン・ファーズ名義で演奏したのは、バーナード・バトラー、アンディ・マッケイ、クルーン、ポール・キンブルといった人達。

1998年1月、トム・ヨークがゲスト参加の”エル・プレジデント”という曲を収録したドラッグストアのアルバム ホワイト・マジック・フォー・ラヴァーズ がリリース。そしてOKコンピューター からの3rdシングル ノー・サプライゼス 発表。その直後に3度目の来日公演。その後、彼らはオーストラリア公演を経て全米ツアーへと向かっていった。4月にアメリカ限定ミニ・アルバム“エアー・バッグ/ハウ・アム・アイ・ドライヴィング”をリリース。そして4月から9月まで、レディオヘッドはバンド結成以来初めての長期休暇をとった(彼らは休暇中にも唯一のライヴを行ってはいるが――6月13/14日とワシントンDCで開かれたチベタン・フリーダム〜に出演)。その休暇中の主な動きを挙げると、5月にヴィデオ・クリップ集 セヴン・テレヴィジョン・コマーシャルズ がリリースされたり、8月にトム・ヨークが参加したDJシャドウとジェイムス・ラヴェルのユニット、U.N.K.L.E.のアルバム サイエンス・フィクション(トムは“ラビット・イン・ユア・ヘッドライツ”に参加)がリリースされたりといったことがあった。そして休暇を終えたバンドは、12月にはパリで開かれたアムネスティ・インターナショナル・コンサートに参加する。

1999年2月、ナイジェル・ゴドリッチと新作の制作に入る。6月、チベタン・フリーダム〜に三たび参加、ただしメンバーはトムとジョニーのみでアコースティックなパフォーマンスを披露した。7月頃からレディオヘッド・オフィシャル・ウェブサイト上でエドによるレコーディング日誌が連載され始める。こうして1999年のレディオヘッドは、表向きの活動としてはこの新作の録音に終始した。

2000年に入ってもレディオヘッドはレコーディングを続けていた。そんな彼らが人前に現われライヴを見せたのが2000年6月のヨーロッパ・ツアー。新曲がいくつか披露され、好評を博す。その後トム・ヨークがビョークとデュエット、と話題となったサントラ ダンサー・イン・ザ・ダーク が9月上〜中旬にリリースされた。

そして迎えた9月27日、日本先行で世界中が待ちに待った新作4thアルバム キッドAがリリース(英米では10月2日発売)。英国は勿論ナンバーワン。そして何とこのアルバムは全米チャートでも首位に立った。

問題作とも言われた、このキッドA。ここ日本でもその音楽への意見がさまざまなメディア上で闘わされたりもした。英国ではコア・ファンを交えての賛否両論となったと言われているし、米国ではアイドル的なアーティスト達が多くチャートを占めるポップ・シーンの現状の中、今回のレディオヘッドは、そのサウンドの斬新さもさることながら、派手さのないプロモーションを貫くことでかえって米国リスナーにインパクトを与えるに充分だったとする見方もあるし、そして彼らのヨーロッパ的、知的イメージが、上手く作用し、チャート1位となったとする見方などもある。

翌2000年には宣言通り、キッドAと同時期に録音されていたアルバム、アムニージアックを発表。キッドAと比べると若干ギター・サウンドが強めの感もあるが、いずれにせよファンの間で物議をかもした問題作といえるであろう。同年には来日公演も行い圧倒的な世界観で聴衆を魅了。このときのライヴをみた友人はこれでやっとキッドAとアムニージアックが掴めた気がするとの感想を残していた。この時のライヴを見逃した方はライヴ盤、アイ・マイト・ビー・ロングでその凄まじさ、、緊張感の一端を感じてみてはどうだろうか。

2002年はこれといって目立った活動はしていないが、既にライヴやインターネット上で新曲を数曲披露した。そして2003年6月、待望の6thアルバム、ヘイル・トゥ・ザ・シーフを発表した。事前の情報ではギター主体のロック・サウンドに回帰した作品と伝えられたが、いざ蓋を開けてみればこれまでの集大成的な印象が強く、前2作で試みられたエレクトロニカやアヴァンギャルドなジャズ、クラシックの導入、実験は既に血肉化されており、そこにトム・ヨークのヴォーカルらしいヴォーカル、5人のバンド・サウンドのダイナミズムが戻ってきているのである。ここまで凄まじい勢いとスピードで駆け抜け、進化してきたバンドの「全て」がここにあると断言できる作品に仕上がった。同年夏にはロック・フェスティバル、サマーソニック'03でヘッドライナーとして出演。幕張公演ではラストに“クリープ”を演奏し、クラウドを沸かせた。

2004年4月には単独での日本ツアーを敢行。また来日記念盤としてシングルのB面曲などを収録したコム・ラグ2+2=5をリリースする。

 最新リリース

In Rainbows
> 『In Rainbows』
 Radioheadのネットのみで配信していた4年ぶり、通算7枚目のオリジナル・アルバムが世界に先駆けて日本先行で緊急リリース!!!
10/10よりオフィシャル・サイトでダウンロード発売され、そのあまりの大反響に一時サーバーがダウンするなどのニュースが伝えらたRadioheadの最新作。しかもそのダウンロード発売の手法は購入価格を購入者が自由に決めるというこれまでの音楽ソフト販売の常識を大きく覆すものであり、初日だけでも120万超と予測されていたというさすがの注目度!気になる内容は、プロデューサーに「第6のメンバー」とさえ呼ばれるNigel Godrichにより行われ、アートワークは『My Iron Lung』以降Radiohead作品を手掛けてきたStanley Donwood が担当。
ダウンロードをしたファンからは早くも絶賛の嵐!今年最大のリリースはもちろんこれに決まりです!!



Radiohead Box
> 『Radiohead Box』
 93年の記念すべきデビューアルバム『Pablo Honey』から、2003年リリースのアルバム『Hail To The Thief』までのオリジナル・アルバム全6タイトルと、2001年にリリースしたライヴ・アルバム『I Might Be Wrong: Live Recordings』の全7タイトルをコンプリート収録した初回完全限定盤。 また、専用のボックスに収納されており、全アルバムはデジパック仕様でリパッケージされています!
全タイトルをお持ちの方でも、ついつい手を伸ばしてしまう、まさしくこれぞRadioheadファンに捧げるコレクターズ・アイテム!



My Iron Lung
> 『My Iron Lung』
1994年にリリースされたRadioheadの編集盤EP/ミニ・アルバム。アルバム『Bends』のアウトテイク集といった趣きだが、ライヴで後年も時折演奏している楽曲やデビュー・ヒット・シングル「Creep」のアコースティック・ヴァージョンなども収録。。。と聴き所は多い。初国内盤化!



Jigsaw Falling Into Place
> 『Jigsaw Falling Into Place』
Radioheadの来るべきニュー・アルバム『In Rainbows』からの1stシングル・カット!カップリングはライヴ・ヴァージョンの『Last Flowers』と『Down Is The New Up』が収録の全3曲収録!!ファン・マスト・アイテム!!

 Radiohead ディスコグラフィー [オリジナル・アルバムを発表年代順にご紹介]

Pablo Honey
> 『Pablo Honey』
記念すべきデビュー・アルバム。アメリカでもヒットを記録した「Creep 」収録。時には呟くように、時には魂の底から声を絞り出すかのように歌うヴォーカルに絡む轟音は、不思議と荒廃していない。“誰だってギターなんか弾けるのさ”と彼らは言う。歌っている時は、演奏している時は僕らは幸福なのさ、と私たちに語り掛けているよう。頭の先から爪先までのブリティッシュ・ロック・バンド。



Bends
> 『Bends』
95年発表のセカンドアルバム。3本のギターが奏でる、ドラマティックでメランコリックなサウンドは聴く者を捕らえて離しません。シンガーとしてのトムのカリスマ性もこの頃から一際輝きだしています。強くて、美しいバンドですね...。最近では椎名林檎嬢や、英国のミューズというバンドのヴォーカリストのフェイバリット・アルバムだということでも知られています。



OK Computer
> 『OK Computer』
97年にリリースした通算3作目。90年代のロックを代表する1枚であり、これから先も語り継がれていくであろうロック史に残る不朽の名盤といっても過言ではない。今作は音響というものにとことん拘りながらも自家中毒に陥ることなく、音楽を通して人に何かを伝えるという一番大事な事を忘れてはいない稀有な作品だ。彼らはしばしば「最も進化したロック・バンド」と呼ばれることがあるが、そのことに異論を挟むものはいない。



Kid A
> 『Kid A』
ある種イノセントな気持ちで「クリープ」を発表したときと同じような状況がトム・ヨークの周りに生まれたのかもしれない・・・今作で聴ける音はいろんなところで散々語られるようにポスト・ロック/音響派の影響をモロに感じさせるものに仕上っており、ホーン、キーボードや空間の使い方、コンピューター上のジャム・セッションとも言うべき手法など、ジャズ的なアプローチもそれを連想させるに充分。



Amnesiac
> 『Amnesiac』
前作『Kid A』から8か月というスパンで届けられた作品。『Kid A』と同じレコーディング・セッションから生まれたアルバムでもあり、本人達の言葉を借りれば『Kid A』で描かれた燃える世界の遠景が、この「アムニージアック」ではその焔に包まれた世界の中に立っている…といった関係性の作品なのだそうです。



Hail To The Thief
> 『Hail To The Thief』
前2作で試みられたエレクトロニカやアヴァンギャルドなジャズ、クラシックの導入、実験は既に血肉化され、ここでも屋台骨的な役割を果たし、そこにトム・ヨークのヴォーカルらしいヴォーカル、5人のバンド・サウンドのダイナミズムが戻ってきている。というと新しい要素が全くないようにも伝わってしまうかもしれないが、暴力的なまでの力強さとしなやかさが同居し、多彩なリズムのヴァリエーションはいままでのどの作品にも似ていない。



 ライヴ音源 

I Might Be Wrong
> 『I Might Be Wrong』
初ライブ盤。そして、全8曲中7曲が物議をかもした大冒険アルバム2部作“KID A”と“アムニージアック”からの選曲によるもの。以前から言われていたスタジオ・テイクとライブは全くの別物、という事実を決定づけるM2、4(何たる美しさ)、M5(何たる緊張感)は、バンド・サウンドもトム・ヨークの生声も冴え渡る素晴らしさ。そしてハイライトとなるM6の圧巻な音響(アルバムより凄い)とM7のギター・カッティング。M8はCDオビの通り'95年ぐらいに原形が完成していながらも音源化されていなかった幻の名曲、トムの弾き語りバージョン。



 映像作品 

Meeting People Is Easy
> 『Meeting People Is Easy』
とても精神性の高い、重たい、そして貴重な記録映画のような仕上がりで、『OK Computer』を、そしてRadioheadを理解する上で欠かせない作品となっている。取材を受けるトム・ヨーク、「ノー・サプライゼズ」ビデオクリップのメイキング・シーン等、興味深い映像が全編に網羅されている。



7 Television Commercials
> 『7 Television Commercials』
『Bends』と『OK Computer』収録曲のヴィデオ・クリップを収録したヴィデオ・コレクションのDVD版。映像にも拘りをみせる彼らのヴィデオ・クリップはやはりDVDで楽しみたいところ。



Live At The Astoria
> 『Live At The Astoria』
95年にVHSのみでリリースされ、現在は廃盤となっているレディオヘッドの初期ライヴ映像を収めた DVD。このライヴ映像は2ndアルバム『Bends』を発表する前の94年5月に行われたロンドン・アストリアでのもので、現在オフィシャルで手に入るRadioheadのライヴ映像はこれのみ!

 Radiohead デジタル配信!!

Radiohead デジタル配信
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