プッチーニ生誕150周年
Friday, March 14th 2008
ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini)は、ジュゼッペ・ヴェルディと並ぶイタリア・オペラを代表する作曲家として知られています。「私は劇場の作曲家」と自称していたと言われ、『トスカ』、『蝶々夫人』、『ボエーム』など、その代表作は現在でも世界的に上演の機会が多く、どのオペラ・ハウスでも欠かすことのできないレパートリーとなっています。 作風は、忘れがたい旋律美に最大の特徴があるとされ、その流麗で親しみやすい美感が現在も多くのファンを得ています。また、転調や色彩感の豊富なオーケストレーションの多彩さも見逃せないところ。プッチーニはシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』を熱心に研究し、実際の演奏にも触れて「傑作」と呼んでいたと伝えられ、その近代性を帯びた作曲技法を裏書きしています。1858年12月22日、プッチーニはイタリアのルッカに、18世紀から続く宗教音楽家の家系に生まれました。5歳のときに父親が亡くなって叔父に教育を施され、教会オルガニストの職を得て家業を継ぐかに見えましたが、ヴェルディのオペラ『アイーダ』に感激してオペラ作曲家を志したとされています。1880年に『グローリア・ミサ』を完成させますが、家系の伝統である宗教音楽や、管弦楽曲など器楽作品の方向にはほとんど戻らず、もっぱらオペラに専念します。
1880年から3年間、ミラノ音楽院にてポンキエッリとバッジーニに師事。1882年には早くも『妖精ヴィッリ』を1幕物オペラの作曲コンクールに提出しています。入賞こそ逃したものの、1884年に初演され、有名な出版社リコルディの社主ジュリオ・リコルディに見出されます。1889年のオペラ第2作『エドガール』は、リコルディ社の依嘱によって作曲されています。第3作『マノン・レスコー』(1893年初演)の成功で作曲家としての地位を確立、さらに、この作品で台本作家ルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザの知遇を得たことが、のちのオペラ作曲に大きな影響を及ぼします。2人の協力で書かれた『ボエーム』(1896年初演)、『トスカ』(1900年初演)、『蝶々夫人』(1904年初演)は、プッチーニの代表作であることはもちろん、イタリア・オペラのレパートリー中でも屈指の名作とされているものです。
1902年(1903年説もあり)、自動車を運転中に事故を起こして脚を骨折、1906年にはジャコーザが亡くなります。1909年には妻エルヴィーラがプッチーニの浮気を疑い、浮気相手とされた女中が自殺して、女中の遺族がエルヴィーラを訴え(ドーリア・マンフレーディ事件)、さらに1912年には、後ろ盾であったリコルディ社社主ジューリオが他界するなど私生活での不運が続き、作品の発表が滞るようになります。
ですが1910年、完成させた『西部の娘』をメトロポリタン歌劇場で初演、ふたたび活動を活発化させます。1917年には『つばめ』を完成、1918年には『三部作』を初演します。この『三部作』は、それぞれ性格の異なる3つの1幕オペラ(『外套』、『修道女アンジェリカ』、『ジャンニ・スキッキ』)を1夜で上演するという意欲的な試みでした。
その後、最後のオペラとなった『トゥーランドット』の作曲に取り掛かりますが、喉頭癌に侵され、治療のために滞在中のブリュッセルで急死します。1924年11月29日のことでした。フィナーレが未完成のまま遺された『トゥーランドット』は、遺稿を参考にして弟子(友人との説もあり)のフランコ・アルファーノ(左の写真)が補筆・完成させ、1926年にアルトゥーロ・トスカニーニの指揮で初演されています。この補筆に対するトスカニーニのチェックは非常に厳しく、アルファーノは3度目の改訂でようやくOKをもらったそうです。初演当日、第3幕の「リューの自殺」の場面まで演奏したところで、トスカニーニが「先生はここまで作曲されて亡くなられました」と言って指揮棒を置いて退場したという逸話はあまりにも有名です(全曲演奏は翌日からでした)。