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日本語に生まれること、フランス語を生きること 来たるべき市民の社会とその言語をめぐって

水林章

Product Details

Genre
ISBN/Catalogue Number
ISBN 13 : 9784393333976
ISBN 10 : 4393333977
Format
Books
Release Date
September/2023
Japan

Content Description

「天皇を戴く国家」か?「市民による社会」か?日本という国の腐敗と病理の根底には、日本語に固有の言語問題が横たわっており、その背後には天皇制の呪縛が控えている―今日の日本社会の危機的状況(憲法の危機、権力による民主主義の破壊、国民の自発的隷従という頽廃等)の根源にあるものに光をあてた渾身の批評。

目次 : 序―なぜフランス語で書くのか/ 『他処から来た言語』とフクシマ、そしてその後の十年/ この国には「社会」がない/ 「ウイスキー・モノモタパ」―J=B・ポンタリスの「月曜会」/ 日本的社会とは何か/ 中世的世界/ 「致命的な障害」と「印象的な記憶」/ 日本語を問う/ 一人称と二人称/ 「ゴム人形」と「百千年来の余弊」/ 渡辺清『砕かれた神』―天皇をアナタと呼んだ男/ 日本語におけるウチとソト―大野晋に学ぶ/ 森有正の日本語論―遍在的天皇制をめぐって/ フランス語へ―森有正と父水林次郎/ 『壊れた魂』―弦楽四重奏と同輩者的世界/ 市民的政治社会とルソーの時代の音楽―ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェン/ アンシアン・レジームを脱していない日本/ 啓蒙と脱領土化されたヨーロッパへの帰依/ 「目覚めの時よ、早く来たれ!朝よ、早く来たれ!」(渡辺一夫)/ 希望について―石母田正・丸山眞男・水林彪/ 結語―来るべき社会の言語的基盤を求めて

【著者紹介】
水林章 : 1951年生まれ。東京外国語大学フランス科卒業(1976年)。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学(1984年)。ポール・ヴァレリー大学(モンペリエ)留学(1973‐1975年)。ENSパリ高等師範学校およびパリ第七大学留学(1979‐1982年)。パリ第七大学第三期課程博士(1982年)、東京外国語大学論文博士(学術)(2001年)。明治大学、東京外国語大学、上智大学等でフランス語・フランス文学を講じる。2011年に最初のフランス語による著作Unelangue venue d’ailleurs(2011年)(『他処から来た言語』)をガリマール書店より上梓。同書は2011年度のアカデミー・フランセーズ仏語・仏文学賞を受賞した。以降、フランス語による執筆を継続。2019年のAme bris´ee(『壊れた魂』)はフランス書店大賞など八つの文学賞に輝き、多くの読者を獲得した。なお、著さみずからが翻訳したAme bris´ee(『壊れた魂』)は、第72回(2021年)芸術選奨文部科学大臣賞を受賞している(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

(「BOOK」データベースより)

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Book Meter Reviews

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  • ワッピー

    粗雑な要約をすると日本には市民が存在せず、社会がない。その理由を天皇制を土台とした支配構造に求め、日本史学、そして日本語の構造に着目して語っていく論考。人と人が対等な関係で話し合う場も習慣もなく、常に上か下かを意識せざるを得ないことを日本語の構造に求め、あるいは「道理」を根本に置いた鎌倉時代の武家法「御成敗式目」に注目し、また今の政治状況を支える保守的投票者とひたすら自分の快を求めて外に関心を向けない非投票者にも言及。言語構造については中国・韓国語との比較も必要ではないかと思うが、こういう視点で考えた ⇒

  • tsukamg

    日本で生まれ育ち、暮らしているにも関わらず、なぜ著者はフランス語で著述活動をするようになったのか、順を追って説明しながら、日本語が持つ構造的な宿命について論じている。トーンとしては日本の政治や社会への批判ではあるが、その源は日本語の言語構造にあるとしているところが面白い。また、『壊れた魂』の序盤で、弦楽四重奏の稽古をする四人がなぜ敬語抜きの会話をしようとしたのかについても、作者の意図として納得できた。黒澤明『七人の侍』における菊千代の分析も面白い。

  • ガリンペイロKT

    私たち日本人は、日本語で思考する。ということは、私たちの思考は無意識のうちに日本語の構造に拘束されるわけだ。例えば無意識に使い分けている人称は、話者と聴者の関係性(立場)に拘束されている。そのような事例を例示しながら、現代に生きる私たちの思考が律令時代から拘束され続けていて、未だにアンシャン・レジームを生きていることを明示してくれる。

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