フレンニコフさん逝去
Wednesday, August 22nd 2007
ロシアの作曲家で、ソ連時代には作曲家同盟書記長としても知られたティホン・フレンニコフ氏が、8月14日、心筋梗塞のためモスクワで亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。
ティホン・フレンニコフ(Tikhon Nikolayevich Khrennikov)は1913年6月10日、 オルロフ州イェレツに生まれました。少年時代からピアノを学び、十代でモスクワに移って、1929年から1932年まで、グネーシン音楽大学でミハイル・グネーシンとイェフライム・ゲルマンに師事。その後は1932年から1936年まで、モスクワ音楽院でヴィッサリオン・シェバリーンに作曲を、ゲンリフ・ネイガウスにピアノを学びました。
最初のピアノ協奏曲である第1番ヘ長調作品1は、音楽院在学中の1932年から33年にかけての作品で、アノーソフ指揮によるモスクワ音楽院学生オーケストラを伴奏に自らのピアノ独奏で初演しています。また、最初の交響曲である第1番変ロ長調作品4は卒業制作(1933〜35年) で、セバスティアン指揮によるモスクワ放送交響楽団によって初演されており、新進の作曲家、ピアニストとして期待を寄せられる存在だったことをうかがわせます。
1948年にソ連作曲家同盟の書記長に就任するなど音楽活動から遠のく時期もありましたが、1960年代にピアニストとして演奏会に復帰、作曲家としても、1973年に発表された交響曲第3番では、かつて糾弾した音列技法を用いるなど、精力的な作曲活動は1980年代に入ってからも衰えませんでした。
前衛芸術批判(いわゆる「ジダーノフ批判」)で悪名高い政治家アンドレイ・ジダーノフによって、ソ連作曲家同盟の書記長に任命されたことは、現在のフレンニコフの評価に重大な影響を及ぼしていると言えるでしょう。1948年度のソ連作曲家同盟総会の席上、同僚の作曲家プロコフィエフとショスタコーヴィチに「形式主義者」の烙印を押し、その後も両者を激しく譴責するなど、保守派の代表として振る舞い、また、いかさまの選挙によって、ソ連崩壊まで書記長職に居座ったなどとも言われるなど、作曲家としてよりも政治家的な面ばかりが取り上げられるという、不運な作曲家でもありました。1994年には回顧録を発表しますが、これにもソ連時代の秘密文書が公開されているとの噂が出るなど、生前から芸術家として正当に扱われてきたとはいえなかったようです。
一方では、公職を利用して国内の作曲家を擁護し、援助していたとの証言や、プロコフィエフとショスタコーヴィチが1950年にスターリン賞を授与された影にはフレンニコフの弁護があったとされるなど、以前の悪名も変わりつつあるようですし、この機会に、作品そのものに素直に耳を傾けてみたいところです。
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Violin Concerto.1, 2, Piano Concerto.2, 3: Repin, Vengerov, Kissin, Fedoseyev
Khrennikov (1913-2007)
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