『NY Groove 24』Photo by Teruo Nakamura Exhibition

2024年07月30日 (火) 10:00

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English down below.

<開催概要>
NY Groove 24
Photo by Teruo Nakamura
Exhibition

2024年7月18日(木)〜2024年7月29日(月)
入場無料 (Free Entry)
at Bankrobber LABO Shibuya Tokyo
11:00-21:00
@bankrobber_labo
150-0042 東京都渋谷区宇田川町36-2 ノア渋谷 1F/2F HMV record shop 渋谷


店頭で展開していた展示の冊子を、WEBでもご注文いただけます。
※8月上旬以降の発送となります。
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Special Thanks To:,
Fumihiko Oizumi, Katsumi Masuda,
Yoko Saito, kensuke Hidaka, Izumi Okamoto,
Yoshiharu Muto, Kenji Hasegawa, Miku Chomaru, Hiroshi Tanaka,
Tomohiko Takeuchi…ヒロユキマツヤマ, Mitsunori Sakamoto,
KEF, PONYCANYON RECORD, HMV record shop
Frame by Senbi
永福町



そこにはいつもビートが息づき、スピリチュアルなメロディが流れ、予測できないスリルに溢れている。こんな紹介さえも陳腐に聞こえてしまう。それが中村照夫という男である。1964年から単身渡米。50年にわたりニューヨークに住み、ジャズファンでなくとも名前を聞けば驚くようなミュージシャンたちとセッションを重ねてきたベーシストであり、およそ40枚のジャズレコードを制作してきたプロデューサーである。加えて、中村氏は変わりゆくニューヨークの街を中心に、生活に密着した視点で捉えた、膨大な数の写真作品を残してきたフォトグラファーとしての顔も持つ。

2017 Isetan New York Week より引用 文・川畑豊


写真を撮る事になったきっかけ "New York Groove"
 レコードをプロデュースしている時にアーティストの写真がアルバム・インナー用に必要になる。最初はカメラマンを雇っていたが時間的にも経済的にも制約があり、まどろっこしいので自分でカメラを購入してアルバムのインナー用に撮り始めた。そのうちにカメラが好きになった。
 その時の感動が撮れない写真は意味が無いと思う。その時の感動が撮れていれば、その写真は時間が経つと時間の公証に成る。その時の空気を切り取る事が出来る。そこが好きな部分。
 写真は絵とも音楽とも違う。絵には作者の創造が入り込む。音楽はその時の空気を撮る事は出来ない、 録音はライブとは違う、写真はその時の時間を輪切りにする事が出来る。音楽は刹那的でその時にいないとその空気を体感する事は無理なのです。


 ジャズ・ベーシスト、プロデューサーとして活躍する中村照夫氏は、日本人ジャズメンとして前代未聞の全米チャートTOP10入りを果たすなど、まさにレジェントともいえる存在。今回は氏のもう一つの顔である写真家としての魅力に迫ります。数々のレコードジャケットを飾った、ニューヨークの情景を切り取った作品を展示。作品から溢れるCOOLなグルーブを感じてください。


●プロフィール
中村照夫
 1942年3月1日 東京・神田に生まれる。日本大学芸術学部中退後、64年5月に単身ニューヨークへ。レジー・ワークマンに師事し、スティーブ・グロスマンやレニー・ホワイトをはじめ、若手ミュージシャンとの交流を経て、ロイ・ ヘインズのバンドでプロデビュー。その後、スタンリー・ターレンティンのバンドにレギュラー参加するなどベーシストとしての腕を磨き、73年に初リーダー・アルバム『ユニコーン』をリリース。また、自己のバンド”ザ・ライジングサン”を結成し、アルバム制作やライブ活動を精力的に行い、全米ジャズ・チャートでトップ10入りし、79年には日本人ジャズメンとして初めてカーネギー・ホールへの出演を果たす。その後もベーシストとしてだけではなく、他のアーティストの作品のプロデュース。
 *コンサートプロデュース
 91年〜92年、『リバティージャズ・フェス』(観客動員数10万人)、94年、ユニセフのための『JAL ジャズ・コンサート』ニューヨーク タウンホールにて、(秋吉敏子、菊地雅章、日野皓正、増尾好秋などが出演)、2009年『マウントフジ・ミュージックフェスティバル』など、大規模なコンサートのプロデューサーとしても活躍。14年以上にわたり、エイズ患者救済を目的としたコンサートを日米で開催。
 2009年12月には自身の『Cheetah』レーベルをスタートした。
 ディストリビューターはPONYCANYON RECORD。
*今日、youtube でRising Sun アルバムの中の曲、
Steppin' With Lord という曲が26万人にアクセスされている。


How I started taking photos ''New York Groove''
 When I'm producing a record, I need a photo of the artist for the album inner. At first, I hired a photographer, but due to time and financial constraints, I found myself getting lazy, so I bought a camera myself and started taking photos for the inner album. Over time, I fell in love with cameras.
 I think a photo that doesn't capture the emotion of that moment is meaningless. If you can capture the emotion of that moment, that photo will become a notarization of time over time. You can cut out the atmosphere at that time. That's my favorite part.
 Photographs are different from paintings and music. The artist's creativity is involved in the painting. Music cannot capture the atmosphere of the moment, recording is different from a live performance, and photography can capture a slice of time. Music is fleeting, and unless you're there at that moment, it's impossible to experience the atmosphere.


 Teruo Nakamura, who is active as a jazz bassist and producer, is truly a legend, having reached the top 10 of the US charts, which is unprecedented for a Japanese jazzman. This time, we will take a closer look at his other side, his charm as a photographer. He exhibits pieces of information about New York that have adorned numerous record jackets. Please feel the cool groove that overflows from the work.


●profile
Teruo Nakamura
 Born on March 1, 1942 in Kanda, Tokyo. After dropping out of Nihon University's College of Art, he moved to New York alone in May 1964. He studied under Reggie Workman. After interacting with young musicians such as Steve Grossman and Lenny White, he made his professional debut with Roy Haynes' band. Afterwards, he improved his skills as a bassist by regularly participating in Stanley Turrentine's band, and released his first album as a leader, ''Unicorn'' in 1973. He also formed his own band, ''The Rising Sun'' and energetically produced albums and performed live, reaching the top 10 on the US jazz charts. In 1979, he became the first Japanese jazzman to perform at Carnegie Hall. Performed on. After that, he continued to work not only as a bassist, but also as a producer of other artists' works.In 1992, he held the ''100,000 Liberty Jazz Festival'' (attendance of 100,000 people), and in 1994, held the ''JAL Jazz Concert'' for UNICEF. (featuring Toshiko Akiyoshi, Masaaki Kikuchi, Terumasa Hino, Yoshiaki Masuo, etc.) and the 2009 Mt. Fuji Music Festival, and is also active as a producer of large-scale concerts. For over 14 years, he has held concerts in Japan and the United States aimed at helping AIDS patients. In December 2009, he started his own ''Cheetah'' label, distributed by PONYCANYON RECORD.


◎中村照夫という「音楽」
北丸雄二(ジャーナリスト、 作家)
 私が何者かになろうとしてものを書き始めた十代、それでも心に深く突き刺さっていたのはそのころもまだ文学的かつ哲学的巨人だったサルトルが発した一つの反語的疑問文でした――「飢えた子の前で文学は有効か?」
 サルトルは《ル・モンド》紙のインタビューで、傑作とされた自作『嘔吐』は無力だ、と答えたのでした。「作家ならば今飢えている20億の人間の側に立たねばならない。そのためには文学を一旦放棄することも止むを得ない」
 中村照夫がニューヨークに降り立ったのは1964年、ちょうどこのサルトルのインタビューが掲載された年でした。私はそれから10年近くしてからこの命題に出遭うのですが、それからもなんとかもがき書き続けた挙句に辿り着いた私の結論は結局サルトルとは別のところにありました。飢えて死のうとする子どもたちの前で、文学は確かに無効だろう。でもそれを知った上で、それでもやり続ける覚悟がない限り、文学は何に対しても無効だろう、と。
 文学だけじゃありません。絵画だって、音楽だって、写真だって何だって、芸術は医学や料理や建築や介護と違って直接的な力を持たない。でもね、直接的な救済ではないけれど、飢えて死ぬ世界の不条理を語り残すことはできる。いや、語り残してその無念を掬い残すことは、書くことにしかできない。言葉に書き出すこともできない思いは、絵や音楽や写真で残すしか方法はないのです。世界はそんないろんな位相のものが立体パズルのように組み合わさってでできている......。
 だから今から25年ほど前に、中村照夫が「ねえ、エイズのチャリティコンサートをやりたいんだよね。おれの周りにもエイズのジャズ仲間がいてさ」と言ってきたとき、ああ、この人は、音楽をやる以外に自分の道はないんだということを覚悟している人なのだなと思ったのでした。そして今も、中村の周りにはコロナ禍があり、気候変動があり、香港やミャンマーやアフガニスタンやウクライナがあり、それを表現したい音楽と仲間とがいるのでしょう。
 そんな中村照夫の「音楽」という行動に、私は深く共鳴しています。
(了)


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