Symphony No.5 : Michiyoshi Inoue / Yomiuri Nippon Symphony Orchestra (Hybrid)
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John Cleese | 静岡県 | 不明 | 15/April/2025
なんてこった! 今更ながら驚いております。いまごろになってショスタコ5番を聴いて感動してしまった。それも深く深く。先般、引退された井上先生の渾身のショスタコーヴィチ交響曲第5番。 その彫琢の深さ、考え抜かれ、長い経験から試行錯誤の末にたどり着いたと思われる絶妙なテンポ、フレージング、バランス。すべてが理想的に思え、感銘を受けました。大変失礼な言い方ですが、いまさら5番に感動するなんて!この新譜、購入後に立て続けて何度も聴いています。5番では近頃あり得ない。 4番や8番(感銘のベクトルの方向性は随分異なりますが)、13番14番あたりに感動するならわかるが・・・ 文学作品を批評する際に、テキスト重視で作者の生い立ちやバックグランド、思想に一切触れずに、考慮にも入れずに、あくまで書かれた内容だけで批評するという立場もありますが、例えば三島由紀夫なんて絶対そんなことは無理だし、同様にショスタコーヴィチもそれは無理だ。いうまでもなくこの作品群の凄まじいほどの屈折は、旧ソ連体制の軋轢、特にスターリン時代の粛清の恐怖が生み出したもの。テキストがなくても15番なんか、本当にとんでもないものが封印されている不穏さ。これらに比べると近頃真剣に5番に向き合うとこがなかった気がします。 5番は特に例の「証言」以来、その内容が偽書であると判明しているにも関わらずその二重言語性ばかりがクローズアップされ、いまや終楽章の「勝利」もキリキリとこめかみに食い込むようなラ音の執拗な弦が強調されて拷問のごとき「勝利」のように演奏されるのが定番。昔のバーンスタイン、プレヴィン、ショルティ先生(ウィーンのライブ。「証言」よりかなり後ですが)のような楽天的な終わりは許されないようですが、井上先生は昔風の楽天的な終わり方でもなく、かといっていまや定番のキリキリ(新譜のマケラ先生盤もご多分に漏れず・・・)でもなく、極めて自然に水が低きに流れつくように、しかるべき場所に収れんする感じがして無理がないのです。二重言語解釈のアンチテーゼとしてカルメンの執拗な引用を踏まえてのラヴ・シンフォニー解釈もライナーノートに詳しく、それも興味深いのですが、ここは一切を取捨してここに演奏されている音楽だけに集中することをお勧めします。 全集の日比谷公会堂のライブと比べてもその自然さと彫りの深さの差は明らかで、井上先生が自身の投影と考えているというショスタコーヴィチ演奏の結論と感じます。本当に素晴らしいと思います。1 people agree with this review
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