Gotterdammerung : Tcherniakov, Thielemann / Staatskapelle Berlin, Kampe, Schager, Kares, Vasar, etc (2022 Stereo)
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村井 翔 | 愛知県 | 不明 | 04/January/2025
演出のつまらなさについては『ワルキューレ』のところであれこれ述べたので、繰り返さない。「ラインへの旅」「葬送行進曲」「フィナーレ」といったオーケストラだけの名場面ではクプファー、コンヴィチュニー、ヘアハイムなど過去の演出を参照した(パクった)と思しきアイデアもあるが、前年に同じベルリンで四部作通しのプレミエが行われたヘアハイム演出と比べると、絶望的なほど見せ方が下手だ。しかし、本作にはストーリーの根幹に関わる読み替えがあり、私は諸手を上げて賛同はしないものの、音楽は圧倒的に素晴らしい『黄昏』も台本は欠陥品であるという事実を改めて思い起こさせてくれた。「怪我の功名」とも言うべきその成果だけは評価しよう。 チェルニャコフ版の読み替えは以下の通り。第1幕、「忘れ薬」という台詞は台本通り、ちゃんと歌われているが、誰かが飲み物に薬を入れるという演技はなく、そもそもジークフリートは飲み物に口をつけていない。第3幕の「記憶回復薬」についても全く同じ。すなわち、この英雄は薬を盛られたわけではないのに、あっさりとグートルーネに心変わりしてしまったのだ。さらに第1幕終わり、グンターに変装した(この演出では見た目、何も変わっていない)ジークフリートはブリュンヒルデを「凌辱」したことが暗示される。前述の通り、私はこの読み替えが成功したとは思わない。けれども、演出の設定では研究施設内で純粋培養された社会性のない人間だとしても、英雄の評価を間違いなく大きく下げる、このような読み替えを演出家が敢行せざるをえなかった理由は、私にはとても良く分かる。 元の台本には明らかにまずい箇所が二つあるからだ。まず第一。前作『ジークフリート』ではミーメの用意した毒の飲み物を飲まなかったジークフリート、どうしてかくも不用意にハーゲンの策にかかって、忘れ薬を飲まされてしまうのか。あまりにもマヌケであり、以後の展開は茶番になってしまう。第二。こちらの方が遥かに問題だが、ブリュンヒルデはなぜ宿敵ハーゲンに夫の弱点を教えるという愚行に走ってしまうのか。夫の言動がおかしいことは、とっくに分かっているはず。なのに、その原因を探ろうともせず、自分の屈辱をぬぐうために「殺してしまえ」という結論にどうして短絡してしまうかな。そもそもこの夫婦の「愛」なんて、こんな程度のものだったのか。これでは「自己犠牲」でどんなにジークフリートの愛を讃えても、後の祭りだ。中世ドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』では、確かにジークフリートは隠れ頭巾で変装して、グンターの代わりにブリュンヒルデを手に入れてやるが、彼とブリュンヒルデとの間には恋愛関係も婚姻関係もない。だから後に変装がばれた時、ブリュンヒルデに憎まれるのは当然だ。ワーグナーのオペラにおける不具合は、『エッダ』に代表される北欧神話の神々たちの物語と『ニーベルンゲンの歌』を接合したせいだが、『トリスタン』の台本では、大昔の叙事詩を現代人をも納得させる不倫物語に作り替えてみせた彼が、『黄昏』に限っては欠陥台本にそのまま作曲してしまったのは、残念と言うほかない。 さて、ティーレマンの指揮はますます好調。本作の特徴であるオーケストラだけの部分もきわめてハイテンションだ。ルイージやジョルダンのようなポリフォニックな見通しの良さ、対位声部への目配りは望めないが、それは仕方ない。特にオペラティックな感興の高まる第2幕の修羅場はとびきりの大迫力。歌手陣では、何と言ってもシャーガーとカンペ。シャーガーは演技も上手く、チェルニャコフ版ではとりわけ強調される子供っぽさ、男という生き物の「業」の表現も完璧だ。カンペも技術的にはほんの少し、危うい瞬間があるとしても、堂々たるヒロインぶり。最終場面ではヴォータンも登場するのに、ストーリーのもうひとつの主軸、彼女が最後に父ヴォータンの望みをかなえてやる、つまり父を殺すというテーマが無視されてしまったのは無念だが、もちろんこれは演出家の責任。2 people agree with this review
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