V2 10 Thanks キャンペーン!
Friday, October 12th 2007
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インディ・ロック・カルチャーを支えた10年間
〜V2レコードの歩み
“インディ・ロック暗黒の世紀末”で孤軍奮闘
1997-2000
「あのリチャ−ド・ブランソンが、またレーベルを立ち上げるらしい。かなりマニアックな感じになるらしい」。そんな噂を耳にしたのはちょうど10年前、1997年のことだった。ブランソンと言えば、当時既に世界的な起業家ではあったけれど、元はと言えばヴァージン・レコードの総裁。あの、誰もが関わるのを避けたがったセックス・ピストルズと契約してロック史上屈指の名盤「勝手にしやがれ」を世に送り出したり、ヒューマン・リーグで“テクノでポップ”の可能性を世に提示したり、稀代の女装ゲイ・アイコン、カルチャ−・クラブのボーイ・ジョージで一世を風靡したり、そうかと思えばXTCやマガジンのような永遠にリスペクトされるべき名パンク・バンドを紹介したり…。そう。そのポップ・ミュージック界に心地よい違和感と共に一石を投じ続ける姿は、全てのインディペンデントな音楽を愛する者たちにとってのお手本だったのだ。90’sには鉄道や航空などのビジネスの方でむしろ有名だったブランソンだが、グランジやブリット・ポップといったインディ・ロックの台頭で闘争心に火がついたのか「かつてのヴァージンが持っていたようなスピリットを持つ新しいレーベルをやる」という心意気は、「本当にそんなことできんの〜」と半ば醒めた見方もありつつも、しかし、何だかんだ言って楽しみではあった。ただ、そんな僕や多くの音楽ファンの予想以上に、“ヴァージン2”という意味を持つV2レコードは創設時からいきなり大奮闘してくれたと思う。
何故なら、時は1997年。90年代ロックの繁栄を築いたグランジやブリット・ポップが一気に終焉に向かっていたからだ。このムーヴメントの終わった後、ポップ・ ミュージックはアスリート面したマッチョなラウド・ロックとティ−ン・アイドルの独壇場となり、市民権を得たと思っていた文科系でアートなロック・バンドたちはメジャーからの契約を次々と切られ、インディ・バンドたちはアンダーグラウンドな立ち位置に追いやられた。イギリスのメディアがなんとかシーンの突破口を開こうとするもののそれが裏目に出て「ハイプだ、ハイプだ」とネガティヴに叩かれたりもして。そんなインディ・ロックの寒い空気を何とかしようと気を吐いたレーベルがV2だった。ステレオフォニックスやアンダーワールドなど、UKにおけるインディ・ロックやクラブ・ミュージックの牙城をメインストリームの土俵で何とかしようと踏ん張るアクトを輩出したことをはじめ、V2は「オリジナルな表現にこだわった才能で音楽界に一石投じることはまだ可能なんだ」とばかりに、他のメジャー・レーベルではまず見受けられない、独立独歩なアーティストを次々と送り出した。マ−キュリ−・レヴ、アット・ザ・ドライヴ・イン、グランダディ、オリヴィア・トレマ−・コントロール、エイミー・マン…。90年代後半から2000年にかけて、一体いくつのV2のアーティストが英米の良心的な音楽批評誌の年間トップ10アルバムを生み出して来たことか。そんなV2の奮闘する姿が、いきおい負け犬気分になりがちだった当時の世界中のインディ・ロック・ファンの気持ちをどれだけ励ましたか。あの“世紀末のロック暗黒時代”にV2がインディ・ロックの灯を消さずに保ってくれたこと。僕はそのことに今も心底感謝している。そして、現在もV2は次のシーンを更新する責任感を担いながら、ワン・アンド・オンリーの存在感を持った有望株と次々契約。早くも、次の10年に向け、堂々たる歩みをはじめている。
“2000’sロック“を開拓・牽引したV2
2001〜2007
“2人だけでロックンロールする、凄いバンドが現れた!“そんな噂を聞いたのは2001年の後半のことだった。それがザ・ホワイト・ストライプス。当時、まだアメリカはデトロイトの一介のガレージ・バンドだった彼らはニューヨーク出身のザ・ストロークスと共に一躍“インディ・ ロック立て直しの救世主“と目され、凄まじいレーベル争奪戦が繰り広げられた。そして、その結果、契約を結んだのはV2だった。この2人しかいない、いや、2人以上の人数を必要としない、驚異的なギターと歌のテクニック。そして、古の音楽やアートに対する無尽蔵な引き出しの広さにゾクゾクするようなセクシャリティまで。ザ・ホワイト・ストライプスの存在は、「もはやテクノロジーと心中するしかない」と思われていた当時のロック界に「人間だからこそ放棄せずにトライすべき生身のクリエイティヴィティ」を改めて世に問いかけた。そして、その結果、彼らは世界中の多くの若者たちに「ならば自分も!」とばかり再びギターを握らせた。そして気が付けば、2000年代は世紀末のくすぶりぶりがまるで嘘であったかのように、ロックンロールが再生した時代となったのだ。
そして、そんな“新生ロックンロール時代”を牽引した存在こそV2だったのだ。彼らは世界中の“我こそは!”と意気込むバンドたちにチャンスを与え、ロックンロール再興の気運をグンと高めた。2002年にはニュージーランドの荒くれロックンロール野郎、ザ・ダットサンズに目をつけザ・ヴァインズやジェットと共に“オセアニア・ロックンロール、ここにありを印象づけ、そして2004年には、ブロック・パーティを筆頭に、ザ・リバティーンズをキッカケにはじまったUKはイースト・ロンドンのブームに本格的に火をつけるべくザ・クリブス、ザ・レイクスといった同地のバンドたちと次々と契約。彼らのささくれだった性急なビートは“ポスト・パンク・リヴァイヴァル“と呼ばれ、音楽業界のみならずファッション業界も愛好するものとなった。そして、同じく2005年以降は、完全に復活したインディ・ベースのロックをより活性化させるために世界各地に潜むカリスマ的存在たちとも次々と契約。カナダの怪物バンド、アーケイド・ファイアをはじめ、レーベル契約なしにインターネットの噂だけで数10万枚を売上げた新時代の寵児クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー、スウェーデンから突如登場した“口笛ソング”でお馴染みのピーター・ ビヨーン&ジョン、ニュ−・レイヴの立役者シミアン・モバイル・ディスコ、LAから登場した次代のUSインディのカリスマ、コールド・ウォ−・キッズ…。2000年代のインディ・ロックにとって、V2を抜きに語ることなど不可能なのである。
最後に驚くべき客観資料を伝えることにしよう。この約10年の歴史において、NMEの年間ベスト・アルバムにおいて、1998年のマーキュリー・レヴ、2003年のザ・ホワイト・ストライプス、2005年のブロック・パーティが第1位、2005年のア−ケイド・ファイアが第2位、他にもマ−キュリ−・レヴがもう1枚、ホワイト・ストライプスがもう2枚、さらにダットサンズも年間トップ10アルバムを出している。さらに年間シングルで言えば、アンダーワールドの「ボーン・スリッピー」が1996年の1位、ピ−タ−・ビヨーン&ジョンの「ヤング・フォークス」が2位、他にもホワイト・ストライプスが3曲トップ10にエントリーしたりもしている。同年間チャートでここまでの支配率を誇るレーベルなど世界のどこを探しても存在しない。これは、V2がいかにセールス以前に優れた“カルチャー“を世に提示して来たか、の確固たる証拠に他ならない。世紀末にまたも流れていた何度目かの「ロックは死んだ」の不吉な声を振払い、商業的にも芸術表現的にも依然ポピュラー・ミュージックの中心であり続けているロックだが、その影にV2の活躍がしっかりあったことを忘れてはいけない。
沢田太陽(Hard To Explain)
〜V2レコードの歩み
“インディ・ロック暗黒の世紀末”で孤軍奮闘
1997-2000
「あのリチャ−ド・ブランソンが、またレーベルを立ち上げるらしい。かなりマニアックな感じになるらしい」。そんな噂を耳にしたのはちょうど10年前、1997年のことだった。ブランソンと言えば、当時既に世界的な起業家ではあったけれど、元はと言えばヴァージン・レコードの総裁。あの、誰もが関わるのを避けたがったセックス・ピストルズと契約してロック史上屈指の名盤「勝手にしやがれ」を世に送り出したり、ヒューマン・リーグで“テクノでポップ”の可能性を世に提示したり、稀代の女装ゲイ・アイコン、カルチャ−・クラブのボーイ・ジョージで一世を風靡したり、そうかと思えばXTCやマガジンのような永遠にリスペクトされるべき名パンク・バンドを紹介したり…。そう。そのポップ・ミュージック界に心地よい違和感と共に一石を投じ続ける姿は、全てのインディペンデントな音楽を愛する者たちにとってのお手本だったのだ。90’sには鉄道や航空などのビジネスの方でむしろ有名だったブランソンだが、グランジやブリット・ポップといったインディ・ロックの台頭で闘争心に火がついたのか「かつてのヴァージンが持っていたようなスピリットを持つ新しいレーベルをやる」という心意気は、「本当にそんなことできんの〜」と半ば醒めた見方もありつつも、しかし、何だかんだ言って楽しみではあった。ただ、そんな僕や多くの音楽ファンの予想以上に、“ヴァージン2”という意味を持つV2レコードは創設時からいきなり大奮闘してくれたと思う。
何故なら、時は1997年。90年代ロックの繁栄を築いたグランジやブリット・ポップが一気に終焉に向かっていたからだ。このムーヴメントの終わった後、ポップ・ ミュージックはアスリート面したマッチョなラウド・ロックとティ−ン・アイドルの独壇場となり、市民権を得たと思っていた文科系でアートなロック・バンドたちはメジャーからの契約を次々と切られ、インディ・バンドたちはアンダーグラウンドな立ち位置に追いやられた。イギリスのメディアがなんとかシーンの突破口を開こうとするもののそれが裏目に出て「ハイプだ、ハイプだ」とネガティヴに叩かれたりもして。そんなインディ・ロックの寒い空気を何とかしようと気を吐いたレーベルがV2だった。ステレオフォニックスやアンダーワールドなど、UKにおけるインディ・ロックやクラブ・ミュージックの牙城をメインストリームの土俵で何とかしようと踏ん張るアクトを輩出したことをはじめ、V2は「オリジナルな表現にこだわった才能で音楽界に一石投じることはまだ可能なんだ」とばかりに、他のメジャー・レーベルではまず見受けられない、独立独歩なアーティストを次々と送り出した。マ−キュリ−・レヴ、アット・ザ・ドライヴ・イン、グランダディ、オリヴィア・トレマ−・コントロール、エイミー・マン…。90年代後半から2000年にかけて、一体いくつのV2のアーティストが英米の良心的な音楽批評誌の年間トップ10アルバムを生み出して来たことか。そんなV2の奮闘する姿が、いきおい負け犬気分になりがちだった当時の世界中のインディ・ロック・ファンの気持ちをどれだけ励ましたか。あの“世紀末のロック暗黒時代”にV2がインディ・ロックの灯を消さずに保ってくれたこと。僕はそのことに今も心底感謝している。そして、現在もV2は次のシーンを更新する責任感を担いながら、ワン・アンド・オンリーの存在感を持った有望株と次々契約。早くも、次の10年に向け、堂々たる歩みをはじめている。
“2000’sロック“を開拓・牽引したV2
2001〜2007
“2人だけでロックンロールする、凄いバンドが現れた!“そんな噂を聞いたのは2001年の後半のことだった。それがザ・ホワイト・ストライプス。当時、まだアメリカはデトロイトの一介のガレージ・バンドだった彼らはニューヨーク出身のザ・ストロークスと共に一躍“インディ・ ロック立て直しの救世主“と目され、凄まじいレーベル争奪戦が繰り広げられた。そして、その結果、契約を結んだのはV2だった。この2人しかいない、いや、2人以上の人数を必要としない、驚異的なギターと歌のテクニック。そして、古の音楽やアートに対する無尽蔵な引き出しの広さにゾクゾクするようなセクシャリティまで。ザ・ホワイト・ストライプスの存在は、「もはやテクノロジーと心中するしかない」と思われていた当時のロック界に「人間だからこそ放棄せずにトライすべき生身のクリエイティヴィティ」を改めて世に問いかけた。そして、その結果、彼らは世界中の多くの若者たちに「ならば自分も!」とばかり再びギターを握らせた。そして気が付けば、2000年代は世紀末のくすぶりぶりがまるで嘘であったかのように、ロックンロールが再生した時代となったのだ。
そして、そんな“新生ロックンロール時代”を牽引した存在こそV2だったのだ。彼らは世界中の“我こそは!”と意気込むバンドたちにチャンスを与え、ロックンロール再興の気運をグンと高めた。2002年にはニュージーランドの荒くれロックンロール野郎、ザ・ダットサンズに目をつけザ・ヴァインズやジェットと共に“オセアニア・ロックンロール、ここにありを印象づけ、そして2004年には、ブロック・パーティを筆頭に、ザ・リバティーンズをキッカケにはじまったUKはイースト・ロンドンのブームに本格的に火をつけるべくザ・クリブス、ザ・レイクスといった同地のバンドたちと次々と契約。彼らのささくれだった性急なビートは“ポスト・パンク・リヴァイヴァル“と呼ばれ、音楽業界のみならずファッション業界も愛好するものとなった。そして、同じく2005年以降は、完全に復活したインディ・ベースのロックをより活性化させるために世界各地に潜むカリスマ的存在たちとも次々と契約。カナダの怪物バンド、アーケイド・ファイアをはじめ、レーベル契約なしにインターネットの噂だけで数10万枚を売上げた新時代の寵児クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー、スウェーデンから突如登場した“口笛ソング”でお馴染みのピーター・ ビヨーン&ジョン、ニュ−・レイヴの立役者シミアン・モバイル・ディスコ、LAから登場した次代のUSインディのカリスマ、コールド・ウォ−・キッズ…。2000年代のインディ・ロックにとって、V2を抜きに語ることなど不可能なのである。
最後に驚くべき客観資料を伝えることにしよう。この約10年の歴史において、NMEの年間ベスト・アルバムにおいて、1998年のマーキュリー・レヴ、2003年のザ・ホワイト・ストライプス、2005年のブロック・パーティが第1位、2005年のア−ケイド・ファイアが第2位、他にもマ−キュリ−・レヴがもう1枚、ホワイト・ストライプスがもう2枚、さらにダットサンズも年間トップ10アルバムを出している。さらに年間シングルで言えば、アンダーワールドの「ボーン・スリッピー」が1996年の1位、ピ−タ−・ビヨーン&ジョンの「ヤング・フォークス」が2位、他にもホワイト・ストライプスが3曲トップ10にエントリーしたりもしている。同年間チャートでここまでの支配率を誇るレーベルなど世界のどこを探しても存在しない。これは、V2がいかにセールス以前に優れた“カルチャー“を世に提示して来たか、の確固たる証拠に他ならない。世紀末にまたも流れていた何度目かの「ロックは死んだ」の不吉な声を振払い、商業的にも芸術表現的にも依然ポピュラー・ミュージックの中心であり続けているロックだが、その影にV2の活躍がしっかりあったことを忘れてはいけない。
沢田太陽(Hard To Explain)

