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聴衆の誕生 中公文庫

渡辺裕

User Review :2.0
(1)

Product Details

Genre
ISBN/Catalogue Number
ISBN 13 : 9784122056077
ISBN 10 : 4122056071
Format
Books
Publisher
Release Date
February/2012
Japan
Co-Writer, Translator, Featured Individuals/organizations
:

Content Description

クラシック音楽の演奏会では厳粛に耳を傾けるという聴取態度は、決して普遍的なものではなかった。社交界のBGMだった18世紀、ベートーヴェンの神話化、音楽の商業化、軽やかな聴取…文化的、社会的背景と聴衆の変化から読み解く画期的音楽史。第11回受賞作。

目次 : 1 近代的聴衆の成立(序―近代的演奏会の光景/ 演奏会システムの確立/ 高級音楽と低俗音楽/ 神格化される「巨匠」たち)/ 2 近代的聴衆の動揺―一九二〇年代(環境を浸食する「複製」/ 自動ピアノの饗宴/ 大衆文化と「前衛」作曲家たち)/ 3 近代的聴衆の崩壊(カタログ文化の到来/ 商業主義の擡頭/ 音楽の大衆化と「精神性」の没落)/ 4 新しい聴取へ向けて(軽やかな聴衆の誕生/ 音の復権へ/ 消費社会の中の「クラシック」)/ 補章 七年後の「ポスト・モダン」

【著者紹介】
渡辺裕 : 1953(昭和28)年、千葉県生まれ。83年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程(美学芸術学)単位取得退学。大阪大学助教授などを経て、東京大学大学院人文社会系研究科教授(文化資源学、美学芸術学)。『聴衆の誕生―ポスト・モダン時代の音楽文化』(春秋社)で89年度サントリー学芸賞受賞、『日本文化 モダン・ラプソディ』(春秋社)で2002年芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞、『歌う国民―唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書)で10年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

(「BOOK」データベースより)

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この著作の内容はある視点からのクラシック...

投稿日:2015/12/09 (水)

この著作の内容はある視点からのクラシック受容史の記述としては概ね納得できるものである。もちろん音楽の近現代音楽史として完全なものが提出されているわけではない。例えば西洋音楽の歴史とは、Jazz もこの点は同様なのであるが、三和音体制の確立と崩壊の歴史として語られてきたのだが、それについては全く言及がない。また、高級音楽と大衆音楽の二分論であるが、精神性うんぬんよりも前に、そもそも手触りが違う。前者に共通するのは究極の点に向けての果てしない努力なのだが、後者を特徴づけるものは気楽さである。それは「中学生にもわかるように(グレイ)」といわれもするし、時には気楽さが技の欠陥に対する免罪符となることもある。紅白ですらキーを半音ほども外す歌手がいるのだ。1hzの調律が大問題になるクラシックではこんなことはありえない。 が、そういう問題は実は大きな問題ではない。この著作がかかれて20年、ある面ではポストモダン状況は一層深化したといえるが、逆にそれは極めて限られた現象であることもはっきりしてきたのである。ポストモダン状況とは先進国の消費生活のそのごく一部、ありていに言えば風俗にかかわる側面に限られることがそれである。先進国においても、生産現場では決してポストモダン状況にない。例えばポストモダン的な働き方として導入された派遣制度は、結局のところいっそうの搾取と従属を生んだだけだった。そして世界においてはむき出しの利潤追求であるグローバリズム資本主義が支配している。さらに、宿痾のような南北問題を背景に、それを文明の衝突と解釈し、先進国支配体制に挑戦する勢力も不気味に力を伸ばしている。つまり、現代がポストモダン状況にあるというのは、相当にノー天気な考えであり、むしろ世界とはいまだにプレモダンとモダンの悪しき結婚の場であるという方がより実態に近いであろう。 それゆえ、ソーカルの批判は重要である。古来、進歩は真理や正義に基づいた批判を通してなされてきた。ところがポストモダン派はすべてを相対化することで、悪しき権力を許容し問題を隠ぺいしてしまっている、と。以上の結果、思想の世界において脱構築派は力を失い、公共性や正義や真理などの理念的な概念を再定義しようとする思潮が主流となっている。 本書は以上の限界を理解して読まないと、足をとられることになるだろう。

gkrsnama さん | 北海道 | 不明

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Book Meter Reviews

こちらは読書メーターで書かれたレビューとなります。

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  • しゅん

    「クラシックは集中して聴くべき」という糞真面目な倫理が実は19世紀という近代に醸造された歴史的産物に過ぎないという視点に沿って紡がれる聴衆論。ポストモダン的な軽やかさをあまりに軽く肯定しているのでは?と感じていたら、補論で、近代を集中的聴取の時代と見なすことも我々の切断の欲望、自分達は過去を超越していると誇示したいという欲望が生んだ幻想に過ぎないと反転が生じていて、そうした軌道修正も含めて、読み手の音楽への捉え方を揺るがす力作だと感じた。無視されがちな自動ピアノの技術と宣伝に着目しているところがミソ。

  • つまみ食い

    モーツァルトやバッハの時代、音楽に関しては有機的統一体を持った作品という概念は成立しておらず、作品を清聴し解釈をおこなう「聴衆」もしたがって存在しなかった。そうした音楽作品に関する概念が大きく変わり、静寂なホールで音楽に耳を澄まし解釈をするという近代的聴取が生まれたのが19世紀だった…というところから、近代的聴取の問い直しが複製技術時代以後なされポストモダンに至るまでの変容を論じる。「近代的聴取」が果たしてどれほど確固としたものだったか本論の内容を著者自らもう一度検討する増補版の補章も要参照

  • ゆうみい

    (クラシック)音楽の聴き手が、社会的な文脈の中でどのようにできていったのかを考察された本。クラシック=無音空間でのコンサートのイメージは確かに強かったが、「作られた」ものであったことに驚き。でも正直一番驚いたのが、補章ですっかりそれまでの話を否定しているように見えたこと。こうなってくるともう音楽の話というか、文化がどう構成されていくのか、という話になってしまいそう。 でもいわゆる論説文(かつ、私はバックグラウンドがほとんどない)にも関わらずさらりと読めた。

  • Meroe

    物音ひとつ立ててはいけない演奏会と神格化される「巨匠」から、自動演奏ピアノの奏でた夢、商業主義のなかのクラシック音楽の消費、「軽やかな」(つまり「気散じ」的な)聴取まで、クラシック音楽がどう聴かれてきたか、そのことは同時に、どう演奏され、どう設計されてきたかでもある。すらすら読めて、かつクラシック音楽にとどまらない広がりをもった(意図した)本。リストの熱狂的ファンの女性が彼の飲み残しの紅茶を持ち帰った(!)など、エピソードの細部もとても面白い。

  • 72ki

    ―とはいえ今回(略)久しぶりに読み返してみたのだが(略)基本的な問題設定や議論の方向性は今でも十分有効であるということをあらためて感じている。(305p) 著者自身の「文庫版あとがき」に書かれているように、1989年の初版で考察、指摘された「問題」は現在でももちろん活きている。 「サブスクリプションまるで分かんねえ」な時代の「軽やかな聴衆」が居る場所とは? 三浦雅士による解説がそのヒントになるが、それ以上に今、私たちは具体的に実感できている筈。

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